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しおりを挟む家に帰ると寝床から走ってきたルイに出迎えられ、しっぽを振る彼の頭をわしわしと撫でてやった。玄関には白いスニーカーが左右行儀良く並び、リビングには灯りがついている。
中を覗くと時生は翻訳作業に取り掛かっていたようで、一段と「大人らしく」なった彼の仕事中の後ろ姿に、まるで親のような感慨深さをおぼえた。
「た…ただいまぁ」
「おう」
「お仕事しててくれてたんですね。ありがとうございます」
「俺にはこの生活すべてが仕事だぞ」
「あ…そ、そうですよね」
「今日はメシいるか?」
「いえ、今日はいいです。変な時間まで食べてたし、節制しときます」
「じゃあたまには俺も抜こう」
「献血行ったのに食べないで平気なんですか?」
「アイスとドーナツを補給したから平気だ」
「…そうですか」
未来は作業前に一息つこうと、自分でコーヒーを淹れソファーに深く腰掛けた。
少し前までぎこちなかったが、徐々に滑らかになってきたタイピングの音。
それ以外は無音の中、黙々と翻訳作業をする彼の背中を見つめていられるこの幸せは、やはり手放したくない。だからこそ、ただそれだけでいいのだと無理やり自分に言い聞かせる。多くは望めないふたりの関係。それで自分たちのバランスが保たれているのだから、余計なことまで求めてはならない。
「なあ」
「はい」
「お前と優くんはこれからも友達か?」
「え?…ええ、もちろん」
「そうか。この先もずっと仲良くしてやってくれ」
「そのつもりですよ。…優さんと同じこと言うんですね」
ふふ、と笑いコーヒーを啜る。
「優くんもそう言ったのか?」
「はい」
友達としてという意味だけではないが、嫌になるまではこの男のそばにいてやってほしいと、彼の弟は言った。しかし彼にこの胸の内を明かしたことは秘密だ。大事な弟に、自分のよこしまな気持ちを打ち明けたと知ったら、時生にはいい気がしないであろう。
「ふたりとも、いつもお互いのこと心配してるんですね。全然似てないけど、深いところではやっぱり兄弟だなって感じます」
「…そうか」
それからしばらくの沈黙と、淀みのない入力音。その心地よさに未来は少しまぶたを閉じていたが、やがて時生が静かに切り出した。
「俺たちは物心がついてから兄弟になったんだ」
まぶたをそっと開き、ゆっくりとその言葉を反芻する。膝に肘をつき、背を丸めて頬杖をついたままの姿勢。自分も今夜中にやるべき編集作業を抱えており、そろそろ取りかからなければならないと思いつつも、この空気の中ですっかり落ち着いてしまい半ば微睡みかけていたところだ。しかし時生の静かなる告白により、ぼんやりとしていた頭が少しずつ冷えるように冴えていった。
「…それって」
「物心というのが正確にいくつからつくのか知らんが、ともかく優くんが多少の人語を話せるようになってからだな」
「あの、じゃあふたりは」
「血は繋がってない。兄弟だし家族だが、優くんの生みの親と俺の親は違う。死んだ方が俺の親だ。優くんの親は…どこかで生きてるんだろう。日本のどこかで」
未来はじっと固まりつつ、尚も靄が抜けきらない頭で考えた。そしてふたりがあまりにも似ていないことや、時生のかつての言葉に対する違和感の答えを、ようやく見つけたように思えた。
"ガキのうちに親が死ぬことは世間では多々あるが、優くんにとっては親が死んだ時点で、日本のふつうの子供より不幸なのは間違いなかった…"
そういうことだったのか、と時生にも届かないほどの声でつぶやく。
まるで彼の人生を常に悲観しているかのような口ぶり。ごくふつうの家庭に育ったはずなのに、正しい兄弟の在り方を知らないかのような彼ら。いや、兄弟のあり方に正解も不正解もないが、血縁には抱かないような特殊な兄弟間の感情を、他人の自分がいつも感じていた。
たとえばもしもふたりが兄弟ではなかったら…その上、優がもしも女として生まれていたとしたら。そう仮定すると、時生が向ける弟への感情がすんなりと理解できるようだ。きっと自分が介入できる隙など一分もなかっただろう。
家族として認識しつつ、血縁でないゆえに生じる感情も同時に抱きながら、時生はまっすぐに優を愛してきた。年下の彼のようにまっとうな成長はできなかったが、子供の時から変わらぬ弟への気持ちを、時生はきっと死ぬまで持ち続けるのだろう。大人になるとぼやけてしまうものが、彼の中では時が止まったように新鮮に保たれている。
