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しおりを挟むブレーキ自体はゆるく効くのだが、スピードを出していたら完全に止まるのに5メートルは余裕でオーバーする。急ブレーキなど無意味も同然だ。この勾配で完全に止まるにはもう距離がない。
転ぶのを覚悟でハンドルを切るが、このボロい自転車ではそれも遅すぎた。ハルヒコはひょいっと進路を変えたが、自転車はキキーー!とけたたましい音を立て、ドリフト走行のように崖に突っ込んでいく。その様子に気づいたハルヒコは足を止め、細い目をくわっと見開き大声で叫んだ。
「チャリから飛び降りろ!!」
その声は1秒遅かった。だが1秒早くとも、間に合うことはなかっただろう。天音は叫ぶこともなく自転車ごとまっさかさまに崖から落ちていった。
「くそっ!」
ハルヒコがすぐさま下を覗き込み、ほとんど直角の崖を滑り降りていく。だがそれは滑落に近く、彼もまた途中から海に飛び込む形で落下していき、激流に飲まれていった。
しかしここが自殺スポットだというのは、真っ赤な嘘である。確かにこの高さからダイブするのは危険行為ではあるが、その危険行為を防ぐためかいつしかそのような噂が流れ始めただけで、飛び込んでも危険な岩場は無くそのまま海に沈むだけだ。
深く潜れば水面ほど荒れてはおらず、泳ぎの得意なハルヒコには何の問題もない。天音のように恐怖心の欠落した者にはまったく影響力のない廃トンネルのようなものである。
ー「ぶはあ!」
海底に沈みかけていた天音を引き上げ、水面に顔を出す。天音も水泳はそれなりに得意なので、至って冷静に立ち泳ぎをしていた。早朝とはいえ波は強いが、ふたりにとっては取るに足らない威力だ。
「この大バカ者、マジで飛び込む奴があるか!」
「ブレーキ壊れてたんだもん」
「チャリンコはどこいった?あんなもん浮かんでたら大騒ぎになる」
「……ねえ、ホントにこんなとこで死ねるの?」
「お前みたいなバカは死ぬだろうな」
「岩場も何もないじゃん」
「打ち所が悪けりゃ海底の小石にぶつかったって死ぬんだ」
天音を波打際まで運び座らせると、ハルヒコは再びすぐに潜って海中で漂っていた自転車を無事に回収した。死体同様、これだけ大きなものが沖まで流されると厄介なのだ。
だが天音の元まで戻ると、ハルヒコは「ぬおっ?!」と叫び、先と同様に目を見開いてあとずさった。膝をかかえた天音が頭からダラダラと血を流して、白いTシャツの首元を真っ赤に染めていたからだ。
「お、おお、おい、それどうした?!やっぱり頭ぶつけたのか?!」
「んーん、さっき海の中でガラスみたいなので頭を切ったっぽい。たぶん誰かが船からビンかなんか捨てたんだ」
「お前なぜそんなに冷静なんだ?」
「ちょっと切ったくらいだし」
「いや、アメリカのデスマッチ並みに血がヤバイぞ」
「頭ってちょっと切っただけでものすごい血が出るんだよ。子供のころよく遊具から落ちてたから、慣れてるんだ」
「ガキの頃からなんにも成長できてないんだなお前は……てゆーかガキの頃から底抜けのバカだったんだな」
「そんなことよりさあ」
「あ?」
「スマホのデータ消えた?」
「……あ」
ハルヒコが慌ててポケットからスマホを取り出すと、「おう……」と苦々しい声を発した。
「君のめちゃくちゃ古いから、いくら防水でもさすがに海の中では耐えられなかっただろ」
血だらけで満足げに笑う顔に狂気を感じ、ハルヒコはもはやいつものような憎まれ口を返す気にもならなかった。
「引いてるけど、僕が落ちたのも血まみれなのも突き詰めると全部キミのせいだからな」
「……」
「あの画像どうするつもりだったの?」
「……」
「底抜けのバカはお前だ」
体力を消耗して怒る気も失せたのか、天音はためいきをつくとペタペタと崖づたいに歩いて行き、ここから登れる場所を探した。ツッカケは海の藻屑となったので裸足である。
どうにか登れそうなところを見つけ、自転車はハルヒコにかつがせてふたりはクライマーのように急勾配の崖をえっちらおっちらと登った。朝っぱらから何をしているのかと我ながら呆れるが、それよりもこの血まみれをどうすべきかと悩んだ。
そして登りきった瞬間、目の前でガシャンと自転車が倒れる音がした。ふと顔を上げると、天音とは対照的に顔面蒼白の大吾郎が尻餅をついて、よみがえった自殺者を見るかのような怯えた顔で口をパクパクさせていた。
「大馬鹿野郎!!」
病院から帰るなり、迎えに来てくれた笑一がハルヒコを思いきり殴ったので、頭に大げさな包帯を巻かれた天音は肩をすくめ硬直した。
サラも思わず大吾郎の背中に身を隠し、ふたりも目を丸くして固まっていた。彼が笑顔で写っているホームページの写真を見たときから「怒ると怖そうだな」感じていたが、天音が落下した原因を聞いた彼の「豹変ぶり」は想像をはるかに上回った。
