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第三幕
常世
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無数の骸だけが残された森林から、東軍本陣の宵君のもとへ駆け戻ったのは墮速だった。恭也が戻らないことに首を傾げる宵君を見上げ、淡々と戦況を報告する。
「川辺の陣に続き、西軍本陣を護る鶴翼の三陣のうち左翼を制圧致しました。此方の魚鱗の陣は、それぞれの判断で三手に分かれ、数を失った西軍を分断させ優勢にあります」
「そうか」
「続いて、森林ですが……」
墮速が言葉を続ければ、宵君の傍に控えていた暁光が固く両手を握り締める。それを横目に、墮速は声が震えぬように、絞り出すように告げた。
「恭也殿は、お討死……否、自刃なされました」
暁光の肩が強ばる。一瞬動きを止めた宵君は数度頷き、近くの者に「月香をこれへ」と囁いた。胡床から立ち上がり、重い髪を手套越しに指で梳く。
「『討たれるも良し』と申した覚えはないが……まぁ良い。私が出陣る」
月香の手網を受け取り、艶のある鼻を撫でながら宵君は笑った。
「鯨に功を上げさせるのは癪であるからのう」
生い茂る木々の陰から抜け出るまであと一歩というところで、先頭の繁國の馬が止まった。明頼、鯨一郎を乗せた馬もつられたように足を止め、腿を蹴っても手綱を引いても従う気配がない。
「如何したというのだ」
「さぁ……」
馬を宥める鯨一郎と首を捻る明頼を横目に、繁國はたった今歩いた路、薄暗い森林の奥を見つめた。そこはひやりと冷たい空気を纏い、鬱蒼としている。
微かに、金木犀の香りが蘇った。
「上様だ」
繁國の声に鯨一郎が顔を上げる。その背後には既に黒く艶めいた前脚が迫っていた。
「鯨一郎殿!」
月香に踏み蹴られ、驚いて嘶く馬の背から咄嗟に飛び降りた鯨一郎だが、馬は混乱のまま走り去ってしまう。しかしその姿を目で追ういとまなどなかった。白い太刀の刃先が、一つに結われた鯨一郎の髪を散らし、頬を掠める。
「ほう、避けられたか。私も耄碌したな」
やっとその姿を見上げると、やはりそこには鴉色の鎧を纏った宵君が首を傾げていた。濡羽の髪がぬるい風に漂い、馨しい花の香りがひりひりと頬の傷を撫でる。
「明頼殿、繁國殿の馬へ」
「え、えぇ……」
二人を背に庇うようにして、鯨一郎は宵君と対峙する。月香の背から降り、たった一歩、宵君が足を踏み出した。ただそれだけで、踵がひとりでに土を踏みにじり、後ろへ退こうとするのを必死で留める。
「兄君……」
掠れた声が明頼の口から零れた。暮れる藤色の空に、血潮の如く朱が沈みかけている。表情のない陶器が明頼の方を向き、懐刀をその顔を目掛けて放った。
「明頼殿!」
鞍に、ぽたりと血液が落ちる。二つ、三つと垂れた赤い色を呆然と見ていた明頼だが、直ぐに顔を上げた。目の前には鋭い切っ先。そしてそれを固く握り、指の隙間から血を流す繁國の右手があった。鯨一郎が安堵した息を吐く。
「……親子は似るものだな」
これは参った、という宵君の笑い声を聞き、鯨一郎は眉を顰めた。
「ご自分の弟御を、何の躊躇いもなく……」
「……はて?」
宵君が僅かに身動ぐ。それを見て身構えた鯨一郎だが、脇差の柄を握り直した刹那、左の腿を鋭い痛みが襲った。
「弟なれば殺してはならぬのか?」
じくじくと痛む箇所には、宵君に握られた短刀が深々と刺さっている。するりと手を離した宵君は柄を指先でとん、と押し込んだ。
「ぐ……っ」
「敵は等しく敵であろう。恭也を討ったお前になら解る」
「……左様、でありましたな」
鯨一郎の振るった脇差をひらりと躱し、宵君は緩く両手を広げる。
「嗚呼……恭也は、お前が討ってしまった」
抱擁を授けるような所作で、「ゆえに、帳尻を合わせねばならぬ」と首を傾げた。広げた腕を下げ、太刀の切っ先を鯨一郎に向ける。
