1 / 1
赫の匣庭
「ねえねえ、また紗沙美のお肉、食べさせてよ」
弾む声が聞こえる。クラスメイトの美雪だ。
心底、紗沙美のお肉を楽しみにしてる声音だった。
「うん、いいよ」
ならば、紗沙美が彼女のお願いを断る理由などどこにもなかった。
「じゃあじゃあ、私も!」
便乗する別の声。これは古都美だ。
古都美の表情には焦りの色が見えた。そんなに慌てなくても、お肉ならいくらでもあげるのにと紗沙美は笑った。誰かが肉を食べて破顔する様子を見るのが、紗沙美にとって至上の悦びなのだ。
「私、アレがいいな。昨日貰ったコリコリしたヤツ!」
「うん、軟骨ね。昨日の今日で好きだね。でも、もしかしたら切らしちゃってるかも」
軟骨が上下の歯に圧し潰されて弾ける感触を想像する。確かにアレは病みつきになる。
「そんなに食べたら太っちゃうよ、古都美」
美雪の注意は、このところ、古都美が毎日うちに寄ってお肉を貰っているのを見かねての発言だった。
「いくら紗沙美がお肉をタダでくれるって言っても、限度ってものがあるでしょう?」
「うっ、でも……」
古都美は名残惜しそうに指を咥えて私を見た。
「紗沙美のお肉美味しいんだもん」
血流の温度が一度上昇した気がした。そんなことを言われたら、紗沙美としては助け舟を出してあげないわけにはいかない。
「大丈夫だよ。軟骨は比較的低カロリーだしさ。それに、お父さんは私の友達が来ると嬉しそうにするから、むしろ来てくれた方がありがたいくらいだよ」
「ほら、紗沙美もこう言ってる!」
「……なら、いいけど」
美雪はつまらなそうにぷいと顔をそむけてしまった。
「そんなに気を悪くしないで、美雪ちゃん。美雪にあげるお肉、少しサービスしてあげるから。メンチが好きだったよね」
紗沙美の家は、自営の精肉店だ。
都心から少し離れた街にある、商店街の一角。そこで父と一緒に切り盛りしている。大繁盛というわけにはいかないけれど、まあ、娘が問題なく高校に通える程度には稼げている。この辺りは片田舎だから近くに大きなスーパーやチェーン店がないことが幸いしているのだろう。いつか、ここにも大手企業の魔の手が伸びてきたらと思うと、気が気でなかったが。
「じゃあ、今日の放課後は紗沙美の家に直行で! そのまま家にお邪魔するってことで」
「うん、存分に腕ふるっちゃうから」
「はっ、楽しそうな話をしてるな」
女性のモノではない低い声が割り込んできた。見れば、私の机を囲む美雪と古都美の間から、三谷澤が覗いていた。
長い前髪は片目を完全に隠してしまっている。クラスメイトは彼のことを影で一つ目の妖怪と揶揄して気味悪がっていた。事実、三谷澤は、奇癖が多い人間だった。
「肉は良いよ。柔らかな赤に刃物を突き立てる感触。そのままびぃーっと手元に引き寄せ、繊維に沿いながら切り分けられた時の達成感。おまえらも、それが好きなんだろう?」
三谷澤は紗沙美たち三人の顔を見回した。
古都美と美雪は顔を引きつらせている。嫌悪感を隠そうともしていない表情だった。三谷澤は二人の様子を見ると、過呼吸のように掠れた笑い声を唇の隙間から漏らした。
けれど、紗沙美が表情を変えないでいることに気付くと、満足げに浮かべていた邪悪な笑みはふっと消えてしまった。
「なんだ、おまえは好きなのか、肉を切るのが」
「好きっていうか……。まあ、私の場合は仕事みたいなもんだし。お父さんの手伝いで肉なんて毎日捌いてるから……ねえ」
紗沙美はあいまいな笑みを返した。三谷澤は温度のない一つ目でじっと紗沙美を見るだけだった。やがて、舌打ちとともに憎々しげに紗沙美を一瞥すると、反転して席を去った。
三谷澤が自席に……すなわち紗沙美達の会話が絶対に耳に入らない場所に帰ったのを確認してから、美雪が吐き捨てる。
「アイツマジきもいんだけど」
古都美が加勢する。
「サイコパスがかっこいいと思ってんのよ。馬鹿ね、噂じゃナイフ持ってるのバレて警察のお世話になったとか。女子をビビらせて楽しんでるようなちっさい奴のくせに」
「ビビってるんじゃなくて、引いてるんだけどね。その違いも分かってないんだわアイツ」
「自分の世界しか見えていないからね。一生友達出来ないわ」
二人の陰口は堰堰を切ったように止まらない。
けれど、紗沙美はそれに進んで混ざる気にはなれなかった。
ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ。
肉挽き機で擦りつぶされた豚肉が湿った音を上げている。投入口から機械の中に落ちていったいくつかの肉塊は、ハチの巣のような無数の出口から這い出てきたときには十匹程度の太い蚯蚓蚯蚓のようなものに変貌していた。同じ作業をもう一度行い、完膚なきまでに擦りつぶす。
古都美と美雪は肉を挽いている間、何とも言えない表情をしていた。理由を聞くと、肉を挽く音が嫌いだという。
よくわからなかった。紗沙美にとってはあまりに聞き慣れた生活音だった。
そこからは二人に手伝ってもらい、メンチコロッケと鳥の軟骨揚げを作った。
「はーい、お待たせー!」
皿に盛り付けられた肉料理を手に、一足早く食卓に着いている二人の下へ紗沙美は向かう。
「あー、超お腹減ったし!」
皿が目の前に置かれるやいなや、古都美は箸を手に取って唐揚げをつまんだ。
「古都美」
きっと睨みつけて紗沙美は制止する。
古都美はわけがわからないと言った様子で静止した。本人にとって悪気はないのだろうが、それは紗沙美にとっては許しがたい暴挙だった。
「ご飯を食べる前は『いただきます』でしょ」
「え~、ああ……マジ?」
古都美は苦々しげに口元を開いた。
「マジに決まってる。命を食べるわけなんだから、せめて礼は尽くさないと」
「いや、んなの幼稚園じゃないんだから……」
「じゃあ、全部引き上げるよ」
「古都美、諦めなよ。紗沙美ちゃんはお肉屋さんの娘だからそういうの人一倍敏感なのよ。それに、そもそもあなたがマナー違反なのだし」
「……わかったよ。やりゃーいいんでしょやりゃー。いただきます」
古都美は投げやりな態度で手を合わせた。その態度は気に入らなくはあったが、まあ、形だけは礼を尽くしているということで見逃してやることにした。
友達とおしゃべりしながら食べる夕飯はいつもよりおいしく感じた。
「じゃ、私皿洗ってるね」
一足早くご飯を食べ終えた古都美が食器を持って席を立とうとする。
「古都美」
呆れながら再び彼女を止める。ほんの三十分ほど前に言われたことを、この子は覚えていないらしい。
「ごちそうさまは?」
「……うっそでしょ、お母さんか何かか」
一瞬だけ彼女は抵抗して見せたが、すぐに折れて「ごちそうさま」と口にした。
「お邪魔しましたー!」
午後七時前。店の前で、古都美と美雪を見送る。店内ではカウンター越しだが紗沙美の父も緩やかに手を振って二人を見送っていた。
「店番してくれてありがとう、お父さん」
「何言ってやがる、俺の店だぜ。店主が店番するのは当たり前だろ」
言いながら父は手を突き上げて伸びをした。
「でも、今日の夕方は私が店番のはずだったから……」
「気にすんな、そんなこと。店番なんぞより、友達と遊ぶ方がずっと大事だ。……っと」
父は、何かを探すように胸や腰回りをはたいた。
「ったく。ヤニが切れちまった。娘よ、父に店番させたことを気にしているなら、俺がコンビニ行ってる間、店番していてくれないか」
「いいよ」
父からシミのついたエプロンを受け取ると、カウンター裏の椅子に腰かけた。座面に残っていた父の体温を感じ、少し気持ち悪く思ってしまった。父のことが嫌いなわけではないのだが、こういう嫌悪感は思春期を過ぎたら避けられないものなのだろうか。
ガラス張りのドア越しに父の姿を見送った。あと一時間は返ってこないだろう。最寄りのコンビニは少し歩いたところにある上、父は大体雑誌の立ち読みやらなんやらしてから帰ってくるのだ。
店番、なんて言っても七時を過ぎてしまえば客足はほとんど途絶える。閉店時間までのあと一時間弱、欠伸でもしながら過ごすことになるだろうと紗沙美は考えた。
のはずが……。
引き戸の開けられる音がした。
「ん、いらっしゃいま……せ?」
入ってきたお客さんは意外な人物だった。
「あら、三谷澤くんじゃない」
「…………」
三谷澤は紗沙美の呼びかけが聞こえていないかのように出入り口に立っている。戸は開けっ放しだから、冷房で冷やされた空気がどんどん外に逃げて行ってしまう。入れ替わりに入ってくるむわっとした熱気は、七月序盤の夜とは思えないほどに暑い。
「戸、閉めてくれる?」
「…………」
やはり、三谷澤は答えない。この様子では、何度お願いしても無駄だろうと紗沙美は察し、さっさと用向きを済まさせてご退店いただく方針に切り替えた。
「お肉買いに来たの? それともお惣菜? 言ってくれればすぐ用意しますよ」
「…………そうだなあ」
もったいつけるような沈黙の後、三谷澤はようやく縫い付けられていた口の紐を解いた。
「肉。肉だな。新鮮な肉がいい」
言って、紗沙美の方へ歩み寄ってくる。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、肩を揺らしながら。
カウンターの前まで来た。
「新鮮……なんて言われてもうちのはぜーんぶ新鮮なんだけど」
三谷澤は伏目がちにガラスケースの中の肉肉を睥睨して、かぶりを振った。
「ダメダメダメ。どれもこれも鮮度が足りねえ。もっと生き生きしてるのがいい。例えば……」
三谷澤はポケットから素早く何かを取り出し、紗沙美の前に突き出した。
「おまえの肉とかな!」
見下ろす。
紗沙美の眼下では、バタフライナイフが展開されていた。三谷澤はまるで強盗でもするかのような態勢で、カウンターに半身を乗せていた。
「へっ」
バタフライナイフは威嚇するようにぐるぐると踊りだす。グリップとブレードが目まぐるしく入れ替わる様子はまるで手品のようだった。
なんとも微笑ましい光景だ。
「おまえ、なんだよ、そのニヤケ面は」
「え、ああ」
つい、顔に出てしまっていたらしい。
「男の子って、そういうの好きだよねって。ちょっと待ってて」
紗沙美は店の奥に引っ込んだ。後ろから三谷澤が何か言っていたが気にしない。
そして、目的のモノを手に、すぐにカウンターまで戻った。
三谷澤は泡を食ったような顔で私を迎えた。
紗沙美は自慢するように、両手に持ったそれを見せびらかした。というより、実際ちょっと自慢に思っていた。
「じゃん、業物包丁だよ。日本刀包丁ともいうらしいんだけど……。刀とか剣とか好きだよね、男子」
それは刃渡りが二十センチ程度の一見普通の包丁だった。
しかし、よく見れば刀身に『夜切』という漢字と見事な桜の意匠が彫られている。なるほど、高価な業物であることは疑う余地もない。
対して、三谷澤の手にあるバタフライナイフはせいぜい刃渡り八センチ程度の小ぶりの安物であった。
三谷澤は途端に自分の持っていたものが子供だましの玩具にしか見えなくなり、恥ずかしく思った。けれど、それを気取られるのは悔しかったから、格好をつけてひゅんひゅんとグリップとブレードを回しながらポケットの中にしまった。
「本当につまらん女だな。ナイフ突きつけられてもケロッとしてるとは」
「え、どういうこと?」
紗沙美にとって、肉を切る凶器は日常の一部だった。たとえそれがバタフライナイフであっても変わらない。そのあたりは、常人に備わっている刃物に対する危機意識が欠落してしまっていると言えた。きっと、町中で本物の強盗にナイフをあてがわれても、どこ吹く風といった顔をするのだろう。
三谷澤は相手にするのも馬鹿らしくなって、紗沙美に背中を向けた。
「ちょ……三谷澤くん、お肉は……?」
「いらん」
出口に向かって歩く。開けっ放しの戸から半歩踏み出したところで、紗沙美の声が背後から飛んできた。
「待ってよ。私、三谷澤くんと話したいことがあるの」
「話ぃ?」
体は外に向けたまま、首だけを駆動させて三谷澤は振り返る。胡乱な一つ目が紗沙美を捉えた。
「あの……三谷澤くん、お肉切るの好きって言ってたよね?」
「それが?」
「だったら、お肉、切っていかない?」
「はあ?」
言葉の意味が分からず、三谷澤は挑発的な疑問符を返した。
「おまえ、何言ってんの」
「だから、お肉。切らせてあげるってば。見てのとおり、うちはお肉屋さんだから」
「あほらし」
実のところ。別に三谷澤は肉を切ることが好きなわけではない。
いや、そもそも彼の十七年の人生において、肉を切ったことなど数えるほどしかない。ポケットのバタフライナイフに至っては、手慰みや威嚇のために振り回す以外に使ったことがない。昼間、肉を切るのが好きだと言ったのは、女子連中の怖がる顔が見たかったのと、常軌を逸した発言をすると格好よく見えると思ったからだった。肉を切らせてくれるだと? 要は体のいい手伝いではないか。
紗沙美の誘いにはわずかも魅力を感じなかった。
「これ、使わせてあげるから」
紗沙美が手の中の業物を掲げ、そう引き留めるまでは。
三谷澤は制止した。
その刃物は、彼の少年心をくすぐった。三谷澤の人生において、あれほど高価そうな刃物は持ったことがない。しかも、曲がりなりにも業物や刀の名を冠するものだ。それを使わせてくれるという。それは、三徳包丁で店の手伝いをさせられるのとはわけが違った。
三谷澤はワクワクしてきている胸中を悟られないよう、ため息をついて見せた。
「しかたねえ。少しだけな」
そんな負け惜しみみたいな言葉を受けて、なぜか紗沙美はぱっと笑顔を輝かせた。
三谷澤はカウンターの奥にある調理台に案内された。
「お肉持ってくるから待ってて」
「待て」
どこかに消えようとする紗沙美を三谷澤は引き留めた。
「それ置いてけ」
紗沙美の持っているモノを指差す。件の業物包丁だった。
紗沙美はくすっと笑って包丁を三谷澤に手渡すと、今度こそどこかに消えた。紗沙美がいない間、三谷澤は包丁に色々な角度から光を当ててその輝きを楽しんだ。
しばらくして紗沙美は二十センチ程度の肌色の塊を持ってきた。
「鶏肉持ってきた」
言って、まな板の上に置いた。
三谷澤はそれを軽蔑するような眼つきで見下すと、つまらんと吐き捨てた。
「どうせならもっと大物持ってこんかい。牛だ、牛」
「でも……初めて包丁使うならこれくらいの大きさの方が……」
「やかましい。言っただろ。俺は肉を切るのが好きなんだって。だから、切る肉にもこだわりがあるのさ」
「……わかった」
紗沙美は鶏肉を引き下げ、再びどこかに消えていった。
今度は、先ほどより戻ってくるまで時間がかかったが、そのかわり、三谷澤が満足するものを持って帰ってきた。
彼の頭より二回りは大きい肉塊である。紗沙美の細い腕では持ち運ぶことにすら難儀するようなシロモノだった。よいしょ、という掛け声とともに紗沙美が肉をまな板の上に置くと、その重さで少しまな板が動いた。
「こいつは牛か?」
「そのとおり。よくわかったね」
もちろん、三谷澤に肉の目利きなどできない。ただ、大きい肉=牛という安直な発想に基づいた言葉だった。
牛か。それもこれほどの大きさであれば、相手にとって不足はない。
三谷澤はまるで鬼と立ち会う侍のような心持で、肉の塊を包丁で切りつけた。
しかし、まるで歯が立たない。三谷澤の想定では、肉はチーズを裂くように両断されるはずだったのだが、実際は細い傷を走らせるだけである。それは何度やっても変わらなかった。
「なんだ、このなまくら」
思っていたよりもつまらなくて、三谷澤は包丁をまな板の上に放った。
「ちょっと! 粗末に扱わないでよ!」
「知らんわ、そんな役立たず」
「三谷澤くんの使い方が悪いだけだわ」
紗沙美は包丁を手に取った。
「よく見ててね」
紗沙美は刃を肉にあてがう。
すると、先ほどまでは恐ろしい硬さを誇っていたはずの肉に、すぅと刀身が吸い込まれていった。それこそ、当初三谷澤が思い描いたように、肉をすらすらと裂いていく。
あまりの手際の良さに、三谷澤は悪態をつくことすら忘れて見惚れてしまう。
業物包丁を自由自在に操る紗沙美の姿は、彼の目には女剣士のように格好良く見えたのである。
「ね?」
紗沙美は得意げに笑って見せた。もはや返す言葉も見つからない。なんだかこそばゆかったのと、彼女が眩しく見えたのとで、顔を伏せてしまった。
「ところで、三谷澤くん。好きな肉料理って何?」
「肉料理?」
三谷澤はおずおずと紗沙美を見た。どうにも彼女は三谷澤が持っていないものをことごとく有しているように思えた。だから、これ以上、格好をつけたところで見透かされてしまう気がした。
「ハンバーグ」
子供っぽくて口にするのははばかられたが、それはまごうことなき三谷澤の好物だった。
「ハンバーグ……。うちに来て揚げ物をチョイスしないとは。なかなか空気が読めない感じですが、ま、請け負いましょう」
せっかく肉を切ったのだから食べていってほしい。
そう紗沙美から提案された三谷澤はおとなしくその話を受けることにした。というのも、紗沙美を脅かすために放課後からずっと肉屋の前に張って彼女が一人になるのを待っていたものだから、空腹で仕方なかったのである。
「はい、どうぞ」
紗沙美が皿を持ってくる。先ほど紗沙美が切った肉が、茶色い塊に形を変えて乗せられていた。傍らには仄かに緑黄色野菜が添えられている。
「へえ、悪くないじゃん」
三谷澤は用意されていたフォークとナイフでハンバーグを切り取りにかかった。
「三谷澤くん」
それを静謐な声が引き留める。
「いただきますは?」
「ああ?」
三谷澤は手の動きを止めた。ああ、確かに食前の挨拶を忘れていた。というより、そういうものをする習慣が三谷澤にはなかった。
「知らんわ、そんなもん」
紗沙美の注意が正しいのはわかっていたが、素直に従う気にはなれなかった。ハンバーグを前に両手を合わせていただきます、なんてあまりにも子供じみた所作だし、これ以上紗沙美に屈するのも悔しかった。
三谷澤が再びナイフを動かす。すると、その瞬間、ハンバーグが高速で後退した。紗沙美が皿ごと引き上げてしまったのである。
「言わないなら、食べさせないから」
その声は、信じられないほど冷酷だった。
「なんでだ。あんな挨拶意味ないだろ。そんなに固執する理由を説明しろよ」
三谷澤は自分の論理の脆さを自覚していたが、何か返さなくては気がすまなかった。こんな反論、「日本では食前に『いただきます』というのが常識だ」と言われてしまえば、それで終わりだ。
けれど、紗沙美の回答は三谷澤が想定したものとはまるで違った。
「だって、かわいそうじゃない」
先ほど、温度のない声で自分を制したのと同一人物とは思えないほどにか細く弱弱しい声だった。
「私達は肉を食べないと生きていけない。鳥も豚も牛も、殺したくなんてないけど、殺さないと生きていけない。だったら、せめて感謝くらいしないと動物たちが報われないじゃない」
「なんだ、その綺麗ごとは。自己満足もいいとこだ」
「自己満足なんかじゃない。その気持ちは、きっと相手に届くわ」
三谷澤を見つめる紗沙美の目は力強かった。けれど、睨むというのとも違う。ただ純粋に、自分の想いが伝わってほしいという真摯さだけがほとばしる目だった。三谷澤は引き下げられたハンバーグを……それが生きていた頃の姿を想像した。
どうやらこの女は、本気でその牛をかわいそうと思い、その犠牲に感謝する思いは相手に届くと思っているらしい。
「おまえさ……」
「なに?」
「いいかーちゃんになりそうだな」
三谷澤には母がいなかった。
彼が幼い頃に事故で他界してからは、父親の男手ひとつで育てられた。故に三谷澤は母というものを知らない。ただ、知識として食事を用意してくれたり、口やかましく注意してきたりする存在だとは知っていた。だから、紗沙美の今の姿に、母親の幻想を見たのだった。
三谷澤は手を合わせた。
「いただきます」
紗沙美は微笑んで、皿を彼の前に戻した。その笑みを見て、やはり母親っぽいと三谷澤は思うのだった。
「おまえさ、何で俺に肉切らせたの」
ハンバーグを口に運びながら三谷澤は問うた。
紗沙美はその小さな口でも一口で食べられるほどの大きさに肉を切り分けながら答えた。
「その質問に答える前に一つだけ教えて」
「なんだ」
「三谷澤くんさ、肉切るの好きじゃないよね」
「…………」
「見ればわかるよ。あの切り方、肉を切るのが好きというよりは、刃物を持つのが好きって感じだもん」
「だったらなんだよ」
「私、高校卒業したら専門学校行くんだ。それもただの専門学校じゃなくて、食肉の専門学校。全国に数校しかないんだけどね」
「それで?」
それまで強気だった紗沙美が黙ってしまった。沈黙を誤魔化すように肉のカケラを口に運んだり、コップのジュースに口を付けたりしている。だが、やがて意を決したように話しだした。
「ちょっと寂しいなって」
「……寂しい?」
「みんなは近場の大学に行くじゃない。就職するにしたって地元が多いし。でも、私が行く専門学校、ここからすごく遠いんだ。全寮制で夏休みと冬休みくらいしか帰ってこれないの。一人で行くのちょっと怖くて」
紗沙美は寂しげに笑った。
「だから、三谷澤くんがお肉切るの好きなら道連れにしちゃおうかなって。お肉切るの楽しいなら、一緒にこっちおいでって。あはは、馬鹿だよね」
三谷澤は笑うことができなかった。
紗沙美の胸の中の失意を思うと笑えなかった。三谷澤は自分がクラスで変わり者扱いされ、嫌われていることを自覚している。進んで自分に関わろうとする者なんていないことをわかっている。けれど、目の前の少女は、そんな無価値な自分にすら声をかけなくてはならないほど逼迫しているのだと思うと笑うに笑えなかった。
三谷澤は、紗沙美の話す専門学校のこと、そこに自分が通う姿を夢想してみた。それは、そんなに悪いことではないように思えた。三谷澤は勉強が苦手だ。将来やりたい仕事もない。来年、高校を卒業したらどうするかということからは目を背けて生きてきた。言ってしまえば、自分の将来などどうでもよかったのである。もし、そんな自分の未来を差し出すことで誰かの支えになれるのであれば、それはとても素晴らしいことに思えたし、それ自体が自分自身の人生の転機にもなる気がした。つまり、気持ちの上では一緒に専門学校に行ってもよかったのである。
だが、ひとつ、由々しき問題が鎌首をもたげていることは、三谷澤には予測がついていた。
「学費、いくらかかんの」
「……年間で百八十万くらい」
三谷澤の想定よりもはるかに高い金額だった。
無理だ。
うちにそんな貯蓄はない。
逆説的な話になるが、もしうちにそれだけの貯蓄があれば、自分はこんなにも無気力な毎日を過ごしていない。金がないから夢を見る権利がない。そう思ってドロップアウトしたのだから。
三谷澤の沈黙の意味を理解した紗沙美は、やはり先ほどと同じ影のある笑顔を作った。
「ありがとね。こんな突拍子もない話、聞いてくれただけで嬉しいよ。三谷澤くん、意外といい人だ」
「……意外とは余計だろ」
一緒に行ってやると言いたかった。紗沙美に対して特別な感情を抱いているわけではない。けれど、紗沙美の誘いは、目標もなくだらだらと彷徨っていた洞窟に射しこんだ微かな明かりに思えた。だが、立ちはだかる数字は絶対的で、三谷澤の口を噤ませてしまう。
これ以上、ここに居ても気まずいし、辛いだけだ。
三谷澤は席を立ち、口を噤んだまま帰ろうとした。
「三谷澤くん」
背中から声が追いかけてきた。専門学校のこと、食い下がるつもりだろうか。申し訳ないが、自分にはどうしようも……。
