あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第3章 真実

4、愛するが故に

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 聖堂の扉は、外光を抱え込むようにわずかに開いていた。
 白い石床の上に、朝とも夕ともつかない光が斜めに差し込んでいる。

「先に行くよ」

 桜樹は振り返らずに言った。
 それが別れの言葉にならないことを、彼自身が一番よく知っている声だった。

 ミレーナは一歩、遅れた。

 足が動かなかったわけではない。
 誰かに掴まれたわけでもない。
 ただ――聖堂の空気が、彼女の中に残っていた。

 石の柱。
 天井の高み。
 未完成のまま、百年以上積み上げられてきた意志。

 ここでは、
 記憶は飾れず、
 感情は加工できず、
 役割という言い訳も通用しない。

 ミレーナの胸の奥で、何かが静かに抵抗した。

(……まだ、終わっていない)

 そう感じた瞬間、足元の床に微かな振動が走る。
 聖堂そのものが、彼女を留めているかのようだった。

「ミレーナ?」

 扉の向こうから、桜樹の声が届く。
 だがその声は、少しだけ遠い。

 彼女は返事をしなかった。
 できなかったのではない。
 ここでは、嘘の返事をすることができなかった。

 一拍。
 もう一拍。

 やがて、ミレーナは深く息を吸い、足を前に出す。

 聖堂は、何も言わない。
 ただ、彼女を見送らなかった。

 ――その一歩の遅れが、世界にとって致命的な「余白」になることを、彼女だけが、まだ知らなかった。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 聖堂を出た瞬間、空気が変わった。

 外は静かだった。
 サグラダファミリアの石の外壁は、崩壊の兆しもなく、ラウンジは一時的な安定を取り戻しているように見えた。

 その中央に――
 二人の桜樹が立っていた。

 突然の出現に、ミレーナは銃を構え、二人の男を見比べていた。



 どちらも、桜樹敬司。
 同じ顔、同じ声、同じID。
 ログ上の差異は、すでに消えている。
 どちらかがわたしが知っている桜樹で、もう一方がミラー。

「……質問をするわ」

 ミレーナの声は、わずかに震えていた。

 右の桜樹も、左の桜樹も、同じように頷く。

「レイヤー移行実験が行われた年は?」

「2035年」

 声は重なる。

「あなたがシステム管理を始めた理由は?」

「逃げ場がなかったからだ」

 即答。
 迷いも、間も、同じ。

 ミレーナの指が、引き金の上で微かに揺れる。

「バーで、わたしが飲んでいたカクテルの名前は?」

「ホワイト・レディ」

 また、同じ答え。

 胸の奥が、きしむ。
 論理では、見分けがつかない。
 記憶も、経験も、すべて一致している。

「……どうして、そこまで同じなの」

 呟きは、誰に向けたものでもなかった。

 その時、右の桜樹が、静かに言った。

「ミレーナ。もういいだろ」

 左の桜樹も、同じ言葉を口にする。

 ミレーナは、目を閉じた。
 そして、最後の問いを選ぶ。

 それは、ログにも、記録にも残らない質問。

「……わたしの、本当の名前は?」

 一瞬の沈黙。

 左の桜樹が、わずかに眉をひそめる。

「柊・ミレーナ・アウレリア、だろ?」

 正しい。
 だが、それだけだ。

 右の桜樹は、ほんの少しだけ間を置いた。

 まるで、忘れていた言葉を、胸の奥からすくい上げるように。

「――美麗みれい

 その一言で、世界が止まった。

「美しいに、うるわしいと書いて、『美麗』」

 ミレーナの呼吸が、詰まる。

「……どうして、それを」

「俺が人間らしくと、名前をつけた」

 桜樹は、過去を懐かしむように笑った。

 ミレーナに、一筋の涙が頬を伝った。

「敬司!」

 かつての感情で呼んだ名前を、初めて仮想ここで叫んだ。

 ミレーナは、もう迷わなかった。

「あなたを救ってみせる!」

 銃口が、静かに左へ向く。

 引き金が引かれる。

 光が走り、同一IDのミラーである桜樹は、粒子となって崩れ落ちた。

 銃声の残響が、完全に消えたあと。

 桜樹は、しばらく何も言わなかった。
 足元に残るのは、ミラーだったものの痕跡――崩壊したログの名残だけ。

 やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。

「……なんで」

 声は低く、抑えられていたが、明確に震えていた。

「なんで、俺を助けた?」

 ミレーナが何か言う前に、言葉が続く。

「分かってただろ。
 俺を残せば、世界は不安定になる」

 初めてだった。
 彼が、理屈ではなく、怒りと恐怖をそのままぶつけたのは。

「俺一人のために、レイヤーの世界全体を危険にさらす価値があるのか?」

 ミレーナは、少しだけ目を伏せる。
 だが、逃げなかった。

「あるわ」

 即答だった。

 桜樹は、目を見開いて、

「……そんな感情論で——」
「あなたを愛してるから。

 ——一人の“女性”として」

 空気が、止まった。

 桜樹の言葉は、途中で途切れた。
 思考が、追いつかない。

「あなたが、私を“人間”にしてくれた」

 ミレーナはまっすぐ彼を見ていた。
 レイヤーの演算でも、使命でもない、
 ただの“感情”の目で。

「理由がそれじゃ、ダメ?」

「……」

「私は、世界を守るために造られた。
 でも、あなたを守りたいと思ったのは、私自身の選択よ」

 桜樹は、拳を握りしめる。

「だったら、どうするつもりだ」

 ミレーナは一歩、彼から離れる。
 その距離が、これからの別れを予告しているようだった。

「現実世界へ行く」
「……何?」

「レイヤーの中枢部。
 直接アクセスして、二つに分かれた人格を統合する」

 桜樹は息を呑む。

「そんなこと……管理層が——」
「だから、私が行くの」

 ミレーナは微笑んだ。
 いつもの余裕のある笑みではない。
 覚悟を隠すための、柔らかい表情。

「私はアンドロイド。
 現実世界でも、アクセス権限を持てる」

 彼女は、言わなかった。

 ――自分が媒介ばいかいになること
 ――人格とレイヤーを、自身の存在で繋ぐこと
 ――戻れない可能性があること

 桜樹の目を見たまま、それらをすべて飲み込む。

「あなたは、ここにいて」
「ミレーナ……」
「お願い」

 その一言に、命令も、使命もなかった。

 ただ、愛している相手に生きていてほしいという願いだけがあった。

 桜樹は何かを言いかけて、結局、言葉を失う。

 ミレーナはきびすを返す。

 その背中は、どこか軽く、
 そして――二度と戻らない覚悟を秘めていた。
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