「東軍が獲られた恭也と同等の西軍の痛手。お前を貰おう、鯨一郎」
「川辺の陣に続き、西軍本陣を護る鶴翼の三陣のうち左翼を制圧致しました。此方の魚鱗の陣は、それぞれの判断で三手に分かれ、数を失った西軍を分断させ優勢にあります」
「そうか」
「続いて、森林ですが……」
墮速が言葉を続ければ、宵君の傍に控えていた暁光が固く両手を握り締める。それを横目に、墮速は声が震えぬように、絞り出すように告げた。
「恭也殿は、お討死……否、自刃なされました」
暁光の肩が強ばる。一瞬動きを止めた宵君は数度頷き、近くの者に「月香をこれへ」と囁いた。胡床から立ち上がり、重い髪を手套越しに指で梳く。
「『討たれるも良し』と申した覚えはないが……まぁ良い。私が出陣る」
月香の手網を受け取り、艶のある鼻を撫でながら宵君は笑った。
「鯨に功を上げさせるのは癪であるからのう」
生い茂る木々の陰から抜け出るまであと一歩というところで、先頭の繁國の馬が止まった。明頼、鯨一郎を乗せた馬もつられたように足を止め、腿を蹴っても手綱を引いても従う気配がない。
「如何したというのだ」
「さぁ……」
馬を宥める鯨一郎と首を捻る明頼を横目に、繁國はたった今歩いた路、薄暗い森林の奥を見つめた。そこはひやりと冷たい空気を纏い、鬱蒼としている。
微かに、金木犀の香りが蘇った。
「上様だ」
繁國の声に鯨一郎が顔を上げる。その背後には既に黒く艶めいた前脚が迫っていた。
「鯨一郎殿!」
月香に踏み蹴られ、驚いて嘶く馬の背から咄嗟に飛び降りた鯨一郎だが、馬は混乱のまま走り去ってしまう。しかしその姿を目で追ういとまなどなかった。白い太刀の刃先が、一つに結われた鯨一郎の髪を散らし、頬を掠める。
「ほう、避けられたか。私も耄碌したな」
やっとその姿を見上げると、やはりそこには鴉色の鎧を纏った宵君が首を傾げていた。濡羽の髪がぬるい風に漂い、馨しい花の香りがひりひりと頬の傷を撫でる。
「明頼殿、繁國殿の馬へ」
「え、えぇ……」
二人を背に庇うようにして、鯨一郎は宵君と対峙する。月香の背から降り、たった一歩、宵君が足を踏み出した。ただそれだけで、踵がひとりでに土を踏みにじり、後ろへ退こうとするのを必死で留める。
「兄君……」
掠れた声が明頼の口から零れた。暮れる藤色の空に、血潮の如く朱が沈みかけている。表情のない陶器が明頼の方を向き、懐刀をその顔を目掛けて放った。
「明頼殿!」
鞍に、ぽたりと血液が落ちる。二つ、三つと垂れた赤い色を呆然と見ていた明頼だが、直ぐに顔を上げた。目の前には鋭い切っ先。そしてそれを固く握り、指の隙間から血を流す繁國の右手があった。鯨一郎が安堵した息を吐く。
「……親子は似るものだな」
これは参った、という宵君の笑い声を聞き、鯨一郎は眉を顰めた。
「ご自分の弟御を、何の躊躇いもなく……」
「……はて?」
宵君が僅かに身動ぐ。それを見て身構えた鯨一郎だが、脇差の柄を握り直した刹那、左の腿を鋭い痛みが襲った。
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じくじくと痛む箇所には、宵君に握られた短刀が深々と刺さっている。するりと手を離した宵君は柄を指先でとん、と押し込んだ。
「ぐ……っ」
「敵は等しく敵であろう。恭也を討ったお前になら解る」
「……左様、でありましたな」
鯨一郎の振るった脇差をひらりと躱し、宵君は緩く両手を広げる。
「嗚呼……恭也は、お前が討ってしまった」
抱擁を授けるような所作で、「ゆえに、帳尻を合わせねばならぬ」と首を傾げた。広げた腕を下げ、太刀の切っ先を鯨一郎に向ける。
「東軍が獲られた恭也と同等の西軍の痛手。お前を貰おう、鯨一郎」
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