「…生みの親に捨てられて、育ての親まで死んで、ガキの頃から踏んだり蹴ったりの人生だ。おまけに暴力的な男にまで洗脳されちまって…やはり俺やじいさんの愛情では物足りなかったせいかもしれん。…生い立ちのせいだと言いたくはないが、優くんはそういう面で危なっかしいところがある。とは言えこれ以上誰かに裏切られるのは普通の人間としてフェアじゃない。だからせめて未来には優くんの味方でいてほしい。味方なんてのは数が多ければ多いほど裏切る奴も出てくるだろうが、お前ならこの先も優くんの本当の友達でいてくれるような気がする」
タイピングの手を止め、未来の目をじっと見る。そしてふいとパソコンに向き直り、こう続けた。
「…だから俺が壊すようなことはしたくないんだ。俺もお前のことを信頼しているが、俺たちが妙なことになって、優くんとの友情にヒビが入ったらと思うとな。…だからその、なんというか…お前のことは良いと思うのに、その気持ちに踏み込むことができない」
未来は、自分が抱いてきた恋心に対しての答えを、いま初めて本人の口からはっきりと聞いた。とまどいは大きいが、ごまかすつもりはない。彼がようやく本心を語ってくれたのだ。何と答えるかは決まっている。未来はゆっくりと目を伏せ、静かにこう返した。
「心配しなくても壊れませんよ。優さんも時生さんもこの先ずっと俺の大切な人です。それに俺はこのままでいいって…実はさっき優さんに言ったんです」
「優くんに?」
「はい。彼も俺の気持ちに気付いてましたから」
「……」
「だから、俺はあなたとの関係に進展や変化は望まないと言いました。…いつかこの生活は終わるかもしれないけど、それまではこうしてふたりで穏やかに暮らしていけるなら、ただそれだけでいいと…。でも」
そっと顔を上げ、こちらを完全には振り返らない時生の横顔に、微笑みを向ける。
「俺のことを良いと思ってくれてたなんて、すごく嬉しいです。ここまで長かったのか短かったのかは分からないけれど、なんて大きな進歩なんだろう」
冗談めかして言い、照れたように笑う。時生はそんな未来の顔を肩越しに見て、またもあの疼きに支配されていくのを感じた。心がずきずきして、指先はひりひりする。細い血管にだけ流れていく謎の感情。いくら血を抜き取ってもこれだけは排出されず、身体の中をぐるぐると回り続け、ことあるごとにこうして心臓を刺激してくるのだろうか。
「ひとつだけ勝手なことを言わせてもらうが」
「なんですか」
「…お前が沢尻のものになるのは寂しい」
「……」
ゆっくりと振り返って弱々しく視線を合わせるが、未来は呆然とこちらを見ている。思ったとおりの反応だ。だが時生はかまわず続けた。
「お前が誰とねんごろになろうと俺の知ったことではない。…そうとは思っていても、突然手が届かなくなるのは嫌なんだ。できれば優くんくらいの距離にいてくれ。俺のことを嫌いになるまででいいから」
その言葉に、未来は呼吸をするのも忘れ、笑顔から徐々にとまどいの表情に移り変わっていく。悪いことを言われてるわけではないと分かるのに、あまりにも唐突で理解が追いつかないのだ。それでもどうにか自分の中で噛み砕き、「それって…」と呟いた。
「時生さん、それってたぶん俺のこと好きなんですね」
「…んん?さあなあ、いったいどういう感情なんだか…でも、そう思うのか?」
「ええ。じゃなきゃそんなことシラフで言ってきませんよ、普通」
「そうか。…じゃあそういうことなんだろうな。俺は未来が好きみたいだ」
そう告げた瞬間、未来は気を失ってソファーから前のめりに床に崩れ落ちた。時生は目を丸くして「おい何事だ!!お前いま頭からいったぞ?!」と慌てて彼のもとへ駆け寄る。ルイも部屋の隅のクッションの上でこちらを怪訝そうに見ていたが、飼い主の異常事態に怯えたのか決して近寄ろうとはしなかった。
「こら犬!貴様はなんて薄情な犬なんだ…。おい未来しっかりしろ。ったく、どんな性格してるんだお前」
呆れながら頬をペチペチと叩くが反応はない。ひとまずちゃんとした場所に寝かせようと思い、その身を軽々抱きかかえると、あの忌々しいベッドへと彼を運びこんだ。
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