「ごちそうさまは?」
時刻はもう夜の零時に差し掛かろうとしていた。
少し夜更かししすぎた。二階の自室で後悔しながら、紗沙美は布団に入った。
「あ」
電気を消そうとして気付く。
机の上に置かれた木箱に。中には三谷澤に使わせた業物包丁が入っている。
彼とのつながりが名残惜しくて、部屋まで持ってきてしまっていたのだ。
まあ、明日片せばいいだろう。
目を閉じると、睡魔はあっという間に襲ってきた。微睡にさらわれながら、明日のことを考える。
紗沙美はまた三谷澤と話がしたいと思っていた。
今日、初めてまともに話してみて思ったのが、彼はクラス内での評判ほど悪い人ではない。紗沙美の相談にも、それに応えられるかどうかは別にしても、親身になって考え込んでくれていたと思う。孤独な自分の将来について、一緒に考えてくれる人がいるというだけで、少し救われる気がした。
それに、もしかしたら……本当に一緒に専門学校に入ってくれるかもしれないし。
会話した際の感触では、三谷澤自身、専門学校に行くこと自体はそう嫌がっていないように……いや、むしろ行きたがっているような印象を受けた。
お金の問題さえ解決できれば、だが。親に頼み込むなり、奨学金制度を使うなりして、工面してくれないだろうか。
そんな自分勝手な妄想は、徐々に輪郭がぼやけていく。やがて夢うつつに意識が消失しかけたところで――。
全身が総毛立つ感覚に襲われた。
たまらず布団をはねのけて飛び起きる。
「はっ、は……はぁ」
なんだこれは。
突然息が苦しくなった。まるで空気が鉛のように重い。懸命に呼吸しても、酸素がまるで足りない。頭の回転が鈍っていく。
悪寒が背筋を駆け抜けていった。
――何かが来た。
一階から不吉な気配を感じた。それは、霊感の類が特段鋭いわけでもない紗沙美にすら感じ取れるほどに薄気味悪いモノだった。
居ても立ってもいられなくなって、紗沙美は業物包丁が入った木箱を手に取ると、同じ階の父の部屋へ向かった。武器を持っていれば、心強い気がした。
怖かった。
酷く嫌な予感がした。走る寒気が紗沙美の肩を震わせる。
父の寝室に着いた。ノックもしないでドアを開け、転がり込んだ。乱暴とはわかっていたが、怒られてもいいから一瞬でも早く誰かと居たかった。
「紗沙美!」
硬い肉にぶつかった。
父だった。どうやら父も、ちょうどドアを開けようとしていたらしい。手には金属バットが握られている。
「お父さん!」
紗沙美はぶつかった勢いのまま父の腰に抱きついた。筋肉質な体と熱い体温が頼もしい。夕べ、少し気持ち悪いなんて思ったことを心の中で謝った。
「おまえは部屋にいろ」
父は大きな手で紗沙美の頭を叩くようにして撫でると、部屋の外に向かおうとした。
「行かないで、お父さん。怖いの」
紗沙美は腕に力を込めた。
それはもはや抱きついているというより、縋り付いていると言った方が正しかった。
「大丈夫だ、紗沙美」
見下ろす父の表情は優しかった。
父は、私を守るために一階のナニカに立ち向かおうとしている。絶対に行かせてはならないと紗沙美は直感していた。
「ダメだよ。ダメッたらダメなんだから」
しかし、父を引き留めるのに理屈の方が追い付かない。ただの駄々っ子のようにわがままを言うことしかできない。
「父さんに任せておけ。おまえはここに隠れていろ」
結局、父を止めることはできなかった。
部屋を出ていく直前、煙草をくわえる父の手が震えているのがわかった。父だって怖いのだ。それがわかっても、紗沙美は何もできなかった。
ドア越しに、耳をそばだてる。
だん、だん、だん。
階段を降りる大きな足音。
父のモノだ。
相手を威圧するような意図が感じられた。
だん、だん、だん、だん。
数えるに十二。二階から一階に降りる階段の段数と同じになった。父が、一階に降りたことを意味している。
しばしの沈黙。
もしかしたら、階下のナニカと話でもしているのかもしれないが、二階の紗沙美には届かない。何が起きているかわからないという不安は、紗沙美の心臓の鼓動を早鐘のように激しくした。何もしていない紗沙美の方が、緊張でどうにかなってしまいそうだった。
はっ、はっ、はっ。
全神経を耳に集中させ、少しでも状況を把握しようとする。自分の呼吸の音すらうるさかった。
やにわに巨大な物音がして、紗沙美は小さな悲鳴とともに体を跳ねさせた。
鍋を思い切り叩きつけたような金属音。父が金属バットを振るっている様子が連想された。
二回、三回、四回。
むちゃくちゃなシンバルのように金属の打ち合う音は鳴り響く。
バン。
異質な音がして、下手くそな演奏は終わりを迎えた。
例えるなら、巨大なゴムを思い切り弾いたような音。紗沙美にとって聞き慣れない音だったため、正体は判然としない。
だが、続けて聞こえた、ごとり、という音が何かはよく分かった。
肉が転がるないし打ち付けられる音だったから。
音が途絶える。
一階は死んでしまったかのように静かになった。
死……。
考えたくもなかった。
父が生きている証拠をつかみたくて、紗沙美は再び耳をそばだてた。胸の前で握る木箱が、汗でじっとりと湿っていく。
しばらくは何も聞こえなかった。
だが、やがて。
――ぴちゃ、じゅる、ぐちゅ、じゅちゃ。
湿った音が紗沙美の耳に届けられた。紗沙美にはそれが何なのかわかった。鼓膜を微かに振るわせるそれが何なのかわかってしまった。
肉に顔をうずめ、噛み千切る音。きっと血を啜る音。
父が。父が。父が。父が。
父が、ナニカを撃退して、ごちそうでも食べているのだろうか。頑張った自分へのご褒美として、冷凍庫から生肉を持ってきて、かぶりついているのだろうか。
紗沙美はどうにか自分にとって都合のいい方向へ、音の正体を見つけようとした。だが、あまりに無茶なこじつけだった。
答えは、あまりに単純明快だった。
父が喰われている。
「ひっ」
導き出された結論に耐え切れなくなって、父の部屋のクローゼットの中に逃げ込んだ。隙間ができないようぴっちりと戸を閉めると、完全な暗闇が紗沙美を包んだ。知覚できるのは、防虫剤が放つ花の香りだけである。それでも、その暗黒が防護壁になってくれる気がした。闇に紛れてしまえば、ナニカが私を発見できないのではないかと、益体も無いことを考えた。
――ぎっ、ぎっ、ぎっ。
音がしたわけではない。
クローゼットの中にいる紗沙美に、部屋の外の音など届くはずがない。ましてや何者かが階段を上ってくる音なんて。
なのに、紗沙美は直感した。
それは虫の知らせや第六感によるものかもしれなかった。そして、その足音が、どう聞いても父のものでないことが分かった。大の大人にしては、軽すぎる音だった。
ドアの開く音。
途端、波紋のような悪寒が私を飲み込んだ。
部屋の温度が急速に下がっていく。まるで極寒の海に放り込まれたような冷たさと暗さ。歯がカタカタと鳴るのを止められない。
紗沙美は手で口を塞いだ。そうでもしないと叫びだしてしまいそうだった。
ここには誰もいません。何もありません。だから、早く帰ってください。
祈ったことのない神に祈った。
一秒が永遠のごとく長く感じられた。重圧に耐えきれず、髪が全て白くなってしまうのではないかと思った。胸の悪いものが渦巻いて苦しくて、吐いてしまいそうだ。
そこで紗沙美は手に持っている木箱の存在を思い出した。
そうだ、自分には武器がある。震える指先で木箱の側面をカリカリとひっかいた。
上手く開けられなかったのだ。何度目かの挑戦でやっと、蓋を外すことに成功する。が、手元が狂い、蓋が手から滑り落ちてしまった。
――からん。
渇いた空虚な音。もし、それが日常の一コマで発生した音ならば、きっと他の音に掻き消されてしまったことだろう。けれど、この暗黒においては、もはや冒涜めいた騒音と化して、静謐を切り裂いていった。
体感では一時間くらいだと思った。けれど、常識的に考えれば、せいぜい一分くらいのものだろう。
クローゼットの戸が、ナニカに開けられるまでにかかった時間は。
ゆっくりと動く戸を、差し込む光を、絶望の眼差しで眺める。
向こうから人影が現れる。青い光を受けたナニカは言葉を発した。
「こんばんは、お肉屋さん」
長い髪に、ドレスのような服。
微笑む顔はこの世のものとは思えないほど魅力的で、人間離れして美しい。しかし、少しだって安堵することはできなかった。その美貌は、美しすぎるが故に、ナニカが異形であることを何より如実に体現している。
「あ、は――はぁ」
あなたは誰。お父さんをどうしたの。何が目的なの。聞きたいことはたくさんあった。けれど、そのすべてが呼吸音に挿げ替えられてしまう。心へかかる過負荷で、頭が破裂してしまうのではないかと思った。
「大丈夫。わかっているから」
女性のカタチをしたナニカは微笑みかけた。その笑みをパーツごとに解体して見れば「柔和」と評価されるべきだろう。なのに、どうしてか紗沙美の不安を掻き立てて仕方がない。本能的に理解しているからだ。目の前の相手が、人間より上位の存在であることを。
「私は魔女。ここには食事に来たんだ。って、言わなくてもわかるか。お肉屋に来る理由なんて、それしかないものね」
「ま、じょ……」
かすれた声を絞り出す。それが精いっぱいだった。
「そう、魔女。主食は人間の絶望。副食は人の精。あなたのお父さんはさっきおいしくいただいたわ。ごちそうさまね」
言って、魔女を名乗る女は唇を舐めた。
あの小さな口で、父を食ったのか。
あの華奢な体の中に父がいるのか。そう思った途端、恐怖で全身が弛緩してしまった。包丁が手から零れ落ち、涙が頬を伝う。ショーツに生暖かいものが広がっていくのがわかった。失禁すら抑えられなかった。
黄色い液体がクローゼットの床から部屋の床へと伝い、広がっていく。それを見下ろしていた魔女の顔は紅を差した。嗜虐性が前面に表れた、毒々しい赤だった。
「そんなに怖いの。かわいいわね、あなた」
魔女が一歩踏み込んでくる。
ブーツが尿の海に侵入し、波を立てた。
手を伸ばし、紗沙美の顎を固定する。逃げられないように。
宝石のような目が私を覗き込んだ。魔女のそれが淡い碧色を帯びていく。
その瞬間、紗沙美は自身が彼女の虜になってしまったことが分かった。
その眼光は紗沙美の人格を蹂躙する。紗沙美の尊厳を踏みにじる。自分の意識が、彼女の意識に犯され、塗り潰されていく。自分というものが曖昧になっていく。
トドメに、魔女は紗沙美に口づけを施そうとした。近づいてくる赤く曲がった唇は、この世のものとは思えないほどに妖艶で、そしておぞましい。
その唇が、私の唇の上に重ねられる。
自身の意思とは関係なく、紗沙美は口を開いてそれを受け入れた。ねばねばとした液体が流し込まれてくる。生臭いそれを私は次々と嚥下していった。溺れそうなほどにおびただしい量だった。
――ダメだ、これは。
飲むほどに意識が潰されていく。染みていくほどに自由を奪っていく。この唾液は、紗沙美を犯していく。
わかっているのに、抗うことができない。紗沙美の体はすでに彼女の支配下にはなく、魔女の操り人形と化していた。
「ふ……ぅ……ふ……」
許されたのはせいぜい呻くことだけ。座っているにもかかわらず、足ががくがくと震えだした。
――まず、い。
蛇のような舌が絡みついてくる。紗沙美の舌の表面を這い、時に絞めつけ、時に舌の根までも撫でまわす。
この時点で、紗沙美は自分の生を諦めていた。
体に自由はなく、都合よく助けが現れるはずもなく。
蜘蛛の巣に捕らえられた蝶が如く、捕食されるのを待つ身。
命のこと、諦めたくはなかったが、もはや諦めざるを得ない状況だった。
だから、この「まずい」というのは終わりゆく自らの生命に対するものではない。諦めたものに対して、抱く焦りではない。
紗沙美がまずいと思ったのは、自身の命についてではなく、自身の心についてだった。
魔女と深く絡み合って理解した。
この魔女が使う魔法。
こいつは、心を塗り潰す。
私の心にある私の本来の感情。
父を殺されたことへの怒り、恨み。自らの生命が絶えることへの悲しみと恐怖。女に口づけされていることへの嫌悪。
そういう生の感情を、この女の魔法は塗り潰す。
紗沙美の心から自分の意思は完全に失われた。
細い糸を引きながら、唇が離れていくのを、紗沙美は焦点の合わない瞳で見送った。
「いい? あなたは今から私の玩具だからね」
「……はい」
返す声に意思はない。
それを聞き遂げて、魔女は満足げな表情を浮かべた。
魔女は自分のスカートの両端をつまむと、そのままたくし上げた。白のレースで飾られた黒の下着が露になる。それは、下着として用を成さないくらいに液体を滴らせていた。
「わかる? あなたの可愛い姿を見ていたらこうなってしまったのよ。だから、責任を取りなさい」
魔女の隷属と化した紗沙美には、次に来る言葉が自身への命令だと察することができた。
「あなたを食べさせなさい」
言葉が脳に響く。
心を介さず直接脳へ。故に命令の内容を吟味することなく、紗沙美はそれに従った。
「はい、わかりました」
紗沙美はためらうことなく、落ちていた包丁を拾うと空いている手の指を切り付けた。灼熱のような痛みとともに、人差し指の第三関節から先が果実のごとく落ちていった。
「えっ」
驚きの声をあげたのは魔女の方だった。
たくし上げられていたスカートがはらりと落ちていった。
生まれてから今日まで、紗沙美はこれほどまでに強烈な痛みを感じたことはなかった。けれど、精神を操作されてしまっていて声ひとつあげられない。紗沙美は落ちた指を拾うと、巧みな包丁さばきで丁寧に骨から肉を削ぎ落し、魔女へ差し出した。
「どうぞ」
一連の様子を魔女は茫然と眺めていた。
魔女は、そのような残虐な命令をした覚えがなかった。
紗沙美の父の絶望を喰らった彼女は、言ってしまえばもう食事の必要はなかった。ただ、失禁した紗沙美の姿に欲情したから、少し弄ぼうと思っただけだった。その後で洗脳の魔法を解いて帰ろうと思っていた。魔女にしては珍しく、命を取ろうとは少しも思っていなかったのだ。
なのに、なぜ。こんな自傷行為を。
いくつもの疑問符が浮かび上がった果てに、自分の命令の内容と、彼女の職業が結びつく。
――あなたを食べさせなさい。
「あ……あはは、あははははは」
そうか。
そんな認識の齟齬が。こんなケースは百年生きてきて初めて見た。
魔女と紗沙美では、『食べる』の認識が根本から違ったのだ。
かたや放蕩に身を任せる魔性。かたや肉屋の看板娘。
それぞれの生い立ちを考えれば、『食べる』の意味を全く違うように認識したとしても、無理からぬことだった。
魔女は差し出された肉をしげしげと眺めた。
魔女に食人の嗜好はない。さきほど紗沙美が父を食っていると勘違いした音は、真実、洗脳された父が、魔女に弄ばれる音であった。結局父を殺しはしたが、肉体を食らうことはしていない。魔女が喰らう『絶望』とは、言ってみれば精神的な食べ物なのだ。娘を守れず、弄ばれ、絶望して死に行く父親の姿が、魔女の腹を満たしたのだ。
けれど、だからと言って、スライスされた指肉を無下に扱うことも憚られた。魔女はここ数十年、自分の人生を退屈に思っていたからだ。
特に目標もなく、ただ徒に人の生と性を啜るだけ。性交も人殺しも、百年繰り返せば飽きる。これがあと何百年も続くのだと思うと、それこそ、死んでしまいたいと思うほどだった。
けれど、ここに来て奇特な人間に出会った。百年生きてきたが、こんな勘違いをする人間は初めてだ。これをすげなく断れば、自分はまた退屈に戻ってしまうのではないか。そう思うと、うすら寒ささえ感じた。
「じゃ、いただくわね」
親指と人差し指で、紗沙美の手のひらから肉をつまみ上げた。ぽとぽとと赤い雫が垂れる。口に入れると、垂れる赤が口紅のように唇を彩った。
肉の味が口いっぱいに広がる。
思ったよりも美味しい。噛み締めるほどに少女の指がバラバラに千切れ、擦りつぶされていく。自分の体が分解されて取り込まれていくのを、目の前の少女はそれとわからず眺めている。そこに、魔女好みの背徳の味を覚えた。
ぺろりと指肉を平らげた魔女は舌なめずりしながら言った。
「もう一ついただける?」
「はい」
紗沙美はためらうことなく、今度は中指に包丁を走らせた。
「ぐ……ぷ」
仰向けになった紗沙美が喀血すると、噴き出した赤が顔を染めた。
包丁を握る右腕がごとりと音を立てて床に倒れた。
そこが限界だった。
左肩から右わき腹にかけてを紗沙美は失っていた。
すべて、自分で捌き、魔女に献上したのだ。
魔女の洗脳は、紗沙美の肉体を限界を超えて駆動させた。とっくに動けなくなっているはずの重傷を負ってもなお、紗沙美の体は活動を許された。とはいえ、それもここが行き止まりだった。もはや呼吸をすることすらままならない。
視界は黒に潰され何も映していない。無痛となった痛覚は、身体が生を諦めた表れに他ならない。あと数秒で絶命すると紗沙美は理解した。
半分以下の大きさになった少女を、魔女は見下ろし、感嘆していた。
いかに洗脳の魔法を施したとはいえ、肺を片方失い、脊髄をむき出しにしてなお動こうとする人間はいない。この少女は、食肉に対して並々ならぬ執念を燃やしていることがわかった。
あとは私が引き継ごう。
魔女は、骸になりかけている少女の首筋を貪った。
歯が立てられ、ずぶずぶと深くまで刺さっていく。
そして、肉と血管を歯の間に挟んだまま、ゆっくりと口を引き離した。
ぶちぶちぶちぶちと小気味のいい音を立てながら、紗沙美の肉が剥がれていく。鮮血が吹きあがって、魔女の顔を彩った。くちゃくちゃと紗沙美の肉を咀嚼する魔女の顔には苦悶の色が張り付いている。もう満腹だった。いかに自分が人外の存在とはいえ、そもそも魔女は人肉を食らう種族ではない。人間の半分も食べてしまっては、それ以上を胃に収めることは難しかった。
それでも魔女は食べることをやめなかった。この饗宴を一秒でも長く続けたかった。腹が苦しくなって、気持ち悪くなっても止まらなかった。それは少女への敬意を表しての行動であり、また退屈からの逃走でもあった。無理に口を動かすことは辛くはあったが、楽しかったのだった。
だが、ついに果てを迎えた。
紗沙美の首から上以外を食らい尽くしたところで、もう一口だって口をつけることができなくなってしまった。
座っていることすら辛くなった魔女は、少女の首を抱えて仰向けになった。
楽しい時間が終わってしまった。
名残を惜しみながら、魔女は紗沙美の首を掲げて見つめた。
閉じられた目。薄く開いた口から血の雫が垂れてきて。魔女の唇に落ちた。それを舐め取り、嚥下した。胸が熱くなった。死してなお、自分の体を献上しようとしているように思えて、いじらしかった。
魔女は紗沙美の首を胸に置いて、強く抱きしめた。
「もう少し、あなたと遊べたらよかったのになあ」
退屈を何より嫌う魔女は、そう願わずにはいられなかった。
「紗沙美。いつまで寝てんの紗沙美。もう起きなって」
肩に何かが触れ、紗沙美の体を揺さぶった。
「ん……?」
顔をあげると見慣れた教室の情景が目に入った。どうやら机に突っ伏して寝てしまっていたらしいと紗沙美は理解した。前の席の古都美がじっと紗沙美のことを見ている。彼女が紗沙美を起こした張本人であった。
「もうホームルーム終わったよ。一時間目は勅使河原の現国なんだから、寝てたら張り倒されるよ」
「ええ、ああ、うん」
ぐらぐらする頭を押さえながら生返事をした。
「どうしたの、紗沙美。調子悪い?」
「ああ……なんか悪い夢見て……」
「夢?」
「うん……」
答えたものの、どんな夢かは思い出せずにいた。
その夢は紗沙美の頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。ただ、酷い悪夢だということだけは、今も余韻を引く気持ち悪さが証明している。
「具合悪いなら、保健室行きなよね」
「……そうする。ありがと」
この時、紗沙美はようやく古都美の顔を直視した。
途端、視界が真っ赤になったように感じた。さっきまで頭の中を渦巻いていた気持ち悪さとは違う。卒倒しそうな眩暈が紗沙美を襲った。たまらず紗沙美は額を手で抑えて支えた。
「ちょっと本当に大丈夫」
「……ごめん、ちょっとまずいかも」
どうやら自分は相当疲弊しているらしい。
古都美を見て、そんなことを考えるなんて。昨晩、ちゃんと寝たっけ。十時間ほど前の記憶を紐解こうとしたが、夢と同じように思い出すことができなかった。
「保健室、ついていくよ」
「いい、ひとりで行ける」
少々食い気味に、紗沙美は古都美の申し出を跳ねのけた。
ついてこられたら、困る。
「でも……」
「いいから」
半ば怒鳴るようにして、紗沙美は席を立ち、教室を出た。
授業が始まる数分前の廊下に人影はなかった。壁に手を突きながら進む。人気がないことで少し容体は良くなったように感じる。このまま、家に帰ってしまおう。保健室に向かえば、人と会うことになるから。よろめく足でゆっくりと進む。
だというのに。
「紗沙美!」
自身の名を呼ぶ声で、紗沙美の心臓が跳ね上がった。
紗沙美が振り返ると、こちらに向かってパタパタと駆けてくる古都美の姿が目に入った。
「どうして……」
途端、また熱に浮かされたようにクラクラしてくる。目の前に立っている古都美を見ないよう、紗沙美は目を伏せた。
「だって、心配だよ」
心配する古都美が一歩、紗沙美に向かって踏み出してくる。
体の動きからワンテンポ遅れて、古都美の薫りがふわりと鼻孔をくすぐった。強烈な香水に当てられたように紗沙美はよろめいた。
「ほら、今だって」
バランスを崩した紗沙美を支えるように、古都美は紗沙美の手首を掴んだ。食い込んでくる指の肉の感触。温かな血の温度。
たまらず紗沙美は古都美に寄りかかった。いや、寄りかかるふりをして抱きついた。
古都美は何も言わずにそれを受けとめた。
「……はっ、はっ、はっ」
息が荒くなる。
目の前にはことみの首筋が無防備に露になっている。
ことみはよく食べる女の子だ。
今週なんて、毎日のように私の家に来てご飯を食べてくれている。
ダイエットするんだーなんて言いながらも嬉しそうにうちのお肉を食べることみが私は好きだ。
食に正直な、飾り気のない彼女が好きだ。
そういうわけだからことみは私達三人の中で一番肉付きが良い。太っているわけではないが、胸やお尻を見れば、私や美雪よりはワンランク上のサイズであることは明らかだ。男の子から一番モテるのはことみだ。男子の目には、この肉は魅力的に映るのだろう。ガゼルを前にしたライオン、ウサギを見つけたワシ、アブラムシに近付くテントウムシ。イワシをくわえるペンギン。大量のプランクトンを飲み込むクジラ。アザラシの子供を引き裂くシャチ。ネズミを地面に叩きつけ弱らせてから食うイヌ。鎌で捉えたチョウチョを小さな口でいたぶり食らうカマキリ。長い胴体でシカの体をバラバラに砕いて、大きな口を開けて飲み込むヘビ。殺したイモムシをぐちゅぐちゅに引き裂き、宝物を愛でるみたいに丁寧に丸めて肉団子にしてしまうスズメバチ。
肉団子……?
そう、肉団子!
肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子!
ことみで肉団子を作ったら、それはどんなに美味しくて可愛いのだろう!
うちのお肉をたくさん食べたことみのお肉で作るミートボールは、きっと今まで食べたことのない味がするに違いない!
ことみを肉団子にしよう!
