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刀魚 秋

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12, Witch keep,

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 授業が終わる前から、ノートも教科書も閉じていた。
 気の抜けた号令を聞き終える前に、ふらふらと頭を持ち上げるクラスメイトたちの間を抜けていく。今は何より時間が惜しい。
 今朝がた破壊されたであろう陣――その修復に向かわなければならない。
 学園じゅうに張り巡らされたエリアナの魔術は、ここにいる魔女と悪魔の生命線だ。人に擬態し、人の中に紛れて暮らす彼女らは、他者から向けられる嫌疑にいたく敏感だ。最近の年若い魔女には、その意識も薄れているようだが、今の生き残りには魔女狩りを体験した者も多い。
 人の力で死ぬことはないが、死ぬほどの痛みを遮断できるわけでもない。
 エリアナがある種神経質なまでに術の維持にこだわるのは、ひとえにあの地獄を再び体感したくないから――という理由に尽きる。現代に魔女狩りが起きればさらに陰惨だろう。何しろ十中八九、科学技術の粋をもっていたぶられるに違いないのだ。その間に天使に見つかれば目も当てられない。
 だから――。
 万が一にでも、幻惑の術式がほころんではならない。この学園に潜む怪物の息づかいを知られてはならないのだ。
 大股に廊下を歩くエリアナの前に立つ影がある。
「エリアナ」
 日本人にしては薄い色彩で、生徒会副会長が笑む。陽光の差し込む廊下に立つといっそう薄く見える茶の瞳を、緩やかに細めた。柔らかい物腰といい、なるほど学園じゅうの文学少女を魅了するというのも納得がいく。
 その底知れない表情が、エリアナはあまり好きではないのだが。
「暇そうね、シズク。今は生徒会も忙しいんじゃないの」
「まあね。でもほら、大体やること決まってるし」
 にべもない返答にも、滴の声音はいささかも揺らがなかった。
 肩をすくめた滴の、赤茶けた瞳がエリアナを見る。脳髄の奥までを当然のように見透かそうとする仕草が癪で、青髪の魔女は拒絶するように目を細めた。
 授業の間は停滞している学校じゅうの気配も、かすかなざわめきとともに動き出している。こんなところで人にあるまじき会話をしているわけにはいかない――と思っているのは、巧妙に人に紛れて生きてきた滴とて同じだろうに、彼女は目の奥の色を隠したままに笑っている。
 それが気に入らない。
「女王の帰還がそんなに嬉しい? エリー、、、
 案の定、続く言葉も情動を逆なでした。
 眉根が寄るのを抑えられない。煮えたぎる思いにまかせて振り下ろした足が、少女たちの靴に踏まれて曇った床を叩いた。わななく唇を開けば、這いずるような声音が漏れる。
「そう呼んで良いのはあの人だけよ」
「冗談だってば。怖いなあ」
「どうだか――」
 眉間をほぐしながら鼻を鳴らした。
 ――これで少しは冷静になれる。
「女王はまだ帰ってきてないわ。器はあっても、あの人の心は戻ってきてない――眠ったままよ」
 それは事実だ。
 ルディの中に眠っている力は確かに女王のものだが、彼女自身に自覚がない。あくまでも人たらんとする言動といい、命への執着心といい、性質は真逆と言ってもさしつかえない。人間の統率者であればそれでも充分なのかもしれないが、悪魔の王はそう甘いものではないのだ。
 死ねる、、、ということをアドバンテージとして捉えられないうちは、彼女はエリアナの求める女王にはなれない。
 だが。
「我慢もあと少し。あの人に会うまで追加で待つくらい、どうってことないわ」
「まるでルディちゃんはどうなってもいいような言い方だね」
「あれはあくまで器よ」
「エリーって呼ばせるくせに」
「器としての価値はあるの」
 気弱げな表情だけはいただけないが、ルディの見た目は女王そのものだ。この学園に潜伏する魔女と悪魔の誰もが、それを証明できる。
 だから価値はあるのだ。
 特別な呼称を許すだけの――価値は。