明かすのも忍びないほどの実にくだらない理由ではあるが、それが何であれ、笑一にとってはハルヒコが他人に大ケガをさせたという事実には変わりないのだろう。
殴られたハルヒコはそのまま床に倒れ込み、ぶたれた左ほほを押さえた。すると笑一が再び拳を振り上げたので、天音はとっさにハルヒコの肩を抱き、「すみませんでした」と謝った。彼がかばうので、笑一はどうにか拳をひっこめた。
「天音くんのせいじゃないよ。はあ、とんでもないことしちゃったな。自転車もボロいのを放置してたのがいけなかった。おじさんの方が親御さんに謝りに行かなくちゃ」
「あの、ホントにぜんぜん大した傷じゃないので平気です。昔からもっとひどいケガしてましたし、これくらいならすぐ治るよって先生も言ってました。それに意地を張ったせいで落ちたのは僕ですから……」
「いいや、アルバイトに来てもらって危ない目にあわせて、こんなケガまでさせたんだから。ちょっと悪いんだけど、あとでご実家の電話番号教えてくれ。船がとれたら、このバカと明日にでも行くから」
「でも……」
「おいハルヒコ、お前自分が何したかわかってんだろうな?人をいたずらに焚きつけて、もし天音くんがそのまま死んじゃってたらお前どうすんだ?お前と俺が死んでも詫びることはできないんだぞ?ったく、お前はもう金輪際天音くんに近づくな。寮に戻ってもだ」
ハルヒコはうつむいたまま黙っている。笑一はまだ怒りが冷めやらぬが、大きなため息をついてその場から立ち去った。
「ハルヒコ……」
「……」
「ごめんね」
「お前が謝ることじゃない」
「でも」
「悪かったな」
「ねえ、本当に平気だって笑一さんにもまた言っとくから」
「ジジイは一度怒り出すと何言ってもムダだ。エミもミワも平等に、悪さをしたらこうしてひっぱたかれて育ってきた。そーゆー家だからな」
「……」
今にも泣き出しそうな顔でうつむく天音の包帯にそっと触れると、ゆっくりと立ち上がる。
「なあ星崎天音」
「なに」
天音の腕を取って引っ張り上げると、至近距離でその瞳をじっと見つめ、ハルヒコがかすかに口角を上げた。
「ハルヒコ……?」
「携帯買い換えたらよ~、またおんなじ水着でお前のケツの写真撮らせてくれよなあ~?死ぬまでオカズにしてやるからよおイグアナくう~ん」
そう言って思いきり尻を鷲掴みにし、パン生地をこねるかのごとく両手で揉みしだいた。その直後、笑一の右ストレートの威力を上回る渾身の一撃を喰らい、ハルヒコは先ほどよりも派手に転がって、今度は右ほほを押さえてのたうちまわった。
「頭腐ってんだろ」と吐き捨て、天音も笑一同様怒りながらその場を後にする。その様子にサラが心底呆れた顔で「本当にビョーキなんだね」とため息まじりに言い、大吾郎も顔をひきつらせながら無言で深くうなずいた。
そして昼過ぎ、笑一はさっそく天音の実家に詫びの電話を入れたようだが、母親は電話口で天音がいかに落ち着きがなくケガの絶えない子供であったかを笑一に強く訴え、本人からすでにケガの状況を聞いていたのもあり、謝罪など不要だと笑いながら言っていたそうだ。
どうせそうなるから電話など無駄だと笑一にも伝えたものの、それでは彼の気が済まなかったらしいのだが、彼が相応の詫びを入れると言っても母親は頑としてそれを拒否し、反対に渦川邸で息子が世話になっていることに何遍も感謝の言葉を繰り返していたという。父親に至っては「あいつはいくつになっても成長しねえな」とハルヒコと同じように呆れ、「ちょっと切ったくれえで大げさだ、サボらねえできちっと仕事しろって言っとけよ」と母親を介して相変わらずなことを言っていたらしい。だがそれも天音の予想どおりであった。
やはりハルヒコが殴られ損な気がして改めて心から悪く思ったが、彼は「心中未遂」の事故についてもうなんの興味もないらしく、朝食を済ませたらまたしてもスケボーを持って、口笛を吹きながらどこかへ遊びに行ってしまった。
その日から天音は包帯が取れるまで、うずかわ食堂で裏方として調理を手伝うこととなった。笑一にも店長にも今日くらいは休んだ方がいいと心配されたが、今このタイミングでひとりでも欠けては店にとって迷惑であるし、何より本当に見た目にそぐわぬ軽傷なのだからと押し切り、父親の言うとおり仕事はきっちり果たすことに努めた。
そして初めてのアルバイトに挑んだサラが表での業務内容をすぐに覚えたことも幸いし、昨日と同様に忙しい日ではあったが、3人はその日のアルバイトも滞りなく終えることができた。
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