あんずの花

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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序章

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 カンカン照りの夏は、森に遊びに行くのが定番だった。
 緑の葉っぱが屋根になってお日様の光を遮ってくれるから、町中よりも少しだけ涼しいのだ。
 僕はいつもの男友達と一緒に森山に向かう。行先は深見山だ。桂木寺町はなだらかな山に囲まれているのだけれど、その中で一番大きな山が深見山だった。大きい山で遊んだほうが得だと僕たちは思っていたし、大きな山には大きな虫がいるとも思っていた。だから、虫網とかごを忘れない。玄関で靴を履いているとき、お母さんが麦わら帽子もしなさいと声をかけてきたが、いらなーいと間延びした返事をして家を飛び出してしまった。麦わら帽子があった方が、頭が熱くならなくて良いんだそうだけど、僕はかぶらない。激しく動くと頭からすっぽ抜けることがあるし、あご紐が汗を吸って首に貼りつくと気持ち悪いからだ。けれど、友達の中にはそのあご紐を舐るのが好きな変わり者もいた。きっとお弁当代わりだったのだろう。
 僕は友達の中で一番運動ができた。なんと五十メートルを八秒台で走ることができたのだ。これは、もしかすると全校生徒四十三人の中で一番早いかもしれなかった。だから、その日も、深見山に着いた後、わざと誰もついてこられないような速さで走って、みんなを置き去りにした。一人で行動して、大きなカブトムシかカミキリムシを捕まえて戻ったらかっこいいと思ったのだ。草花を蹴り上げて、太い木の根を跳びこえて走る僕は、きっと猿みたいだったと思う。
 一人での虫取りは順調だった。虫かごはあっという間に色んな虫でごった煮がえした。そのうち共食いを始めてしまうんじゃないかと少し不安になった。それは困る。だって、捕まえた中にとびきり大きなカブトムシがいたからだ。そいつは、僕が今日まで見てきたカブトムシの中でも一番に大きかった。まあ、だから共食いが始まったとしても、大きいコイツだけが生き残るんじゃないかとも思うのだけど。
けれど、それから三十分くらいした時だったか。
僕はとんでもない大物を見つけた。
 木立の間にぼうっと突っ立っている影。
 人影。
 ――女の人だった。
 僕はついさっき、女の人がいる場所を通り過ぎた。けれど、そのときは、誰もいなかったはずだ。なのに、振り返ったらその女の人はいた。水色の花、夏になるとたくさん咲くラッパみたいな花なんだけど……それに囲まれている。
 女の人は真夏にもかかわらず着物を着ていて、家の蔵に押し込められていた市松人形を思い出させた。見てるこっちが熱くなりそうに暑苦しい格好。だけど、女の人の周りだけ妙に薄暗くて、涼しげだった。さっきまでやかましかった蝉の鳴き声が、今はやけに遠くに聞こえる。音があるのに、しんとしている。
 幽霊だと思った。少なくとも人間でないことは明らかだった。それで、僕はこの山の怖い噂を思い出した。
 深見山には鬼が出る。
 鬼は子どもを攫って食ってしまう。神隠しとも呼ばれていた。
 逃げないと。そう思って後じさったとき、僕の靴の下で木の枝が折れる感触がした。ぱきりという小気味のいい音が、森の静寂を切り裂いていった。
 女の人がゆっくりと僕に振り返った。僕は、大変なことをしでかして怒られるときと同じ気分で身動きができなかった。きっと女の人は般若のような怖い顔をしていて、あっという間に僕に駆け寄ると頭からバリバリと食べてしまうのだ。
 けれど、僕の予想に反して、女の人はとても穏やかな顔をしていた。
 僕が知っている女の人の中で一番きれいなのは、駄菓子屋の一人娘、美津子お姉ちゃんだ。美津子お姉ちゃんは顔立ちはきれいだったけど、気分屋だった。僕がちょっとでも悪いことをするとすぐ怒鳴ったり殴ったりするところが女の子っぽくなくて、もったいなかった。
 けれど、今僕を見ている女の人は、うまくいえないけれど、完璧に『女』だった。
 夏風に揺れる黒の長髪を抑える仕草。ぷっくりと膨れた唇。見ているだけでドキドキしてくる。初めて味わう感覚。
 女の人は僕に手招きをして、「おいで、ぼうや」と言った。
 僕はふらふらと、女の人の方へ歩いていった。それは女の人の顔が鬼とは正反対に優しげだったのもあるし……僕自身が女の人に近付きたいと思っていたからだった。