「痛いっ!」
耳元の悲鳴が紗沙美を正気の世界に引き戻した。
紗沙美は自分が口いっぱいに生暖かいものを頬張っていることに気付いた。それが古都美の首であることも。紗沙美は吸血鬼のように、古都美の首に噛みついていた。
「ご、ごめん……」
慌てて飛びのく。
古都美の首には赤いU字の痕がついていて、いくつかの穴からは血が滴っていた。
古都美は紗沙美のことを怯えた視線で見ていた。その目の端には水滴が浮かんでいる。やがて、紗沙美に背を向けると、教室の方へ向かって走っていってしまった。
紗沙美は彼女に謝ることすらできずに、学校をあとにした。
太陽にいじめられてフライパンのように熱くなったアスファルトにローファーを焼かれながら、紗沙美は家路についた。帰り道では幸いにして誰とも会わなかった。助かった。今会えば、自分がどうなってしまうかわからなかった。
家の前で紗沙美は首をかしげることになる。
店が閉まっているのだ。時刻は朝の九時を過ぎている。とっくに開店時間なのに、笑顔の豚が描かれたシャッターが下ろされたままだ。
不審に思いながらも、紗沙美は裏口に向かい、鍵を取り出して家に入った。
「ただいまー」
返ってくる声はない。
父は具合でも悪いのだろうか、部屋の明かりが点いていない。
光源は採光窓から射す夏の光だけで、外とは別世界のように薄暗い。密室で醸成された熱気が立ち込めていて、不快指数は外よりもはるかに高い。一刻も早くクーラーをつけなくては、とても活動できる空間ではない。
ひとまず自室に向かおうと居間を横切る。
けれど、その途中、床の上に何かが横たわっていることに気が付いた。
父だ。
傍らに金属バットを転がした父が、突っ伏している。
まとわりつく熱気はどこへやら、紗沙美は体をめぐる血液の温度が急激に下がっていくのを感じた。
「お父さん!」
駆け寄って、上半身を抱き上げる。
目、鼻、口。父の顔の穴周りはカサついた赤褐色の薄膜で覆われていた。濁りのかかった瞳からして、もう死んでいることは明白だった。
――ドクン。
心臓が高鳴る。
父が死んでいる。
そのことに哀しみを覚える。
けれど。
――ドクン。
私は心のどこかで。
心の奥底で。
それを知っている気がした。
――ドクン。
何か忘れている。
私にとって、大切な何か……。
父の死体をゆっくりと床に下ろした。
紗沙美の顔は、二階へ上がる階段へと向いていた。
行かなくてはならない。
そこに、紗沙美が忘れているモノがある。
木製の段が軋む音。
垂れる汗は冷たい。部屋の温度に起因するものでないことに疑う余地はなかった。
自室には向かわなかった。そこに求めるものがないことはわかっていた。
私は父の寝室の扉の前に立つ。
この奥にある。確信がある。
私にとって致命的なモノが。
「はっ、はぁ……は」
ドアの前で止まる。
動悸がどんどん早くなる。部屋の中にあるものを見てはならないと頭の奥が警告する。
けれど、見ないわけにはいかない。それは私のモノだから。こうしてけたたましい警報音を鳴らしているソレこそニセモノなのだから。
ドアノブを掴む。
生温い鉄の温度が気持ち悪い。
「は──」
意を決し、湿気だらけの空気を肺いっぱいに取り込んで、紗沙美は一息にドアを開けた。
途端、熱気とともに紗沙美を包む血の臭い。床一面、赤のペンキバケツでもひっくり返したように真っ赤だ。
赤の絨毯に足を踏み入れる。点々と散らばる白いモノ。棒状のそれが骨だということを、肉屋である紗沙美は瞬時に理解した。
ここは屠殺場だ。
ここで、ある生き物が解体され、肉を食われた。
その生き物とは……。
机、の上。
まる、で、ボールペンみたい、に。無造作に転が、された。大きな果実みたいな、それは。
――私の、頭。
「おかえりなさい」
背後からの声。
振り向くと、黒いドレスに身を包んだ少女が立っていた。見ているこっちが暑苦しく思うような格好だが、当の本人は汗ひとつ浮かべていない。それはそうだろう。だって、こいつは。
人間ではないのだから。
すべて思い出した。昨晩、ここで何が起きたのか。父と自身の行く末。その元凶が目の前の女、魔女であること。
机の上に置かれていた業物包丁を手に取る。それを胸の前に構え、魔女へ突進した。けれど、途中で足が動かなくなった。
魔女が妖しい力を使って、紗沙美の動きを止めたのだった。
「憎いのはわかるけどさ、まずは冷静になろうよ。私殺しちゃったら、聞きたいことも聞けなくなっちゃうよ」
「ぐ、ふ……うう」
紗沙美は唸り声をあげながら何度も足に力を入れようとした。けれど、一ミリだって前に進んでくれない。昨晩同様、身体の支配権を魔女に奪われているようだった。
業腹ではあったが、これ以上は無意味であると察した紗沙美は暴れようとするのをやめた。
「うん、いい子ね」
魔女が微笑むと体の不自由が解けていった。
即座にまた襲い掛かってやろうかと思ったがなんとか自制する。先の二の舞になることは火を見るより明らかだった。
「どうして、私は生きているの」
聞きたいことはたくさんあったが、一番はこれだ。
紗沙美は昨日、魔女に食われて死んだ。
なのに今、何故ここに居るのか。
「生きてはいないわ。ちゃんと死んでる。本当のあなたは私のお腹の中にいるわ」
言って、魔女は自分のお腹をなでた。見下ろす視線はまるで身籠った母親のように柔和だった。
「今のあなたは……そうね。わかりやすく言うなら、実体のある幽霊かな。あなたを食べ尽くした後、まだ残っていたあなたの意識を捕まえて、生首を媒体に現世にとどまらせ、殻を与えたの。もう知っていると思うけれど、私は人の意識を操ることができる。あなたに与えた殻はね、見る者、触れる物の認識を狂わせる。生き物であろうと、物体であろうと関係ない。『あなたがそこにいる』という認識を植え付ける殻。その殻に覆われている限り、あなたは普通の人間として行動できるわ」
……自分はオカルト映画の世界に迷い込んでしまったのだろうか。
紗沙美はそう頭を抱えてしまいそうになったが、この荒唐無稽な話を信じるほかなかった、魔女の力は、昨晩身を以て体験したのだから。
「どうして、そんなことを……」
「そんなこと?」
「だから、何で私をよみがえらせるみたいなことを……。また、私を食べようっていうの」
「あはは、それは素敵な提案ね。でも、無理かな。殻は殻だから。肉を与えたわけじゃない。幽霊っていうのはそういう意味よ」
「それじゃ、なおさらわからないよ。食べられもしないのに、なんで私を……」
「だって、楽しかったから」
そういう魔女の顔に邪なものはない。まるで公園を駆けまわる年端の行かぬ少年少女のように純粋無垢であった。
「魔女ってつまんないんだ。寿命ばっかり長いくせにやれることが少なくてさ。精神操作して人間で遊ぶのは最初の四十年くらいは楽しかったけど、もう飽きちゃった。遊び方のパターン尽きちゃって。腕飛ばしても、腹抉っても、首落しても、突き詰めればみーんな同じ反応なんだもの。あとは、性交くらいしか楽しみないけど、玩具相手じゃいまいち燃えないかあんまり気持ちよくないっていうか。真実、私を愛してくれる男が現れたら別かもしんないけど。人間世界を支配しようーなんて燃える奴もいるけど、私はそんな暑苦しいタイプじゃないし」
語る魔女の顔は十代少女のそれだ。なのに、口から流れ出る言葉が纏う雰囲気には不相応な老獪さがある。
「でも、昨日は楽しかったよ。初めて見たなぁ。『食べる』の意味を間違えたやつ。あなたのお肉も美味しかったし。年甲斐もなく人間相手に夢中になっちゃった。だからさ、続けばいいと思ったんだ。昨日の夜が、ずっと続けばいいなって。だから、あなたをここに引き留めた」
「なら、やっぱり私を食べようと……」
「違うってば。そんな物騒なことしないよ。私はあなたと居れればいいの。想像してみて。ここ云十年と死んでいた私の感情を動かしてくれたのがあなたなのよ。その人と一緒にいたいと思うのはそんなに変なことかしら」
紗沙美には魔女の言っている理屈がよくわからなかった。どうやら自分は、魔女独特の恋愛観なり友愛観なりから見て、気に入られてしまったことだけは何とか理解した。
「というわけで、私はあなたに何もしない。あなたは自分のしたいようにしてくれればいいわ。でも、気をつけなさい。あなたの魂が現世にとどまれるのは三日が限度よ。その三日間で、せいぜい私を楽しませてね」
「ふざけないで……。誰がアンタなんかのために……!」
紗沙美は持っていた業物包丁を自分の首に向けた。これ以上、魔女の玩具にされるくらいなら、もう一度自分に刃を突き立てようと思った。それが、この快楽の魔女へ行える唯一の反撃に思えた。
「オススメしないわね、それは」
魔女は温度のない声で忠告した。
「もし、私と三日過ごしてくれたら、あなたにはご褒美があるから。あなたにとって喉から手が出るほどに欲しいモノ。刃を自分に向けるのは、ご褒美の内容を聞いてからでも遅くないんじゃない」
ふざけたことを。いまさらそんな子供だましで私の手は止められない。そう紗沙美は一蹴しそうになったが、思い直し、一応内容だけは聞いておくことにした。聞いたうえで死んでやった方が、魔女に大きなショックを与えられると思ったからだ。
紗沙美は包丁を喉元から放すことこそしなかったが、視線で続きを促した。
「私の命よ。三日後の夜、あなたに私を殺させてあげる」
思わず紗沙美は息をのんだ。
確かにそれは、紗沙美にとって喉から手が出るほど欲しいモノに聞こえた。
紗沙美の中に渦巻くどす黒い怨嗟の声。魔女の命だけが、その嘆きを沈められる気がした。
けれど、わからない。
「どうして……?」
魔女がそこまでするのか。命を投げ出してまで、私と居たいと思うのかわからない。
「さっきも言ったでしょ。魔女って退屈なんだって。あなたが消えたらまた云十年、もしかしたら云百年、無感動で生き続けなきゃいけないのよ。だったら、楽しいうちに死んだ方がいいと思わない?」
魔女は相変わらず、普通の少女である紗沙美が追い付けないような死生観で話をする。けれど、それが本気の言葉であることは、紗沙美に伝わった。下手なきれいごとやおためごかしじゃない分、誠実に紗沙美の心に届いたのだった。
「約束よ」
紗沙美が念を押し、
「ええ」
魔女は応えた。
「きっと、私を殺してね」
その言葉を聞いて、紗沙美はようやく包丁から手を離したのだった。
まだ七月に入って間もないというのに、張り切った太陽が地表を灼熱地獄に変えてしまっている。
容赦ない炎天下の中、紗沙美は裏庭に穴を掘っていた。物置から持ってきたシャベルは、よりにもよって手元まで鉄製でできている。日光を受けて、みるみる温度を上げていく様子は、まるで自分に使われることを拒絶しているようだと紗沙美は思った。けれどもめげることなく紗沙美はシャベルに足をかけ、雑草の根ごと地面を掘り返していく。
魔女はそんな紗沙美を傍観していた。
作業中、一度だけ紗沙美に話しかけた。熱いと思うから熱いのだ。あなたはもう意識の存在でしかないのだから、認識さえ変えれば汗をかかないし、疲れも感じなくてすむと。紗沙美は聞こえないふりをして作業を進めた。自分の余命……いや、残り時間と言った方が正確か、それがあと三日しかないというのであれば、最後まで人間らしい感覚を味わっていたいと思ったからだ。
ところどころで休憩を挟みながら、四時間ほど作業して、ようやく穴掘りは終わった。深さ四十センチほど、幅は五十センチ、長さは二メートルに届かない程度の長方形の穴だった。
紗沙美は家の中に戻ると、父の死体を担ぎ上げた。否、担ぎ上げようとした。死後十五時間という時間帯は、死後硬直の特徴が最も強く現れる。まるでコンクリートのように固まった骸を紗沙美は思うように動かすことができなかった。
「半分、持ったげる」
見かねた魔女が助け舟を出す。結局、二人で上半身と下半身に分担して持つことで、父を外に運び出したのだった。
「足、そこに置いて。穴の先の方」
魔女に指示して、先に掘っておいた穴の中に死体を安置した。
「ごめんね、お父さん」
紗沙美は掘り返して積みあがっていた土を、シャベルで父の上にかけ始めた。茶色のまばらがどんどん広がっていって、ほどなくして父は見えなくなってしまった。
「ほっとけばいいのに」
父を埋葬する紗沙美に魔女は話しかけた。
「あなた時間がないんだから、他人のこと気にしてる場合じゃないでしょ? こんなこと言うのも今更だけどね」
「そうはいかないでしょ。放っておいたらあそこで腐るだけだもの」
「良いじゃない。何が悪いの」
「居間で死んでたら、微生物に分解されるだけ。土に埋めれば、虫や草の栄養になる。その違いよ」
「ふぅん、そう」
魔女が愉快そうに口元を歪ませたが、埋葬作業をしている紗沙美が気付くことはなかった。
一仕事を終えた私は、冷房の効いた部屋でジュースを片手に一息ついていた。
魔女は私のベッドの上に腰かけて、相変わらずじーっと私を眺めている。
「あの、なにか」
「ううん、思ったより落ち着いてるなって。てっきりもっと取り乱すかと思ってたんだけど。あなた、いきなり殺された上にあと三日しかこの世にいられないのよ」
「うん、わかってるけど……」
ジュースの中の氷が涼しげな音を立てて割れた。
「やりたいこととか、思い残したこと、ないの?」
「やりたいことはあった。お父さんの肉屋継ぐのが夢だったから。でも、そんなの三日じゃどうにもなんないし」
「好きな男の子くらいはいるでしょ? 襲いにいっちゃったりするなら手伝うけど? 私の専門分野だよ」
「いない。ずーっと肉ばっか切ってきたから」
「そんな……。何か一つくらいあるでしょ」
「そうだね……。あるにはあるよ」
紗沙美は恨みを込めた視線を魔女にぶつけた。
「アンタが憎くて仕方ない」
「それは三日待ってよ。あー、あれかな。私への憎悪が強すぎて、他の願望を塗り潰しちゃった感じかな。まあ、あんな死に方したんじゃ無理もないけど」
しばらく、二人の間に言葉はなかった。
「ねえ、やりたいこと一緒に探そうか」
「なによ、それ」
「だって、本当に何もしないまま終わったらつまらないもの。あなたがしたいこと、私も探したい」
「殺した人間に言うセリフじゃない」
「はは、違いないわね」
二人の会話が終わるタイミングを見計らっていたかのように、インターフォンが鳴らされた。
紗沙美が一階に降り、インターフォン親機で外の映像を確認する。ドアの前に立っているのは美雪と古都美だった。おそらく、早退した私の体を心配してお見舞いに来てくれたのだろう。古都美の首に貼られた絆創膏が痛々しい。同時に、そんな傷を負わせた張本人である自分のことを気遣ってくれる古都美の優しさに紗沙美は深く感謝した。
けれど、だからこそ会うわけにはいかない。
「……ぅ、ぐ」
喉の奥からとめどなくわき出てくる唾液を必死に飲み下す。インターフォン越しでこれだ。直接会ったら、どうなってしまうかわからない。
「どうしたの? 友達じゃないの? 出ないの?」
傍らで魔女がきょとんと首をかしげている。
ふざけたやつだ。心底頭にくる。
紗沙美は精一杯の呪いを込めて言った。
「とぼけないでよ。アンタが私をこんな体にしたくせに」
「えっ」
「この食欲のことよ。面白がって、私の食欲を弄ったでしょ。友達のこと、食べたくなるようにって」
「……私、そんなことしてないよ」
「アンタ以外に誰がこんなことできるっているのよ。目が覚めたときから、古都美のこと食べたくて仕方なかったんだから」
「私がしたのは、あなたの意識に殻を被せただけだって。あなたの意識を弄るようなことはしてない。私のお人形にしちゃったら、他の人間と変わらない。つまんなくなるだけだわ」
紗沙美は黙り込んだ。魔女の言うことには説得力がある上、嘘をついているようには見えなかった。
「だからね、もしあなたがお友達のことを食べたいと思っているなら、それは昔からあなた自身が抱いていた願望だと思うわ」
「ふざけんな……」
それはあり得ない。
紗沙美が古都美や美雪のことを食べたいと思ったことは、生前に一度だってなかった。もちろん、職業病として、彼女らの肉を切るならどうするかと考えたことはあるが、その手のタブーは人間だれしも考えることである。決して本気で考えたことではないし、そこに強い誘惑だって覚えなかった。
この謎の食欲が、自分の死後に発現したことは間違いなかった。
自分の死がなにがしかのトリガーになっているのは明白だったが、それは魔女を以てしても説明がつかないという。
強い立ちくらみで地面が揺れる。友人二人の姿を見過ぎてしまったようだ。紗沙美はインターフォンに映る映像を消し、自室に向かった。
横にならないと。目が回ってしまいそうだ。眠ってしまおう。放っておけば、古都美たちもあきらめて帰るだろう。
手すりに体重を預けながら一段一段ゆっくりと階段を上っていく背中に魔女はつぶやいた。
「なぁんだ。あるじゃない、やりたいこと」
その小さな企みが、吐き気に呻く紗沙美の耳に届くことはなかった。
ベッドの上で浅い呼吸を繰り返す。苦しくて、ベッドシーツを掴んだ。横になってから、かれこれ三十分くらい経ったはずだが、症状は治まりそうにない。体にうまく力が入らない。紗沙美の症状は今朝がたより悪化していた。
部屋のドアが開けられる。入ってきたのは魔女だった。
「大丈夫?」
「……大丈夫。だから、一人にして。アンタの顔を見てると、イライラして治るものも治らないから」
魔女はこれ以上ないくらい意地悪な顔をして笑ったのだが、呻く紗沙美は気付かない。
「だってさ。じゃ、私以外の顔にお願いしましょうか」
魔女が一歩下がり、ドアの外に出る。入れ替わりに入ってきたのは、古都美と美雪だった。
「な――」
驚きで息と思考が止まった。
「二人ともお外で寂しそうにしてたから、私が中に入れてあげたの。ね、ちょうど私の顔なんて見たくないみたいだし、二人にお世話をお願いするわ」
古都美と美雪の目に意思の光はない。昨晩の私と同じように魔女の精神操作にかかっているようだった。
「やめて……! 部屋に入れないで。入らないで」
まだ体の自由がきかない紗沙美は、声で拒絶する他ない。しかし、彼女の制止など魔女は聞く気がなかったし、人形二人には届かない。
「あの子ね、昨日お父さん殺されちゃって、寂しいんだって。ぎゅーっと二人で抱きしめてあげてね」
「やめ……やめ……」
もがくように足を動かすが、虚しくベッドシーツを掻くだけだった。少女二人は紗沙美の両脇に陣取って、計四本の腕で紗沙美を補足した。
視界がちかちかとフラッシュした。水を持たされずに、砂漠を何十日も歩かされた後のような、想像を絶する喉の渇き。体に食い込む古都美の柔らかな肉と、それとは対照的に少し筋張った美雪の肉。もはや、限界はそこまできていた。
「ねえ、何をそんなに我慢しているの?」
少女の肉に溺れる紗沙美を見下ろしながら尋ねた。
「食べたいんでしょう? 食べればいいじゃない。どうせあと三日で消えるのよ。最後くらいやりたいことやろうよ」
「うるさい!」
それは紗沙美の理性の咆哮だった。
「私はアンタと違う! アンタみたいに人間は食べない! 何の呵責もなく人を殺したりできないの! アンタが私に何をしたか知らないけどねぇ……」
紗沙美は大きく息を吸い込んだ。言ってやらねば気がすまなかった。
「私は! 人間なのよ!」
「は?」
けれど、渾身の叫びは古都美にも美雪にも魔女にも届かなかった。
「人間? あなたが?」
魔女は呆れたように解説を始める。
「あなたは人間じゃないわ。人間としてのあなたは、昨夜零時十三分に終わったの。今、ここに居るあなたは、私が私の魔力で殻を与えた存在。私とは程度に差こそあれ、その意識を以て、他人の意識に干渉する者よ。言ってしまえば、私の子供。あなたはもう人間じゃない。もはや魔女」
そうして、魔女は、その言葉を口にする。それが紗沙美にとってどれほど決定的なものかまったく自覚せずに。
「人間以上の存在。上位捕食者よ」
ぷつんと紗沙美の中の糸が切れてしまった。
それまで鳥野紗沙美という人間に通っていた一本の糸、強烈な食欲に苛まれ、ほつれを見せながらも、辛うじてつながっていたか弱いそれが、はじけ飛んでしまった。
紗沙美は全てを理解した。
自身の食欲の正体を。
紗沙美の魂は、深層でわかっていたのだ。
自分が人間の上位捕食者であるということ。
なるほど、確かに魔女は紗沙美の意識を弄ったりはしていなかった。
これは、紗沙美のポリシーが表出した結果だ。
紗沙美は食べ物を大事にする。一度口をつけた以上、最後まで食べ尽くさねば、下位被食者に失礼だと思っている。今日まで、彼女がお残しをしたことは一度だってない。
しかし、それは、上位捕食者は、下位被食者を食わなければならないという意識を彼女の中に形成していたのだった。
故に、事実、上位捕食者となった彼女の深層意識は、その食欲を友人に向けたし、今や表層意識までそれを理解してしまった。
人間を食うことは、紗沙美にとって当然のことになった。
「古都美」
紗沙美は友達……いや、友達だった肉の方へ向き直る。そして、別れの言葉を告げる。
「いただきます」
今朝と同じ場所に食いつき、絆創膏ごと肉を切り取った。途端、抉り取られた古都美の首から噴水のような血が噴き出した。かつて古都美と呼ばれた肉は、どこを見ているかわからない虚ろな瞳のまま、身体の脂肪をぶるぶると震わせた。
口の中に広がる熱い血、甘美な味わいが舌を痺れさせる。柔らかな肉は舌の上で溶けるように消えていってしまう。ああ、何を私はためらっていたのだろう。こんなにも美味しいのに。
二口目、三口目。
もはや紗沙美を止めるものはなかった。ほどなく古都美は絶命したが、そのことにすら何も感じなかった。家畜の死をいちいち悼んでいては、肉屋などやっていられない。
古都美の体の三分の一ほどを食べたところで、魔女が割り込んできた。
「見てたら小腹が空いちゃった。つまみ食いさせてね」
魔女は血濡れのベッドシーツの上に乗り、古都美のまだ残っている方の乳房に口をつけると、そのまま噛み千切ろうとした。
けれど、魔女は咄嗟に肉から飛びのくことになる。並々ならぬ殺気のようなものを感じたからだ。発生源の方を見る。そこにいたのは、古都美の肉を口にぶら下げ、恐ろしい眼つきで魔女を見る紗沙美だった。
ぐちゃぐちゃと赤い塊を噛み潰し、喉を鳴らして嚥下した後、紗沙美は魔女に警告した。
「食べる前には、いただきますでしょ」
その圧は、魔女をしてなお気圧されるほどのものであった。
「い……いただきます」
気が付けば、魔女は古都美に向ってその言葉を口にしていた。
「食べ終えたら、ちゃんとごちそうさまも言うんだよ」
「う、うん」
了解を聞き遂げた紗沙美は、真っ赤な口で満足そうに微笑むと、古都美の半身を魔女に差し出した。
初日は、古都美の肉を食らううちに終わりを迎えた。
深夜一時を回ったころ、三谷澤の父が帰宅した。トラックの運転手をしている彼は、帰宅が不定期だ。今日を逃せば、次に会話ができるのは何日も先になるかもしれない。
「なあ、親父」
「あん?」
畳の上で横になり、録り溜めしたテレビ番組を見ている父親に、三谷澤は意を決して話しかけた。
「進路のことなんだけど」
父はテレビの方を見続けている。返事も帰ってきていないが、三谷澤は続けた。
「専門学校、行きたいって思って」
やはり、返事はない。目の前の四角から発される色とりどりの光がちかちかと父の顔を照らしている。消え入りそうな声で三谷澤は続けた。
「食肉の専門なんだけど……」