「決めたんだもの。あの人が戻ってくるまで、私はエリー、、、でいるって――」
 己の内側にある過去に陶酔するように、エリアナは瞳を細めた。体を抱きしめる腕を、滴が一瞥する。
「それは未練? それとも罪滅ぼし?」
 思わず眉をひそめた。
 その表情のまま、エリアナが応じるより早く――。
「エリー――と、副会長?」
 後方の声に振り返る。廊下の角から、とぼけた顔で覗く渦中の娘が、丸い眼鏡の奥で瞬いたのが見えた。
 魔女どうしである彼女たちが共にいることに違和感はない。少なくともルディには、意外な組み合わせだ――と思うほどの違和感はないだろう。
 どちらかというと――。
 その困惑は、人ならざることをことさら強調する二人が、廊下で無防備に喋っている姿に向けられたものだ。
「何してるんですか?」
「ああ、ほら、あれ」
 エリアナが平静と言い訳を探し当てるより先に、笑顔で声を上げたのは滴の方だった。指先につられて目を移した先に、掲示板に貼られたポスターがある。
 業務連絡と成績優秀者の間に、ひときわ目を引く鮮やかな色彩が鎮座している。生徒会選挙――と書かれたそれは、毎年のように存在を忘れそうになっている催しの告知のようである。
 活動内容のわりに、選挙そのものは存在感がある。五月の半ばから準備を始めて、ちょうど一ヶ月後に実際の選挙が行われるのが通例だが、エリアナはこのあたりの事情を毎年忘れている。
 今年も例に漏れず、彼女はポスターを目にして初めて、その行事を思い出した。
 滴の言い訳はとうとうと続く。悪びれもせずに笑ってみせる表情を睨むエリアナに、言外の威圧がのしかかる。
「書類を渡すついでに、申請用紙をもらおうと思って。私も当然、立候補するからさ。それでエリアナに手伝いを頼もうと思ったんだけど」
「手伝うったって、職員室なんかすぐそこじゃないのよ」
「――こんな感じ。全然駄目なんだ」
 話に乗ったエリアナを褒めるように、すくめられた肩は穏やかにほぐれていた。
 どれだけ不服でも――現状、助け船に乗らないわけにはいかないだけなのだが。
「ルディちゃんは手伝ってくれるよね?」
 予想外の飛び火に、ルディが慌てる気配がある。魔術を用いておらずとも、滴の声に乗るのは威圧の向きが強い。穏やかな口調が余計に断りづらさを増している。一瞥した茶色の瞳は、やはり確信めいた自信をちらつかせていた。
 この目にまっすぐ見つめられて動じないのは、彼女と付き合いが長い魔女か、よほど気の強い悪魔くらいのものだろう。ルディが首を横に振ることは、恐らくできまい。
 それで、口を出してやることにした。
「いいわよ、手伝わなくて。どうせ出来レースなんだから」
「そりゃあ、書記と会計はそうだろうけど。会長と副会長は結構死闘なんだよ」
 何をいけしゃあしゃあと――。
 思わず口をつきそうになった悪態を噛み殺す。会長も副会長も、そこそこ対抗馬が出るのは事実だが、超常の者たちに敵う道理はない。
 そもそも、滴の魔術はこういう状況におあつらえ向きなのだ。
 エリアナが溜息を吐き出すより先に、今度はルディの方が声を上げた。首を傾げたどんぐり眼は、そうしていると余計に間が抜けて見える。
「でも、確か去年は圧勝でしたよね、二人とも」
「あ、覚えてた? 去年は調子よかったんだよね」
 巧妙に隠匿される手口に切り込んだところで、うまくかわされるのが関の山だろう。それ以上の言及はやめた。
「で、今年のメンツはどうなってるわけ?」
 代わりに問う。
 生徒会の面々は、ある程度固定されている。現女王として悪魔の統率を務める百夜は会長職に、生存している魔女の中でもっともキャリアが長く、あらゆる魔女に顔が利く滴が副会長職に就くのが通例だ。
 一方の書記と会計は、暗黙の持ち回り制になっている。立候補すればほぼ当選確実であるから、数年単位で立候補者が変わるだけである。エリアナは今回も書記を務めることになっているが、他の面々の委細は把握していない。
 問われた滴の方は、蛍光灯を見上げながら指を折り始めた。
「会長が百夜、副会長が私、書記にエリアナ、会計に月乃までは確定で――もう二人、一年生から入ってくる手はず、、、になってるから――」
「て、手はず?」
 頓狂な声を上げたのはルディである。
