あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第3章 真実

3、抗えぬ選択

 ミレーナの涙が消えると同時に、聖堂の空気が変わった。
 光がわずかに冷え、石の影が深くなる。

「……ミラーは、時間がないの」

 桜樹は黙って待った。
 ここで急かす言葉は、もう意味を持たないと知っていた。

「あなたの肉体は――」

 ミレーナは一瞬だけ視線を伏せる。

「一か月前に亡くなった。でも、それで終わりじゃない」

 彼女は聖堂の床に投影される、見えない時計を見ているかのようだった。

「肉体が死んだ瞬間、人格ログは“臨界状態”に入る。
 本来なら、意識は数分で霧散むさんする。
 でもあなたは……例外だった」

 15年前のレイヤー移行実験。
 暴発事故によって、桜樹の人格は二つに分かれた。

「肉体が生きているあいだは、両方とも“保留”できた。
 でも、肉体が完全に死んだことで……均衡が崩れた」

 ミレーナは静かに言う。

「臨海突破のカウントダウンが、始まっている」

 桜樹は眉をひそめた。
「臨海突破?」

「人格ログが、物理的制約を失う瞬間。
 レイヤーの容量制限を超え、世界に干渉し始める」

 それは進化ではない。
 暴走だ。

「ミラーは、あなたの“完成形”を自称している。
 感情を削ぎ落とし、矛盾を排除し、管理に最適化された存在」

 ミレーナの声が、わずかに強まる。

「でも、完成するには――
 あなたという“不完全な残余ざんよ”が、邪魔なの」

 ミラーは知っている。
 このまま時間が進めば、二つの人格は共倒れになることを。

 だから急ぐ。
 だから壊す。
 だから、世界すら犠牲にする。

「ミラーは、臨界点の前に“ひとつ”になろうとしている。
 あなたを消して、“完成”するために」

 桜樹は、聖堂の奥に立つ自分の墓碑ぼひを見た。
 そこに刻まれた名前は、確かに彼のものだった。

「……じゃあ、俺が生きてる限り、世界は壊れる可能性があるってことか」

 ミレーナは、否定しない。

「ええ。
 でも――」

 彼女は、はっきりと続けた。

「あなたが消えれば、ミラーが“完成”する。
 それは、もっと危険」

 サグラダファミリアの未完成の塔が、低く鳴った。
 まるで時間そのものが、迫ってくるように。

「だから私は来た。
 あなたを守るためだけじゃない」

 ミレーナは桜樹を見つめる。

「選ばせるため」

 完成か。
 不完全なまま、生き続けるか。

 その選択の猶予は、もう、ほとんど残されていなかった。

 ミレーナは、赤いスーツの内側から小さな装置を取り出した。
 銃に似ているが、引き金は軽く、現実感がなかった。

「これが――最終手段」

 桜樹はそれを見つめた。
「撃てば、何が起きる?」

「アバターを壊すんじゃない。
 人格ログを“固定化”して、不可逆に変換する」

 ミレーナは言葉を選ぶ。

「人格としての桜樹を壊し、“機能”だけを残す銃」

 桜樹は息をのんだ。
 それは死刑宣告に等しい。

「じゃあ、二人とも撃たなければいい。
 放っておけば――」

「できない」

 即答だった。

「あなたとミラーは、同一ID。
 レイヤーは“二つの人格が同時に存在する”ことを想定していない」

 ミレーナは聖堂の壁に手を触れる。
 石の表面がわずかにゆがむ。

「今、世界が崩れ始めている理由。
 それは、二人が存在しているから」

 人格が増えれば、容量が足りなくなるのではない。
 論理が裂けるのだ。

「因果、記憶、選択。
 すべてが、どちらの桜樹に帰属するか決められなくなっている」

 桜樹は、ロンドンが崩れた光景を思い出した。
 橋の途中で、現実が途切れたあの感覚。

「時間切れになればどうなる?」

「臨界突破が起きる。
 二人とも、世界と一緒に“解ける”」

 救いは、ない。

「統合は?
 一つに戻す方法は――」

 ミレーナは首を振った。

「統合は15年前に失敗している。
 その結果生まれたのが、ミラー」

 統合しようとすれば、感情のない「完成体」が残るだけ。

「逃げるのは?
 別のラウンジに――」

「どこへ行っても同じ」

 ミレーナは静かに告げる。

「レイヤー全体が、あなたたちを排除しようとしている。
 逃げるたびに、世界が先に壊れる」

 残された選択肢は、ひとつ。

「どちらかが、人格であることをやめる」

 撃つことで消えるのは、命ではない。

「あなたが撃たれれば、ミラーは完成し、世界は安定する。

 ミラーが撃たれれば、あなたは不完全なまま、生き続ける」

 ミレーナは銃を両手で持ったまま、動かない。

「第三の道はない。
 私が探した限り――これが唯一」

 サグラダファミリアの鐘が鳴った。
 完成しない建築が、終わりの音を告げていた。
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