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ターヘル・アナトミア(解体新書)

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 「では、もう少しだけ、私の昔話に、お付き合いを願います」
 そう言った玄白は、思い出したかのように、小さな咳を二つした。

 「……カピタンとの面会から、六年後のことになります。
 私は『ターヘル・アナトミア』という、西洋の解剖学書に取り憑かれました。
 そうです『解体新書』の原書です」
 玄白は再び語りはじめた。

 『ターヘル・アナトミア』の原本は、ドイツ人医師ヨハン・A・アダムスが著した解剖学書である。
 この解剖学書を蘭語に訳した書物が、日本では『ターヘル・アナトミア』と呼ばれる。
 『ターヘル・アナトミア』とは、『解剖図表』というような意味である。

 この『ターヘル・アナトミア』を知り合いのオランダ人から借り受け、玄白に見せたのは、中川淳庵であった。
 玄白は、その精密な解剖図に魅入られた。

 心臓、肺臓、肝臓、大腸などの臓腑はもちろんのこと、人間の皮膚を頭からつま先まで完全に剥がし、その下に、どのように筋肉がついているのかを表した図。
 さらに全身の骨格図はもちろん、背骨、頭蓋骨、頭蓋骨の断面図までもある。
 頁をめくっていくと、男性の頭部を切り開き、脳みそがどのように保護され、頭蓋骨に収まっているのかが分かる図までもが、精密な線によって描かれていた。

 日本にも『蔵志』という腑分け図(解剖図)は存在したが、まるで別物であった。
 「これは凄いものだ……」
 『ターヘル・アナトミア』を持つ玄白の手は震えた。
 蘭語で書かれた文章を読むことが出来なくても、その解剖図だけで、この医学書にどれほどの価値があるのかは、容易に理解できる。

 後日、杉田玄白、中川順庵、中津藩医の前野良沢は、町奉行所に許可を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さを確かめるため、千寿骨ヶ原で罪人の死体の腑分けにまで立ち合った。

 罪人は女性であった。
 玄白たちが現れたときには、すでに息絶えていた。

 「よいですか?」
 死体を処分する者たちが、玄白達の前で、女罪人の遺体の腹を切り裂いた。
 器用に皮膚と筋肉だけを切る。
 腹圧で、傷口から内臓が盛り上がった。

 『ターヘル・アナトミア』に描かれていた臓物が、描かれていた位置から出てくる。
 驚嘆すべき正確さであった。

 これの書は日本の医学に必要だ。
 『ターヘル・アナトミア』を訳し、内容を理解することが出来れば、多くの病を治すことが出来る。
 異臭を放ちながら、溢れる臓器を見る玄白は、かつてないほど高揚している自分を感じた。

 玄白は、小浜藩に『ターヘル・アナトミア』の必要性を解きに解き、ついに購入を認めさせた。
 『ターヘル・アナトミア』をオランダ人から買い取った玄白は、若い蘭学者の桂川甫周も加え、さっそく良沢の屋敷で、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始した。

 翻訳が完成すれば、日本の医術は飛躍的に発展する。
 しかし、蘭和辞典など存在せず、良沢がわずかな単語を知っているだけであり、翻訳は難航を極めた。

 「源内先生がいれば……」
 玄白は日に幾度となく、そうつぶやいた。

 そのころ平賀源内は、新たなる才能の一面を開花させ、全国を飛び回っては、河川工事や鉱山開発などに手を出していたのである。
 玄白は、田村元雄ならば源内と連絡が取れるかも知れないと思い、屋敷を訪ねてみた。

 「これは、玄白先生。
 お待ちしておりました」
 玄白の来訪を喜んだ元雄であったが、平賀源内の名前を出すと、砂でも噛んだような顔になって首を振った。

 「源内ですか……。
 あの男は、もうダメだ。
 とうの昔に破門しましたよ」

 「源内殿を破門に!」
 思いがけぬ元雄の言葉に、玄白は驚いた。

 「何かあったのですか、元雄先生!
 あれほど源内殿を買っていらした先生が……」
 玄白は元雄の言葉が信じられなかった。

 「あの男は……、
 魔書に取り憑かれたのです」

 「魔書?」

 「……玄白先生。
 『ターヘル・アナトミア』の翻訳をなさっているそうですが、邦題はお決めになりましたかな?」
 元雄は、話題を変えた。

 「ええ、邦題を付けるなど、まだ早いとは思っているのですが、『解体新書』と名付けるつもりです」

 「それは良い。すばらしい邦題だ」
 元雄は、感心した顔で頷いた。
 頷いた後で、元雄は再び苦い顔になる。

 「……元雄先生」
 元雄の変化に、戸惑いながら玄白が声を掛けた。

 「……源内が取り憑かれている魔書に邦題をつけるとするなら、さしずめ『改造新書』ということになりましょう。
 あれは人を人では無いものに改造する、禁断の魔書です」
 元雄は吐き捨てるように言った。


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