「んな金、どこにあんだよ」
それで終わりだった。
三谷澤自身もわかっていた、絶対拒絶の壁。
自分は何をしているんだろう。こうなることはわかりきっていたのに。
それ以上、何も言えなくなって、三谷澤は自室に戻ろうとした。
「でも、まあ、おまえが自分から何かしたいって言うのは初めてだな」
会話はまだ終わっていなかった。
「おまえにはよ、俺みたいなろくでなしにはなってほしくないんだ。本気でやりたいって言うなら、まあ、どうにかしてやる」
このとき、いつもはみすぼらしくて品がない親父の背中が、一回り大きく見えた。
「うん、やる。俺、本気で頑張るよ」
この吉報を明日、紗沙美に届けよう。
彼女の笑顔が見れたら、勉強だって本気で頑張れる。そういう確信があった。
だが、翌日、紗沙美は登校しなかった。
いや、紗沙美だけではない。彼女の友人である二人も登校しなかった。
けれど、どうしても紗沙美に件の話をしたかった三谷澤は、放課後、紗沙美の家に向かうことにした。
夕方四時前。
三谷澤は紗沙美の肉屋に到着した。しかし、シャッターは固く閉ざされていた。波打つ鉄壁には、豚のイラストとともに営業時間と定休日が書いてある。今日、この時間帯は、記載されている定休日にも営業時間外にも該当しない。娘の具合が悪いから、看病のために父が店を閉めているのだろうか。だとしても、臨時休業の張り紙くらいは貼ってもよさそうだが。
そんなことをする余裕がないほどに、容態が悪いのだろうか。
三谷澤はやにわに紗沙美のことが心配になってきた。専門学校に行ける報告は今度で良いから、紗沙美の具合だけでも確認したいと考えた。
周囲を観察し、肉屋と隣家の間に細い通路があるのに気付いた。どうやらそこが家の玄関と裏庭に続いているらしい。
三谷澤は通路に足を踏み入れた。紗沙美の家のドアは、通路に入ってすぐのところにあり、その奥に裏庭が続いていた。もしや裏庭にいることはないだろうかと一応覗き込んでみたが、不自然に掘り返されたような地面以外に、発見はなかった。
本人と話せなくても、せめて父親から紗沙美の様子を聞きたい。
三谷澤はインターフォンのボタンを押した。
「行かなくてよかったの、学校」
骨付き肉を頬張る紗沙美に魔女は問いかけた。
「行けるわけないでしょ。突然でかい肉が二つも入ってきたんだから。これ処理するだけで二日くらいかかるわ。ていうか、アンタも食べるの手伝いなさいよ」
「おあいにく様。私のお腹の中は、まだあなたでいっぱいです。そもそも魔女って小食な上、人肉は主食じゃないので。オーガでも呼んでくるんだね」
「なら、なおさら」
一匹はあらかた片付けたが、冷凍庫にはほとんど手つかずのもう一匹が吊るされているのだ。私の店に入荷された以上、肉を無駄にすることは許されない。
「あなた、ちょっとしゃべり方から棘が抜けたんじゃない? やっぱ、私が同族ってわかったら優しくなっちゃうもん?」
「ん、まあね」
紗沙美が魔女に対して抱いていた嫌悪感は、今ではかなり緩和されている。いや、ほとんど感じていないと言っていい。
この世界は食物連鎖で成り立っている。
人が豚を食べるように、魔女は人を食べる。そう考えれば、彼女が自身を殺した理由は大いに納得できたし、恨む筋でもないと思った。紗沙美自身、生前はたくさんの生き物の肉をさばいていたのだ。そのあたりは割り切った考えを持っていた。そのつもりだった。
にもかかわらず、紗沙美の心の中でたぎる黒い炎は、一向に勢いを弱める気配はなかった。それがきっと表情に出てしまったのだろう。魔女の口の端が緩やかに吊り上がった。
「ふふ、理屈で理解はできても、やはり自分が殺されるとなると別なのかしらね」
「さあ。確実なのは、あと二日でアンタを殺すってことだけね」
「楽しみにしてるわ」
ピンポーン。
間の抜けた高い音が居間に響き渡る。
誰か来たようだ。
インターフォンで外の映像を確認すると、三谷澤くんが緊張したような面持ちで立っていた。
「また、肉が増えるわ。手伝ってね」
「律儀ね。逃がしてあげたら?」
「無理。お腹いっぱいだけど食欲治まんないから」
紗沙美は外部との通話スイッチを押した。
「こんにちは、三谷澤くん」
声に反応し、四角の中の小さな三谷澤が動いた。
「その声、鳥野か?」
「そうだよ。どうしたの急に。今日お店休みだよ」
「おまえの様子が気になって……、昨日も早退したし、今日は来ないし……。質の悪い夏風邪でも引いたのか?」
「え、違うよ。この二日間、色々あってね。それで行けなかっただけ。近い将来の話は置いておくとして……少なくとも今は元気だよ」
「そっか。そりゃ、よかった……」
「用ってそれだけ?」
「え? ああ、いや、もう一つあった。おまえに伝えたいことがあったんだった。俺……」
「立ち話もなんだから、うちに入りなよ。外は熱いしね」
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が。私風邪ひいているわけじゃないんだよ。家に病人は居ません」
死人ならたくさんいるけどねと小声で嗤った魔女のわき腹を紗沙美は小突いた。
「……いいのか?」
「うん、ぼちぼち夕食作ろうかと思ってた頃だし」
紗沙美は、画面に映る三谷澤を舐めるような目で見る。
「三谷澤くん、ハンバーグ好きだったよね」
三谷澤は初めて家に通されたときと同じように居間へと案内された。
「準備してくるから待っててね」
キッチンへ消えていこうとする紗沙美を三谷澤は引き留めた。
「ちょっと待てよ。話があるんだって」
「え、ああ、そうだったね。何?」
紗沙美は三谷澤の方へ向き直る。だが、その顔は能面のように無感動だったものだから三谷澤は面食らった。三谷澤の話のことなんて、まるで興味がないかのような……。
「専門学校の話」
「ああ、あったね、そんなの」
「親父から許可が出たんだ。金、工面してくれるって。俺、おまえと同じ学校行けるんだ」
「へえ……それはすごいね。でも、私……」
「だからな、今日の料理は俺にも手伝わせてくれ。恥ずかしい話だが、料理なんて生まれてこの方一度もしたことねえんだ。ちょっとでもいいから、何かやらせてくれ」
三谷澤は前のめりになって紗沙美に申し出た。食肉に対する強い熱意を示せば、のっぺらぼうのような紗沙美の仮面の下から、いつかの彼女の顔が現れる気がしていた。
「ちょっとと言わず、主役張ってもらうよ」
紗沙美は三谷澤に笑いかけた。その笑顔はとても魅力的なモノだった。なのに、なぜだろうか、三谷澤は自分の胸の内をかきむしられるような心持がした。
「じゃあ、ひとまず肉、持ってきたるわ。冷蔵庫どこだ」
「居間を出て左に進んだ突き当りだけど……。いいよ、お肉ならそこにあるし」
「俺が冷蔵庫見たいんだよ。テレビで見るみたいに、ずらーっと豚の肉が吊るされてんだろ」
「そんな大きいの、うちにはないよ」
「そうなのか。何でもいいや。今後の勉強のために見せろよ」
言いながら、三谷澤はもう冷蔵庫へと向かっていた。
「……もう、余計な手間増やして」
木箱からソレを取り出し、紗沙美は彼を追うことにした。
紗沙美に言われた通りの場所に、果たして冷凍庫はあった。
高さが二メートル近くありそうな、巨大な銀色の業務用冷蔵庫だ。
観音開きの鉄扉を、三谷澤は勢い良く開けた。
三谷澤は、その直前にある決心をしていた。すなわち、生の肉を見ても怯まないようにするという決意である。三谷澤は、赤肉が苦手だった。大気にむき出しになった筋線維、本来秘匿されてしかるべき内面が表出している有様は、まるでこちらの世界に迷い込んだ異界の一部のようにグロテスクに見えていた。血も苦手だ。大量の血液を見ていると、どんどん気が遠くなってしまう。
けれど、もうそんな弱気は許されない。
自分は、紗沙美と一緒に専門学校に行くのだ。
だから、大量の赤肉が吊るされて格納されているであろう冷蔵庫を自らの手で開けようというのも、そういう健気な気構えの為せる業だった。
かくして、三谷澤の心は打ち砕かれる。
両開きのドアを開けた先の空間。
確かにそこに肉はあった。
ほんの一瞬、三谷澤はそれが何の肉かわからなかった。
自分は肉について全くの門外漢だ。豚肉と牛肉の違いも分からないうえ、ロースだのバラだのハラミだのがどの部位のことかもわからない。いや、それらの単語が本当に部位のことを表す言葉なのかも自信がない。
だから、目の前に吊るされている、真っ青な肉も、自分があずかり知らぬ種類の肉なのだと思った。逆さまかつ裸でぶら下がっていたというのも、彼の認識を狂わせた。
たとえ、ソレについている手足が、慣れ親しみ、見慣れた形をしていたとしても。
きっと、ソレの全体図が、猿やらチンパンジーやらとは比べるべくもないほどに、自身のカタチに似通っていたとしても。
自分の腰のあたりを見つめる目。それにまとわりつく鼻、口、耳のカタチが――。
クラスメイトの牧瀬美雪にそっくりだとしても。
「ひ――」
人間、真に驚くと叫び声など上げられないことを三谷澤は知った。
足から力が抜け、しりもちをついた。目線が、マキセミユキノヨウナモノと同じ高さになる。
なんだこれは。
目の前の光景がまだ受け入れられない。扉を開けたら逆さ吊りの女が現れるなど、まるで一昔前のお化け屋敷の仕掛けだ。自分はいつのまにかそんな夢の世界に迷い込んでしまったのだろうか。だが、冷気とともに三谷澤を緩やかに抱擁する血の生臭さが、この光景が現実であることを思い知らせて逃がさない。
そういえば、今朝、牧瀬美雪は学校に来ていなかった……。
「ダメじゃない。お肉が勝手に逃げだしたら」
背後から降りかかる声。
誰のものかはわかっていた。
声の主が何をしでかしたかもわかっていた。
逃げなければ、この身が如何なる末路を辿るかなど、容易に想像がついた。
なのに、三谷澤の体は動かない。
恐怖に身がすくむという言葉がある。蛇に睨まれた蛙という諺がある。だが、三谷澤の全身から力を奪う理由は、そのどちらにも当てはまらない。
『諦観』という単語が最も正鵠か。
声は絶対だった。はるかに高い場所から降ってくる執行者の宣告。三谷澤の体が理解していた。この声の主は、自分とは違う。三谷澤が知る鳥野紗沙美とは違う。
絶対的上位捕食者。
二本の腕が蛇のように滑らかな動きで、背後から三谷澤の首周りにまとわりついた。右手に握られているのは、あの夜、紗沙美が貸してくれた業物包丁だった。
「大丈夫。怖がらないで」
その声は、さっきまで無感情だった紗沙美のモノとは思えないほどに慈愛に満ちていた。
「私、知ってるんだよ。三谷澤くんが漫画とかゲームが好きなこと。日本刀とかナイフとか刃物が好きなこと。ハンバーグが好きなことも教えてもらったね。そして、なにより」
耳にかかる息。
囁かれる言葉。
それを言われるのを期待して、三谷澤は屹立を始めた。
「誰かの役に立ちたくて、仕方ないんだよね」
業物包丁が黒い光を放つ。
三谷澤の心から恐怖は消えていた。代わりに現れたのは、強烈なまでの性的興奮。自分の死を予感して、生殖本能が悪あがきを見せたのだろうか。否、これはそういうものではない。
カマキリの交尾だ。
カマキリの雌は、交尾の際に雄を食らう。それは戯れの虐殺ではない。食われた雄は、産卵期の雌にとって重要な栄養となる。自分の身を犠牲に、雌の役に立つのだ。
俺も、きっと。
その恍惚とした犠牲が、三谷澤を熱く滾らせる理由。
「大事にするからね。三谷澤くんの好きな包丁で、三谷澤くんの好きなハンバーグに。だから」
その声は、殺人鬼と呼ぶにはあまりに柔らかかった。
ああ、事実彼女は殺人鬼などではない。捕食者として、自分を食べようとしているだけなのだ。自然の摂理に従っているだけなのだ。ただ、そこに家畜を思いやる優しさがこれ以上ないくらいに込められているのが、いかにも彼女らしかった。食べ物を大事にし、「いただきます」と「ごちそうさま」を欠かさない彼女らしかった。
――なんて優しい女の子なのだろう。
「私と、ひとつになって」
紗沙美の手を握った。もう震えも恐怖もない。ちゃんと力を入れられる。
三谷澤は、生涯最後のぬくもりに縋りながら、「ああ」と答えた。
その夜、腕によりをかけて作ったハンバーグは、十七年の人生の中で一番おいしく作れたと紗沙美は思った。魔女も舌鼓を打っていたが、色っぽい味がするという感想の意味はよくわからなかった。
「まだ寝ないの?」
「うん」
魔女の問いかけに紗沙美は生返事で答えた。
声に振り返ることもしない。ただひたすらに、大量につくられたハンバーグを口に運び続けていた。そうでもしなければ、明日の夜というリミットまでにすべてを食い尽くすことなどできなかった。
自分が人間じゃなくなったことに感謝した。もし、人のままだったのなら、紗沙美の胃はとっくに破裂するか、過食に耐え切れず吐くかしていただろう。意識体と化したこの体は「食べられる」と思えばいくらでも口に運べたし、「眠くない」と思い込めば不眠で活動できた。
けれど、紗沙美は今、満腹で苦しかったし、眠気に目を擦っていた。大量の肉を前に呻きそうになったり、夜が来たというだけで眠くなった気がしてくる生前の刷り込みが、いやがおうにも紗沙美にそう言った感覚を呼び起こすのだった。一口、食を進めるたび、それの刷り込みを力任せになぎ倒して進む強い意識が要されたため、紗沙美の食道楽は決して平坦なものではなかった。
えずきながら、眉間にしわを寄せながら、それでも肉を口に運ぶ手を止めない紗沙美を眺め、魔女は彼女が食事に執着する理由が気になった。
なにが彼女をここまで駆り立てるのだろう。
想像することは簡単だった。
例えば、幼い頃に虐待を受けていて、ろくにご飯を食べさせてもらえなかった反動だとか、両親の厳しい躾の影響だとか、輪廻転生の話まで広げれば、前世がライオンだったとか、いくらでも思いつく。魔女は、自身に宿る力を行使すれば、そのルーツをたどることが可能だった。ほんの少し、精神操作を施して、枝分かれした道を遡り、大樹に向えばよかった。赤子の手をひねるように簡単なことだった。
けれど、実際にそれを行うことは憚られた。
目の前の少女は、残されたわずかな時間を尽くして、一心不乱に肉を食らっている。その有様は愚かで無様で滑稽で意地汚く、けれど冒しがたいほどに健気だった。
子供を守ろうとする親、恋人だけは助けてほしいと命を差し出す男、飢餓の国で蝿に嬲られながら世界を呪って死んでいく餓鬼。
そういったものに、魔女は心を動かされない。自分の興味がそそられれば殺すし、そもそも関心を抱くことすらまれだ。
なのに、どうしてかこの少女の邪魔をすることはしたくなかった。
優しさとは違う。その手の感情は、魔女の中に存在しない。
魔女は自分の心のうちに起こる感情がわからないまま、けれど、それに身を委ね、空が白み、少女が力尽きて眠るまで、彼女のことを見守り続けた。
最後の日。
食事の途中で眠りに落ちた紗沙美の意識が戻ったのはお昼前だった。眠っている間も、紗沙美は肉を食う夢を見続けた。そして、肉を食わなければならないという強迫観念に揺り起こされた。
皿の上に盛られた赤身の海に顔を沈めて紗沙美は眠っていた。鼻をつく生臭さと鉄の臭い。続きを食べなければ。そう思って身体に力を入れたが、動かなかった。まるで脳の伝達司令が届いていないかのような気だるさ。それで紗沙美は、自分に残された時間がいよいよ残り少ないこと、限界時間に近づけば近づくほど体が動かなくなることを知った。
それでも意識の力を振り絞って、どうにか動こうとする。それでもダメだった。「まだ動ける」といくら思い込んだところで、指先が痙攣したように引きつるだけだった。
突っ伏す自分を魔女が見下ろしていることに気付いた。鼻で嗤われることを覚悟した。好きにすればいい。紗沙美には反撃するような力はもう残っていない。
魔女がため息をつくのが聞こえた。自分の無様に呆れているのだと思った。
魔女が紗沙美の体に触れる。肉の上から少女を掬い上げると、椅子の背もたれに紗沙美の背中を預けさせた。魔女は、食器棚からフォークを持ってくると、おもむろに食いかけの肉に突き刺し、紗沙美の口の前に持ってきた。
紗沙美は驚きのあまり目を見開いた。ほんの二日を一緒に過ごしただけだが、この魔女が弱っている人間を助けるような種類の生き物でないことはわかる。なのに、今、魔女は私の食事を手助けしようとしていた。
理由はわからない。けれど、今はそれに縋るしかない。
紗沙美はゆっくりと口を開けた。
魔女はもったいぶることも、目の前で肉を引き上げる意地悪もせず、素直に肉を口の中に入れた。咀嚼するだけの力はまだ残っていた。噛み締めて嚥下する。何故だか昨晩の肉よりも美味しく感じた。
二回、三回、四回。
肉を刺しては運び、刺しては運び。魔女はその動作を繰り返す。残りの肉の量から考えて、百を数えてもまだまだ終わらないことは明白だった。間違いなく単調、すなわち魔女が何より嫌うはずの退屈な作業を、厭うことなく彼女は繰り返した。
窓から差す光の色が変わっていく。
白、黄、赤、紫、黒。
もうじき日付も変わろうかという頃になって、紗沙美はついに最後の肉片を胃に収めた。
「おめでとう」
背もたれの上部に頭を預け、天井を仰ぎ見て浅い呼吸を繰り返す紗沙美に、魔女は賛辞を贈った。横目で見れば、魔女は小さく拍手をしている。なんだか、自分のことのように嬉しそうだった。
強い眠気が襲ってくる。
腹が満たされたせいか、あるいは消滅の時が近づいているからか。
甘い泥のように心地よいまどろみ。気を緩めれば、途端に意識を浚われて二度と戻ってはこれまい。
そうはいかない。
私にはまだ、やらなきゃいけないことが残っている。
右こぶしをテーブルに思い切り叩きつける。乗っていた食器が跳ね、いくつかは床に落ちて白い欠片へと姿を変えた。
火事場の馬鹿力か、あるいはそれほどまで強い憎しみだということか。
怨嗟の炎に燃える眼差しを、魔女は待ってましたとばかりに受け止めた。
魔女の肩を借りながら階段を上る。
「死ぬのは、あなたのお父さんの部屋って決めてたの」
何故と問う体力はない。いや、しゃべる体力を今は温存しておきたい。いざというとき、魔女を殺し損ねてしまっては元も子もない。
だから、紗沙美は目でその理由を問うた。
「だって、あなたと私が最初に出会った場所でしょ? あなたが死んだ場所で私も死んだなら、それはとてもロマンチックだと思わない?」
わからない。
この手の特殊な感性は魔女の十八番だ。理由を追及する気にもならなかった。
父の部屋に入り、紗沙美は父のベッドの上に寝かされた。魔女は一度部屋から出ると、木箱に入った包丁を手に戻ってきた。
中身を取り出すと、紗沙美の手に握らせる。
そして、紗沙美の体の下に滑り込んだ。自然、紗沙美は魔女に覆いかぶさる形となった。
「今のあなたじゃ、体重かけないと刺し殺せないでしょ」
紗沙美は包丁を振り上げる。
「心臓を狙ってね。魔女って、即死以外の傷はすぐ治しちゃうから。場所はわかる?」
「当たり前」
自分を誰だと思ってる。この三日で三人も捌いた。人間の臓器の位置だって、もう完璧に把握している。
「じゃ、お願い」
紗沙美は思い切り包丁を突き刺した。
「ごぉ……っ」
痰が絡んだような悲鳴を上げて、魔女が喀血した。
ナイフは魔女の右胸に突き刺さっている。無論、そこに心臓はない。
「バカ……。場所……わかるって……」
「わかってるよ」
わかっていてなお、紗沙美は心臓を避けて魔女を刺したのだ。
「私がどれだけ……アンタのことを憎んでると思ってんのよ!」
ナイフを引き抜く。
ぬらりとした赤の粘液が糸を引いた。間髪を容容れず、今度は左胸に振り下ろした。魔女の体が魚のように跳ねた。
「許せない……! 許せない許せない許せない! 限界までいたぶってやるんだから!」
消滅の時が近付いた紗沙美には、自分が後どれだけの時間、ここに居られるかが正確にわかっていた。その最後の数秒まで、魔女を嬲ると決めていた。そうでもしないと腹の虫がおさまらなかった。
ネック、ミスジ、カタ、ソトバラ、レバー、タン。
耕すように何度も何度も包丁を突き立てる。初めのうちは魔女は痛みに体を悶えさせていたが、徐々にその力が弱まっていった。けれど、死にはしなかった。腹の中をほじくり返され、内臓をぶちまけてもなお、魔女の目から生の光が失われることはなかった。
残り八秒。
そこまでギリギリに差し掛かって、紗沙美はようやく魔女を殺す決意をした。
今までより大きく、包丁を振り上げる。残る意識の力をすべて殺意に変換する。ありったけの怨嗟を込めて、紗沙美は包丁を急所目がけて振り下ろし――。
「――――」
その物体が目に入った。
机の上、無造作に転がっているソレ。
ようやく過ちに気付いた。
やはり、自分の信念に間違いはなかった。
単に、私は――。
急ぎ、舵を切る。包丁はかろうじて心臓を避け、肺を抉るに留まった。
「どうし――て」
かすれた声で魔女は問う。
魔女にもわかっていた。この一撃を逃せば、紗沙美に次がないということを。
紗沙美はかぶりを振ってこたえた。
「私、アンタのこと嫌いじゃなかった。私やお父さんを殺したことなんて、どうでも良かったんだよ。だって、それはあなたが生きていくのに必要なことだったんだから。ただ、私は許せなかっただけ。だって、アンタは――」
時間切れだった。
続きを言葉にすることなく、紗沙美の体は宙に溶けていった。
あとは、魔女の体内に包丁が残されただけだった。
自分がなぜ殺されなかったのか。魔女にはてんでわからなかった。直前まで、確かに紗沙美は自分を殺そうとしていたのに、最後の最後に何が彼女を心変わりさせたのか。
ああ、そういえば。包丁を振り下ろす瞬間、紗沙美は何かに目を奪われていた。確か、机の上の方を見ていたように思う。
魔女はボロボロの体に鞭打って、何とか上体を起こした。血液と内臓が零れていった。
そして、机の上を見てようやく気づいた。
彼女が何に怒っていたのか。
彼女が何を憎んでいたのか。
「うふ、あはははははは!」
魔女は穴の開いた横隔膜を振るわせて笑った。激痛に苛まれたが、笑わずにはいられなかった。
手を伸ばす。
机の上に転がっているソレを手に取った。
紗沙美の頭だ。
最初の日、食いきれなくて残した肉。
紗沙美をこの世にとどまらせるために利用した媒介。
真夏の部屋に放置されたそれはとっくに腐っていて、肌は土気色になっている。
でも、だからなんだというのだ。
上位捕食者である以上、これを残すわけにはいかない。
魔女は業物包丁を手に取ると、その頭蓋に突き刺した。缶切りのように頭蓋骨を切り取っていく、あふれ出てきた腐った脳漿も舐め取って零さないようにした。
頭の蓋を取り外し、薄く張りついた髄膜を剥がすと、紗沙美の果実が姿を現した。それを千切って口に運ぶ。愛おしむように。彼女の命を尊ぶように。味わって嚥下した。
繰り返すうち、器の中が空っぽになった。
魔女は、軽くなった紗沙美を机の上に置いた。
紗沙美に向かって手を合わせ、その言葉を口にする。
「ごちそうさま」
気のせいだろう。
けれど、目の前の紗沙美が笑ってくれた気がした。もし、彼女を再びここに呼び戻せたのなら、きっと今度は友達になれる気がした。
こうして、魔女の楽しい三日間は終わりを告げた。腹の傷はすぐに癒える。彼女は再び、彼女がもっとも忌み嫌う退屈の中に埋没することだろう。
けれど、死にたいという願望はなくなっていた。
ここで死んでしまえば、今、私の体になろうとしている紗沙美への冒涜になる気がした。