 こんな森で何をしているのと聞かれたから、僕は虫かごをずいと突き出した。色々な虫がぎちぎちと蠢いている。女の人は優しい表情のまま、細い指をかごに伸ばし、小さな戸を開けてしまった。虫が次々と逃げ出してしまう。僕は慌てて捕まえようとしたがもう遅かった。とびきりに大きいカブト虫を逃がしてしまったのが、悲しかった。
 ――代わりにもっと楽しいことを教えてやろう。
 女の人は僕に手を差しだした。黄色の着物の袖が、アゲハ蝶の翅みたいに閃いた。見ていると頭の中がぐるぐるしてくる模様だった。
 ――うちに来い、一緒に遊んでやる。
 手を取るか迷った。女の人は相変わらず優しげだったけど、なんだか怖かった。連れられたらもう二度と戻れなくなるような……。
 女の人が僕を見る。僕を見つめる目は不思議な色をしていて、着物の模様と同じように、見ていると頭の中がぐらぐらしてくる。そして、なぜだか信じていいかなという気持ちになった。
 僕は女の人の手を取った。
僕たちは枯れ葉に覆われた山道を歩きだした。一緒に歩いているのを、他の男友達に見られたらどうしよう。女と一緒に遊んでいるなんてバレたらクラスの笑いものだ。僕のクラスでは、男と女は完全に別の生き物に分けられていた。好きな女の子がいても、それを隠し通さなければ冷やかされてしまう。だから、僕は美津子お姉ちゃんのことを素敵に思っていても、それを口にすることはなかった。そういう理由で、この着物のお姉ちゃんと遊ぶのにも抵抗が少しあった。
 ……でも。
僕は歩きながら、女の人の顔を見上げる。ここまで綺麗な人なら、バレてもいいかもしれない。口ではからかってきても、心の中では絶対にうらやましがるに決まってる。
 僕は着物のお姉ちゃんの家に連れてこられた。木々で組まれた門をくぐった先にある大きなお屋敷だった。僕はとても驚いた。深見山には何度も遊びに来ていて、家の庭のように知り尽くしたつもりだったけれど、こんな建物があるなんて知らなかったからだ。
 ただ……せっかく来たけど、時刻はもう夕時だった。朱い日差しを浴びる館は、大きなバケツで血をぶちまけたみたいに、真っ赤に染め上げられていた。
 僕、もう時間だから帰らないと。そう言った。僕の門限は五時半だった。空の様子からして、今は五時頃だろう。帰り道を行く時間を考えると、本当にもう限界だった。
 女の人は笑った。
――大丈夫、此処では時間なんぞ気にせず楽しめばよい。
 僕はぶんぶんと首を振った。門限を破ったら、お母さんが心配するし、なによりひどく怒られる。お母さんが怒ると、雷が落ちたみたいにうるさくて怖いのだ。
 女の人は言った。
 ――なら、日が沈んでしまったら、ぼうやを家に帰してやる。それで怒られるならば、私も一緒に怒られてやろう。
 大人がそこまで言うのなら……。僕は頷いて、女の人と一緒に屋敷に入った。
 女の人は色んなことをして遊んでくれた。
 女の人はすごく物知りで、僕が知らないような遊びもたくさん知っていた。広い屋敷をいっぱいに使って、時が経つのも忘れて遊んでもらった。僕にお姉ちゃんがいたら、きっとこんなに楽しかったのかな。
 日は、暮れなかった。
 楽しい時間はあっという間だというけれど、それは嘘だった。着物のお姉ちゃんと遊ぶのは僕が生きてきた中で一番楽しくて、刺激的で、気持ちがいい時間だったけれど、いつまで経っても太陽は同じ位置にあった。だから、僕はいつまでも夕暮れの中で遊ぶことができた。僕はお姉ちゃんなしでは生きていかれない気がした。
 けれど、だんだんお姉ちゃんの方があまり遊んでくれなくなった。年上と言っても女の子だから、疲れてしまったのかもしれない。僕が遊んでとねだっても、気だるげな目で見つめ返されることが多くなった。つられるように、だんだん僕も疲れていった。
 僕はとても疲れた。少し走るだけで息が上がってしまうし、関節がぎしぎしと痛んだ。僕は疲れたから帰りたいと言った。帰りたいと言ったのはそれが初めてだった。
 お姉ちゃんは、良いと答えた。
 僕は聞いた。また遊んでくれるかと。
 お姉ちゃんは緩やかに首を横に振った。僕はとても残念に思った。
 ――もう、可愛くないからな。
 お姉ちゃんは小さく何かつぶやいたが聞き取れなかった。疲れのせいか、耳もよく聞こえなくなっていた。こんな疲れ方をするのは初めてだった。目もしょぼしょぼするし、早く家に帰って寝たかった。
 お姉ちゃんは僕を屋敷の外へ案内した。けど、ここに来た時のように手を引いてはくれなかった。僕の数歩前を黙々と歩いている。なんだか他人みたいに冷たかった。
 木々の門を抜けると、僕がよく知る深見山に戻ってきた。最後にお姉ちゃんにさよならを言おうと振り返った。
けれど、お姉ちゃんはもういなかった。
