1 / 59
第一幕
宵君
しおりを挟む「――敵の軍勢は二万五千、対して此方は七千だ。勝算は?」
其処此処で黒煙の立つ夕暮れに、呟く歩兵が居た。まだ若いその男の声はどこか高揚し、またそれに答える声も、自信に満ちている。
「俺達の勝ちさ。だって俺達の総司令様は」
折よく遠くで響く轟音、敵兵の雄叫びと悲鳴。それは勝ち戦を報せる、彼らの主からの心強い矢文と同義。雑兵どもは歓声を上げ、槍の切っ先を日に翳す。喜びと安堵に満ちた目が朱色の大門を振り返った。
その大門を見守る砦に敷かれた本陣では冒頭の雑兵どもの主、宵君が両の手の指を合わせながら、淡々と指揮を執っていた。その指はやがて、縁台の絵地図をすっと辿り、また一言声を掛ける。
「頼鹿の隊は崖の上から奇襲。清高の隊は正面から応援に行け」
「しかし上様。この崖は飛び降りるには些か高すぎるかと」
宵君の一言で敵は十、二十と数を減らして行った。仮面に隠されたその表情はうかがい知れぬが、同胞の身を案じる声にも「敵兵という緩衝材を目掛けて飛べば問題ない」と一言答えるのみ。これには殿上人へ意見を述べる肝の据わった男といえど、黙る他ない。戦の前には皆の士気を高め、後にはねぎらいの言葉と褒美を惜しまぬ宵君だが、その最中となるとどうにも手厳しいところがある。
「安心しろ、私も幾度となく使った手だ。まぁ、愚鈍なれば骨の一本くらいは折れるだろうがな」
微かにその喉が震えた。笑うところなのか、と傍に控える近臣どもの表情も苦くなるばかり。とはいえ此処は戦場。本陣の中枢がまごついている場合ではない。急ぎ伝令をと駆ける背中に、宵君は「着地に自信のない者は、馬や恰幅の良い兵を選んで狙うが良い」と声をかけた。
一刻もせぬ間に、藪に紛れた戦場から、一人の歩兵が本陣に駆け戻った。頼鹿隊の者だ。
「崖からの奇襲に気を取られ、混乱した敵の本陣は崩壊! 清高様の隊による応援も実に頃合い良く……我が軍の勝利です!」
瞬く間に歓喜の声は広がり、士気を削がれた敵兵は大門に背を向け逃げ出した。味方に妥協を許さなければ敵にも情けをかけぬ宵君だが、此処ではあえてそれを見逃してやるのだ。
「二度と公主の幼きことを好都合などと思い上がり、野蛮なる隣人がこの沖去に攻め上らぬよう、彼奴らには語り部となって貰おう。あの京には天女の前に鬼が立ち塞がる、とな」
――美しき朱の鬼と、顔の爛れた醜い藍の鬼がな。
仮面を取り去った宵君の顔は、その右側が醜く歪み、得も言われぬ恐ろしい形相だという。これは青年の折に患った天然痘の為と周知のこと。
宵君は美しかった。顔の半分に残された四十を超えたと思わせぬ若々しさと美貌は、それゆえ爛れた皮膚の醜さを際立たせる。永く仕えた家臣ですら宵君の顔を見て頬を引き攣らせるので、心許した者の前、或いは脅しをかけるような場合を除いて、宵君はその顔を白い陶器で隠すことにしたのだ。
「宵殿、此度の戦、まことに見事なものでございました。諸国が恐れる隣国の大軍を、あのように鮮やかに撃退なさるとは流石です」
下馬した宵君を迎えたのは、宵君が美しき朱鬼と称えた暁光という男だ。成程、宵君の評した通り、造り物と見紛う美丈夫である。
幻驢芭家当主である宵君と、白爪家当主である暁光は、まだ幼き公主に代わってこの沖去という京を護り、歴代の両家当主は周辺の列強の侵略を幾度も退けた名将たちといえる。
幻驢芭家は皇家の血筋を引き、皇家を除いた公家諸侯で最も高位の家柄。皇家の子が途絶えた世には、幻驢芭家から養子を迎えた例も少なくない。一方の白爪家は、現存する文献によれば最も長く皇家、幻驢芭家に仕えており、戦乱を繰り返す世を生き抜いた最古の武家の一つである。
「あの程度の小競り合いなど他愛もない。其方であれば日の落ちぬうちに片がついたであろうな」
「またそのような」
酒の席を用意してあります。そう言って宵君を自邸の縁側へ導く暁光の下心は、最早見え透いている。宵君は苦笑しつつ頷いた。
