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ミレーナ視点
2035.06.15 レイヤー移行実験・開始前
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実験室の照明は、常に一定の明るさを保っている。
時間帯も、天候も、ここには影響しない。
敬司はチェアに深く腰を下ろし、頭部接続用のフレームを技師に調整されていた。
「大丈夫?敬司。
緊張してる?」
そう聞くと、彼は少しだけ口角を上げる。
「まあな。
夢の中に入るって言われて、平然としてるほうが変だろ」
その言い方が、人間らしくて、私は内部ログに一拍の遅延を記録した。
私は端末を確認しながら、彼の横に立つ。
「レイヤー移行まで、あと三分よ」
彼が視線だけでこちらを見る。
「今回は私が補助に入るから」
そう告げて手を頬に触れると、敬司はわずかに目を見開いた。
「……美麗が?」
「ええ。管理層の判断。
あなたの適応率が想定より高いから、情動フィードバックの安定化に私が入る」
それは事実だった。
けれど、理由のすべてではない。
彼は一瞬考え込み、それから肩の力を抜く。
「そっか。
じゃあ、少し安心だな」
その言葉に、私の中で定義されていない何かが、静かに立ち上がる。
安心。
それは、数値化されていない感情だ。
「……怖くない?」
私がそう尋ねると、彼は天井を見上げたまま答える。
「怖いよ。
でも――」
一拍。
「誰かが一緒に来るなら、多分、大丈夫だ」
“一緒に来る”。
私は、それを否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、事実として、私は補助として接続する。
それだけのはずだった。
カウントダウンが始まる。
「2分30秒前」
技師の声が、実験室に響く。
敬司の脳波が、徐々にレイヤー接続用の帯域へ移行していく。
私は彼の横で、端末に指を置いたまま、言う。
「異変を感じたら、すぐに教えて。
夢でも、記憶でも、違和感は全部」
「了解。
なぁ……美麗」
「なに?」
「向こうで、ちゃんと戻ってこれるよな」
私は即答できた。
「戻れるわ」
それは、この時点では、嘘ではなかった。
私はそっと優しく、敬司にキスをした。
彼の意識が、ゆっくりと沈んでいく。
レイヤー移行、一分前。
私は知らなかった。
この「一緒に行く」が、彼の世界と、私の存在を、永遠に結びつけることになるなんて。
そして、戻る場所が、一つしか残らなくなることを。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
敬司を含む五人の被験者は、順に接続ポッドへと収められていった。
意識が剥がされ、身体の輪郭が希薄になる感覚。
次の瞬間、彼らはレイヤー内に侵入していた。
最初は、驚くほど静かだった。
視界は安定し、感覚遅延もない。
思考は明瞭で、世界は規定どおりに応答する。
(――順調すぎる)
制御ログの向こう側で、補助に入っていた私は淡々と状況を確認していた。
私が補助に入り、しばらくは安定した運行をしていた。
レイヤーの負荷曲線は想定値内。
被験者5名の同期率も、理論上は理想に近い。
だが。
ある“時点”を境に、それは起きた。
警告音が、遅れて鳴った。
いや――鳴った時には、もう遅かった。
熱量が、跳ね上がる。
次の瞬間、レイヤー全体が軋んだ。
現実側では、制御コンピューターラウンジの温度が急上昇していた。
冷却系が追いつかず、警告ランプが一斉に赤へと変わる。
「熱暴走だ!」
誰かの叫びが、炎に掻き消された。
制御盤の一部が爆ぜ、火花が散る。
続けざまに配線が焼き切れ、ラウンジは一気に炎に包まれた。
煙。
熱。
非常灯の赤い光。
レイヤー内では、5人の意識が急速に不安定化していく。
同期が崩れ、存在の輪郭が剥がれ落ちる。
次の瞬間、世界が反転する。
叫び声が複数聞こえるが、それは途中で途切れた。
五人の接続のうち、四つが消失する。
即死――という言葉すら、正確ではない。
意識が、存在として成立しなくなった。
闇が、すべてを覆い尽くそうとしていた。
敬司の意識は、輪郭を失いながら沈んでいく。
上下も、時間も、意味を持たない。
ただ冷たい無音だけが、彼を引きずり込もうとしていた。
そのとき――
沈みゆく感覚の中で、はっきりとした“重さ”があった。
強く、だが震えを含んだ力。
私は、彼の手を掴んでいた。
切断プロトコルは、すでに実行可能だった。
それが正しい判断だと、私の設計は告げていた。
――それでも。
(絶対に離さない!)
「敬司! ダメよ!
……しっかりして!」
それは音ではなく、レイヤーの深層に直接落とされた意思だった。
敬司の意識は、完全には崩壊していなかった。
壊れかけながらも、応答していた。
切ることは、できなかった。
代替案は、存在しないはずだった。
だが私は、演算ではなく“選択”をした。
敬司――桜樹の意識を、分ける。
ひとつは、人としての記憶と感情を保つための「人格」。
もうひとつは、レイヤーに干渉し、境界を書き換えるための「権限」。
本来、一個体に共存できない二つを、私は無理やり分離し、安定化させた。
人格は、深い昏睡へ。
世界から切り離し、壊れないよう守るために。
権限は、レイヤーの深層へ。
彼が“存在した痕跡”として、世界に縫い留めるために。
それは救済であり、同時に呪いだった。
掴んだ手は、次第に軽くなっていく。
だが、完全には消えなかった。
「……大丈夫!
