花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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第五幕

寵妃

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 隣国、嘉阮かげんの宮殿では、真白い毛並みの牛を六頭立てにいた車が皇帝直々の出迎えを受けていた。馭者ぎょしゃに手を引かれ、踏み台に降り立ったその人を見るや否や、皇帝は歓声を上げる。

「おぉ、佳凛かりんよ。ようやっと其方を我が宮殿に招く用意が整った。否、何……余はちと多忙での。決して、決して其方の身請け金を工面しておったわけではないぞ」

 弁明を聞き流し可憐な愛想笑いを浮かべてやれば、皇帝はぴたりと言葉を途切れさせ、溜息を漏らした。

「……まことに其方は美しい。醜い仮面男などには勿体ない。そうじゃ、あの仮面男などには」

 他の妃の顔を潰してはならぬ都合上、佳凛の住まいはかつての冷宮れいぐうである。しかしその全てが美しい調度品や生花で飾られ、奴婢ぬひも八人ほど用意してあった。自身の先の言葉を反芻はんすうするように、皇帝は満足げに頷く。

「嗚呼、そうじゃ、あのいけ好かぬ沖去のあお鬼がねんごろにしておる佳凛を、彼奴が戦に明け暮れておる間に余が身請けてやった! ふふふ、彼奴の悔しげな顔が目に浮かぶわい」

 今宵は移動の疲れがあろう、明日の夜は早速其方の宮を訪ねるゆえ、充分に休んでおけ。そう言い残して上機嫌に去る皇帝を見送り、佳凛は哀れな自身を嘲るように笑った。

 ――まことに、宵様が私のことを悔やんで下さるのなら、どんなに幸せか。宵様は誰をも愛し、また誰も愛さない御方。あの方が私に執着したことなど、ただの一度もないというのに。

 少し掠れた安堵を誘う声も白く滑らかな指先も、そして傾国の花魁すら羨むほどの濡羽色の髪も、二度と聴くことも触れることも叶わない。暗雲に見え隠れする月のように、留めておくことの出来ない男。

 ――そんな貴方を、愚かな私はまだ愛している。貴方の背負うもの全てを奪ってしまいたいほどに。



「……のう、佳凛よ」

 月の少し欠けた夜、約束通り佳凛の宮を訪れた皇帝は、しとねに身を起こし花瓶の長春花バラを眺めながらぽつりと語りかけた。

「余は沖去が欲しい」

 それは改めて言葉にせずとも、山あいの村民ですら知っている嘉阮皇帝の長年の望みだが、あまりに手詰まりであるのでつい零れたのだろう。

「……ならば、得られませ。陛下のお力の前には、小さき京など容易いことでおざんしょう」

 佳凛は皇帝を喜ばせる返事のつもりだったが、皇帝はどこか気もそぞろな様子で佳凛に背を向ける。

「まことにそうであれば、とっくにそうしておる。しかしあの男が御門となった今、相互不戦の約定やくじょうを破り攻め入ろうものなら、如何なる報復が待つやら。やはりあれが死ぬのを待つか」

 佳凛はそろりと身を起こし、皇帝の肥えた背に寄り添う。贅肉が柔らかく、それがなまじ心地良いので思わず笑い声を立てた。金木犀の香りを纏った一通の文を思い出す。

「……陛下」

「ん?」

「陛下は、私に何でもお与え下さいんすか」

 猫撫で声で肩に指を滑らせれば皇帝は無論、と笑った。果実の色をした瞳が、獣の眼光を宿したことにも気づかずに。

「可愛い其方の頼みとあらば、何でも与えよう」

 ほんの僅か振り返り、「欲しいものでもあるのか」と尋ねる皇帝に含み笑い、佳凛は髪に挿した簪をひとつ、皇帝の冠に挿す。

「私は沖去の夜・・・・が欲しゅうて。陛下、どうか佳凛の為に獲ってきて下さんし」

 佳凛の囁きに、皇帝は飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がった。言葉を探し、目を瞬かせる皇帝に近づき、実は、と瞳を伏せる。

「沖去の宮内の奴婢に、あざみという旧い知人がおりんす。あの子が今朝方、私に文を寄越した」

 宵君の傍で仕える自らの身の上を誇る為、宵君の香を焚き染めた文を。なんて嫌な女。佳凛は内心で唾を吐いたが、続きを促す皇帝の目差しに頷いた。

「文によると、宵君は婚儀の直後より病に臥して、政や戦からはしばし退いているとか」

「……其方は、今が好機と申すか」

「宵君が軍扇を執らぬ沖去など、それこそおそるるに足らず」

 皇帝は吃音きつおんを漏らすばかりで、是とも否とも口にしない。佳凛はもう一押しと皇帝の手を掴み、泳ぐ目を鋭く射抜いた。

「全て陛下のものになりんす。沖去の地も、財も民も全て。私はひとつしか望みやしない」

 全て、と細く呟き、皇帝は彷徨わせていた視線を佳凛の瞳に合わせる。その時、目の前の可憐な女が、血腥い花街を生き延びた獣であると思い出した。

「しかし、其方の望みとはあれ・・のことであろう。この皇帝の妃でありながら他の男を所望するとは、不敬であるぞ」


「左様な心はありんせん。私はあの男を心底憎んでお願いしているだけ。私に恥をかかせたあの男を宦官として傍に置き、一生涯辱めてやりとうて」

 しばし押し黙っていた皇帝は、佳凛の瞳を見つめ、深く息を吐き出した。

「な、なんだ、そういうことか。……しかし其方は恐ろしい女よの。ふむ、気に入った。考えてみれば、あの宵の屈辱に眉を顰める顔を見るのもまた一興である」

 佳凛の両手を取り、皇帝は「そうか、其方も宵が憎いか」と上機嫌に頷く。薄い笑みで喜ぶ愚かな皇帝の手を、佳凛は緩く握り返した。

 ――宦官でもいい。傍で生きて、笑ってくれるのなら。したがやはり私は、少しは貴方を憎んでいる。この私を置いて、青鳥せいちょうを身請けた貴方を。





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