あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第1章 出会い

5、不穏な眠り

 山崎たちと別れ、桜樹は一人になる。

 ラウンジの出口を抜けた瞬間、喧騒はフェードアウトするように消え、居住区専用の転送ゲートが静かに立ち上がった。

 次の瞬間――
 視界が切り替わる。

 天井の高いリビング。
 床一面に敷かれた淡色たんしょくの素材は、足音をほとんど吸収する。
 壁面は外界を模した仮想ウィンドウで、夜景がゆっくりと流れていた。

 豪華だが、生活感は薄い。
 それは桜樹の立場をそのまま反映している空間だった。

「……ただいま」

 誰に聞かせるでもなく呟き、コートを外す。
 返事はない。
 この居住区には、必要以上のインタラクションは組み込まれていない。

 桜樹は奥の書斎へ向かう。

 そこにあるのは、一般ユーザー用の端末ではない。

 管理層と直接リンクする、物理入力を前提とした古い設計のパソコン。

 仮想空間でありながら、あえて“キーボードを叩く”という行為が必要なそれは、桜樹にとって一種の切り替え装置だった。

 椅子に腰を下ろし、電源を入れる。

 画面が暗転し、管理層用の認証画面が立ち上がる。

  ID:SAKURAGI-ADM
  権限:運用・監査・ログ閲覧

 短い入力。
 許可。

 デスクトップが開いた瞬間、世界の“裏側”が顔を出す。

 桜樹は、迷わずログ管理フォルダを開いた。

「……やっぱり、残ってるな」

 昼間から気になっていたログ。
 正確には、存在してはいけない空白の連なり。

  ・アバターID:未定義
  ・肉体リンク:なし
  ・意識同期:継続中
  ・消失処理:未実行

「処理漏れ……じゃない」

 彼は小さく息を吐く。

 単発ではない。
 断続的に、しかも同じ層で観測されている。

 桜樹は時系列を拡大し、バーでの時間帯に照準を合わせる。

 その瞬間、ログの一行が、わずかに色を変えた。

(……重なった?)

 フレンド登録が成立した、ほぼ同時刻。

 偶然だと切り捨てるには、出来すぎている。

「肉体を持たないアバター……」

 その言葉を、口には出さない。
 まだ仮説の段階だ。

 だが、桜樹の背中を、ひやりとした感覚が走る。

 ――これは“誰か”だ。
 ――そして、長く残りすぎている。

 ログの最下段に、見慣れないタグが一瞬だけ表示され、すぐに消えた。

  MIRROR_SYNC : standby

「……ミラー?」

 思わず、声が漏れる。

 保存されていない。
 履歴にも残らない。

 だが確かに、今、見えた。

 桜樹は椅子に深く座り直す。

「明日だな」

 今日のところは、深入りしない。
 管理者としての勘が、そう告げていた。

 だが、モニターを落とした後も――
 彼の脳裏には、バーでのミレーナの視線と、“確定”という無音の感触が、消えずに残っていた。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 書斎を出ると、居住区の照明は自動的に落ちていった。

 夜の設定は、桜樹が好んで選んだものだ。
 暗すぎず、明るすぎず。眠る前の思考が、ゆっくり沈んでいく明度。

 寝室のドアを開くと、広いベッドが静かに待っている。

 シーツの質感は、かつて現実世界で使っていたものと同じ数値に調整されていた。
 冷たすぎず、体温を吸い取らない。

 桜樹は上着を脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。

「……今日も、長かったな」

 独り言は、音になって消えるだけだ。
 それでも、言葉にすることで一日が終わる。

 横になると、背中に伝わる反力が、わずかに遅れて返ってくる。

 仮想空間では、眠る必要はない。

 意識を落とさずとも、活動を停止することはできるし、ログアウトする選択肢もある。

 それでも――

 桜樹は、眠る。

 目を閉じると、システムがそれを検知し、外界からの刺激を段階的に減衰させていく。

 聴覚が、先に薄れる。
 次に、触覚。
 最後に、視覚。

 現実とほとんど変わらないプロセス。

 心拍数の代替信号が、ゆっくりと落ちていく。

(こうして眠れるのは……便利だな)

 そんなことを考えながら、桜樹の意識は、静かに沈んでいった。

 夢を見るかどうかは、その日次第だ。
 仮想世界では、夢さえも選択できる。

 だが今夜は、何も選ばない。
 ただ、眠る。

 ベッドのかたわらで、居住区のステータス表示が最小化される。

  ユーザー:桜樹敬司
  状態:休眠
  意識レイヤー:維持

 ――その表示の奥、
 誰にも見えない管理層の深部で、もうひとつの同一IDが、同じ“夜”を迎えていることを、桜樹はまだ知らない。
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