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第1章 見守る影
6、父の記録
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東京レイヤー総合管理塔、研究部門フロア。
朝霧結奈は、自席の端末の前で一度だけ深呼吸をした。
――逃げない。
――誤魔化さない。
それだけを、心の中で確認する。
彼女が開いているのは、正式な研究調査申請フォームだった。
非公開ログや参照不可領域とは別の、
あくまで「創成期実験に関する事後検証」という名目。
目的欄に、結奈は淡々と入力する。
レイヤー創成期における被験者死亡事例の記録精度検証
特に「突然死」と処理された事案のログ欠損・参照不整合の調査
感情は書かない。
父の名前も出さない。
研究者として、正しい距離を保った言葉だけを選ぶ。
「……これでいい」
提出ボタンに指を置いた瞬間、
ほんの一瞬、胸の奥がざわついた。
けれど――
何も起きない。
警告音も、アクセス拒否も、管理層からの即時照会もない。
静かすぎるほど、何も。
結奈は画面を見つめたまま、眉をひそめる。
「……早すぎる?」
それとも――
まだ、触れられていないだけなのか。
研究フロアはいつも通りだった。
人の気配、端末の動作音、遠くのサーバーの低い振動。
誰かに見られている感覚はない。
それでも結奈は、背中に薄い空気の膜が張り付いたような感覚を覚えていた。
「おかしいのよね……」
父・朝霧雅人の死亡記録。
正式には「実験中の発作による突然死」。
だが、ログの中に残っていた“存在しないはずの参照痕跡”。
それは事故でも、誤記でも説明できない。
結奈は画面を閉じる。
今日はここまで。
これ以上進めば、正式ルートを逸脱する。
それは――
まだしない。
「まずは、研究者として」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
この選択が、
自分を守るのか、それとも――
管理層に「時間」を与えるだけなのか。
結奈にはまだ分からない。
ただ一つ確かなのは。
この時点では、管理層は動いていない。
そしてそれは、最も危険な“嵐の前の静けさ”でもあった。
【美麗から届く、短い評価ログ】
研究申請を提出してから、数分後。
結奈の端末に、通常の通知とは異なる微かな振動が走った。
警告音ではない。
通信要求でもない。
――ログ受信。
結奈は、息を止めるようにして画面を開いた。
表示されたのは、管理層のフォーマットでも、研究部門の書式でもない。
ただ、簡潔な一文。
評価ログ:観測対象・朝霧結奈
あなたは、近道を選ばなかった。
それは、私が最初に失った選択です。
送信元識別子:Mirei
結奈の指が、止まる。
「……美麗」
続きはない。
補足も、命令も、説明もない。
それでもその一文は、結奈の胸の奥に静かに沈んでいった。
――近道を選ばなかった。
――それが、評価になる世界。
美麗はきっと、知っている。
正攻法が、最も遠回りで最も壊れやすい道だということを。
結奈は画面を閉じ、背もたれに身を預けた。
不思議と怖くはなかった。
むしろ――
見られているではなく、理解された。
そんな感覚だけが残っていた。
【管理層側ログ】
――「異常値未満」として処理される瞬間
レイヤー総合管理塔・上層。
人の気配がほとんど存在しない、監査用ラウンジ。
天井から床まで伸びるモニター群に、無数の観測データが静かに流れていた。
その中の一つが、淡く点灯する。
観測対象:朝霧結奈
所属:レイヤー研究部門(非管理職)
行動分類:正規研究申請
関連データ参照回数:基準値+3.2%
数値が並び、即座に解析が走る。
「父親死亡ログへの再調査申請か」
誰かが感情のない声で呟いた。
別の管理層オペレーターが端末を操作する。
「個人的動機は明白ですが、申請経路は正規。
権限越境、非公開クラウドへの直接アクセス――なし」
モニターに表示されたグラフが、わずかに揺れたあと、安定域に戻る。
異常検出率:0.47
閾値:1.00
判定:異常値未満
「……まだだな」
そう言って、監視レベルが一段階下げられる。
朝霧結奈の名前は“要注意”の一覧には載らない。
代わりに、補足メモが自動生成される。
備考:当該研究者は、感情的動機を有するが、現時点でシステム安定性への影響は認められない。
継続観測は不要。