まあ、あと一年くらいは生きていてやろうかな。
黒衣のドレスは、夜闇に溶けて消えていき、後にはただ、仄かな肉の腐敗臭だけが残された。
弾む声が聞こえる。クラスメイトの美雪だ。
心底、紗沙美のお肉を楽しみにしてる声音だった。
「うん、いいよ」
ならば、紗沙美が彼女のお願いを断る理由などどこにもなかった。
「じゃあじゃあ、私も!」
便乗する別の声。これは古都美だ。
古都美の表情には焦りの色が見えた。そんなに慌てなくても、お肉ならいくらでもあげるのにと紗沙美は笑った。誰かが肉を食べて破顔する様子を見るのが、紗沙美にとって至上の悦びなのだ。
「私、アレがいいな。昨日貰ったコリコリしたヤツ!」
「うん、軟骨ね。昨日の今日で好きだね。でも、もしかしたら切らしちゃってるかも」
軟骨が上下の歯に圧し潰されて弾ける感触を想像する。確かにアレは病みつきになる。
「そんなに食べたら太っちゃうよ、古都美」
美雪の注意は、このところ、古都美が毎日うちに寄ってお肉を貰っているのを見かねての発言だった。
「いくら紗沙美がお肉をタダでくれるって言っても、限度ってものがあるでしょう?」
「うっ、でも……」
古都美は名残惜しそうに指を咥えて私を見た。
「紗沙美のお肉美味しいんだもん」
血流の温度が一度上昇した気がした。そんなことを言われたら、紗沙美としては助け舟を出してあげないわけにはいかない。
「大丈夫だよ。軟骨は比較的低カロリーだしさ。それに、お父さんは私の友達が来ると嬉しそうにするから、むしろ来てくれた方がありがたいくらいだよ」
「ほら、紗沙美もこう言ってる!」
「……なら、いいけど」
美雪はつまらなそうにぷいと顔をそむけてしまった。
「そんなに気を悪くしないで、美雪ちゃん。美雪にあげるお肉、少しサービスしてあげるから。メンチが好きだったよね」
紗沙美の家は、自営の精肉店だ。
都心から少し離れた街にある、商店街の一角。そこで父と一緒に切り盛りしている。大繁盛というわけにはいかないけれど、まあ、娘が問題なく高校に通える程度には稼げている。この辺りは片田舎だから近くに大きなスーパーやチェーン店がないことが幸いしているのだろう。いつか、ここにも大手企業の魔の手が伸びてきたらと思うと、気が気でなかったが。
「じゃあ、今日の放課後は紗沙美の家に直行で! そのまま家にお邪魔するってことで」
「うん、存分に腕ふるっちゃうから」
「はっ、楽しそうな話をしてるな」
女性のモノではない低い声が割り込んできた。見れば、私の机を囲む美雪と古都美の間から、三谷澤が覗いていた。
長い前髪は片目を完全に隠してしまっている。クラスメイトは彼のことを影で一つ目の妖怪と揶揄して気味悪がっていた。事実、三谷澤は、奇癖が多い人間だった。
「肉は良いよ。柔らかな赤に刃物を突き立てる感触。そのままびぃーっと手元に引き寄せ、繊維に沿いながら切り分けられた時の達成感。おまえらも、それが好きなんだろう?」
三谷澤は紗沙美たち三人の顔を見回した。
古都美と美雪は顔を引きつらせている。嫌悪感を隠そうともしていない表情だった。三谷澤は二人の様子を見ると、過呼吸のように掠れた笑い声を唇の隙間から漏らした。
けれど、紗沙美が表情を変えないでいることに気付くと、満足げに浮かべていた邪悪な笑みはふっと消えてしまった。
「なんだ、おまえは好きなのか、肉を切るのが」
「好きっていうか……。まあ、私の場合は仕事みたいなもんだし。お父さんの手伝いで肉なんて毎日捌いてるから……ねえ」
紗沙美はあいまいな笑みを返した。三谷澤は温度のない一つ目でじっと紗沙美を見るだけだった。やがて、舌打ちとともに憎々しげに紗沙美を一瞥すると、反転して席を去った。
三谷澤が自席に……すなわち紗沙美達の会話が絶対に耳に入らない場所に帰ったのを確認してから、美雪が吐き捨てる。
「アイツマジきもいんだけど」
古都美が加勢する。
「サイコパスがかっこいいと思ってんのよ。馬鹿ね、噂じゃナイフ持ってるのバレて警察のお世話になったとか。女子をビビらせて楽しんでるようなちっさい奴のくせに」
「ビビってるんじゃなくて、引いてるんだけどね。その違いも分かってないんだわアイツ」
「自分の世界しか見えていないからね。一生友達出来ないわ」
二人の陰口は堰堰を切ったように止まらない。
けれど、紗沙美はそれに進んで混ざる気にはなれなかった。
ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ。
肉挽き機で擦りつぶされた豚肉が湿った音を上げている。投入口から機械の中に落ちていったいくつかの肉塊は、ハチの巣のような無数の出口から這い出てきたときには十匹程度の太い蚯蚓蚯蚓のようなものに変貌していた。同じ作業をもう一度行い、完膚なきまでに擦りつぶす。
古都美と美雪は肉を挽いている間、何とも言えない表情をしていた。理由を聞くと、肉を挽く音が嫌いだという。
よくわからなかった。紗沙美にとってはあまりに聞き慣れた生活音だった。
そこからは二人に手伝ってもらい、メンチコロッケと鳥の軟骨揚げを作った。
「はーい、お待たせー!」
皿に盛り付けられた肉料理を手に、一足早く食卓に着いている二人の下へ紗沙美は向かう。
「あー、超お腹減ったし!」
皿が目の前に置かれるやいなや、古都美は箸を手に取って唐揚げをつまんだ。
「古都美」
きっと睨みつけて紗沙美は制止する。
古都美はわけがわからないと言った様子で静止した。本人にとって悪気はないのだろうが、それは紗沙美にとっては許しがたい暴挙だった。
「ご飯を食べる前は『いただきます』でしょ」
「え~、ああ……マジ?」
古都美は苦々しげに口元を開いた。
「マジに決まってる。命を食べるわけなんだから、せめて礼は尽くさないと」
「いや、んなの幼稚園じゃないんだから……」
「じゃあ、全部引き上げるよ」
「古都美、諦めなよ。紗沙美ちゃんはお肉屋さんの娘だからそういうの人一倍敏感なのよ。それに、そもそもあなたがマナー違反なのだし」
「……わかったよ。やりゃーいいんでしょやりゃー。いただきます」
古都美は投げやりな態度で手を合わせた。その態度は気に入らなくはあったが、まあ、形だけは礼を尽くしているということで見逃してやることにした。
友達とおしゃべりしながら食べる夕飯はいつもよりおいしく感じた。
「じゃ、私皿洗ってるね」
一足早くご飯を食べ終えた古都美が食器を持って席を立とうとする。
「古都美」
呆れながら再び彼女を止める。ほんの三十分ほど前に言われたことを、この子は覚えていないらしい。
「ごちそうさまは?」
「……うっそでしょ、お母さんか何かか」
一瞬だけ彼女は抵抗して見せたが、すぐに折れて「ごちそうさま」と口にした。
「お邪魔しましたー!」
午後七時前。店の前で、古都美と美雪を見送る。店内ではカウンター越しだが紗沙美の父も緩やかに手を振って二人を見送っていた。
「店番してくれてありがとう、お父さん」
「何言ってやがる、俺の店だぜ。店主が店番するのは当たり前だろ」
言いながら父は手を突き上げて伸びをした。
「でも、今日の夕方は私が店番のはずだったから……」
「気にすんな、そんなこと。店番なんぞより、友達と遊ぶ方がずっと大事だ。……っと」
父は、何かを探すように胸や腰回りをはたいた。
「ったく。ヤニが切れちまった。娘よ、父に店番させたことを気にしているなら、俺がコンビニ行ってる間、店番していてくれないか」
「いいよ」
父からシミのついたエプロンを受け取ると、カウンター裏の椅子に腰かけた。座面に残っていた父の体温を感じ、少し気持ち悪く思ってしまった。父のことが嫌いなわけではないのだが、こういう嫌悪感は思春期を過ぎたら避けられないものなのだろうか。
ガラス張りのドア越しに父の姿を見送った。あと一時間は返ってこないだろう。最寄りのコンビニは少し歩いたところにある上、父は大体雑誌の立ち読みやらなんやらしてから帰ってくるのだ。
店番、なんて言っても七時を過ぎてしまえば客足はほとんど途絶える。閉店時間までのあと一時間弱、欠伸でもしながら過ごすことになるだろうと紗沙美は考えた。
のはずが……。
引き戸の開けられる音がした。
「ん、いらっしゃいま……せ?」
入ってきたお客さんは意外な人物だった。
「あら、三谷澤くんじゃない」
「…………」
三谷澤は紗沙美の呼びかけが聞こえていないかのように出入り口に立っている。戸は開けっ放しだから、冷房で冷やされた空気がどんどん外に逃げて行ってしまう。入れ替わりに入ってくるむわっとした熱気は、七月序盤の夜とは思えないほどに暑い。
「戸、閉めてくれる?」
「…………」
やはり、三谷澤は答えない。この様子では、何度お願いしても無駄だろうと紗沙美は察し、さっさと用向きを済まさせてご退店いただく方針に切り替えた。
「お肉買いに来たの? それともお惣菜? 言ってくれればすぐ用意しますよ」
「…………そうだなあ」
もったいつけるような沈黙の後、三谷澤はようやく縫い付けられていた口の紐を解いた。
「肉。肉だな。新鮮な肉がいい」
言って、紗沙美の方へ歩み寄ってくる。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、肩を揺らしながら。
カウンターの前まで来た。
「新鮮……なんて言われてもうちのはぜーんぶ新鮮なんだけど」
三谷澤は伏目がちにガラスケースの中の肉肉を睥睨して、かぶりを振った。
「ダメダメダメ。どれもこれも鮮度が足りねえ。もっと生き生きしてるのがいい。例えば……」
三谷澤はポケットから素早く何かを取り出し、紗沙美の前に突き出した。
「おまえの肉とかな!」
見下ろす。
紗沙美の眼下では、バタフライナイフが展開されていた。三谷澤はまるで強盗でもするかのような態勢で、カウンターに半身を乗せていた。
「へっ」
バタフライナイフは威嚇するようにぐるぐると踊りだす。グリップとブレードが目まぐるしく入れ替わる様子はまるで手品のようだった。
なんとも微笑ましい光景だ。
「おまえ、なんだよ、そのニヤケ面は」
「え、ああ」
つい、顔に出てしまっていたらしい。
「男の子って、そういうの好きだよねって。ちょっと待ってて」
紗沙美は店の奥に引っ込んだ。後ろから三谷澤が何か言っていたが気にしない。
そして、目的のモノを手に、すぐにカウンターまで戻った。
三谷澤は泡を食ったような顔で私を迎えた。
紗沙美は自慢するように、両手に持ったそれを見せびらかした。というより、実際ちょっと自慢に思っていた。
「じゃん、業物包丁だよ。日本刀包丁ともいうらしいんだけど……。刀とか剣とか好きだよね、男子」
それは刃渡りが二十センチ程度の一見普通の包丁だった。
しかし、よく見れば刀身に『夜切』という漢字と見事な桜の意匠が彫られている。なるほど、高価な業物であることは疑う余地もない。
対して、三谷澤の手にあるバタフライナイフはせいぜい刃渡り八センチ程度の小ぶりの安物であった。
三谷澤は途端に自分の持っていたものが子供だましの玩具にしか見えなくなり、恥ずかしく思った。けれど、それを気取られるのは悔しかったから、格好をつけてひゅんひゅんとグリップとブレードを回しながらポケットの中にしまった。
「本当につまらん女だな。ナイフ突きつけられてもケロッとしてるとは」
「え、どういうこと?」
紗沙美にとって、肉を切る凶器は日常の一部だった。たとえそれがバタフライナイフであっても変わらない。そのあたりは、常人に備わっている刃物に対する危機意識が欠落してしまっていると言えた。きっと、町中で本物の強盗にナイフをあてがわれても、どこ吹く風といった顔をするのだろう。
三谷澤は相手にするのも馬鹿らしくなって、紗沙美に背中を向けた。
「ちょ……三谷澤くん、お肉は……?」
「いらん」
出口に向かって歩く。開けっ放しの戸から半歩踏み出したところで、紗沙美の声が背後から飛んできた。
「待ってよ。私、三谷澤くんと話したいことがあるの」
「話ぃ?」
体は外に向けたまま、首だけを駆動させて三谷澤は振り返る。胡乱な一つ目が紗沙美を捉えた。
「あの……三谷澤くん、お肉切るの好きって言ってたよね?」
「それが?」
「だったら、お肉、切っていかない?」
「はあ?」
言葉の意味が分からず、三谷澤は挑発的な疑問符を返した。
「おまえ、何言ってんの」
「だから、お肉。切らせてあげるってば。見てのとおり、うちはお肉屋さんだから」
「あほらし」
実のところ。別に三谷澤は肉を切ることが好きなわけではない。
いや、そもそも彼の十七年の人生において、肉を切ったことなど数えるほどしかない。ポケットのバタフライナイフに至っては、手慰みや威嚇のために振り回す以外に使ったことがない。昼間、肉を切るのが好きだと言ったのは、女子連中の怖がる顔が見たかったのと、常軌を逸した発言をすると格好よく見えると思ったからだった。肉を切らせてくれるだと? 要は体のいい手伝いではないか。
紗沙美の誘いにはわずかも魅力を感じなかった。
「これ、使わせてあげるから」
紗沙美が手の中の業物を掲げ、そう引き留めるまでは。
三谷澤は制止した。
その刃物は、彼の少年心をくすぐった。三谷澤の人生において、あれほど高価そうな刃物は持ったことがない。しかも、曲がりなりにも業物や刀の名を冠するものだ。それを使わせてくれるという。それは、三徳包丁で店の手伝いをさせられるのとはわけが違った。
三谷澤はワクワクしてきている胸中を悟られないよう、ため息をついて見せた。
「しかたねえ。少しだけな」
そんな負け惜しみみたいな言葉を受けて、なぜか紗沙美はぱっと笑顔を輝かせた。
三谷澤はカウンターの奥にある調理台に案内された。
「お肉持ってくるから待ってて」
「待て」
どこかに消えようとする紗沙美を三谷澤は引き留めた。
「それ置いてけ」
紗沙美の持っているモノを指差す。件の業物包丁だった。
紗沙美はくすっと笑って包丁を三谷澤に手渡すと、今度こそどこかに消えた。紗沙美がいない間、三谷澤は包丁に色々な角度から光を当ててその輝きを楽しんだ。
しばらくして紗沙美は二十センチ程度の肌色の塊を持ってきた。
「鶏肉持ってきた」
言って、まな板の上に置いた。
三谷澤はそれを軽蔑するような眼つきで見下すと、つまらんと吐き捨てた。
「どうせならもっと大物持ってこんかい。牛だ、牛」
「でも……初めて包丁使うならこれくらいの大きさの方が……」
「やかましい。言っただろ。俺は肉を切るのが好きなんだって。だから、切る肉にもこだわりがあるのさ」
「……わかった」
紗沙美は鶏肉を引き下げ、再びどこかに消えていった。
今度は、先ほどより戻ってくるまで時間がかかったが、そのかわり、三谷澤が満足するものを持って帰ってきた。
彼の頭より二回りは大きい肉塊である。紗沙美の細い腕では持ち運ぶことにすら難儀するようなシロモノだった。よいしょ、という掛け声とともに紗沙美が肉をまな板の上に置くと、その重さで少しまな板が動いた。
「こいつは牛か?」
「そのとおり。よくわかったね」
もちろん、三谷澤に肉の目利きなどできない。ただ、大きい肉=牛という安直な発想に基づいた言葉だった。
牛か。それもこれほどの大きさであれば、相手にとって不足はない。
三谷澤はまるで鬼と立ち会う侍のような心持で、肉の塊を包丁で切りつけた。
しかし、まるで歯が立たない。三谷澤の想定では、肉はチーズを裂くように両断されるはずだったのだが、実際は細い傷を走らせるだけである。それは何度やっても変わらなかった。
「なんだ、このなまくら」
思っていたよりもつまらなくて、三谷澤は包丁をまな板の上に放った。
「ちょっと! 粗末に扱わないでよ!」
「知らんわ、そんな役立たず」
「三谷澤くんの使い方が悪いだけだわ」
紗沙美は包丁を手に取った。
「よく見ててね」
紗沙美は刃を肉にあてがう。
すると、先ほどまでは恐ろしい硬さを誇っていたはずの肉に、すぅと刀身が吸い込まれていった。それこそ、当初三谷澤が思い描いたように、肉をすらすらと裂いていく。
あまりの手際の良さに、三谷澤は悪態をつくことすら忘れて見惚れてしまう。
業物包丁を自由自在に操る紗沙美の姿は、彼の目には女剣士のように格好良く見えたのである。
「ね?」
紗沙美は得意げに笑って見せた。もはや返す言葉も見つからない。なんだかこそばゆかったのと、彼女が眩しく見えたのとで、顔を伏せてしまった。
「ところで、三谷澤くん。好きな肉料理って何?」
「肉料理?」
三谷澤はおずおずと紗沙美を見た。どうにも彼女は三谷澤が持っていないものをことごとく有しているように思えた。だから、これ以上、格好をつけたところで見透かされてしまう気がした。
「ハンバーグ」
子供っぽくて口にするのははばかられたが、それはまごうことなき三谷澤の好物だった。
「ハンバーグ……。うちに来て揚げ物をチョイスしないとは。なかなか空気が読めない感じですが、ま、請け負いましょう」
せっかく肉を切ったのだから食べていってほしい。
そう紗沙美から提案された三谷澤はおとなしくその話を受けることにした。というのも、紗沙美を脅かすために放課後からずっと肉屋の前に張って彼女が一人になるのを待っていたものだから、空腹で仕方なかったのである。
「はい、どうぞ」
紗沙美が皿を持ってくる。先ほど紗沙美が切った肉が、茶色い塊に形を変えて乗せられていた。傍らには仄かに緑黄色野菜が添えられている。
「へえ、悪くないじゃん」
三谷澤は用意されていたフォークとナイフでハンバーグを切り取りにかかった。
「三谷澤くん」
それを静謐な声が引き留める。
「いただきますは?」
「ああ?」
三谷澤は手の動きを止めた。ああ、確かに食前の挨拶を忘れていた。というより、そういうものをする習慣が三谷澤にはなかった。
「知らんわ、そんなもん」
紗沙美の注意が正しいのはわかっていたが、素直に従う気にはなれなかった。ハンバーグを前に両手を合わせていただきます、なんてあまりにも子供じみた所作だし、これ以上紗沙美に屈するのも悔しかった。
三谷澤が再びナイフを動かす。すると、その瞬間、ハンバーグが高速で後退した。紗沙美が皿ごと引き上げてしまったのである。
「言わないなら、食べさせないから」
その声は、信じられないほど冷酷だった。
「なんでだ。あんな挨拶意味ないだろ。そんなに固執する理由を説明しろよ」
三谷澤は自分の論理の脆さを自覚していたが、何か返さなくては気がすまなかった。こんな反論、「日本では食前に『いただきます』というのが常識だ」と言われてしまえば、それで終わりだ。
けれど、紗沙美の回答は三谷澤が想定したものとはまるで違った。
「だって、かわいそうじゃない」
先ほど、温度のない声で自分を制したのと同一人物とは思えないほどにか細く弱弱しい声だった。
「私達は肉を食べないと生きていけない。鳥も豚も牛も、殺したくなんてないけど、殺さないと生きていけない。だったら、せめて感謝くらいしないと動物たちが報われないじゃない」
「なんだ、その綺麗ごとは。自己満足もいいとこだ」
「自己満足なんかじゃない。その気持ちは、きっと相手に届くわ」
三谷澤を見つめる紗沙美の目は力強かった。けれど、睨むというのとも違う。ただ純粋に、自分の想いが伝わってほしいという真摯さだけがほとばしる目だった。三谷澤は引き下げられたハンバーグを……それが生きていた頃の姿を想像した。
どうやらこの女は、本気でその牛をかわいそうと思い、その犠牲に感謝する思いは相手に届くと思っているらしい。
「おまえさ……」
「なに?」
「いいかーちゃんになりそうだな」
三谷澤には母がいなかった。
彼が幼い頃に事故で他界してからは、父親の男手ひとつで育てられた。故に三谷澤は母というものを知らない。ただ、知識として食事を用意してくれたり、口やかましく注意してきたりする存在だとは知っていた。だから、紗沙美の今の姿に、母親の幻想を見たのだった。
三谷澤は手を合わせた。
「いただきます」
紗沙美は微笑んで、皿を彼の前に戻した。その笑みを見て、やはり母親っぽいと三谷澤は思うのだった。
「おまえさ、何で俺に肉切らせたの」
ハンバーグを口に運びながら三谷澤は問うた。
紗沙美はその小さな口でも一口で食べられるほどの大きさに肉を切り分けながら答えた。
「その質問に答える前に一つだけ教えて」
「なんだ」
「三谷澤くんさ、肉切るの好きじゃないよね」
「…………」
「見ればわかるよ。あの切り方、肉を切るのが好きというよりは、刃物を持つのが好きって感じだもん」
「だったらなんだよ」
「私、高校卒業したら専門学校行くんだ。それもただの専門学校じゃなくて、食肉の専門学校。全国に数校しかないんだけどね」
「それで?」
それまで強気だった紗沙美が黙ってしまった。沈黙を誤魔化すように肉のカケラを口に運んだり、コップのジュースに口を付けたりしている。だが、やがて意を決したように話しだした。
「ちょっと寂しいなって」
「……寂しい?」
「みんなは近場の大学に行くじゃない。就職するにしたって地元が多いし。でも、私が行く専門学校、ここからすごく遠いんだ。全寮制で夏休みと冬休みくらいしか帰ってこれないの。一人で行くのちょっと怖くて」
紗沙美は寂しげに笑った。
「だから、三谷澤くんがお肉切るの好きなら道連れにしちゃおうかなって。お肉切るの楽しいなら、一緒にこっちおいでって。あはは、馬鹿だよね」
三谷澤は笑うことができなかった。
紗沙美の胸の中の失意を思うと笑えなかった。三谷澤は自分がクラスで変わり者扱いされ、嫌われていることを自覚している。進んで自分に関わろうとする者なんていないことをわかっている。けれど、目の前の少女は、そんな無価値な自分にすら声をかけなくてはならないほど逼迫しているのだと思うと笑うに笑えなかった。
三谷澤は、紗沙美の話す専門学校のこと、そこに自分が通う姿を夢想してみた。それは、そんなに悪いことではないように思えた。三谷澤は勉強が苦手だ。将来やりたい仕事もない。来年、高校を卒業したらどうするかということからは目を背けて生きてきた。言ってしまえば、自分の将来などどうでもよかったのである。もし、そんな自分の未来を差し出すことで誰かの支えになれるのであれば、それはとても素晴らしいことに思えたし、それ自体が自分自身の人生の転機にもなる気がした。つまり、気持ちの上では一緒に専門学校に行ってもよかったのである。
だが、ひとつ、由々しき問題が鎌首をもたげていることは、三谷澤には予測がついていた。
「学費、いくらかかんの」
「……年間で百八十万くらい」
三谷澤の想定よりもはるかに高い金額だった。
無理だ。
うちにそんな貯蓄はない。
逆説的な話になるが、もしうちにそれだけの貯蓄があれば、自分はこんなにも無気力な毎日を過ごしていない。金がないから夢を見る権利がない。そう思ってドロップアウトしたのだから。
三谷澤の沈黙の意味を理解した紗沙美は、やはり先ほどと同じ影のある笑顔を作った。
「ありがとね。こんな突拍子もない話、聞いてくれただけで嬉しいよ。三谷澤くん、意外といい人だ」
「……意外とは余計だろ」
一緒に行ってやると言いたかった。紗沙美に対して特別な感情を抱いているわけではない。けれど、紗沙美の誘いは、目標もなくだらだらと彷徨っていた洞窟に射しこんだ微かな明かりに思えた。だが、立ちはだかる数字は絶対的で、三谷澤の口を噤ませてしまう。
これ以上、ここに居ても気まずいし、辛いだけだ。
三谷澤は席を立ち、口を噤んだまま帰ろうとした。
「三谷澤くん」
