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第二幕
開戦
しおりを挟む瓦に降り掛かった白雪が溶け始める頃、幻驢芭邸から明頼と繁國が去った。
名乗りを上げたわずかな近臣と明頼の妻、その侍女を連れ、御所の東に構えられた居城へ入る。そこには既に公主を連れた洸清、鯨一郎も居り、一月分程の兵糧と武具も整っていた。
巨大な両家が散り散りに割れ、戦の準備をしている。その様を見て、まことにただならぬ災いが迫っていると知った民の中には、京を捨て逃げ出す者も出た。
荷解きもそこそこに、洸清は天守閣から御所の庭園を眺める。取り残された朱塗りの小舟は寂しげに、ただ水面に揺られていた。
この城は遠い昔、名のある武家が将軍家として所有していたものだが、後に御所が構えられると「神子の住まわれる御所をこのように見下ろすのは不敬である」として無人となった。
「その神子は今、御所には居られぬのだ。皮肉なものだな」
この地が沖去京となる以前の事情の為、洸清も伝え聞いたのみだったが、まさかこのような形で自分がこの城へ入ることになるとは、と目を伏せる。公主の寝所は万一に備え、京の外へ通ずる路のある離れに用意するよう、御所から公主に従った侍女に申しつけた。
――公主殿下を寂れた離れにお連れするのは気が引けるが、御殿などでは逃げ道がない。御身の安全が優先だ。
宵君、暁光もよもや公主に危害を加えるはずはないが、保証は出来ない。不甲斐ない思いに苛まれる洸清だったが、他ならない公主が事態をよく理解し、離れに身を潜めることに潔く頷いたのが救いである。
「上様」
背後からそっと掛けられた声に、洸清は思わず肩を跳ねさせた。振り返れば、苦い顔をした鯨一郎が「夕餉に致しましょう」と続ける。
「あぁ……」
「今宵は気を利かせた侍女が買い求めた菓子もございます。公主殿下の御心が少しでも休まると良いのですが……」
上様も甘味はお好きでしょう。今宵は夕餉の後はもう休まれませ。階段を降りながら、いつになく饒舌な鯨一郎の声が遠く霞む。
『上様』
そう呼び掛けられた時、確かに目蓋の裏に兄の背中が見えた。穏やかな微笑みが振り返り、鯨一郎と何かを話している。父が身罷ってから幾度となく目にした、耳にした光景。
――もう鯨一郎は兄上を呼ばないのだ。
洸清は息を飲んだ。本当にこれで良かったのか。不安を振り払ってくれる者は、自身の他に居ない。
――まことに、此処に居る皆を私が率いるのか。部隊を任されたことはあれど、大将となり采配を執ったことなど一度もない。そんな私に、まことに命を預けに集ったのか、皆は。
広間の面々を見渡し、洸清は引き結んだ唇を噛む。手のひらが寒さに震えた。
梅の花の蕾が丸みを帯び、高山を覆う雪も裾から溶けて消え始めた。幻驢芭邸の女房どもは戦を目前にしているにも関わらず、呑気に正室、淡海の室へ集い、話談に花を咲かせている。どうやら彼女らの憂いは、戦ではなく他のところにあるらしい。
「あんまりじゃありませんか、公主殿下と婚儀を結ばれるということは、それでは淡海様はどうなります」
菓子の膳を差し出しながら、侍女が声を潜めて嘆いた。側室らもそれに同調し、茶碗に着いた紅を懐紙で拭いつつ口を開く。
「当然、正室は公主殿下となる……」
「淡海様は永く殿に添われ、如何なる時も傍でお支えした方だというのに」
「何より嫡男、京宵様の生母であられる淡海様に何たる仕打ちか」
淡海は元は皇家の出であり、公主の叔母にあたる。華やかで凛とした顔立ちと、品がありながら堂々とした所作に、幻驢芭に仕える女達は皆彼女に強い憧れを抱いた。妬み嫉む余地もない程に宵君の隣に並び立つ様は美しく、理想の夫婦と評されるに相応しい姿である。ただ静かに微笑んでいた淡海は、訪れたひと時の静寂に優しく彼女らを諭した。
「殿のご決断に口を出してはならぬ。其方らがこれほどまで私を慕ってくれるのは嬉しく思う。なれど我らは幻驢芭の女。殿のお背中に庇われておる立場ということを忘れてはならぬぞ」
「淡海様……」
藤の打掛けや藍色の簪を宵君の影を追って選び、それに流れる黒髪も彼の人と同じ長さに切り揃えられていた。恋に身を浸すいじらしさを持ちながら、己を律し、幻驢芭の繁栄のみを祈っている。
「愛する心と信ずる心を持ち続け、強く立っていれば、殿は私の心を無下にはなさらぬ。そうしてふとした瞬間、視線を合わせて微笑みをくださる。平生の微笑みとは違う、夫としての眼差しを。私はそれだけで充分」
戦が終われば他の娘が宵君の正式な妻となり、公式の場でも隣に座すのは自分ではなくなる。
――殿のお隣は、何物にも代え難き私の誇り。たとえ誰かにそれを奪われようと、心はいつも貴方のお隣に。
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