定期ログのみ保存。
ファイルが閉じられる。
誰も、彼女が「なぜ正攻法を選んだのか」を掘り下げようとはしなかった。
管理層にとって重要なのは、動機ではなく結果。
手順であり、数値であり、閾値だ。
――だからこそ。
この時点で、彼らは気づかなかった。
朝霧結奈という存在が、異常になる前の、人間的な揺らぎをすでに越え始めていることに。
モニターは再び沈黙し、管理塔の上層は何事もなかったかのように静まり返る。
ただ一つ、どこにも表示されない層でだけ観測は続いていた。
――美麗によって。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数日後。
申請の進捗を示すステータスは、いつの間にか「審査中」から消えていた。
代わりに、端末の片隅で控えめに点灯する通知。
研究申請:承認
対象ログ:朝霧雅人
参照範囲:職務ログ(限定)
有効期限:72時間
結奈は、しばらくその表示を見つめていた。
――通った。
拒否理由も、条件の追記もない。
あまりに静かな承認だった。
「……許可、下りたんだ」
研究フロアの空調音だけが淡々と流れる。
結奈は深呼吸し、ログ参照用インターフェースを起動した。
表示されたのは、個人の記憶ではない。
父としての朝霧雅人でもない。
技術者としての記録。
2035.06.13
制御系統チェック
負荷試験:問題なし
備考:冷却効率、想定値より良好
2035.06.14
レイヤー同期テスト
進行率:61%
備考:構築アルゴリズム、安定傾向
結奈は、思わず画面を指でなぞった。
「……パパ、こんな書き方してたんだ」
感情の欠片もない。
ただ、世界を作るための言葉だけが並んでいる。
そして、最後のログ。
2035.06.15
レイヤー移行実験・本実施
プロセス進行率:82%
備考:世界構築フェーズは中断すべきでない
優先度は維持されるべきだ
結奈の呼吸が、わずかに止まった。
――中断すべきでない。
死亡検案書に書かれていたのは、「実験中の突然の発作死」。
だがこの文章は違う。
父は、異変に気づいていなかったのではない。
気づいたうえで判断している。
結奈は、職務ログの階層を一つ遡った。
個人ログへのアクセス権はない。
だが、業務ログに紐づく関連参照は残されている。
そこで、見慣れない表示が現れた。
関連ログ:存在確認不可
(参照エラーではありません)
エラーではない。
削除でも、破損でもない。
「……存在、確認不可?」
研究者として、その表現の異常さが即座に理解できた。
それは、「存在していることを前提に、触れない」という扱いだ。
父の職務ログを経由しなければ辿り着けない場所。
そして、管理層が「触れなくていい」と判断した領域。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
結奈はキーボードから手を離し、画面を見つめた。
朝霧結奈は、自席の端末の前で一度だけ深呼吸をした。
――逃げない。
――誤魔化さない。
それだけを、心の中で確認する。
彼女が開いているのは、正式な研究調査申請フォームだった。
非公開ログや参照不可領域とは別の、
あくまで「創成期実験に関する事後検証」という名目。
目的欄に、結奈は淡々と入力する。
レイヤー創成期における被験者死亡事例の記録精度検証
特に「突然死」と処理された事案のログ欠損・参照不整合の調査
感情は書かない。
父の名前も出さない。
研究者として、正しい距離を保った言葉だけを選ぶ。
「……これでいい」
提出ボタンに指を置いた瞬間、
ほんの一瞬、胸の奥がざわついた。
けれど――
何も起きない。
警告音も、アクセス拒否も、管理層からの即時照会もない。
静かすぎるほど、何も。
結奈は画面を見つめたまま、眉をひそめる。
「……早すぎる?」
それとも――
まだ、触れられていないだけなのか。
研究フロアはいつも通りだった。
人の気配、端末の動作音、遠くのサーバーの低い振動。
誰かに見られている感覚はない。
それでも結奈は、背中に薄い空気の膜が張り付いたような感覚を覚えていた。
「おかしいのよね……」
父・朝霧雅人の死亡記録。
正式には「実験中の発作による突然死」。
だが、ログの中に残っていた“存在しないはずの参照痕跡”。
それは事故でも、誤記でも説明できない。
結奈は画面を閉じる。
今日はここまで。
これ以上進めば、正式ルートを逸脱する。