背中から声が追いかけてきた。専門学校のこと、食い下がるつもりだろうか。申し訳ないが、自分にはどうしようも……。
「ごちそうさまは?」
時刻はもう夜の零時に差し掛かろうとしていた。
少し夜更かししすぎた。二階の自室で後悔しながら、紗沙美は布団に入った。
「あ」
電気を消そうとして気付く。
机の上に置かれた木箱に。中には三谷澤に使わせた業物包丁が入っている。
彼とのつながりが名残惜しくて、部屋まで持ってきてしまっていたのだ。
まあ、明日片せばいいだろう。
目を閉じると、睡魔はあっという間に襲ってきた。微睡にさらわれながら、明日のことを考える。
紗沙美はまた三谷澤と話がしたいと思っていた。
今日、初めてまともに話してみて思ったのが、彼はクラス内での評判ほど悪い人ではない。紗沙美の相談にも、それに応えられるかどうかは別にしても、親身になって考え込んでくれていたと思う。孤独な自分の将来について、一緒に考えてくれる人がいるというだけで、少し救われる気がした。
それに、もしかしたら……本当に一緒に専門学校に入ってくれるかもしれないし。
会話した際の感触では、三谷澤自身、専門学校に行くこと自体はそう嫌がっていないように……いや、むしろ行きたがっているような印象を受けた。
お金の問題さえ解決できれば、だが。親に頼み込むなり、奨学金制度を使うなりして、工面してくれないだろうか。
そんな自分勝手な妄想は、徐々に輪郭がぼやけていく。やがて夢うつつに意識が消失しかけたところで――。
全身が総毛立つ感覚に襲われた。
たまらず布団をはねのけて飛び起きる。
「はっ、は……はぁ」
なんだこれは。
突然息が苦しくなった。まるで空気が鉛のように重い。懸命に呼吸しても、酸素がまるで足りない。頭の回転が鈍っていく。
悪寒が背筋を駆け抜けていった。
――何かが来た。
一階から不吉な気配を感じた。それは、霊感の類が特段鋭いわけでもない紗沙美にすら感じ取れるほどに薄気味悪いモノだった。
居ても立ってもいられなくなって、紗沙美は業物包丁が入った木箱を手に取ると、同じ階の父の部屋へ向かった。武器を持っていれば、心強い気がした。
怖かった。
酷く嫌な予感がした。走る寒気が紗沙美の肩を震わせる。
父の寝室に着いた。ノックもしないでドアを開け、転がり込んだ。乱暴とはわかっていたが、怒られてもいいから一瞬でも早く誰かと居たかった。
「紗沙美!」
硬い肉にぶつかった。
父だった。どうやら父も、ちょうどドアを開けようとしていたらしい。手には金属バットが握られている。
「お父さん!」
紗沙美はぶつかった勢いのまま父の腰に抱きついた。筋肉質な体と熱い体温が頼もしい。夕べ、少し気持ち悪いなんて思ったことを心の中で謝った。
「おまえは部屋にいろ」
父は大きな手で紗沙美の頭を叩くようにして撫でると、部屋の外に向かおうとした。
「行かないで、お父さん。怖いの」
紗沙美は腕に力を込めた。
それはもはや抱きついているというより、縋り付いていると言った方が正しかった。
「大丈夫だ、紗沙美」
見下ろす父の表情は優しかった。
父は、私を守るために一階のナニカに立ち向かおうとしている。絶対に行かせてはならないと紗沙美は直感していた。
「ダメだよ。ダメッたらダメなんだから」
しかし、父を引き留めるのに理屈の方が追い付かない。ただの駄々っ子のようにわがままを言うことしかできない。
「父さんに任せておけ。おまえはここに隠れていろ」
結局、父を止めることはできなかった。
部屋を出ていく直前、煙草をくわえる父の手が震えているのがわかった。父だって怖いのだ。それがわかっても、紗沙美は何もできなかった。
ドア越しに、耳をそばだてる。
だん、だん、だん。
階段を降りる大きな足音。
父のモノだ。
相手を威圧するような意図が感じられた。
だん、だん、だん、だん。
数えるに十二。二階から一階に降りる階段の段数と同じになった。父が、一階に降りたことを意味している。
しばしの沈黙。
もしかしたら、階下のナニカと話でもしているのかもしれないが、二階の紗沙美には届かない。何が起きているかわからないという不安は、紗沙美の心臓の鼓動を早鐘のように激しくした。何もしていない紗沙美の方が、緊張でどうにかなってしまいそうだった。
はっ、はっ、はっ。
全神経を耳に集中させ、少しでも状況を把握しようとする。自分の呼吸の音すらうるさかった。
やにわに巨大な物音がして、紗沙美は小さな悲鳴とともに体を跳ねさせた。
鍋を思い切り叩きつけたような金属音。父が金属バットを振るっている様子が連想された。
二回、三回、四回。
むちゃくちゃなシンバルのように金属の打ち合う音は鳴り響く。
バン。
異質な音がして、下手くそな演奏は終わりを迎えた。
例えるなら、巨大なゴムを思い切り弾いたような音。紗沙美にとって聞き慣れない音だったため、正体は判然としない。
だが、続けて聞こえた、ごとり、という音が何かはよく分かった。
肉が転がるないし打ち付けられる音だったから。
音が途絶える。
一階は死んでしまったかのように静かになった。
死……。
考えたくもなかった。
父が生きている証拠をつかみたくて、紗沙美は再び耳をそばだてた。胸の前で握る木箱が、汗でじっとりと湿っていく。
しばらくは何も聞こえなかった。
だが、やがて。
――ぴちゃ、じゅる、ぐちゅ、じゅちゃ。
湿った音が紗沙美の耳に届けられた。紗沙美にはそれが何なのかわかった。鼓膜を微かに振るわせるそれが何なのかわかってしまった。
肉に顔をうずめ、噛み千切る音。きっと血を啜る音。
父が。父が。父が。父が。
父が、ナニカを撃退して、ごちそうでも食べているのだろうか。頑張った自分へのご褒美として、冷凍庫から生肉を持ってきて、かぶりついているのだろうか。
紗沙美はどうにか自分にとって都合のいい方向へ、音の正体を見つけようとした。だが、あまりに無茶なこじつけだった。
答えは、あまりに単純明快だった。
父が喰われている。
「ひっ」
導き出された結論に耐え切れなくなって、父の部屋のクローゼットの中に逃げ込んだ。隙間ができないようぴっちりと戸を閉めると、完全な暗闇が紗沙美を包んだ。知覚できるのは、防虫剤が放つ花の香りだけである。それでも、その暗黒が防護壁になってくれる気がした。闇に紛れてしまえば、ナニカが私を発見できないのではないかと、益体も無いことを考えた。
――ぎっ、ぎっ、ぎっ。
音がしたわけではない。
クローゼットの中にいる紗沙美に、部屋の外の音など届くはずがない。ましてや何者かが階段を上ってくる音なんて。
なのに、紗沙美は直感した。
それは虫の知らせや第六感によるものかもしれなかった。そして、その足音が、どう聞いても父のものでないことが分かった。大の大人にしては、軽すぎる音だった。
ドアの開く音。
途端、波紋のような悪寒が私を飲み込んだ。
部屋の温度が急速に下がっていく。まるで極寒の海に放り込まれたような冷たさと暗さ。歯がカタカタと鳴るのを止められない。
紗沙美は手で口を塞いだ。そうでもしないと叫びだしてしまいそうだった。
ここには誰もいません。何もありません。だから、早く帰ってください。
祈ったことのない神に祈った。
一秒が永遠のごとく長く感じられた。重圧に耐えきれず、髪が全て白くなってしまうのではないかと思った。胸の悪いものが渦巻いて苦しくて、吐いてしまいそうだ。
そこで紗沙美は手に持っている木箱の存在を思い出した。
そうだ、自分には武器がある。震える指先で木箱の側面をカリカリとひっかいた。
上手く開けられなかったのだ。何度目かの挑戦でやっと、蓋を外すことに成功する。が、手元が狂い、蓋が手から滑り落ちてしまった。
――からん。
渇いた空虚な音。もし、それが日常の一コマで発生した音ならば、きっと他の音に掻き消されてしまったことだろう。けれど、この暗黒においては、もはや冒涜めいた騒音と化して、静謐を切り裂いていった。
体感では一時間くらいだと思った。けれど、常識的に考えれば、せいぜい一分くらいのものだろう。
クローゼットの戸が、ナニカに開けられるまでにかかった時間は。
ゆっくりと動く戸を、差し込む光を、絶望の眼差しで眺める。
向こうから人影が現れる。青い光を受けたナニカは言葉を発した。
「こんばんは、お肉屋さん」
長い髪に、ドレスのような服。
微笑む顔はこの世のものとは思えないほど魅力的で、人間離れして美しい。しかし、少しだって安堵することはできなかった。その美貌は、美しすぎるが故に、ナニカが異形であることを何より如実に体現している。
「あ、は――はぁ」
あなたは誰。お父さんをどうしたの。何が目的なの。聞きたいことはたくさんあった。けれど、そのすべてが呼吸音に挿げ替えられてしまう。心へかかる過負荷で、頭が破裂してしまうのではないかと思った。
「大丈夫。わかっているから」
女性のカタチをしたナニカは微笑みかけた。その笑みをパーツごとに解体して見れば「柔和」と評価されるべきだろう。なのに、どうしてか紗沙美の不安を掻き立てて仕方がない。本能的に理解しているからだ。目の前の相手が、人間より上位の存在であることを。
「私は魔女。ここには食事に来たんだ。って、言わなくてもわかるか。お肉屋に来る理由なんて、それしかないものね」
「ま、じょ……」
かすれた声を絞り出す。それが精いっぱいだった。
「そう、魔女。主食は人間の絶望。副食は人の精。あなたのお父さんはさっきおいしくいただいたわ。ごちそうさまね」
言って、魔女を名乗る女は唇を舐めた。
あの小さな口で、父を食ったのか。
あの華奢な体の中に父がいるのか。そう思った途端、恐怖で全身が弛緩してしまった。包丁が手から零れ落ち、涙が頬を伝う。ショーツに生暖かいものが広がっていくのがわかった。失禁すら抑えられなかった。
黄色い液体がクローゼットの床から部屋の床へと伝い、広がっていく。それを見下ろしていた魔女の顔は紅を差した。嗜虐性が前面に表れた、毒々しい赤だった。
「そんなに怖いの。かわいいわね、あなた」
魔女が一歩踏み込んでくる。
ブーツが尿の海に侵入し、波を立てた。
手を伸ばし、紗沙美の顎を固定する。逃げられないように。
宝石のような目が私を覗き込んだ。魔女のそれが淡い碧色を帯びていく。
その瞬間、紗沙美は自身が彼女の虜になってしまったことが分かった。
その眼光は紗沙美の人格を蹂躙する。紗沙美の尊厳を踏みにじる。自分の意識が、彼女の意識に犯され、塗り潰されていく。自分というものが曖昧になっていく。
トドメに、魔女は紗沙美に口づけを施そうとした。近づいてくる赤く曲がった唇は、この世のものとは思えないほどに妖艶で、そしておぞましい。
その唇が、私の唇の上に重ねられる。
自身の意思とは関係なく、紗沙美は口を開いてそれを受け入れた。ねばねばとした液体が流し込まれてくる。生臭いそれを私は次々と嚥下していった。溺れそうなほどにおびただしい量だった。
――ダメだ、これは。
飲むほどに意識が潰されていく。染みていくほどに自由を奪っていく。この唾液は、紗沙美を犯していく。
わかっているのに、抗うことができない。紗沙美の体はすでに彼女の支配下にはなく、魔女の操り人形と化していた。
「ふ……ぅ……ふ……」
許されたのはせいぜい呻くことだけ。座っているにもかかわらず、足ががくがくと震えだした。
――まず、い。
蛇のような舌が絡みついてくる。紗沙美の舌の表面を這い、時に絞めつけ、時に舌の根までも撫でまわす。
この時点で、紗沙美は自分の生を諦めていた。
体に自由はなく、都合よく助けが現れるはずもなく。
蜘蛛の巣に捕らえられた蝶が如く、捕食されるのを待つ身。
命のこと、諦めたくはなかったが、もはや諦めざるを得ない状況だった。
だから、この「まずい」というのは終わりゆく自らの生命に対するものではない。諦めたものに対して、抱く焦りではない。
紗沙美がまずいと思ったのは、自身の命についてではなく、自身の心についてだった。
魔女と深く絡み合って理解した。
この魔女が使う魔法。
こいつは、心を塗り潰す。
私の心にある私の本来の感情。
父を殺されたことへの怒り、恨み。自らの生命が絶えることへの悲しみと恐怖。女に口づけされていることへの嫌悪。
そういう生の感情を、この女の魔法は塗り潰す。
紗沙美の心から自分の意思は完全に失われた。
細い糸を引きながら、唇が離れていくのを、紗沙美は焦点の合わない瞳で見送った。
「いい? あなたは今から私の玩具だからね」
「……はい」
返す声に意思はない。
それを聞き遂げて、魔女は満足げな表情を浮かべた。
魔女は自分のスカートの両端をつまむと、そのままたくし上げた。白のレースで飾られた黒の下着が露になる。それは、下着として用を成さないくらいに液体を滴らせていた。
「わかる? あなたの可愛い姿を見ていたらこうなってしまったのよ。だから、責任を取りなさい」
魔女の隷属と化した紗沙美には、次に来る言葉が自身への命令だと察することができた。
「あなたを食べさせなさい」
言葉が脳に響く。
心を介さず直接脳へ。故に命令の内容を吟味することなく、紗沙美はそれに従った。
「はい、わかりました」
紗沙美はためらうことなく、落ちていた包丁を拾うと空いている手の指を切り付けた。灼熱のような痛みとともに、人差し指の第三関節から先が果実のごとく落ちていった。
「えっ」
驚きの声をあげたのは魔女の方だった。
たくし上げられていたスカートがはらりと落ちていった。
生まれてから今日まで、紗沙美はこれほどまでに強烈な痛みを感じたことはなかった。けれど、精神を操作されてしまっていて声ひとつあげられない。紗沙美は落ちた指を拾うと、巧みな包丁さばきで丁寧に骨から肉を削ぎ落し、魔女へ差し出した。
「どうぞ」
一連の様子を魔女は茫然と眺めていた。
魔女は、そのような残虐な命令をした覚えがなかった。
紗沙美の父の絶望を喰らった彼女は、言ってしまえばもう食事の必要はなかった。ただ、失禁した紗沙美の姿に欲情したから、少し弄ぼうと思っただけだった。その後で洗脳の魔法を解いて帰ろうと思っていた。魔女にしては珍しく、命を取ろうとは少しも思っていなかったのだ。
なのに、なぜ。こんな自傷行為を。
いくつもの疑問符が浮かび上がった果てに、自分の命令の内容と、彼女の職業が結びつく。
――あなたを食べさせなさい。
「あ……あはは、あははははは」
そうか。
そんな認識の齟齬が。こんなケースは百年生きてきて初めて見た。
魔女と紗沙美では、『食べる』の認識が根本から違ったのだ。
かたや放蕩に身を任せる魔性。かたや肉屋の看板娘。
それぞれの生い立ちを考えれば、『食べる』の意味を全く違うように認識したとしても、無理からぬことだった。
魔女は差し出された肉をしげしげと眺めた。
魔女に食人の嗜好はない。さきほど紗沙美が父を食っていると勘違いした音は、真実、洗脳された父が、魔女に弄ばれる音であった。結局父を殺しはしたが、肉体を食らうことはしていない。魔女が喰らう『絶望』とは、言ってみれば精神的な食べ物なのだ。娘を守れず、弄ばれ、絶望して死に行く父親の姿が、魔女の腹を満たしたのだ。
けれど、だからと言って、スライスされた指肉を無下に扱うことも憚られた。魔女はここ数十年、自分の人生を退屈に思っていたからだ。
特に目標もなく、ただ徒に人の生と性を啜るだけ。性交も人殺しも、百年繰り返せば飽きる。これがあと何百年も続くのだと思うと、それこそ、死んでしまいたいと思うほどだった。
けれど、ここに来て奇特な人間に出会った。百年生きてきたが、こんな勘違いをする人間は初めてだ。これをすげなく断れば、自分はまた退屈に戻ってしまうのではないか。そう思うと、うすら寒ささえ感じた。
「じゃ、いただくわね」
親指と人差し指で、紗沙美の手のひらから肉をつまみ上げた。ぽとぽとと赤い雫が垂れる。口に入れると、垂れる赤が口紅のように唇を彩った。
肉の味が口いっぱいに広がる。
思ったよりも美味しい。噛み締めるほどに少女の指がバラバラに千切れ、擦りつぶされていく。自分の体が分解されて取り込まれていくのを、目の前の少女はそれとわからず眺めている。そこに、魔女好みの背徳の味を覚えた。
ぺろりと指肉を平らげた魔女は舌なめずりしながら言った。
「もう一ついただける?」
「はい」
紗沙美はためらうことなく、今度は中指に包丁を走らせた。
「ぐ……ぷ」
仰向けになった紗沙美が喀血すると、噴き出した赤が顔を染めた。
包丁を握る右腕がごとりと音を立てて床に倒れた。
そこが限界だった。
左肩から右わき腹にかけてを紗沙美は失っていた。
すべて、自分で捌き、魔女に献上したのだ。
魔女の洗脳は、紗沙美の肉体を限界を超えて駆動させた。とっくに動けなくなっているはずの重傷を負ってもなお、紗沙美の体は活動を許された。とはいえ、それもここが行き止まりだった。もはや呼吸をすることすらままならない。
視界は黒に潰され何も映していない。無痛となった痛覚は、身体が生を諦めた表れに他ならない。あと数秒で絶命すると紗沙美は理解した。
半分以下の大きさになった少女を、魔女は見下ろし、感嘆していた。
いかに洗脳の魔法を施したとはいえ、肺を片方失い、脊髄をむき出しにしてなお動こうとする人間はいない。この少女は、食肉に対して並々ならぬ執念を燃やしていることがわかった。
あとは私が引き継ごう。
魔女は、骸になりかけている少女の首筋を貪った。
歯が立てられ、ずぶずぶと深くまで刺さっていく。
そして、肉と血管を歯の間に挟んだまま、ゆっくりと口を引き離した。
ぶちぶちぶちぶちと小気味のいい音を立てながら、紗沙美の肉が剥がれていく。鮮血が吹きあがって、魔女の顔を彩った。くちゃくちゃと紗沙美の肉を咀嚼する魔女の顔には苦悶の色が張り付いている。もう満腹だった。いかに自分が人外の存在とはいえ、そもそも魔女は人肉を食らう種族ではない。人間の半分も食べてしまっては、それ以上を胃に収めることは難しかった。
それでも魔女は食べることをやめなかった。この饗宴を一秒でも長く続けたかった。腹が苦しくなって、気持ち悪くなっても止まらなかった。それは少女への敬意を表しての行動であり、また退屈からの逃走でもあった。無理に口を動かすことは辛くはあったが、楽しかったのだった。
だが、ついに果てを迎えた。
紗沙美の首から上以外を食らい尽くしたところで、もう一口だって口をつけることができなくなってしまった。
座っていることすら辛くなった魔女は、少女の首を抱えて仰向けになった。
楽しい時間が終わってしまった。
名残を惜しみながら、魔女は紗沙美の首を掲げて見つめた。
閉じられた目。薄く開いた口から血の雫が垂れてきて。魔女の唇に落ちた。それを舐め取り、嚥下した。胸が熱くなった。死してなお、自分の体を献上しようとしているように思えて、いじらしかった。
魔女は紗沙美の首を胸に置いて、強く抱きしめた。
「もう少し、あなたと遊べたらよかったのになあ」
退屈を何より嫌う魔女は、そう願わずにはいられなかった。
「紗沙美。いつまで寝てんの紗沙美。もう起きなって」
肩に何かが触れ、紗沙美の体を揺さぶった。
「ん……?」
顔をあげると見慣れた教室の情景が目に入った。どうやら机に突っ伏して寝てしまっていたらしいと紗沙美は理解した。前の席の古都美がじっと紗沙美のことを見ている。彼女が紗沙美を起こした張本人であった。
「もうホームルーム終わったよ。一時間目は勅使河原の現国なんだから、寝てたら張り倒されるよ」
「ええ、ああ、うん」
ぐらぐらする頭を押さえながら生返事をした。
「どうしたの、紗沙美。調子悪い?」
「ああ……なんか悪い夢見て……」
「夢?」
「うん……」
答えたものの、どんな夢かは思い出せずにいた。
その夢は紗沙美の頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。ただ、酷い悪夢だということだけは、今も余韻を引く気持ち悪さが証明している。
「具合悪いなら、保健室行きなよね」
「……そうする。ありがと」
この時、紗沙美はようやく古都美の顔を直視した。
途端、視界が真っ赤になったように感じた。さっきまで頭の中を渦巻いていた気持ち悪さとは違う。卒倒しそうな眩暈が紗沙美を襲った。たまらず紗沙美は額を手で抑えて支えた。
「ちょっと本当に大丈夫」
「……ごめん、ちょっとまずいかも」
どうやら自分は相当疲弊しているらしい。
古都美を見て、そんなことを考えるなんて。昨晩、ちゃんと寝たっけ。十時間ほど前の記憶を紐解こうとしたが、夢と同じように思い出すことができなかった。
「保健室、ついていくよ」
「いい、ひとりで行ける」
少々食い気味に、紗沙美は古都美の申し出を跳ねのけた。
ついてこられたら、困る。
「でも……」
「いいから」
半ば怒鳴るようにして、紗沙美は席を立ち、教室を出た。
授業が始まる数分前の廊下に人影はなかった。壁に手を突きながら進む。人気がないことで少し容体は良くなったように感じる。このまま、家に帰ってしまおう。保健室に向かえば、人と会うことになるから。よろめく足でゆっくりと進む。
だというのに。
「紗沙美!」
自身の名を呼ぶ声で、紗沙美の心臓が跳ね上がった。
紗沙美が振り返ると、こちらに向かってパタパタと駆けてくる古都美の姿が目に入った。
「どうして……」
途端、また熱に浮かされたようにクラクラしてくる。目の前に立っている古都美を見ないよう、紗沙美は目を伏せた。
「だって、心配だよ」
心配する古都美が一歩、紗沙美に向かって踏み出してくる。
体の動きからワンテンポ遅れて、古都美の薫りがふわりと鼻孔をくすぐった。強烈な香水に当てられたように紗沙美はよろめいた。
「ほら、今だって」
バランスを崩した紗沙美を支えるように、古都美は紗沙美の手首を掴んだ。食い込んでくる指の肉の感触。温かな血の温度。
たまらず紗沙美は古都美に寄りかかった。いや、寄りかかるふりをして抱きついた。
古都美は何も言わずにそれを受けとめた。
「……はっ、はっ、はっ」
息が荒くなる。
目の前にはことみの首筋が無防備に露になっている。
ことみはよく食べる女の子だ。
今週なんて、毎日のように私の家に来てご飯を食べてくれている。
ダイエットするんだーなんて言いながらも嬉しそうにうちのお肉を食べることみが私は好きだ。
食に正直な、飾り気のない彼女が好きだ。
そういうわけだからことみは私達三人の中で一番肉付きが良い。太っているわけではないが、胸やお尻を見れば、私や美雪よりはワンランク上のサイズであることは明らかだ。男の子から一番モテるのはことみだ。男子の目には、この肉は魅力的に映るのだろう。ガゼルを前にしたライオン、ウサギを見つけたワシ、アブラムシに近付くテントウムシ。イワシをくわえるペンギン。大量のプランクトンを飲み込むクジラ。アザラシの子供を引き裂くシャチ。ネズミを地面に叩きつけ弱らせてから食うイヌ。鎌で捉えたチョウチョを小さな口でいたぶり食らうカマキリ。長い胴体でシカの体をバラバラに砕いて、大きな口を開けて飲み込むヘビ。殺したイモムシをぐちゅぐちゅに引き裂き、宝物を愛でるみたいに丁寧に丸めて肉団子にしてしまうスズメバチ。
肉団子……?
そう、肉団子!
肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子肉団子!
ことみで肉団子を作ったら、それはどんなに美味しくて可愛いのだろう!
うちのお肉をたくさん食べたことみのお肉で作るミートボールは、きっと今まで食べたことのない味がするに違いない!
ことみを肉団子にしよう!