「不正は駄目ですよ! いくら何でも!」
「不正なんかしないって。ちゃんと清き一票を入れてもらうよ。みんなにね」
 眼鏡の奥に困惑と焦りを湛え、至極まっとうな意見で先輩を止める姿は、実に人間的で滑稽である。
 呆れたように目を細める蛇の魔女を一瞥して、滴はひどく楽しげに声を上げた。
「まあ、私たち生徒会の立場とこの学園を守るためにも、ルディちゃんには協力してほしいことがあるんだ。女王として、いろいろと」
 どう――と無言のうちに促されて、悪魔の女王は顎に指を当てた。
 深刻そうな表情の割に思考時間は短い。それでも、持ち上がった瞼の奥には決意めいた情熱をたぎらせて、彼女は大きくうなずいてみせた。
「わたしにできることなら――あ、不正のお手伝いじゃなければ!」
 会心の笑みを浮かべるのは滴の方である。明らかに彼女の手口に乗せられているだけなのだが、それに気づかぬならその方が良いのかもしれない――などと、エリアナは声を上げるのをやめる。
 人使いのうまい滴のことだ。このあとの状況に対して、エリアナの意見はまず通らない。
「まずは、エリアナに学園の生徒を増やしてくれるよう頼むところからかな」
「は? また増えるの? この前、一人増やしたところじゃない。契約ラッシュでもあったわけ?」
「――ほら、この調子だから。ルディちゃんからお願いしてよ。ね?」
 案の定の展開に頭を抱える。こうなったら悪あがきはよした方がいい。下手に反論すれば余計に面倒な事態になる。そのことは、相応の付き合いからよく学んでいる。
 エリアナの内心などつゆ知らず、ルディの方は早速の仕事に頭をひねっているようだった。しばらくの沈黙があったのち、突然顔を上げた彼女が、契約者の手を取って瞳を輝かせた。
「生徒が増えるのは良いことですよ!」
 ――知ってはいたが、阿呆か。
 名案だとばかりに輝く表情には憐憫さえ湧いてくる。なぜこれでエリアナの説得がうまくいくと確信したのかは知らないが、内側からこみ上げる虚脱感が、結果としてその確信を真実にしてしまった。
「分かったわよ。一人ならどうにかなるでしょうし、やってあげる。クラスメイトと、先生と――名簿の書き足しはそっちでやっときなさいよ」
「助かるよ!」
 さも喜ばしいとばかりに両手を持ち上げた滴が、ルディを過剰に褒め称えるのを横目に、幻惑の魔女は今度こそ深々と溜息を吐いた。
 これだから――滴というのはあまり好きではないのだ。
「でも、生徒会の選挙って、具体的に何するんですか? ちらしと広報してたのは知ってますけど」
 賞賛の言葉を受けて、照れくさそうに視線を揺らがせていたルディが、ふと首を傾げた。
 ――確かに、一般生徒はさして興味はあるまい。
 問いに一つ頷いて、滴の瞳が左上を捉えた。
「学内通信に写真が出るのと、本人と推薦者のスピーチかな。百夜と私のはクラスメイトにお願いしてあるし、月乃はなんだかんだで毎回連れてくるけど、問題は――」
「私は適当にやるわよ。私の力は普通、こういうとこに使うものなんだから」
「そ、そうですかね――?」
 懐疑的に首を傾げられても、実際にそういう魔術であることは否定のしようがない。断られて面倒な思いをすることにもならないし、うまく幻惑を使ってやれば、緊張で台無しにされることもないのだ。
 もっとも、魔力の消費だけは抑えられないが。
 そういう意味では――。
 意味ありげに視線を移した先で、ルディが目を丸くするのが見える。唇の端を持ち上げて、エリアナは小さく笑った。
「別に貴女でも良いわよ、ルディ」
「えっ、え、遠慮します! 絶対噛みます、台本間違えます!」
「自分で言ってて悲しくないの、それ?」
 ずいぶんな自己評価である。
 だって無理なんです――と口ごもって俯いたルディは、弱り切った声音で、そのまま言葉を続けた。
「パフォーマンスならやりますけど」
「何でそれはできるのよ」
 パフォーマンスと比べれば、用意された台本を読むだけの演説など、よほど楽そうに感じるのだが。
 目を細めたエリアナの横で、滴が小さく喉を鳴らす。穏やかな瞳が再びルディを捉えて、赤い瞳を覗き込んだ。
「ルディちゃんは私たちと広報してもらおうかな。ほら、助っ人で結構有名だし。運動部票が手薄だからね、私は」
