TOKIO

めめくらげ

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「兄さんが…好きって言ったの?」

「…す、好きみたいだ、と言った」

「…コンビニ寄っていい?」

「おう」

建物でひしめき合う一帯には珍しく、やや広めの駐車場がついたコンビニに車を駐める。

「…お茶とかいる?」

「いや…」

わざわざ立ち寄る必要はなかったのだろうということは、なんとなく察している。先と同様あっさり戻ってきた優の手には、1リットルの炭酸水1本が裸のまま抱かれていただけだ。兄の思わぬ告白に焦って、とりあえずここに車を乗り入れただけなのだろう。

「そのまんま持ってるとかっぱらってきたみたいだな」

「ねえ兄さん、灰枝くんのことホントに好きなの?」

エンジンはかけずに、優がどことなく不安げに尋ねる。

「んん?…ま、まあ~~…好きというより、アイツを嫌う理由はないだろ」

「そんな消極的な意味で好きってこと?」

「…そういうわけではないが」

「じゃあ普通に好きなんだね?友達としてとかじゃなくて、恋心的な感覚で」

「好きという気持ちに種類なんかないだろ」

「あるよ。家族と友達と恋人は違う」

「いくら好きだからって、俺は同じ男を恋人のようには思わない。俺と優くんでは違う」

「……」

「優くんを悪く言ってるつもりはない。その違いは誰しも様々あるだろ?」

「うん。…ごめん、別に僕も嫌なふうに捉えたりしてないよ」

「未来を好きというのはホントだ。…具体的にどこがと言われても説明はできんが、金をもらって世話になってるからというわけではない。違う出会い方をしていても変わらんと思う」

「そっか。…灰枝くんのこと、大切にしてあげられる?」

「大切に…って、何をすればいいんだ?」

「いつも気を遣ってあげるとか、ふつうに優しくしてあげればいいんだよ。その気持ちを途中で投げ出したりしないで、お互い敬意を忘れずに接するんだ。灰枝くんは大人だからできてるけど」

「敬意…?と言われるとなんか難しそうだな。俺は今まで通りにしかやれん」

「じゃあせめて傷つけないように気をつければいい。ひどいことを言わないとか、不遜な態度をとらないとか。でもその気持ちを保つのはすごく難しいのに、兄さんはずっとそうやって僕に接してきてくれたろ。今度はその優しさを灰枝くんにも向けるんだ」

「優くんにしてきたように…」

「かと言って過干渉にしろってことじゃないからな。人の外出の予定を勝手にチェックしたり夜中に突然部屋に入ってきたりは絶対アウトだから。人間として最低限のマナーは守れよ。あと風呂に毎日入るだけでも大きな進歩だけど、いつまでもそのラインで生きてたらホントーに嫌われるぞ」

「わかってる。それにそこまでしたいと思うのは優くんだけだから安心しろ」

「僕にも今後一切ムダに関わってこないでくれ」

「なあ、太一は本当に安心できる奴なのか?」

「…なに急に」

「答えてくれ」

ハンドルにもたれるように両手を置き、優はフロントガラスに映る自分の像を無意識に見つめる。車内にはこの小さなドライブで最も長い沈黙が訪れた。

「…あの人は殴ったりもしないし、予定外のことが重なっても顔色ひとつ変わらないよ。何より兄さんのことを決して悪く言わない。…この先どうなるかなんてわからないけど、たいちゃんはいい人だよ」

「…そうか」

「信じてくれる?」

「俺が優くんの言葉を信じなかったことがあるか?」

そう言うと、優が前を見つめたままうっすらと笑った。

「…ずっと一緒に生きて行こうって、たぶん兄さんと会った後に、たいちゃんが急に電話してきて言ったんだ」

時生もじっと前面を見据えたまま、その言葉を静かに受け止める。

「結婚もないし、子供も持てないと思うけど、僕はたいちゃんと生きてくよ」

「……」

「僕たちは…というか兄さんは、もう今までみたいには戻れない。もし灰枝くんに追い出されても、今はちゃんと仕事もあるし、自分でどうにかできるお金もある。家も借りれるし、自分だけの車も買えるし、その気になれば高卒の資格だって取れる。自分でどんどんやれることを増やしていけるんだよ。もう昔の兄さんとは違うんだから、戻らなくていいんだ。うちにも帰ってきたらダメ」