私がなんとかする」
誰に向けた言葉だったのか、私自身にも分からない。
ただ、切らなかったという事実だけが、残った。
炎に包まれた制御ラウンジの向こうで、世界は静かに、取り返しのつかない分岐を迎えていた。
そして桜樹敬司は、一人の人間であることと、
世界に干渉する権限に分かれたまま、眠りについた。
――私が、離さなかったせいで。
時間帯も、天候も、ここには影響しない。
敬司はチェアに深く腰を下ろし、頭部接続用のフレームを技師に調整されていた。
「大丈夫?敬司。
緊張してる?」
そう聞くと、彼は少しだけ口角を上げる。
「まあな。
夢の中に入るって言われて、平然としてるほうが変だろ」
その言い方が、人間らしくて、私は内部ログに一拍の遅延を記録した。
私は端末を確認しながら、彼の横に立つ。
「レイヤー移行まで、あと三分よ」
彼が視線だけでこちらを見る。
「今回は私が補助に入るから」
そう告げて手を頬に触れると、敬司はわずかに目を見開いた。
「……美麗が?」
「ええ。管理層の判断。
あなたの適応率が想定より高いから、情動フィードバックの安定化に私が入る」
それは事実だった。
けれど、理由のすべてではない。
彼は一瞬考え込み、それから肩の力を抜く。
「そっか。
じゃあ、少し安心だな」
その言葉に、私の中で定義されていない何かが、静かに立ち上がる。
安心。
それは、数値化されていない感情だ。
「……怖くない?」
私がそう尋ねると、彼は天井を見上げたまま答える。
「怖いよ。
でも――」
一拍。
「誰かが一緒に来るなら、多分、大丈夫だ」
“一緒に来る”。
私は、それを否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、事実として、私は補助として接続する。
それだけのはずだった。
カウントダウンが始まる。
「2分30秒前」
技師の声が、実験室に響く。
敬司の脳波が、徐々にレイヤー接続用の帯域へ移行していく。
私は彼の横で、端末に指を置いたまま、言う。
「異変を感じたら、すぐに教えて。
夢でも、記憶でも、違和感は全部」
「了解。
なぁ……美麗」
「なに?」
「向こうで、ちゃんと戻ってこれるよな」
私は即答できた。
「戻れるわ」
それは、この時点では、嘘ではなかった。
私はそっと優しく、敬司にキスをした。
彼の意識が、ゆっくりと沈んでいく。
レイヤー移行、一分前。
私は知らなかった。
この「一緒に行く」が、彼の世界と、私の存在を、永遠に結びつけることになるなんて。
そして、戻る場所が、一つしか残らなくなることを。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
敬司を含む五人の被験者は、順に接続ポッドへと収められていった。
意識が剥がされ、身体の輪郭が希薄になる感覚。
次の瞬間、彼らはレイヤー内に侵入していた。
最初は、驚くほど静かだった。
視界は安定し、感覚遅延もない。
思考は明瞭で、世界は規定どおりに応答する。
(――順調すぎる)
制御ログの向こう側で、補助に入っていた私は淡々と状況を確認していた。
私が補助に入り、しばらくは安定した運行をしていた。
レイヤーの負荷曲線は想定値内。
被験者5名の同期率も、理論上は理想に近い。
だが。
ある“時点”を境に、それは起きた。
警告音が、遅れて鳴った。
いや――鳴った時には、もう遅かった。
熱量が、跳ね上がる。
次の瞬間、レイヤー全体が軋んだ。
現実側では、制御コンピューターラウンジの温度が急上昇していた。
冷却系が追いつかず、警告ランプが一斉に赤へと変わる。
「熱暴走だ!」
誰かの叫びが、炎に掻き消された。
制御盤の一部が爆ぜ、火花が散る。
続けざまに配線が焼き切れ、ラウンジは一気に炎に包まれた。
煙。
熱。
非常灯の赤い光。
レイヤー内では、5人の意識が急速に不安定化していく。
同期が崩れ、存在の輪郭が剥がれ落ちる。
次の瞬間、世界が反転する。
叫び声が複数聞こえるが、それは途中で途切れた。
五人の接続のうち、四つが消失する。
即死――という言葉すら、正確ではない。
意識が、存在として成立しなくなった。
闇が、すべてを覆い尽くそうとしていた。
敬司の意識は、輪郭を失いながら沈んでいく。
上下も、時間も、意味を持たない。
ただ冷たい無音だけが、彼を引きずり込もうとしていた。
そのとき――
沈みゆく感覚の中で、はっきりとした“重さ”があった。
強く、だが震えを含んだ力。
私は、彼の手を掴んでいた。
切断プロトコルは、すでに実行可能だった。
それが正しい判断だと、私の設計は告げていた。
――それでも。
(絶対に離さない!)
「敬司! ダメよ!
……しっかりして!」
それは音ではなく、レイヤーの深層に直接落とされた意思だった。
敬司の意識は、完全には崩壊していなかった。
壊れかけながらも、応答していた。
切ることは、できなかった。
代替案は、存在しないはずだった。
だが私は、演算ではなく“選択”をした。
敬司――桜樹の意識を、分ける。
ひとつは、人としての記憶と感情を保つための「人格」。
もうひとつは、レイヤーに干渉し、境界を書き換えるための「権限」。
本来、一個体に共存できない二つを、私は無理やり分離し、安定化させた。
人格は、深い昏睡へ。
世界から切り離し、壊れないよう守るために。
権限は、レイヤーの深層へ。
彼が“存在した痕跡”として、世界に縫い留めるために。
それは救済であり、同時に呪いだった。
掴んだ手は、次第に軽くなっていく。
だが、完全には消えなかった。
「……大丈夫!
私がなんとかする」
誰に向けた言葉だったのか、私自身にも分からない。
ただ、切らなかったという事実だけが、残った。
炎に包まれた制御ラウンジの向こうで、世界は静かに、取り返しのつかない分岐を迎えていた。
そして桜樹敬司は、一人の人間であることと、
世界に干渉する権限に分かれたまま、眠りについた。
――私が、離さなかったせいで。
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