「痛いっ!」
耳元の悲鳴が紗沙美を正気の世界に引き戻した。
紗沙美は自分が口いっぱいに生暖かいものを頬張っていることに気付いた。それが古都美の首であることも。紗沙美は吸血鬼のように、古都美の首に噛みついていた。
「ご、ごめん……」
慌てて飛びのく。
古都美の首には赤いU字の痕がついていて、いくつかの穴からは血が滴っていた。
古都美は紗沙美のことを怯えた視線で見ていた。その目の端には水滴が浮かんでいる。やがて、紗沙美に背を向けると、教室の方へ向かって走っていってしまった。
紗沙美は彼女に謝ることすらできずに、学校をあとにした。
太陽にいじめられてフライパンのように熱くなったアスファルトにローファーを焼かれながら、紗沙美は家路についた。帰り道では幸いにして誰とも会わなかった。助かった。今会えば、自分がどうなってしまうかわからなかった。
家の前で紗沙美は首をかしげることになる。
店が閉まっているのだ。時刻は朝の九時を過ぎている。とっくに開店時間なのに、笑顔の豚が描かれたシャッターが下ろされたままだ。
不審に思いながらも、紗沙美は裏口に向かい、鍵を取り出して家に入った。
「ただいまー」
返ってくる声はない。
父は具合でも悪いのだろうか、部屋の明かりが点いていない。
光源は採光窓から射す夏の光だけで、外とは別世界のように薄暗い。密室で醸成された熱気が立ち込めていて、不快指数は外よりもはるかに高い。一刻も早くクーラーをつけなくては、とても活動できる空間ではない。
ひとまず自室に向かおうと居間を横切る。
けれど、その途中、床の上に何かが横たわっていることに気が付いた。
父だ。
傍らに金属バットを転がした父が、突っ伏している。
まとわりつく熱気はどこへやら、紗沙美は体をめぐる血液の温度が急激に下がっていくのを感じた。
「お父さん!」
駆け寄って、上半身を抱き上げる。
目、鼻、口。父の顔の穴周りはカサついた赤褐色の薄膜で覆われていた。濁りのかかった瞳からして、もう死んでいることは明白だった。
――ドクン。
心臓が高鳴る。
父が死んでいる。
そのことに哀しみを覚える。
けれど。
――ドクン。
私は心のどこかで。
心の奥底で。
それを知っている気がした。
――ドクン。
何か忘れている。
私にとって、大切な何か……。
父の死体をゆっくりと床に下ろした。
紗沙美の顔は、二階へ上がる階段へと向いていた。
行かなくてはならない。
そこに、紗沙美が忘れているモノがある。
木製の段が軋む音。
垂れる汗は冷たい。部屋の温度に起因するものでないことに疑う余地はなかった。
自室には向かわなかった。そこに求めるものがないことはわかっていた。
私は父の寝室の扉の前に立つ。
この奥にある。確信がある。
私にとって致命的なモノが。
「はっ、はぁ……は」
ドアの前で止まる。
動悸がどんどん早くなる。部屋の中にあるものを見てはならないと頭の奥が警告する。
けれど、見ないわけにはいかない。それは私のモノだから。こうしてけたたましい警報音を鳴らしているソレこそニセモノなのだから。
ドアノブを掴む。
生温い鉄の温度が気持ち悪い。
「は──」
意を決し、湿気だらけの空気を肺いっぱいに取り込んで、紗沙美は一息にドアを開けた。
途端、熱気とともに紗沙美を包む血の臭い。床一面、赤のペンキバケツでもひっくり返したように真っ赤だ。
赤の絨毯に足を踏み入れる。点々と散らばる白いモノ。棒状のそれが骨だということを、肉屋である紗沙美は瞬時に理解した。
ここは屠殺場だ。
ここで、ある生き物が解体され、肉を食われた。
その生き物とは……。
机、の上。
まる、で、ボールペンみたい、に。無造作に転が、された。大きな果実みたいな、それは。
――私の、頭。
「おかえりなさい」
背後からの声。
振り向くと、黒いドレスに身を包んだ少女が立っていた。見ているこっちが暑苦しく思うような格好だが、当の本人は汗ひとつ浮かべていない。それはそうだろう。だって、こいつは。
人間ではないのだから。
すべて思い出した。昨晩、ここで何が起きたのか。父と自身の行く末。その元凶が目の前の女、魔女であること。
机の上に置かれていた業物包丁を手に取る。それを胸の前に構え、魔女へ突進した。けれど、途中で足が動かなくなった。
魔女が妖しい力を使って、紗沙美の動きを止めたのだった。
「憎いのはわかるけどさ、まずは冷静になろうよ。私殺しちゃったら、聞きたいことも聞けなくなっちゃうよ」
「ぐ、ふ……うう」
紗沙美は唸り声をあげながら何度も足に力を入れようとした。けれど、一ミリだって前に進んでくれない。昨晩同様、身体の支配権を魔女に奪われているようだった。
業腹ではあったが、これ以上は無意味であると察した紗沙美は暴れようとするのをやめた。
「うん、いい子ね」
魔女が微笑むと体の不自由が解けていった。
即座にまた襲い掛かってやろうかと思ったがなんとか自制する。先の二の舞になることは火を見るより明らかだった。
「どうして、私は生きているの」
聞きたいことはたくさんあったが、一番はこれだ。
紗沙美は昨日、魔女に食われて死んだ。
なのに今、何故ここに居るのか。
「生きてはいないわ。ちゃんと死んでる。本当のあなたは私のお腹の中にいるわ」
言って、魔女は自分のお腹をなでた。見下ろす視線はまるで身籠った母親のように柔和だった。
「今のあなたは……そうね。わかりやすく言うなら、実体のある幽霊かな。あなたを食べ尽くした後、まだ残っていたあなたの意識を捕まえて、生首を媒体に現世にとどまらせ、殻を与えたの。もう知っていると思うけれど、私は人の意識を操ることができる。あなたに与えた殻はね、見る者、触れる物の認識を狂わせる。生き物であろうと、物体であろうと関係ない。『あなたがそこにいる』という認識を植え付ける殻。その殻に覆われている限り、あなたは普通の人間として行動できるわ」
……自分はオカルト映画の世界に迷い込んでしまったのだろうか。
紗沙美はそう頭を抱えてしまいそうになったが、この荒唐無稽な話を信じるほかなかった、魔女の力は、昨晩身を以て体験したのだから。
「どうして、そんなことを……」
「そんなこと?」
「だから、何で私をよみがえらせるみたいなことを……。また、私を食べようっていうの」
「あはは、それは素敵な提案ね。でも、無理かな。殻は殻だから。肉を与えたわけじゃない。幽霊っていうのはそういう意味よ」
「それじゃ、なおさらわからないよ。食べられもしないのに、なんで私を……」
「だって、楽しかったから」
そういう魔女の顔に邪なものはない。まるで公園を駆けまわる年端の行かぬ少年少女のように純粋無垢であった。
「魔女ってつまんないんだ。寿命ばっかり長いくせにやれることが少なくてさ。精神操作して人間で遊ぶのは最初の四十年くらいは楽しかったけど、もう飽きちゃった。遊び方のパターン尽きちゃって。腕飛ばしても、腹抉っても、首落しても、突き詰めればみーんな同じ反応なんだもの。あとは、性交くらいしか楽しみないけど、玩具相手じゃいまいち燃えないかあんまり気持ちよくないっていうか。真実、私を愛してくれる男が現れたら別かもしんないけど。人間世界を支配しようーなんて燃える奴もいるけど、私はそんな暑苦しいタイプじゃないし」
語る魔女の顔は十代少女のそれだ。なのに、口から流れ出る言葉が纏う雰囲気には不相応な老獪さがある。
「でも、昨日は楽しかったよ。初めて見たなぁ。『食べる』の意味を間違えたやつ。あなたのお肉も美味しかったし。年甲斐もなく人間相手に夢中になっちゃった。だからさ、続けばいいと思ったんだ。昨日の夜が、ずっと続けばいいなって。だから、あなたをここに引き留めた」
「なら、やっぱり私を食べようと……」
「違うってば。そんな物騒なことしないよ。私はあなたと居れればいいの。想像してみて。ここ云十年と死んでいた私の感情を動かしてくれたのがあなたなのよ。その人と一緒にいたいと思うのはそんなに変なことかしら」
紗沙美には魔女の言っている理屈がよくわからなかった。どうやら自分は、魔女独特の恋愛観なり友愛観なりから見て、気に入られてしまったことだけは何とか理解した。
「というわけで、私はあなたに何もしない。あなたは自分のしたいようにしてくれればいいわ。でも、気をつけなさい。あなたの魂が現世にとどまれるのは三日が限度よ。その三日間で、せいぜい私を楽しませてね」
「ふざけないで……。誰がアンタなんかのために……!」
紗沙美は持っていた業物包丁を自分の首に向けた。これ以上、魔女の玩具にされるくらいなら、もう一度自分に刃を突き立てようと思った。それが、この快楽の魔女へ行える唯一の反撃に思えた。
「オススメしないわね、それは」
魔女は温度のない声で忠告した。
「もし、私と三日過ごしてくれたら、あなたにはご褒美があるから。あなたにとって喉から手が出るほどに欲しいモノ。刃を自分に向けるのは、ご褒美の内容を聞いてからでも遅くないんじゃない」
ふざけたことを。いまさらそんな子供だましで私の手は止められない。そう紗沙美は一蹴しそうになったが、思い直し、一応内容だけは聞いておくことにした。聞いたうえで死んでやった方が、魔女に大きなショックを与えられると思ったからだ。
紗沙美は包丁を喉元から放すことこそしなかったが、視線で続きを促した。
「私の命よ。三日後の夜、あなたに私を殺させてあげる」
思わず紗沙美は息をのんだ。
確かにそれは、紗沙美にとって喉から手が出るほど欲しいモノに聞こえた。
紗沙美の中に渦巻くどす黒い怨嗟の声。魔女の命だけが、その嘆きを沈められる気がした。
けれど、わからない。
「どうして……?」
魔女がそこまでするのか。命を投げ出してまで、私と居たいと思うのかわからない。
「さっきも言ったでしょ。魔女って退屈なんだって。あなたが消えたらまた云十年、もしかしたら云百年、無感動で生き続けなきゃいけないのよ。だったら、楽しいうちに死んだ方がいいと思わない?」
魔女は相変わらず、普通の少女である紗沙美が追い付けないような死生観で話をする。けれど、それが本気の言葉であることは、紗沙美に伝わった。下手なきれいごとやおためごかしじゃない分、誠実に紗沙美の心に届いたのだった。
「約束よ」
紗沙美が念を押し、
「ええ」
魔女は応えた。
「きっと、私を殺してね」
その言葉を聞いて、紗沙美はようやく包丁から手を離したのだった。
まだ七月に入って間もないというのに、張り切った太陽が地表を灼熱地獄に変えてしまっている。
容赦ない炎天下の中、紗沙美は裏庭に穴を掘っていた。物置から持ってきたシャベルは、よりにもよって手元まで鉄製でできている。日光を受けて、みるみる温度を上げていく様子は、まるで自分に使われることを拒絶しているようだと紗沙美は思った。けれどもめげることなく紗沙美はシャベルに足をかけ、雑草の根ごと地面を掘り返していく。
魔女はそんな紗沙美を傍観していた。
作業中、一度だけ紗沙美に話しかけた。熱いと思うから熱いのだ。あなたはもう意識の存在でしかないのだから、認識さえ変えれば汗をかかないし、疲れも感じなくてすむと。紗沙美は聞こえないふりをして作業を進めた。自分の余命……いや、残り時間と言った方が正確か、それがあと三日しかないというのであれば、最後まで人間らしい感覚を味わっていたいと思ったからだ。
ところどころで休憩を挟みながら、四時間ほど作業して、ようやく穴掘りは終わった。深さ四十センチほど、幅は五十センチ、長さは二メートルに届かない程度の長方形の穴だった。
紗沙美は家の中に戻ると、父の死体を担ぎ上げた。否、担ぎ上げようとした。死後十五時間という時間帯は、死後硬直の特徴が最も強く現れる。まるでコンクリートのように固まった骸を紗沙美は思うように動かすことができなかった。
「半分、持ったげる」
見かねた魔女が助け舟を出す。結局、二人で上半身と下半身に分担して持つことで、父を外に運び出したのだった。
「足、そこに置いて。穴の先の方」
魔女に指示して、先に掘っておいた穴の中に死体を安置した。
「ごめんね、お父さん」
紗沙美は掘り返して積みあがっていた土を、シャベルで父の上にかけ始めた。茶色のまばらがどんどん広がっていって、ほどなくして父は見えなくなってしまった。
「ほっとけばいいのに」
父を埋葬する紗沙美に魔女は話しかけた。
「あなた時間がないんだから、他人のこと気にしてる場合じゃないでしょ? こんなこと言うのも今更だけどね」
「そうはいかないでしょ。放っておいたらあそこで腐るだけだもの」
「良いじゃない。何が悪いの」
「居間で死んでたら、微生物に分解されるだけ。土に埋めれば、虫や草の栄養になる。その違いよ」
「ふぅん、そう」
魔女が愉快そうに口元を歪ませたが、埋葬作業をしている紗沙美が気付くことはなかった。
一仕事を終えた私は、冷房の効いた部屋でジュースを片手に一息ついていた。
魔女は私のベッドの上に腰かけて、相変わらずじーっと私を眺めている。
「あの、なにか」
「ううん、思ったより落ち着いてるなって。てっきりもっと取り乱すかと思ってたんだけど。あなた、いきなり殺された上にあと三日しかこの世にいられないのよ」
「うん、わかってるけど……」
ジュースの中の氷が涼しげな音を立てて割れた。
「やりたいこととか、思い残したこと、ないの?」
「やりたいことはあった。お父さんの肉屋継ぐのが夢だったから。でも、そんなの三日じゃどうにもなんないし」
「好きな男の子くらいはいるでしょ? 襲いにいっちゃったりするなら手伝うけど? 私の専門分野だよ」
「いない。ずーっと肉ばっか切ってきたから」
「そんな……。何か一つくらいあるでしょ」
「そうだね……。あるにはあるよ」
紗沙美は恨みを込めた視線を魔女にぶつけた。
「アンタが憎くて仕方ない」
「それは三日待ってよ。あー、あれかな。私への憎悪が強すぎて、他の願望を塗り潰しちゃった感じかな。まあ、あんな死に方したんじゃ無理もないけど」
しばらく、二人の間に言葉はなかった。
「ねえ、やりたいこと一緒に探そうか」
「なによ、それ」
「だって、本当に何もしないまま終わったらつまらないもの。あなたがしたいこと、私も探したい」
「殺した人間に言うセリフじゃない」
「はは、違いないわね」
二人の会話が終わるタイミングを見計らっていたかのように、インターフォンが鳴らされた。
紗沙美が一階に降り、インターフォン親機で外の映像を確認する。ドアの前に立っているのは美雪と古都美だった。おそらく、早退した私の体を心配してお見舞いに来てくれたのだろう。古都美の首に貼られた絆創膏が痛々しい。同時に、そんな傷を負わせた張本人である自分のことを気遣ってくれる古都美の優しさに紗沙美は深く感謝した。
けれど、だからこそ会うわけにはいかない。
「……ぅ、ぐ」
喉の奥からとめどなくわき出てくる唾液を必死に飲み下す。インターフォン越しでこれだ。直接会ったら、どうなってしまうかわからない。
「どうしたの? 友達じゃないの? 出ないの?」
傍らで魔女がきょとんと首をかしげている。
ふざけたやつだ。心底頭にくる。
紗沙美は精一杯の呪いを込めて言った。
「とぼけないでよ。アンタが私をこんな体にしたくせに」
「えっ」
「この食欲のことよ。面白がって、私の食欲を弄ったでしょ。友達のこと、食べたくなるようにって」
「……私、そんなことしてないよ」
「アンタ以外に誰がこんなことできるっているのよ。目が覚めたときから、古都美のこと食べたくて仕方なかったんだから」
「私がしたのは、あなたの意識に殻を被せただけだって。あなたの意識を弄るようなことはしてない。私のお人形にしちゃったら、他の人間と変わらない。つまんなくなるだけだわ」
紗沙美は黙り込んだ。魔女の言うことには説得力がある上、嘘をついているようには見えなかった。
「だからね、もしあなたがお友達のことを食べたいと思っているなら、それは昔からあなた自身が抱いていた願望だと思うわ」
「ふざけんな……」
それはあり得ない。
紗沙美が古都美や美雪のことを食べたいと思ったことは、生前に一度だってなかった。もちろん、職業病として、彼女らの肉を切るならどうするかと考えたことはあるが、その手のタブーは人間だれしも考えることである。決して本気で考えたことではないし、そこに強い誘惑だって覚えなかった。
この謎の食欲が、自分の死後に発現したことは間違いなかった。
自分の死がなにがしかのトリガーになっているのは明白だったが、それは魔女を以てしても説明がつかないという。
強い立ちくらみで地面が揺れる。友人二人の姿を見過ぎてしまったようだ。紗沙美はインターフォンに映る映像を消し、自室に向かった。
横にならないと。目が回ってしまいそうだ。眠ってしまおう。放っておけば、古都美たちもあきらめて帰るだろう。
手すりに体重を預けながら一段一段ゆっくりと階段を上っていく背中に魔女はつぶやいた。
「なぁんだ。あるじゃない、やりたいこと」
その小さな企みが、吐き気に呻く紗沙美の耳に届くことはなかった。
ベッドの上で浅い呼吸を繰り返す。苦しくて、ベッドシーツを掴んだ。横になってから、かれこれ三十分くらい経ったはずだが、症状は治まりそうにない。体にうまく力が入らない。紗沙美の症状は今朝がたより悪化していた。
部屋のドアが開けられる。入ってきたのは魔女だった。
「大丈夫?」
「……大丈夫。だから、一人にして。アンタの顔を見てると、イライラして治るものも治らないから」
魔女はこれ以上ないくらい意地悪な顔をして笑ったのだが、呻く紗沙美は気付かない。
「だってさ。じゃ、私以外の顔にお願いしましょうか」
魔女が一歩下がり、ドアの外に出る。入れ替わりに入ってきたのは、古都美と美雪だった。
「な――」
驚きで息と思考が止まった。
「二人ともお外で寂しそうにしてたから、私が中に入れてあげたの。ね、ちょうど私の顔なんて見たくないみたいだし、二人にお世話をお願いするわ」
古都美と美雪の目に意思の光はない。昨晩の私と同じように魔女の精神操作にかかっているようだった。
「やめて……! 部屋に入れないで。入らないで」
まだ体の自由がきかない紗沙美は、声で拒絶する他ない。しかし、彼女の制止など魔女は聞く気がなかったし、人形二人には届かない。
「あの子ね、昨日お父さん殺されちゃって、寂しいんだって。ぎゅーっと二人で抱きしめてあげてね」
「やめ……やめ……」
もがくように足を動かすが、虚しくベッドシーツを掻くだけだった。少女二人は紗沙美の両脇に陣取って、計四本の腕で紗沙美を補足した。
視界がちかちかとフラッシュした。水を持たされずに、砂漠を何十日も歩かされた後のような、想像を絶する喉の渇き。体に食い込む古都美の柔らかな肉と、それとは対照的に少し筋張った美雪の肉。もはや、限界はそこまできていた。
「ねえ、何をそんなに我慢しているの?」
少女の肉に溺れる紗沙美を見下ろしながら尋ねた。
「食べたいんでしょう? 食べればいいじゃない。どうせあと三日で消えるのよ。最後くらいやりたいことやろうよ」
「うるさい!」
それは紗沙美の理性の咆哮だった。
「私はアンタと違う! アンタみたいに人間は食べない! 何の呵責もなく人を殺したりできないの! アンタが私に何をしたか知らないけどねぇ……」
紗沙美は大きく息を吸い込んだ。言ってやらねば気がすまなかった。
「私は! 人間なのよ!」
「は?」
けれど、渾身の叫びは古都美にも美雪にも魔女にも届かなかった。
「人間? あなたが?」
魔女は呆れたように解説を始める。
「あなたは人間じゃないわ。人間としてのあなたは、昨夜零時十三分に終わったの。今、ここに居るあなたは、私が私の魔力で殻を与えた存在。私とは程度に差こそあれ、その意識を以て、他人の意識に干渉する者よ。言ってしまえば、私の子供。あなたはもう人間じゃない。もはや魔女」
そうして、魔女は、その言葉を口にする。それが紗沙美にとってどれほど決定的なものかまったく自覚せずに。
「人間以上の存在。上位捕食者よ」
ぷつんと紗沙美の中の糸が切れてしまった。
それまで鳥野紗沙美という人間に通っていた一本の糸、強烈な食欲に苛まれ、ほつれを見せながらも、辛うじてつながっていたか弱いそれが、はじけ飛んでしまった。
紗沙美は全てを理解した。
自身の食欲の正体を。
紗沙美の魂は、深層でわかっていたのだ。
自分が人間の上位捕食者であるということ。
なるほど、確かに魔女は紗沙美の意識を弄ったりはしていなかった。
これは、紗沙美のポリシーが表出した結果だ。
紗沙美は食べ物を大事にする。一度口をつけた以上、最後まで食べ尽くさねば、下位被食者に失礼だと思っている。今日まで、彼女がお残しをしたことは一度だってない。
しかし、それは、上位捕食者は、下位被食者を食わなければならないという意識を彼女の中に形成していたのだった。
故に、事実、上位捕食者となった彼女の深層意識は、その食欲を友人に向けたし、今や表層意識までそれを理解してしまった。
人間を食うことは、紗沙美にとって当然のことになった。
「古都美」
紗沙美は友達……いや、友達だった肉の方へ向き直る。そして、別れの言葉を告げる。
「いただきます」
今朝と同じ場所に食いつき、絆創膏ごと肉を切り取った。途端、抉り取られた古都美の首から噴水のような血が噴き出した。かつて古都美と呼ばれた肉は、どこを見ているかわからない虚ろな瞳のまま、身体の脂肪をぶるぶると震わせた。
口の中に広がる熱い血、甘美な味わいが舌を痺れさせる。柔らかな肉は舌の上で溶けるように消えていってしまう。ああ、何を私はためらっていたのだろう。こんなにも美味しいのに。
二口目、三口目。
もはや紗沙美を止めるものはなかった。ほどなく古都美は絶命したが、そのことにすら何も感じなかった。家畜の死をいちいち悼んでいては、肉屋などやっていられない。
古都美の体の三分の一ほどを食べたところで、魔女が割り込んできた。
「見てたら小腹が空いちゃった。つまみ食いさせてね」
魔女は血濡れのベッドシーツの上に乗り、古都美のまだ残っている方の乳房に口をつけると、そのまま噛み千切ろうとした。
けれど、魔女は咄嗟に肉から飛びのくことになる。並々ならぬ殺気のようなものを感じたからだ。発生源の方を見る。そこにいたのは、古都美の肉を口にぶら下げ、恐ろしい眼つきで魔女を見る紗沙美だった。
ぐちゃぐちゃと赤い塊を噛み潰し、喉を鳴らして嚥下した後、紗沙美は魔女に警告した。
「食べる前には、いただきますでしょ」
その圧は、魔女をしてなお気圧されるほどのものであった。
「い……いただきます」
気が付けば、魔女は古都美に向ってその言葉を口にしていた。
「食べ終えたら、ちゃんとごちそうさまも言うんだよ」
「う、うん」
了解を聞き遂げた紗沙美は、真っ赤な口で満足そうに微笑むと、古都美の半身を魔女に差し出した。
初日は、古都美の肉を食らううちに終わりを迎えた。
深夜一時を回ったころ、三谷澤の父が帰宅した。トラックの運転手をしている彼は、帰宅が不定期だ。今日を逃せば、次に会話ができるのは何日も先になるかもしれない。
「なあ、親父」
「あん?」
畳の上で横になり、録り溜めしたテレビ番組を見ている父親に、三谷澤は意を決して話しかけた。
「進路のことなんだけど」
父はテレビの方を見続けている。返事も帰ってきていないが、三谷澤は続けた。
「専門学校、行きたいって思って」
やはり、返事はない。目の前の四角から発される色とりどりの光がちかちかと父の顔を照らしている。消え入りそうな声で三谷澤は続けた。
「食肉の専門なんだけど……」
「んな金、どこにあんだよ」
それで終わりだった。
三谷澤自身もわかっていた、絶対拒絶の壁。
自分は何をしているんだろう。こうなることはわかりきっていたのに。
