花浮舟 ―祷―

那須ココ

文字の大きさ
14 / 59
第二幕

開戦

しおりを挟む

 瓦に降り掛かった白雪が溶け始める頃、幻驢芭邸から明頼と繁國が去った。
 名乗りを上げたわずかな近臣と明頼の妻、その侍女を連れ、御所の東に構えられた居城へ入る。そこには既に公主を連れた洸清、鯨一郎も居り、一月分程の兵糧と武具も整っていた。

 巨大な両家が散り散りに割れ、戦の準備をしている。その様を見て、まことにただならぬ災いが迫っていると知った民の中には、京を捨て逃げ出す者も出た。


 荷解きもそこそこに、洸清は天守閣から御所の庭園を眺める。取り残された朱塗りの小舟は寂しげに、ただ水面に揺られていた。

 この城は遠い昔、名のある武家が将軍家として所有していたものだが、後に御所が構えられると「神子の住まわれる御所をこのように見下ろすのは不敬である」として無人となった。

「その神子は今、御所には居られぬのだ。皮肉なものだな」

 この地が沖去京となる以前の事情の為、洸清も伝え聞いたのみだったが、まさかこのような形で自分がこの城へ入ることになるとは、と目を伏せる。公主の寝所は万一に備え、京の外へ通ずる路のある離れに用意するよう、御所から公主に従った侍女に申しつけた。

 ――公主殿下を寂れた離れにお連れするのは気が引けるが、御殿などでは逃げ道がない。御身の安全が優先だ。

 宵君、暁光もよもや公主に危害を加えるはずはないが、保証は出来ない。不甲斐ない思いに苛まれる洸清だったが、他ならない公主が事態をよく理解し、離れに身を潜めることに潔く頷いたのが救いである。

「上様」

 背後からそっと掛けられた声に、洸清は思わず肩を跳ねさせた。振り返れば、苦い顔をした鯨一郎が「夕餉ゆうげに致しましょう」と続ける。

「あぁ……」

「今宵は気を利かせた侍女が買い求めた菓子もございます。公主殿下の御心が少しでも休まると良いのですが……」

 上様も甘味はお好きでしょう。今宵は夕餉の後はもう休まれませ。階段を降りながら、いつになく饒舌じょうぜつな鯨一郎の声が遠く霞む。

『上様』

 そう呼び掛けられた時、確かに目蓋の裏に兄の背中が見えた。穏やかな微笑みが振り返り、鯨一郎と何かを話している。父が身罷みまかってから幾度となく目にした、耳にした光景。

 ――もう鯨一郎は兄上を呼ばないのだ。

 洸清は息を飲んだ。本当にこれで良かったのか。不安を振り払ってくれる者は、自身の他に居ない。

 ――まことに、此処に居る皆を私が率いるのか。部隊を任されたことはあれど、大将となり采配をったことなど一度もない。そんな私に、まことに命を預けに集ったのか、皆は。

 広間の面々を見渡し、洸清は引き結んだ唇を噛む。手のひらが寒さに震えた。


 梅の花の蕾が丸みを帯び、高山を覆う雪も裾から溶けて消え始めた。幻驢芭邸の女房どもは戦を目前にしているにも関わらず、呑気に正室、淡海おうみの室へ集い、話談に花を咲かせている。どうやら彼女らのうれいは、戦ではなく他のところにあるらしい。

「あんまりじゃありませんか、公主殿下と婚儀を結ばれるということは、それでは淡海様はどうなります」

 菓子の膳を差し出しながら、侍女が声を潜めて嘆いた。側室らもそれに同調し、茶碗に着いた紅を懐紙で拭いつつ口を開く。

「当然、正室は公主殿下となる……」

「淡海様は永く殿に添われ、如何なる時も傍でお支えした方だというのに」

「何より嫡男、京宵けいしょう様の生母であられる淡海様に何たる仕打ちか」

 淡海は元は皇家の出であり、公主の叔母にあたる。華やかで凛とした顔立ちと、品がありながら堂々とした所作に、幻驢芭に仕える女達は皆彼女に強い憧れを抱いた。妬みそねむ余地もない程に宵君の隣に並び立つ様は美しく、理想の夫婦めおとと評されるに相応しい姿である。ただ静かに微笑んでいた淡海は、訪れたひと時の静寂に優しく彼女らを諭した。

「殿のご決断に口を出してはならぬ。其方らがこれほどまで私を慕ってくれるのは嬉しく思う。なれど我らは幻驢芭の女。殿のお背中に庇われておる立場ということを忘れてはならぬぞ」

「淡海様……」

 藤の打掛けや藍色のかんざしを宵君の影を追って選び、それに流れる黒髪も彼の人と同じ長さに切り揃えられていた。恋に身を浸すいじらしさを持ちながら、己を律し、幻驢芭の繁栄のみを祈っている。

「愛する心と信ずる心を持ち続け、強く立っていれば、殿は私の心を無下にはなさらぬ。そうしてふとした瞬間、視線を合わせて微笑みをくださる。平生の微笑みとは違う、夫としての眼差しを。私はそれだけで充分」

 戦が終われば他の娘が宵君の正式な妻となり、公式の場でも隣に座すのは自分ではなくなる。

 ――殿のお隣は、何物にも代え難き私の誇り。たとえ誰かにそれを奪われようと、心はいつも貴方のお隣に。



しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

処理中です...