 夕染めの森を歩く。僕は体力には自信があった。足だって、きっと学校で一番速かった。けれど、今は何故か、歩くだけでとてもしんどい。いつもならひょいと超えられる段差にすら躓いて顔をしたたかに打ち付けた。どろりとした血が頬を伝った。血はなかなか固まらず、だらしなく流れ続けた。 
 森には花が咲いている。水色のラッパみたいな花。夏になると、よく見かける涼しげな花。
視界の半分が青、もう半分が赤で塗り潰されていた。
 森を出るころには、とっくに日は沈んでいた。コウモリがびゅんびゅんと飛び回っていて怖い。いつもならなんてことないのに、今の僕の目は霞んでしまっていて、アイツらの速さを追うことができない。顔に飛んでこられたら、避けようがない。
 ようやく町に着く。
 空の明るさから考えると、多分七時前くらいだ。
町の様子が、いや、皆の様子が変だった。
 みんなは僕のことを、変なモノを前にしたような目で見た。その視線には、いくら子供相手とはいえとても失礼な……酷い意味合いが込められていた。ありていに言って汚いものを見るような……。いくら頭を怪我して血を流しているからって、そんなふうに見るのはあんまりだ。少しくらい心配してくれたっていいじゃないか。
 蕎麦屋の出前を運ぶお兄ちゃんも、タバコ屋のおばちゃんも、駄菓子を片手に立ってる美津子お姉ちゃんも。
 そんな目で見ること、ないじゃないか。
 そういう視線に耐えられなくて。あと、疲れも合わさって最悪な気分だ。
 僕は一刻も早く家に帰りたかった。
三つ先の曲がり角を右に曲がって十秒も歩けば僕の家で、お母さんが作っている味噌汁のいい匂いがするはずなのだ。
けれど、疲れがひどくてうまく歩けない。ほとんど足を引きずるようにして進んだ。いつもならバタバタ走って十秒もかからない道のりに何分もかかってしまう。節々の痛みと、破裂しそうに働いてるくせにどうにも弱弱しい心臓の音を聞きながら、僕は歩く。
 家の前に着いたときには限界だった。僕は胸が苦しくて苦しくて、ゼエゼエしながら硝子戸を叩いた。はやくお母さんに助けてもらいたくて必死だった。
 戸が開けられる。僕は玄関に倒れ込んだ。嗅ぎ慣れた僕の家の匂い。安心する。これで助かった。この苦しさともお別れだ。
 玄関に横たわっていると、なんだか靴にでもなった気分だ。戸を開けてくれた人を見上げる。なんでか視界はぼやけていたけれど、シルエットでお母さんだとわかった。僕は「お母さん」と声をかけようとしたが、ヒューヒューという不気味な息が漏れるだけだった。
 お母さんは何かを言いながら僕の体を掴んだ。動けない僕を部屋まで運んでくれるのだと思った。そうして布団を敷いて寝かせてくれるのだ。知ってるよ。疲れてしまった僕のために梅干しの入ったおかゆも作ってくれるんだ。風邪を引いたときはいつだって辛かったが、お母さんのおかゆが食べられることだけは嬉しかった。
 お母さんは僕の腕を掴んで引きずると、玄関の外に放り出した。何か怒鳴っていたが、疲れて耳が遠くなっていた僕にはわからなかった。
僕は家を閉め出された。
 お母さんの声音は聞いたことがないくらいに冷たかった。僕が何かやらかしたときは、雷みたいガミガミ怒るのに。それとはまったく違った怖さ。血の通っていない口調だった。そこで僕は、家を出るとき麦わら帽子をしなかったことを思い出した。それで怒っているんじゃないだろうか。そんなことであんなに怖い声を出すなんて信じられなかったけど……。ああ、そうか。門限だ。門限を破ってしまったから。そうに違いない。
 ごめんよ、お母さん。明日からちゃんと麦わら帽子するからさ。門限も破らないから。
 僕は力なく倒れている。黒い蟻が、僕の目線と同じ高さを歩いている。息をすると土ぼこりが鼻に入ってむずかゆかった。
 最後の力を振り絞って、僕はもう一度家に入ろうと上体を起こした。硝子がはめられた戸に手をかけようと、ぶるぶる震えながら近づいた。
 そうして、薄暗い硝子に映るその人を見た。
 あちこち黒く汚れて、ボロ切れみたいな布をまとったお爺さん。あんまりにびっくりして、僕の心臓は跳ね上がるみたいに大きく動いた。それがいけなかった。疲れていた心臓にそれは良くなかった。
 あっと思った時には地面と空がぐるぐる回って、自分がどこにいるのかわからなくなった。目の周りが黒い絵の具で塗り潰されていくみたいにどんどん真っ暗になっていく。上も下もわからない暗闇に意識だけ放り出されるみたいで怖かった。そうなったら、もう戻ってこれないことはわかっていたけれど、身体の全てが疲れてしまっていた僕には何もできなかった。
 最後に、僕はお姉ちゃんと見た沈まない夕日のことを思い出していた。

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