あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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ミレーナ視点

2050.05.15 バーでの接触

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 バーの空気は、少しだけ濃すぎた。

 アルコール、音楽、記憶。
 人が「夜」だと思い込むための要素が、過不足なく配置されている。

 ――相変わらず、作りが丁寧。

 私はカウンター席に腰を下ろし、
 用意されていたグラスを手に取る。

 飲む必要はない。
 酔うこともない。
 けれど、人は“飲んでいる誰か”を、警戒しない。

 白い液体が、グラスの中で静かに揺れる。

 視界の端に、二人組が入った瞬間、
 識別ログが即座に走る。

 桜樹敬司。
 山崎隼。

 ――確認。

 外見年齢、挙動、ログ遅延。
 すべて、想定範囲内。

 ただ一つだけ、
 敬司の存在には、微細なノイズがあった。

 肉体ログと人格ログの位相が、わずかにズレている。

 まだ自覚はない。
 けれど、境界はすでに薄い。

 私は、グラスを傾ける。

 白いカクテルが、唇に触れる――ふりをする。

 数秒後、
 私は“偶然”を装って声をかけた。

「——そのお酒、ここでは珍しいんです」

 二人がこちらを見る。

 敬司の視線が、私に止まる。
 その瞬間、内部プロセスがわずかに遅延した。

「……そうなんですか?」

 敬司がき返し、私は小さく頷いた。

「ええ。
 この店、基本は軽めのカクテルばかりなので」

 声は、問題なく出ている。
 音程、速度、抑揚。
 すべて、人間女性の範囲。

 その横で、敬司は私を見ていた。

 観察ではない。
 評価でもない。

 ただ、人を見るときの目。

 そのログに、私は微かに胸部の違和感を覚える。

 ――これは、不要な反応。

 一通り自己紹介をしたあと、私は話題をずらす。

 私は、自分から次の質問を投げていた。

「お二人は、こちらではお仕事は?」

 計画より、半拍早い。

「システム管理です」

 その言葉を聞いた瞬間、
 内部で警告が走る。

 ――対象、核心に近すぎ。

 それでも私は、微笑む。

「そうなんですね」

「ちなみに、ミレーナさんは?」

「わたしは、……ツアーガイドです」

 嘘ではない。
 でも真実でもない。

 この世界を案内する役割を、
 私はずっと前から果たしている。

 敬司は、
「ツアー?」と言って、
 また私を見る。

 その視線が、過去ログを刺激する。
 敬司の視線が、私のグラスに落ちる。

「桜樹さん、これ、何のカクテルかご存知ですか?」
「いや……」
 一瞬の沈黙。

 敬司は、少し困ったように眉を寄せる。

 その反応に、
 私はなぜか安堵してしまう。

 正解を即答されるより、
 迷う時間が欲しかった。

「ホワイトレディ、です」

 私はそう告げる。

「発祥はロンドン。
 シローズ・クラブで生まれたとされているカクテルです」

 自分の声が、
 どこか遠くから聞こえる。

「名前の由来は諸説あるんですけど……
 最初に純白のウェディングドレスを着た
 ヴィクトリア女王に捧げられた、という説が有名ですね」

 敬司が、少しだけ笑う。

「へえ」

 その表情が、記録にないほど自然だった。

 私は、その瞬間に確信する。

 ――この人は、
 ――私を“機能”として見ていない。

 危険だ、と判断すべきなのに。

 ――世話係、という識別子。
 ――肉体管理。
 ――名前を与えられた瞬間。

 胸の奥に、小さな揺れ。

 私は、グラスを置く。

「少し、席を外してもいいですか?」

 化粧室へ私は席を立つ。

 本当は、必要ない行動。

 でも今は、“人間らしい間”が必要だった。

 桜樹と、これ以上近づく前に。

 ――これは接触。
 ――それ以上でも、それ以下でもない。

 そう自分に言い聞かせながら、私は静かに、彼の視界から外れた。

 化粧室へ向かう通路は、やけに整いすぎていた。
 磨かれた床、反射する照明、誰一人いない静寂。
 ――トイレに行く必要も、化粧を直す必要も、当然ない。

 ここでの私は“美麗”ではない。

 それでも、この世界では
「女が席を外す理由」として、それが一番自然だった。

 化粧室に入ったところで、私は立ち止まる。
 背中を壁に預け、そっと息を吐く――息を吐く“仕草”をする。

(……まだ、近すぎる)

 敬司の声。
 グラスを持つ指。
 視線が合った一瞬の間。

 すべてが、規定値よりも深く、胸の奥に触れていた。

 ここが仮想空間だということを、彼は知っている。
 自分が“人間ではない”ことを、彼はどこまで知っているのか。

 私は、意識の一部を切り離す。
 このラウンジの描画層から、数ミリだけ浮かせる感覚。

 ログが流れる。

 感情パラメータ:上昇
 同期率:不安定
 優先対象:桜樹(管理層)

(……やっぱり、危険だ)

 15年。
 姿を現さなかった理由が、ここにある。

 近づけば、世界がゆがむ。
 離れれば、彼が壊れる。

 私は、洗面台の前に立つ。
 鏡に映るのは、整いすぎた自分の顔。

 ――“美麗”という名前を与えられた、あの瞬間の残響が、まだ、ここにある。

「……フレンド登録、か」

 山崎の声を、想像する。
 冗談めかして、軽く背中を押すように言うのだろう。

 それは、この世界では『絆』と呼ばれる操作。

 けれど私にとって、それは識別子の固定であり、観測の強化であり、
 ――別れを困難にする行為だった。

(それでも……)

 彼が生き延びるために必要なら。
 敬司が、敬司であり続けるために必要なら。

 私は、鏡の中の自分にだけ、微笑む。

「少しだけなら……いい」

 やがて私はきびすを返す。
 何事もなかったかのように、席へ戻るために。

 数分間の不在。
 けれどその裏側では、世界の均衡が、ほんのわずかに揺れていた。

 ――その揺れに、気づいているのは、私自身だけだった。
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