sepia

めめくらげ

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あのカップ事件から1週間。
夜は一緒に寝るくせに、俺はいまだ山蕗さんのことを全くといっていいほど知らない。
仕事とか、普段何してるのかと尋ねたら、「あなたには関係のないことです。」とぴしゃりとやられて以来、触れてない。でもダメ元で休日に散歩に誘ったら、ついてきてくれることになった。しかしアパートの門から出るときに不思議なことを言った。


「手を?」

「はい。」


門扉を開けたら、手を引いてくれと頼まれた。首をかしげるが、俺は言われた通りにその指先を取り、そっとこちらに手を引いて、山蕗さんを門から出してやった。

門から一歩出たところで、山蕗さんはほうと息を吐き、周りをゆっくり見回した。
俺にはその瞬間、なぜか彼がセピアがかって見えたのだ。

ごく普通の住宅街の中、ぽつんと立つ山蕗さん。たしかに一瞬、色褪せていた。今日も囲碁の先生のような和装で、中折れの帽子をかぶってるものだから、その古臭い装いのせいなのかもしれないが……

「行きましょう。」

静かな住宅街を出ると、すぐに賑やかな商店街に入る。引っ越してきてから、この町をゆっくりと散策したことはない。ずっと忙しかったのだ。

街行く人がちらちらと山蕗さんを見ている。このチグハグな雰囲気のせいだろうか。
時代錯誤なのもそうだが、西洋人形のような凜とした顔立ちに、この出で立ちだ。このあたりは街柄レトロ趣味の人間も多いせいか、あえて和服を着ている女の人を2人ばかり見かけたが、山蕗さんのは「本気の」和装だ。醸し出す雰囲気が違う。

ここは古着屋と古道具屋、それから古本屋が何軒も連なっている。長い商店街。山蕗さんは俺にぴったり寄り添って歩いている。……ふと思った。もしかしたら、彼は外が怖いのか?

手をつないでみてもいいが、そこまでやったら怒られそうだし、街行く人の目もより一層注がれるハメになるだろう。けど時おり、細い指で俺の服のスソや袖をつかんでいるのだ。
俺の心はそれにいちいち翻弄されている。この人、愛想はないくせに、無意識に男心をくすぐってくる。

「賑やかだけど、古い街ですね。」

古いものを扱った店だけじゃなく、老舗然とした乾物屋、洋品店、喫茶店、寿司屋に蕎麦屋に和菓子屋が建ち並ぶ。そこを闊歩するのはそれなりにオシャレに気を使ったらしい若い人たちで、この街は街ごとどこかチグハグだった。

「昔からのものが多いんです。それでもずいぶん減りましたけど。」

「へえ。……昔ねえ。」

この人はたびたび「昔」と口にする。それはいったいどの程度のことなのだろう。

「昔って……」

言いかけたところで、俺は竦んだ。山蕗さんの手首をつかみ、立ち止まる。

「後ろ、振り向かないでくださいね。」

「あ、あ、あの……」

「歩きましょう。そのうち離れる。」

震えをこらえつつ歩き出す。

「山蕗さん……」

「違う話題にしてください。」

「そんな……」

「僕でもどうにもできません。……気配が消えたら適当な店に入りますよ。」

たっぷり200メートルは歩いただろうか。この商店街はまだまだ続く。終わりのない地獄の道のようだ。しかしある地点を超えたところで、そのまがまがしい気配はぴたりと立ち消えた。豆腐屋の前だった。

「油揚げに興味を持ってかれたようです。」

「油揚げ……?」

「行きますよ。」

足早に歩き出し、俺たちはくすんだ木造の喫茶店に入り込んだ。





ー「キツネ?」

「いたずらしようとしてついてきたみたいです。」

どうやら先ほど俺たちの背後にいたモノは、神の使いといわれるあのキツネらしい。
さすがにキツネは俺も見たことがない。というか、アレって本当に存在してたんだ……

「ほんとーに油揚げ好きなんですね……。」

「好きというより、人がそればかりお供えするからでしょう。どうしても反射的に油揚げには吸い寄せられるようです。」

「そのキツネにいたずらされたら、俺たち、どーなるんすか?」

「幻覚を見せられたり、狐憑きになったり、様々です。」

「殺される?」

「怒らせたら憑り殺されるでしょうが……触らぬ神に祟りなし、怒りに触れることがなければ死にはしないはずです。けれど僕たちの霊感に気がついてわざわざ近づいてきたのです。キツネは街中の至る所にいるようですが、さっきのは危なっかしい個体でした。」

「あんなモンが至る所に?俺、もはや山蕗さんと四六時中一緒じゃないと、もう外歩けませんよ。」

「これからあの道を通るのは避けてください。あんなのは滅多にいるもんじゃありません。さっきも言いましたけど、僕と一緒にいたところで、僕にもどうにかできるわけじゃない。」

「そんな……」

すると突然、音楽を流していた店のスピーカーに雑音が混じり始めた。店主が「なんだ、調子わりいな。」とつぶやく。俺たちは顔を見合わせた。そして数秒後に、そのノイズの中から低い男の声が聞こえてきた。


「ツギハニガサヌ・・・・」


「なんだぁ?」という店主の間の抜けた声。
俺たちは即座に席を立ち、会計は千円もしなかったが千円札を1枚置くと、釣りは待たずにすぐさま店を出た。この街は古臭いせいか、魑魅魍魎どもも他の地域よりアグレッシブだ。なのに俺はなぜこの街を選び、あの家に住んでいるのか。それはやはり、「呼ばれていた」からなのだろう。
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