「俺と優くんはお別れということか?」

「そうじゃない。家族なんだから、僕たちの関係も距離も何ひとつ変わらないよ。でも兄弟だからこそ、これからは別々に生きてかなきゃならないんだ。昔から言ってたことだけど、今ならその意味もよくわかるだろ?」

「……まあ」

「灰枝くんのこと好きになれたのは、兄さんが変われたからだよ。僕しかいない世界から抜け出せたからだ。…僕は確かに、子供のころから人より愛情に飢えてたかもしれないけど、でももう平気。兄さんとじいちゃんがいるのに、不幸だなんて思うわけがない。兄さんがまたニートにさえならなければ」

「父さんと母さんは、俺よりずっと優くんのことを心配してたな。俺よりも過保護で過干渉だった。今のしっかりした優くんを見たら驚くぞ。俺のことはとっくに追い出してるだろうがな」

「はは、間違いないね。でも3人ともそういうところが本当によく似てる」

「なあ優くん」

「ん?」

「俺たちと家族になって、後悔してないか?」

「……」

「せっかくうちに来ても親はあっさりいなくなっちまって、老い先短いじいさんとダメな兄貴と一緒に、大して恵まれてもないつまらん暮らしをさせられたんだ。もっと幸せな家なんかいくらでもあったはずなのに…」

「後悔してるわけないだろ。まだニートだったら後悔してるけど、あれでもわずかには兄さんのこと信じてたし。…何より、父さんと母さんの子供になれてよかったよ。このふたりに会うために生まれてきたんだって思ってる」

「本当か?」

「僕の言葉を信じてるんだろ」

「…信じてる。だが優くんは泣き言を言わないから」

「言う必要がないからだよ。兄さんが働かなかったこと以外で不満なんか何もない」

「そうか。…でも新しい家族を作ったら、うちにいた頃より幸せになってくれ」

「……」

「俺はちゃんとひとりでやってく。未来にいつ追い出されても平気なように、仕事もして金もきっちり貯めてな。今の仕事以外はできないが、出来る限りやってみる。だから優くんは、ちゃんと太一と幸せになってくれ」

「……」

「泣いてるな」

「泣いてないよ」

「嘘つけ」

「…兄さんもちゃんと幸せになれよ。ニートに戻ったら承知しないけど、でももし挫けたりしたら、ちゃんと助けるよ。兄さんとじいちゃんだけが家族なんだから、僕の優先事項もふたりだけだ」

「……」

「泣いてるね」

「泣いてない」

「いいじゃん、ふたりで泣こうよ。兄さん人生で泣いたことないだろ」

「泣く必要がなかったからだ」

「違うね。全部こらえてやり過ごしてきただけだ」

「俺に悲しいという感情はない」

「じゃあなんで泣いてるんだよ」

「違う…これは違う…」

「葬式の日から、悲しいこと全部我慢してるだろ。父さんたちのことも1日だって忘れたことないくせに。もしもふたりが生きてたら、たぶん兄さんはもっとちゃんとしてたはずだよ。親が早くにいなくなることを、"よくあること"なんて強がるなよ。…今日泣いたらもう一生泣かなくていいから、たまには素直になればいいだろ」

優から顔を逸らし、こぼれる涙を指先でぬぐう。しかし堰き止めていたものが決壊したようにとめどなく溢れてきて、ジーンズにいくつもシミを作った。あの日、優がいてくれて本当によかったと思いながら、火葬場の煙突を見上げてこらえていた涙が、今になって溢れてくるのだ。

大の男ふたりが、無音の車中でぐずぐずと泣く。この異様な光景を誰にも見られたくないと思いながらも、まだエンジンはかけられない。なぜ泣いているのかといえば、それもうまく説明はできない。ただ悲しくて、そして嬉しいのだ。出会ったことも、誰かに見せたこともない感情だ。だが今はこの謎の心境が、互いに手にとるようにわかっている。兄弟として理解し合い愛し合うことに、血の繋がりなどはいらない。
似ているところなどひとつもないのに、今だけは一心同体の身だ。

「もう帰ろうか」

「…おう」

「マンションまで送るね」

「すまんな」

「あといいかげんスマホ買いな」

「明日買う」

「たぶん兄さんじゃわかんないだろうから、灰枝くんに頼んでね」

「そのつもりだ」

「兄さん、笑ってみて」

そう言うと、仏頂面のまま優の方を向き、泣きはらした目で口角だけをニッと上げた。

「うわ、ブサイク」

優も笑いエンジンをかけると、ようやくコンビニを後にした。
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