「そんなことしなくても当選確実でしょうが」
「確実性は高めることに意味があるって月乃が言ってたよ」
「あのエイリアンの言うこと引用するんじゃないわよ」
 脳裏によぎる台風めいた女の姿に、思わず眉根が寄った。あれでも客観的に生きているのは知っているが、地球外生命体が形を成したような気まぐれな言動を引っ張ってくるのは、およそ不適切なように思える。エイリアン――と呟くルディの顔が、率直な納得の表情を見せているのも、その証左だ。
 とはいえ頷いたものは頷いたのである。その時点で滴の勝ちだ。
「まあでも、ルディちゃんから言質は取っちゃったし――選挙期間はよろしくね。エリアナも、書類出すの忘れて不戦敗だけはやめてよ」
 にこやかに笑う副会長が踵を返したのを見送って、エリアナも教室への道を戻る。手だけで合図してやれば、ルディも意を汲んだらしい。並ぶように小走りになった足が、ざわめきを取り戻した廊下を気にしてか、小さく声を紡いだ。
「――生徒会じゃなきゃ駄目なんですか?」
「駄目ってことはないだろうけど、都合が良いのは生徒会よね。職員室も入りやすいし、先生に都合合わせてもらうのも簡単だし」
 生徒に対する権限は薄くとも、教師に対する権限は一般生徒からは頭一つ抜けている。生徒会の活動のことで――と言って、時間を割かない教諭はそうそういない。
 それに。
「何してるのか、具体的に知ってる人がいないから、仕事してるポーズもそんなに必要ないの」
 それにはルディも納得を示した。事実、彼女もよくは知らないだろう。会長と副会長に対する漠然とした印象はあっても、書記や会計が具体的にどんな仕事をしているのかは、知っている方が少ない。
 行き交うスカートの群れの中を歩く。窓から見上げた空には未だわずかにひびが入っているようで、不可視の結界が歪な光を反射しているのが見えた。
 ――しばらく時間を食いそうだ。
 もどかしい思いに眉根をひそめるエリアナの袖を、控えめに引く指があった。
 振り返った先のルディが、耳元に口を寄せてくる。深刻な表情をしているというのに、丸い眼鏡を隔てた大きな赤い瞳は、間の抜けたような印象だった。
「会長たちって三年生ですよね。選挙って出られないんじゃ」
「二人は永遠に三年生よ。来年も再来年も、ここから出てくまではずっと三年生ってことにしてるの。毎年ね」
「え、じゃあ来年は二人と同級生に――」
「ならないわ。私たちは永遠に二年生」
 何度も繰り返していることである。
 学校という縦社会を生きるため、都合が良いのがたまたまその学年であるだけで、深い意味はない。人としての姿が擬態である悪魔や、勝手気ままに姿を変えることができるエリアナはともかく、他の魔女の体は魔導書に魅入られたときで時間が止まっている。おのおのにとって最も違和感のない学年を繰り返しているという塩梅である。
 だから、息を詰めて顔を蒼白にしたルディの肉体が相応に年を取っていくなら、その限りではないのである。
「貴女の体が成長するなら、卒業してもいいけど。大学部にも同族はいるしね」
 少しタイミングをずらすだけで、やることに変わりはない。時間がかみ合わなくなるのも、エリアナが姿をごまかして同時に進学してやれば良いだけの話である。
 その言葉に安堵したようで、ルディの肩から力が抜けた。体が成長するならば――という条件は、彼女の中ではすっかり当然のことになっているようだ。
 ――成長するかどうかはともかくとして。
 それよりも、訊きたいことがある。
「私に用があったんでなくて?」
「そうだ! どこ行ってたのかと思ったんです、急にいなくなってたから」
「陣の維持よ、維持。さっきやらかしてたのがいたでしょう」
「あ、ああ――」
 好き勝手に暴れ回っていた悪魔の戦闘音を思い出してか、ルディの瞳が窓の外へ逸らされた。
「どうなったんですか?」
「シズクに捕まったから確認してないの。昼休みにでも見に行ってくるわ」
 ――どうせ穴は塞がっていない。
 舞い降りる光の柱に内心で舌打ちをして、大人しく次の授業を考えることにした。
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