縁側に腰を下ろせば、目前には腕の良い庭師の施した枯山水が見渡せた。夏の終わりの涼やかな風が程よく吹き込み、戦で疲れた頭と身体には心地良い空間である。
「……して、今度は何だ」
「貴方に少しばかりお願いがございます。というより、相談かな……」
隣に腰掛け、宵君に酌をしながら朱の色男は肩を竦めた。あぁ、この顔は女絡みの相談かと宵君は察し、にやりと口角を上げる。
「女の扱いなど、自力で何とかなろう」
「否、それが……公主のことなのですが」
「あのませたお姫がどうかしたか」
「宵殿、誰が聞いているとも……」
「構わぬ。近頃の公主といえば政のたぐいは私に任せきりで、其方と歌詠みや説法にふけるばかり。信心深きはご立派なことだが、其方とて暇ではあるまい」
「……えぇ、実は相談というのも、そのことで」
苦笑いを浮かべ、暁光は酒を煽った。宵君はそういうことか、と伏目で笑い、権威のある御方に気に入られるというのも時には難儀なものだな、と呟く。
「其方は気に入られているのだから一言きっぱりと申し上げればよかろう。其方の言を公主は無下にできぬゆえ」
「申し上げたところその、『いっそこの暁光を婿に娶れるのなら、稀代の名君となろうとすら思うのに』と……お戯れが過ぎると申し上げたのですが、斯様な冗談があるかと泣かれてしまいました」
「……公主はまだ御年十二。それも皇家の気高き血を宿す御方よ。いくら白爪家嫡流の当主とはいえ、武家の男との恋路が実るお立場ではない。公主とて左様なことは解り切っておられる。余程、其方に心を寄せているご様子」
一方的に命を下せば済むものを、あえて独り言のように乞われては、良心が痛むのも無理はない。如何したものかと途方に暮れる暁光を見かね、宵君は苦笑を返した。
「相わかった。私から公主に申しておこう」
「かたじけのうございます」
「何、其方は私の義弟も同然。捨て置くわけもなしに。それに、私もそう長くはないゆえ、公主には政の一から百までを早う覚えて頂かねばならん」
「……やはり、病状は芳しくありませんか」
酒瓶を傾ける手を止め、暁光は先程までよりいくらか厳かな声を漏らす。そんな暁光にどこか諦観の伺える笑みを寄越し、宵君はまぁな、と呟いた。
「此の世に治す術がないのでは、西洋の医学に精通した堕們といえど如何しようもあるまい。堕們は稀に見る名医ゆえ、父君はあれを私に充てがったが」
表情を曇らす暁光を余所に、当の宵君は随分と楽観的である。暁光は、幼少の折より幾度も病に臥してきた宵殿にとっては、不治の病といわれても、今更大したことではないのかもしれぬ、と気を取りなおした。
「……時に暁光よ。私は明日、隣国の皇帝に、此度の戦の沙汰について談義する為に拝謁仕るのだが、供に鯨を貸してはくれぬか」
「……鯨一郎を?」
「左様。清高と頼鹿は、先の戦の功への褒美のうちひとつとして生家に顔を見せたいと申し、差し迫る戦もないゆえそのようにした」
「成程、喜んで。鯨一郎にはすぐ、明日の支度をするよう申し付けましょう」
暁光の返事に礼を述べ、宵君はさて、と腰を上げた。
「そろそろお暇する。其方が酔っ払って私に甘える姿など、この家の者に見られでもしたら大事よ。公主の件は承知した。鯨にはよしなに伝えてくれ」
「御意。道中暗うなって参りました、供の者をつけさせます」
門扉までお見送りしよう、と宵君の背中を追い、暁光は道すがら家人に宵君が「鯨」と呼ぶ男への言伝を頼んだ。
青桐鯨一郎という男は生真面目で寡黙な性分で、宵君より三つ、暁光より十ばかり歳は上である。宵君も暁光も、幼い頃から鯨一郎の説教を受けながら育ったのだが、存外あの小うるさい鯨一郎の文句を聞くのはやぶさかでないのだった。
宵君は、鯨一郎のその恵まれた体躯とかけて「鯨」と呼びからかうことを好む。その度に鯨一郎は呆れたような顔をして、「私が鯨なれば、宵殿はさながら鮫にございまするな。いつの日か私の横腹に咬みつき、食い千切ってしまわれる」 と言い返すのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる