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しおりを挟む5時前には乾燥も終わって誰にも気付かれることなくリセットできたが、朝食までもうひと眠りしようと思っても、覚醒しきっているのかまどろむこともできず、あっという間に起床時間となってしまった。サラはまだ寝ているといって朝食にはやって来なかったが、天音はいよいよハルヒコの顔を直視できなくなっていた。
食堂でも接近禁止令は止むを得ず緩和しているが、この嫌悪感を思うともはや「2メートル」だけでは足りないように思える。しかしこれはいったい何に対する嫌悪なのだろう?悶々としながらほとんど口もきかずに食べ終えた。朝はけだるく誰しも口数は少ないものだが、それにしてもいつもと様子が違いすぎるので、先に食堂を出て行く天音の背中に高鷹たちは首を傾げあった。
サラの眠る部屋にはもう1度戻らなければならない。なぜならカバンも制服も、荷物は元の部屋に置いたままであるからだ。おまけにこの調子じゃサラはまた寝坊するだろう。うんざりするが、仕方ないと腹をくくった。一応ノックをして、応答のないまま扉を開ける。案の定サラはまだ布団にくるまっており、髪の毛だけが見えた。
「サラ、起ーきーて」
着替えながら声をかける。
「あと15分で出るよ」
「………ん」
くぐもった声。布団をはがしてみると、地中の芋虫のように丸くなっていた。
「この布団寒い……」
「あー、そういえば夏用にしたんだ。僕にはもう暑くて」
制服の移行期だが、重いブレザーとわずらわしいネクタイが嫌いなので、天音は初日から夏服を着ていた。しかしサラは去年の春もギリギリまで冬服で、秋の移行期にはいちばん先に冬服に変えていた。
「……ハルヒコ、どーだった?変なことしてこなかった?」
何を聞いてるんだと思いつつも、心配ではあったので一応尋ねる。
「何も」
「よかった」
「ここで一緒に寝たんだ」
「……え?」
天音が驚いたのは、とっくに知っている同衾のことでなく、そのことをサラがあっさり明かしたことである。
「あの人、僕には素直かも」
寝ぼけ眼で起き上がり、いつものごとく「羽化」するまで壁にもたれかかる。
「……僕の夢を見たって言ってた。夢の中みたいに、試しに1度だけ抱きしめてくれって。たぶん寂しいんだ。でも、いいよって言われると思ってなかったみたいで、軽くぎゅってしてみたら、何か照れてたけど」
寝言のようにぽつぽつととんでもないことを語る。天音は言葉を失いかけた。
「……引いてる?」
「……ちょっと」
「部屋、ずっとこのままでいいよ。変なことにはならないから安心して」
変なこと、というあいまいな表現に嫌な生々しさを感じる。天音はそのときようやく気がついた。あの嫌悪感はハルヒコに対する生理的嫌悪よりも、サラがあんな得体の知れない男に奪われるかもしれない、という焦燥だ。ハルヒコに対しても心を開いていく彼を見て、自分の中にはびこる身勝手な独占欲のような気持ちが侵されていたのだろう。……だが本当にそれだけだろうか?
「……僕はこれからも君を起こしに来ていいの?」
そう尋ねると、サラが眠たそうな目をしたまま、「天音ってかわいいね」と微笑んだ。
するとガチャリと扉が開かれ、朝食を終えたハルヒコが部屋に戻ってきた。そしてさっさとシャツに着替えながら「えーっと、部屋と食堂の中のみ半径1メートルまで、目を合わせるのは減点対象にならない、会話はダメだがひとりごとはOK。」と言った。だがそのとき天音は、ハルヒコが持ってきてバサリと置いた「洗濯物」を見つめ、怪訝な顔で自分のベッドに恐るおそる視線を移した。シーツと、布団カバーが外されていた。
「何で朝から洗濯してんの?」
尖った声で尋ねると、ハルヒコが漫画のようにギクリとした。
「それ僕のベッドのシーツとカバーでしょ。あと……君がいつも履いてる赤いジャージと……まさかトランクス?」
「これはひとりごとだが、会話はマイナス2点だろう」
「答えろ。何でそんなもの朝から洗ってんだ」
「野暮だなあ星崎くん」
ハルヒコの顔がみるみる蒼白になっていく。
「お前まさか……」
するとサラが間髪入れず、「なんかね、天音の匂いのせいで夢精しちゃったんだって」と言い、ハルヒコは蒼白から一転、沸騰しそうに赤い顔で「バカ!やめろ!!」と慌て、天音はわなわなと震えながら「マイナス100!!やっぱりお前が辞めろ!!島に帰れ!!」と真っ赤な顔で怒鳴りつけた。
ー「というわけで、僕は今日から正式に210号室の住人となりましたので。御用の方はお間違えのないように」
嬉々とした顔で高らかに宣言する天音と、早くも自分の分を食べ終え、サラの残した分に手を伸ばすハルヒコ。まったく目を合わせないふたりのあいだには、より一層の緊張感が漂っているようにも感じたが、その原因はサラしか知らない。だが彼も天音が夢精したことまでは知らない。なぜならそれは天音が墓場まで持っていくと誓った失態だからだ。
両者とも今朝汚してしまったシーツだけはそのままに、天音は学校から帰るとさっさと荷物を移し替えて夕食までには作業を終え、晴れてハルヒコとの相部屋生活を解消することができた。芳賀にもきちんと許可を得ている。サラを生け贄にしたようで心苦しいが、寮内では彼だけが唯一ハルヒコに順応しているので、むしろ初めからこの方が良かったに違いない、と天音は無理やり自分を納得させた。
普通に過ごしているだけの秋山が聖人に見えるほど、天音は新生活1日目にして、常識的な人間との同居に早くも大いに感動し満足していた。また秋山の方でも、気分の変動が激しく気を使うばかりのサラとの同居より、のんびりとして穏やかな天音と過ごす方がずっと気楽で、口には出さぬがまるでようやく肩の荷が下りたような顔をしていた。
サンドバッグもぶら下がっていない、鉄アレイも転がっていない、山積みになった邪魔な大量のサブレもない、どこかから拾ってきた汚れたエロ本もない。そして秋山は物静かな男だが思いやりに溢れ、深く話してみればなかなか愉快な人物であったことも分かり、何よりしっかりと意思疎通が図れる。まるでハルヒコの以前に同居していた生徒との、あの楽しい生活が舞い戻ってきたように感じた。つまりはごく普通の平凡で平和な男子寮生活である。
「減点のやつはどうなったの?」
高鷹にねだられ、珠希がおかずを「あーん」と口に運んでやりながら尋ねる。
「おいしい?」
「うめー!」
「……あれはもう廃止した」
「え、何で?」
「ちょっといろいろあってね。でも離れて暮らせるなら、別にもうあのルールもそんなに要らないし。触られさえしなければいいかなって」
「じゃあ脱皮するときだけ俺に言え。きれ~いに剥いてやるからよ、いろんなとこを」
「それより秋山くんすっごくいい人でさあ、バスケのあとで疲れてるのに、僕とサラの荷物運ぶの手伝ってくれたんだ。引越し祝いとか言って、コンビニでケーキまで買ってきてくれたんだよ。ゴロー、秋山くんてめっちゃ優しいね。同じクラスなのに彼のことあんまり知らなかったなあ」
「こいつ、さっきから何を話しかけても俺の言葉を耳に入れやがらねえんだ。同居解消と同時に俺の存在も抹消しやがった」
ハルヒコが苦い顔で吐き捨てるように言う。
「秋山は1年たちの世話係だ。俺よりも副キャプテンのあいつの方が人望がある」
「世話係かあ、ぴったりだよ」
「良かったなあ天音、これでよーやく優しいお前を取り戻せるな。やっぱり同室の人間は選ばないと。同棲みたいなもんなんだから」
ハルヒコが、笑う耀介を睨みつけた。
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