それ以上、何も言えなくなって、三谷澤は自室に戻ろうとした。
「でも、まあ、おまえが自分から何かしたいって言うのは初めてだな」
会話はまだ終わっていなかった。
「おまえにはよ、俺みたいなろくでなしにはなってほしくないんだ。本気でやりたいって言うなら、まあ、どうにかしてやる」
このとき、いつもはみすぼらしくて品がない親父の背中が、一回り大きく見えた。
「うん、やる。俺、本気で頑張るよ」
この吉報を明日、紗沙美に届けよう。
彼女の笑顔が見れたら、勉強だって本気で頑張れる。そういう確信があった。
だが、翌日、紗沙美は登校しなかった。
いや、紗沙美だけではない。彼女の友人である二人も登校しなかった。
けれど、どうしても紗沙美に件の話をしたかった三谷澤は、放課後、紗沙美の家に向かうことにした。
夕方四時前。
三谷澤は紗沙美の肉屋に到着した。しかし、シャッターは固く閉ざされていた。波打つ鉄壁には、豚のイラストとともに営業時間と定休日が書いてある。今日、この時間帯は、記載されている定休日にも営業時間外にも該当しない。娘の具合が悪いから、看病のために父が店を閉めているのだろうか。だとしても、臨時休業の張り紙くらいは貼ってもよさそうだが。
そんなことをする余裕がないほどに、容態が悪いのだろうか。
三谷澤はやにわに紗沙美のことが心配になってきた。専門学校に行ける報告は今度で良いから、紗沙美の具合だけでも確認したいと考えた。
周囲を観察し、肉屋と隣家の間に細い通路があるのに気付いた。どうやらそこが家の玄関と裏庭に続いているらしい。
三谷澤は通路に足を踏み入れた。紗沙美の家のドアは、通路に入ってすぐのところにあり、その奥に裏庭が続いていた。もしや裏庭にいることはないだろうかと一応覗き込んでみたが、不自然に掘り返されたような地面以外に、発見はなかった。
本人と話せなくても、せめて父親から紗沙美の様子を聞きたい。
三谷澤はインターフォンのボタンを押した。
「行かなくてよかったの、学校」
骨付き肉を頬張る紗沙美に魔女は問いかけた。
「行けるわけないでしょ。突然でかい肉が二つも入ってきたんだから。これ処理するだけで二日くらいかかるわ。ていうか、アンタも食べるの手伝いなさいよ」
「おあいにく様。私のお腹の中は、まだあなたでいっぱいです。そもそも魔女って小食な上、人肉は主食じゃないので。オーガでも呼んでくるんだね」
「なら、なおさら」
一匹はあらかた片付けたが、冷凍庫にはほとんど手つかずのもう一匹が吊るされているのだ。私の店に入荷された以上、肉を無駄にすることは許されない。
「あなた、ちょっとしゃべり方から棘が抜けたんじゃない? やっぱ、私が同族ってわかったら優しくなっちゃうもん?」
「ん、まあね」
紗沙美が魔女に対して抱いていた嫌悪感は、今ではかなり緩和されている。いや、ほとんど感じていないと言っていい。
この世界は食物連鎖で成り立っている。
人が豚を食べるように、魔女は人を食べる。そう考えれば、彼女が自身を殺した理由は大いに納得できたし、恨む筋でもないと思った。紗沙美自身、生前はたくさんの生き物の肉をさばいていたのだ。そのあたりは割り切った考えを持っていた。そのつもりだった。
にもかかわらず、紗沙美の心の中でたぎる黒い炎は、一向に勢いを弱める気配はなかった。それがきっと表情に出てしまったのだろう。魔女の口の端が緩やかに吊り上がった。
「ふふ、理屈で理解はできても、やはり自分が殺されるとなると別なのかしらね」
「さあ。確実なのは、あと二日でアンタを殺すってことだけね」
「楽しみにしてるわ」
ピンポーン。
間の抜けた高い音が居間に響き渡る。
誰か来たようだ。
インターフォンで外の映像を確認すると、三谷澤くんが緊張したような面持ちで立っていた。
「また、肉が増えるわ。手伝ってね」
「律儀ね。逃がしてあげたら?」
「無理。お腹いっぱいだけど食欲治まんないから」
紗沙美は外部との通話スイッチを押した。
「こんにちは、三谷澤くん」
声に反応し、四角の中の小さな三谷澤が動いた。
「その声、鳥野か?」
「そうだよ。どうしたの急に。今日お店休みだよ」
「おまえの様子が気になって……、昨日も早退したし、今日は来ないし……。質の悪い夏風邪でも引いたのか?」
「え、違うよ。この二日間、色々あってね。それで行けなかっただけ。近い将来の話は置いておくとして……少なくとも今は元気だよ」
「そっか。そりゃ、よかった……」
「用ってそれだけ?」
「え? ああ、いや、もう一つあった。おまえに伝えたいことがあったんだった。俺……」
「立ち話もなんだから、うちに入りなよ。外は熱いしね」
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が。私風邪ひいているわけじゃないんだよ。家に病人は居ません」
死人ならたくさんいるけどねと小声で嗤った魔女のわき腹を紗沙美は小突いた。
「……いいのか?」
「うん、ぼちぼち夕食作ろうかと思ってた頃だし」
紗沙美は、画面に映る三谷澤を舐めるような目で見る。
「三谷澤くん、ハンバーグ好きだったよね」
三谷澤は初めて家に通されたときと同じように居間へと案内された。
「準備してくるから待っててね」
キッチンへ消えていこうとする紗沙美を三谷澤は引き留めた。
「ちょっと待てよ。話があるんだって」
「え、ああ、そうだったね。何?」
紗沙美は三谷澤の方へ向き直る。だが、その顔は能面のように無感動だったものだから三谷澤は面食らった。三谷澤の話のことなんて、まるで興味がないかのような……。
「専門学校の話」
「ああ、あったね、そんなの」
「親父から許可が出たんだ。金、工面してくれるって。俺、おまえと同じ学校行けるんだ」
「へえ……それはすごいね。でも、私……」
「だからな、今日の料理は俺にも手伝わせてくれ。恥ずかしい話だが、料理なんて生まれてこの方一度もしたことねえんだ。ちょっとでもいいから、何かやらせてくれ」
三谷澤は前のめりになって紗沙美に申し出た。食肉に対する強い熱意を示せば、のっぺらぼうのような紗沙美の仮面の下から、いつかの彼女の顔が現れる気がしていた。
「ちょっとと言わず、主役張ってもらうよ」
紗沙美は三谷澤に笑いかけた。その笑顔はとても魅力的なモノだった。なのに、なぜだろうか、三谷澤は自分の胸の内をかきむしられるような心持がした。
「じゃあ、ひとまず肉、持ってきたるわ。冷蔵庫どこだ」
「居間を出て左に進んだ突き当りだけど……。いいよ、お肉ならそこにあるし」
「俺が冷蔵庫見たいんだよ。テレビで見るみたいに、ずらーっと豚の肉が吊るされてんだろ」
「そんな大きいの、うちにはないよ」
「そうなのか。何でもいいや。今後の勉強のために見せろよ」
言いながら、三谷澤はもう冷蔵庫へと向かっていた。
「……もう、余計な手間増やして」
木箱からソレを取り出し、紗沙美は彼を追うことにした。
紗沙美に言われた通りの場所に、果たして冷凍庫はあった。
高さが二メートル近くありそうな、巨大な銀色の業務用冷蔵庫だ。
観音開きの鉄扉を、三谷澤は勢い良く開けた。
三谷澤は、その直前にある決心をしていた。すなわち、生の肉を見ても怯まないようにするという決意である。三谷澤は、赤肉が苦手だった。大気にむき出しになった筋線維、本来秘匿されてしかるべき内面が表出している有様は、まるでこちらの世界に迷い込んだ異界の一部のようにグロテスクに見えていた。血も苦手だ。大量の血液を見ていると、どんどん気が遠くなってしまう。
けれど、もうそんな弱気は許されない。
自分は、紗沙美と一緒に専門学校に行くのだ。
だから、大量の赤肉が吊るされて格納されているであろう冷蔵庫を自らの手で開けようというのも、そういう健気な気構えの為せる業だった。
かくして、三谷澤の心は打ち砕かれる。
両開きのドアを開けた先の空間。
確かにそこに肉はあった。
ほんの一瞬、三谷澤はそれが何の肉かわからなかった。
自分は肉について全くの門外漢だ。豚肉と牛肉の違いも分からないうえ、ロースだのバラだのハラミだのがどの部位のことかもわからない。いや、それらの単語が本当に部位のことを表す言葉なのかも自信がない。
だから、目の前に吊るされている、真っ青な肉も、自分があずかり知らぬ種類の肉なのだと思った。逆さまかつ裸でぶら下がっていたというのも、彼の認識を狂わせた。
たとえ、ソレについている手足が、慣れ親しみ、見慣れた形をしていたとしても。
きっと、ソレの全体図が、猿やらチンパンジーやらとは比べるべくもないほどに、自身のカタチに似通っていたとしても。
自分の腰のあたりを見つめる目。それにまとわりつく鼻、口、耳のカタチが――。
クラスメイトの牧瀬美雪にそっくりだとしても。
「ひ――」
人間、真に驚くと叫び声など上げられないことを三谷澤は知った。
足から力が抜け、しりもちをついた。目線が、マキセミユキノヨウナモノと同じ高さになる。
なんだこれは。
目の前の光景がまだ受け入れられない。扉を開けたら逆さ吊りの女が現れるなど、まるで一昔前のお化け屋敷の仕掛けだ。自分はいつのまにかそんな夢の世界に迷い込んでしまったのだろうか。だが、冷気とともに三谷澤を緩やかに抱擁する血の生臭さが、この光景が現実であることを思い知らせて逃がさない。
そういえば、今朝、牧瀬美雪は学校に来ていなかった……。
「ダメじゃない。お肉が勝手に逃げだしたら」
背後から降りかかる声。
誰のものかはわかっていた。
声の主が何をしでかしたかもわかっていた。
逃げなければ、この身が如何なる末路を辿るかなど、容易に想像がついた。
なのに、三谷澤の体は動かない。
恐怖に身がすくむという言葉がある。蛇に睨まれた蛙という諺がある。だが、三谷澤の全身から力を奪う理由は、そのどちらにも当てはまらない。
『諦観』という単語が最も正鵠か。
声は絶対だった。はるかに高い場所から降ってくる執行者の宣告。三谷澤の体が理解していた。この声の主は、自分とは違う。三谷澤が知る鳥野紗沙美とは違う。
絶対的上位捕食者。
二本の腕が蛇のように滑らかな動きで、背後から三谷澤の首周りにまとわりついた。右手に握られているのは、あの夜、紗沙美が貸してくれた業物包丁だった。
「大丈夫。怖がらないで」
その声は、さっきまで無感情だった紗沙美のモノとは思えないほどに慈愛に満ちていた。
「私、知ってるんだよ。三谷澤くんが漫画とかゲームが好きなこと。日本刀とかナイフとか刃物が好きなこと。ハンバーグが好きなことも教えてもらったね。そして、なにより」
耳にかかる息。
囁かれる言葉。
それを言われるのを期待して、三谷澤は屹立を始めた。
「誰かの役に立ちたくて、仕方ないんだよね」
業物包丁が黒い光を放つ。
三谷澤の心から恐怖は消えていた。代わりに現れたのは、強烈なまでの性的興奮。自分の死を予感して、生殖本能が悪あがきを見せたのだろうか。否、これはそういうものではない。
カマキリの交尾だ。
カマキリの雌は、交尾の際に雄を食らう。それは戯れの虐殺ではない。食われた雄は、産卵期の雌にとって重要な栄養となる。自分の身を犠牲に、雌の役に立つのだ。
俺も、きっと。
その恍惚とした犠牲が、三谷澤を熱く滾らせる理由。
「大事にするからね。三谷澤くんの好きな包丁で、三谷澤くんの好きなハンバーグに。だから」
その声は、殺人鬼と呼ぶにはあまりに柔らかかった。
ああ、事実彼女は殺人鬼などではない。捕食者として、自分を食べようとしているだけなのだ。自然の摂理に従っているだけなのだ。ただ、そこに家畜を思いやる優しさがこれ以上ないくらいに込められているのが、いかにも彼女らしかった。食べ物を大事にし、「いただきます」と「ごちそうさま」を欠かさない彼女らしかった。
――なんて優しい女の子なのだろう。
「私と、ひとつになって」
紗沙美の手を握った。もう震えも恐怖もない。ちゃんと力を入れられる。
三谷澤は、生涯最後のぬくもりに縋りながら、「ああ」と答えた。
その夜、腕によりをかけて作ったハンバーグは、十七年の人生の中で一番おいしく作れたと紗沙美は思った。魔女も舌鼓を打っていたが、色っぽい味がするという感想の意味はよくわからなかった。
「まだ寝ないの?」
「うん」
魔女の問いかけに紗沙美は生返事で答えた。
声に振り返ることもしない。ただひたすらに、大量につくられたハンバーグを口に運び続けていた。そうでもしなければ、明日の夜というリミットまでにすべてを食い尽くすことなどできなかった。
自分が人間じゃなくなったことに感謝した。もし、人のままだったのなら、紗沙美の胃はとっくに破裂するか、過食に耐え切れず吐くかしていただろう。意識体と化したこの体は「食べられる」と思えばいくらでも口に運べたし、「眠くない」と思い込めば不眠で活動できた。
けれど、紗沙美は今、満腹で苦しかったし、眠気に目を擦っていた。大量の肉を前に呻きそうになったり、夜が来たというだけで眠くなった気がしてくる生前の刷り込みが、いやがおうにも紗沙美にそう言った感覚を呼び起こすのだった。一口、食を進めるたび、それの刷り込みを力任せになぎ倒して進む強い意識が要されたため、紗沙美の食道楽は決して平坦なものではなかった。
えずきながら、眉間にしわを寄せながら、それでも肉を口に運ぶ手を止めない紗沙美を眺め、魔女は彼女が食事に執着する理由が気になった。
なにが彼女をここまで駆り立てるのだろう。
想像することは簡単だった。
例えば、幼い頃に虐待を受けていて、ろくにご飯を食べさせてもらえなかった反動だとか、両親の厳しい躾の影響だとか、輪廻転生の話まで広げれば、前世がライオンだったとか、いくらでも思いつく。魔女は、自身に宿る力を行使すれば、そのルーツをたどることが可能だった。ほんの少し、精神操作を施して、枝分かれした道を遡り、大樹に向えばよかった。赤子の手をひねるように簡単なことだった。
けれど、実際にそれを行うことは憚られた。
目の前の少女は、残されたわずかな時間を尽くして、一心不乱に肉を食らっている。その有様は愚かで無様で滑稽で意地汚く、けれど冒しがたいほどに健気だった。
子供を守ろうとする親、恋人だけは助けてほしいと命を差し出す男、飢餓の国で蝿に嬲られながら世界を呪って死んでいく餓鬼。
そういったものに、魔女は心を動かされない。自分の興味がそそられれば殺すし、そもそも関心を抱くことすらまれだ。
なのに、どうしてかこの少女の邪魔をすることはしたくなかった。
優しさとは違う。その手の感情は、魔女の中に存在しない。
魔女は自分の心のうちに起こる感情がわからないまま、けれど、それに身を委ね、空が白み、少女が力尽きて眠るまで、彼女のことを見守り続けた。
最後の日。
食事の途中で眠りに落ちた紗沙美の意識が戻ったのはお昼前だった。眠っている間も、紗沙美は肉を食う夢を見続けた。そして、肉を食わなければならないという強迫観念に揺り起こされた。
皿の上に盛られた赤身の海に顔を沈めて紗沙美は眠っていた。鼻をつく生臭さと鉄の臭い。続きを食べなければ。そう思って身体に力を入れたが、動かなかった。まるで脳の伝達司令が届いていないかのような気だるさ。それで紗沙美は、自分に残された時間がいよいよ残り少ないこと、限界時間に近づけば近づくほど体が動かなくなることを知った。
それでも意識の力を振り絞って、どうにか動こうとする。それでもダメだった。「まだ動ける」といくら思い込んだところで、指先が痙攣したように引きつるだけだった。
突っ伏す自分を魔女が見下ろしていることに気付いた。鼻で嗤われることを覚悟した。好きにすればいい。紗沙美には反撃するような力はもう残っていない。
魔女がため息をつくのが聞こえた。自分の無様に呆れているのだと思った。
魔女が紗沙美の体に触れる。肉の上から少女を掬い上げると、椅子の背もたれに紗沙美の背中を預けさせた。魔女は、食器棚からフォークを持ってくると、おもむろに食いかけの肉に突き刺し、紗沙美の口の前に持ってきた。
紗沙美は驚きのあまり目を見開いた。ほんの二日を一緒に過ごしただけだが、この魔女が弱っている人間を助けるような種類の生き物でないことはわかる。なのに、今、魔女は私の食事を手助けしようとしていた。
理由はわからない。けれど、今はそれに縋るしかない。
紗沙美はゆっくりと口を開けた。
魔女はもったいぶることも、目の前で肉を引き上げる意地悪もせず、素直に肉を口の中に入れた。咀嚼するだけの力はまだ残っていた。噛み締めて嚥下する。何故だか昨晩の肉よりも美味しく感じた。
二回、三回、四回。
肉を刺しては運び、刺しては運び。魔女はその動作を繰り返す。残りの肉の量から考えて、百を数えてもまだまだ終わらないことは明白だった。間違いなく単調、すなわち魔女が何より嫌うはずの退屈な作業を、厭うことなく彼女は繰り返した。
窓から差す光の色が変わっていく。
白、黄、赤、紫、黒。
もうじき日付も変わろうかという頃になって、紗沙美はついに最後の肉片を胃に収めた。
「おめでとう」
背もたれの上部に頭を預け、天井を仰ぎ見て浅い呼吸を繰り返す紗沙美に、魔女は賛辞を贈った。横目で見れば、魔女は小さく拍手をしている。なんだか、自分のことのように嬉しそうだった。
強い眠気が襲ってくる。
腹が満たされたせいか、あるいは消滅の時が近づいているからか。
甘い泥のように心地よいまどろみ。気を緩めれば、途端に意識を浚われて二度と戻ってはこれまい。
そうはいかない。
私にはまだ、やらなきゃいけないことが残っている。
右こぶしをテーブルに思い切り叩きつける。乗っていた食器が跳ね、いくつかは床に落ちて白い欠片へと姿を変えた。
火事場の馬鹿力か、あるいはそれほどまで強い憎しみだということか。
怨嗟の炎に燃える眼差しを、魔女は待ってましたとばかりに受け止めた。
魔女の肩を借りながら階段を上る。
「死ぬのは、あなたのお父さんの部屋って決めてたの」
何故と問う体力はない。いや、しゃべる体力を今は温存しておきたい。いざというとき、魔女を殺し損ねてしまっては元も子もない。
だから、紗沙美は目でその理由を問うた。
「だって、あなたと私が最初に出会った場所でしょ? あなたが死んだ場所で私も死んだなら、それはとてもロマンチックだと思わない?」
わからない。
この手の特殊な感性は魔女の十八番だ。理由を追及する気にもならなかった。
父の部屋に入り、紗沙美は父のベッドの上に寝かされた。魔女は一度部屋から出ると、木箱に入った包丁を手に戻ってきた。
中身を取り出すと、紗沙美の手に握らせる。
そして、紗沙美の体の下に滑り込んだ。自然、紗沙美は魔女に覆いかぶさる形となった。
「今のあなたじゃ、体重かけないと刺し殺せないでしょ」
紗沙美は包丁を振り上げる。
「心臓を狙ってね。魔女って、即死以外の傷はすぐ治しちゃうから。場所はわかる?」
「当たり前」
自分を誰だと思ってる。この三日で三人も捌いた。人間の臓器の位置だって、もう完璧に把握している。
「じゃ、お願い」
紗沙美は思い切り包丁を突き刺した。
「ごぉ……っ」
痰が絡んだような悲鳴を上げて、魔女が喀血した。
ナイフは魔女の右胸に突き刺さっている。無論、そこに心臓はない。
「バカ……。場所……わかるって……」
「わかってるよ」
わかっていてなお、紗沙美は心臓を避けて魔女を刺したのだ。
「私がどれだけ……アンタのことを憎んでると思ってんのよ!」
ナイフを引き抜く。
ぬらりとした赤の粘液が糸を引いた。間髪を容容れず、今度は左胸に振り下ろした。魔女の体が魚のように跳ねた。
「許せない……! 許せない許せない許せない! 限界までいたぶってやるんだから!」
消滅の時が近付いた紗沙美には、自分が後どれだけの時間、ここに居られるかが正確にわかっていた。その最後の数秒まで、魔女を嬲ると決めていた。そうでもしないと腹の虫がおさまらなかった。
ネック、ミスジ、カタ、ソトバラ、レバー、タン。
耕すように何度も何度も包丁を突き立てる。初めのうちは魔女は痛みに体を悶えさせていたが、徐々にその力が弱まっていった。けれど、死にはしなかった。腹の中をほじくり返され、内臓をぶちまけてもなお、魔女の目から生の光が失われることはなかった。
残り八秒。
そこまでギリギリに差し掛かって、紗沙美はようやく魔女を殺す決意をした。
今までより大きく、包丁を振り上げる。残る意識の力をすべて殺意に変換する。ありったけの怨嗟を込めて、紗沙美は包丁を急所目がけて振り下ろし――。
「――――」
その物体が目に入った。
机の上、無造作に転がっているソレ。
ようやく過ちに気付いた。
やはり、自分の信念に間違いはなかった。
単に、私は――。
急ぎ、舵を切る。包丁はかろうじて心臓を避け、肺を抉るに留まった。
「どうし――て」
かすれた声で魔女は問う。
魔女にもわかっていた。この一撃を逃せば、紗沙美に次がないということを。
紗沙美はかぶりを振ってこたえた。
「私、アンタのこと嫌いじゃなかった。私やお父さんを殺したことなんて、どうでも良かったんだよ。だって、それはあなたが生きていくのに必要なことだったんだから。ただ、私は許せなかっただけ。だって、アンタは――」
時間切れだった。
続きを言葉にすることなく、紗沙美の体は宙に溶けていった。
あとは、魔女の体内に包丁が残されただけだった。
自分がなぜ殺されなかったのか。魔女にはてんでわからなかった。直前まで、確かに紗沙美は自分を殺そうとしていたのに、最後の最後に何が彼女を心変わりさせたのか。
ああ、そういえば。包丁を振り下ろす瞬間、紗沙美は何かに目を奪われていた。確か、机の上の方を見ていたように思う。
魔女はボロボロの体に鞭打って、何とか上体を起こした。血液と内臓が零れていった。
そして、机の上を見てようやく気づいた。
彼女が何に怒っていたのか。
彼女が何を憎んでいたのか。
「うふ、あはははははは!」
魔女は穴の開いた横隔膜を振るわせて笑った。激痛に苛まれたが、笑わずにはいられなかった。
手を伸ばす。
机の上に転がっているソレを手に取った。
紗沙美の頭だ。
最初の日、食いきれなくて残した肉。
紗沙美をこの世にとどまらせるために利用した媒介。
真夏の部屋に放置されたそれはとっくに腐っていて、肌は土気色になっている。
でも、だからなんだというのだ。
上位捕食者である以上、これを残すわけにはいかない。
魔女は業物包丁を手に取ると、その頭蓋に突き刺した。缶切りのように頭蓋骨を切り取っていく、あふれ出てきた腐った脳漿も舐め取って零さないようにした。
頭の蓋を取り外し、薄く張りついた髄膜を剥がすと、紗沙美の果実が姿を現した。それを千切って口に運ぶ。愛おしむように。彼女の命を尊ぶように。味わって嚥下した。
繰り返すうち、器の中が空っぽになった。
魔女は、軽くなった紗沙美を机の上に置いた。
紗沙美に向かって手を合わせ、その言葉を口にする。
「ごちそうさま」
気のせいだろう。
けれど、目の前の紗沙美が笑ってくれた気がした。もし、彼女を再びここに呼び戻せたのなら、きっと今度は友達になれる気がした。
こうして、魔女の楽しい三日間は終わりを告げた。腹の傷はすぐに癒える。彼女は再び、彼女がもっとも忌み嫌う退屈の中に埋没することだろう。
けれど、死にたいという願望はなくなっていた。
ここで死んでしまえば、今、私の体になろうとしている紗沙美への冒涜になる気がした。
まあ、あと一年くらいは生きていてやろうかな。
黒衣のドレスは、夜闇に溶けて消えていき、後にはただ、仄かな肉の腐敗臭だけが残された。
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。
上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。