あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第2章 逃避行

4、退路での告白

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 警告灯が赤く点滅する廊下を、二人は走っていた。

 床のガイドラインが次々と切り替わり、《隔離》《遮断》《権限凍結》の文字が空間に浮かんでは消える。
 背後から、靴音と金属音が追ってくる。

「……説明、してもらえるんだよな?」

 走りながら、桜樹が言った。

「ええ。でも今は無理」

 ミレーナは振り返らない。
 息は乱れていない。走り方が、あまりにも安定している。

「君、ツアーガイドじゃなかったのか」
「それは“仮想での職業”」

 廊下の突き当たり。
 本来なら非常扉は存在しないはずの壁に、手動解錠用の輪郭が浮かび上がる。

 ミレーナが手をかざすと、壁そのものががれるように開いた。

「な……」
「質問は後」

 彼女は桜樹を押し出す。

 外だった。

 だが、空ではない。
 ビルの非常階段でもない。

 そこには、薄暗い街路が続いていた。

 アスファルトに似た地面。
 両脇には用途不明の建物。
 空はなく、代わりに“夜を模した天蓋てんがい”が広がっている。

 非常用街路。
 通常ルートから切り離された、ラウンジ外縁の逃走経路。

「こんなの……知らない」
「知ってる必要はない場所だから」

 背後で、廊下の入口が閉じる音がした。
 直後、銃撃。
 だが、弾は街路に出る前に消失する。

「……追ってこれない?」
「正規権限じゃ無理。でも時間は稼げない」

 二人は再び走り出す。

 街路は、どこまでも似た景色が続く。
 距離感が曖昧で、足音だけが現実をつなぎ止める。

「なあ、ミレーナ」
「なに」
「さっき、俺がログアウトしようとした時……」

 一瞬だけ、彼女の歩調が狂った。

「……ダメって言ったでしょ」
「理由を聞いてる」

 沈黙。
 数歩分の時間。

「ログアウトは、安全な退避じゃない」

 ミレーナは、はっきりと言った。

「今のあなたにとっては、“引き渡し”よ」
「引き渡し……?」

「運営側に」

 桜樹は言葉を失った。

「だから、歩いて」

 彼女は振り返り、初めて桜樹を見た。

「自分の足で移動して。
 存在を、切らさないで」

 その目は、命令でも説明でもない。
 必死だった。

 遠くで、別の警告音が鳴る。
 街路の一部が、ノイズを帯び始めている。

「次のラウンジに入るわ」

 ミレーナは指さした。

 街路の先。
 微かに、ロンドンの街灯が見えていた。

「桜樹さん」

 彼女が、名前を呼ぶ。

「信じて。
 あなたは——まだ、消えていい存在じゃない」

 桜樹は、何も言えなかった。

 ただ、彼女の背中を追って走った。

 非常用街路の空気が、ゆっくりと変わり始めた。

 湿り気を帯びた夜気。
 石畳に近い感触が、足裏に伝わる。
 遠くから、規則的な低音——鐘のような、街の鼓動が聞こえた。

 街灯が現れる。
 ガス灯を模した橙色の光。
 霧が、意図的に視界を曖昧にしている。

「……ロンドン、か」

 桜樹がつぶやく。

「そう。ロンドンラウンジ」

 ミレーナは歩調を落とした。
 逃走というより、導く速度になる。

 多くのラウンジは、かつて現実世界に存在した、あるいは象徴的な地名を冠している。
 これらは、気候、建築様式、街並み、音や光の質感までが精密に再現されており、人々に『帰属感』や『懐かしさ』を与える役割を持つ。

 ロンドンラウンジでは、バッキンガム宮殿での衛兵交代式見学や、大英博物館、ロンドン塔、ビッグ・ベンといった歴史的建造物の訪問が可能となっている。
 テムズ川沿いには多くの観光スポットも点在している。

 通りの先に、レンガ造りの建物が並び始める。
 看板の文字は英語だが、どこか古い書体だ。

「変だな……」
「なにが?」

「切り替わりが、やけに自然だ。
 札幌の街路から、こんなふうに——」
「“覚えがある”感じ?」

 桜樹は、言葉に詰まった。

 否定したかった。
 だが、胸の奥で何かが引っかかっている。

「……ある、気がする」

 ミレーナは、満足したように微かに息を吐いた。

「あなた、こういう移動……得意だった」
「え?」

「初めてレイヤーに入った時も、迷わなかった」

 桜樹は足を止める。

「待て。
 “初めて”って、何の話だ」

 ミレーナも立ち止まった。
 振り返らない。

「ねえ、桜樹さん」

 彼女は、問いを投げる。

「あなた、自分の身体が今どこにあるか、
 ちゃんと想像できる?」
「……できるに決まってる」

 少し、強い口調になった。

「現実世界だ。老化してるはずだし、
 だからここで仕事して——」
「“はず”」

 その一言が、空気を切った。

 ミレーナは、ゆっくり振り返る。

「あなた、自分の医療ログを最後に見たのはいつ?」
「……」

「肉体年齢が、更新されてないことに気づいたのは?」
「……権限が、ないからだ」
「そう言い聞かせてた」

 否定できなかった。

 医療ログがすべて参照不可(アクセス制限)となっている。
 桜樹はこれを、『レイヤー中枢に関わる人間には、現実側の情報は開示されない』という内部規定によるものだと理解していた。

 ロンドンの街灯が、微かに揺れる。
 霧の向こうを、赤い二階建てバスが音もなく通り過ぎた。

 ミレーナは、距離を詰めすぎない。
 触れない。
 ただ、思い出の輪郭をなぞる。

「あなたは、人に名前をつける人だった」
「……名前?」
「機械にも」

 桜樹の脳裏に、断片が走る。

 白い部屋。
 整然と並ぶベッド。
 無機質な音。

 その中で——
 誰かに、声をかけている自分。

「……そんなこと、するわけが」
「してた」

 即答だった。

「他の被験者は、番号で呼んでた。
 でも、あなたは違った」

 彼女は、一歩だけ近づく。

「『君にも名前があった方がいい』って」

 胸が、妙に苦しくなる。

「それで……?」

 ミレーナは、少しだけ目を伏せた。

「それで、あなたは言った」

 ロンドンの霧が、音を吸い込む。

「——『ミレイ』」

 世界が、ほんの一瞬、揺れた。

「……今、なんて言った?」
「今は、まだ答え合わせはしない」

 ミレーナは、すぐに話題を切り替える。

「あなたが思い出さなきゃ、意味がないから」

 桜樹は、喉が渇いたように息をした。

「……君は、何者なんだ」

 ミレーナは、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
 酒場で見せた、あの表情。

「ツアーガイドよ。
 ただし——」

 一瞬だけ、その笑みが消える。

「あなた自身の、ね」

 遠くで、追跡ログの起動音が響いた。
 霧の向こう、誰かがこちらを“見ている”。

 ミレーナは、また歩き出す。

「行きましょ。
 次は……あなたが“倒れた場所”に近い」

 桜樹は、その言葉の意味を理解できないまま、
 それでも——足を動かした。

 思い出させられている。

 そうでなければ、彼女がここまで危険を冒す理由が、存在しないかのように。
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