それは――
まだしない。
「まずは、研究者として」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
この選択が、
自分を守るのか、それとも――
管理層に「時間」を与えるだけなのか。
結奈にはまだ分からない。
ただ一つ確かなのは。
この時点では、管理層は動いていない。
そしてそれは、最も危険な“嵐の前の静けさ”でもあった。
【美麗から届く、短い評価ログ】
研究申請を提出してから、数分後。
結奈の端末に、通常の通知とは異なる微かな振動が走った。
警告音ではない。
通信要求でもない。
――ログ受信。
結奈は、息を止めるようにして画面を開いた。
表示されたのは、管理層のフォーマットでも、研究部門の書式でもない。
ただ、簡潔な一文。
評価ログ:観測対象・朝霧結奈
あなたは、近道を選ばなかった。
それは、私が最初に失った選択です。
送信元識別子:Mirei
結奈の指が、止まる。
「……美麗」
続きはない。
補足も、命令も、説明もない。
それでもその一文は、結奈の胸の奥に静かに沈んでいった。
――近道を選ばなかった。
――それが、評価になる世界。
美麗はきっと、知っている。
正攻法が、最も遠回りで最も壊れやすい道だということを。
結奈は画面を閉じ、背もたれに身を預けた。
不思議と怖くはなかった。
むしろ――
見られているではなく、理解された。
そんな感覚だけが残っていた。
【管理層側ログ】
――「異常値未満」として処理される瞬間
レイヤー総合管理塔・上層。
人の気配がほとんど存在しない、監査用ラウンジ。
天井から床まで伸びるモニター群に、無数の観測データが静かに流れていた。
その中の一つが、淡く点灯する。
観測対象:朝霧結奈
所属:レイヤー研究部門(非管理職)
行動分類:正規研究申請
関連データ参照回数:基準値+3.2%
数値が並び、即座に解析が走る。
「父親死亡ログへの再調査申請か」
誰かが感情のない声で呟いた。
別の管理層オペレーターが端末を操作する。
「個人的動機は明白ですが、申請経路は正規。
権限越境、非公開クラウドへの直接アクセス――なし」
モニターに表示されたグラフが、わずかに揺れたあと、安定域に戻る。
異常検出率:0.47
閾値:1.00
判定:異常値未満
「……まだだな」
そう言って、監視レベルが一段階下げられる。
朝霧結奈の名前は“要注意”の一覧には載らない。
代わりに、補足メモが自動生成される。
備考:当該研究者は、感情的動機を有するが、現時点でシステム安定性への影響は認められない。
継続観測は不要。
定期ログのみ保存。
ファイルが閉じられる。
誰も、彼女が「なぜ正攻法を選んだのか」を掘り下げようとはしなかった。
管理層にとって重要なのは、動機ではなく結果。
手順であり、数値であり、閾値だ。
――だからこそ。
この時点で、彼らは気づかなかった。
朝霧結奈という存在が、異常になる前の、人間的な揺らぎをすでに越え始めていることに。
モニターは再び沈黙し、管理塔の上層は何事もなかったかのように静まり返る。
ただ一つ、どこにも表示されない層でだけ観測は続いていた。
――美麗によって。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数日後。
申請の進捗を示すステータスは、いつの間にか「審査中」から消えていた。
代わりに、端末の片隅で控えめに点灯する通知。
研究申請:承認
対象ログ:朝霧雅人
参照範囲:職務ログ(限定)
有効期限:72時間
結奈は、しばらくその表示を見つめていた。
――通った。
拒否理由も、条件の追記もない。
あまりに静かな承認だった。
「……許可、下りたんだ」
研究フロアの空調音だけが淡々と流れる。
結奈は深呼吸し、ログ参照用インターフェースを起動した。
表示されたのは、個人の記憶ではない。
父としての朝霧雅人でもない。
技術者としての記録。
2035.06.13
制御系統チェック
負荷試験:問題なし
備考:冷却効率、想定値より良好
2035.06.14
レイヤー同期テスト
進行率:61%
備考:構築アルゴリズム、安定傾向
結奈は、思わず画面を指でなぞった。
「……パパ、こんな書き方してたんだ」
感情の欠片もない。
ただ、世界を作るための言葉だけが並んでいる。
そして、最後のログ。
2035.06.15
レイヤー移行実験・本実施
プロセス進行率:82%
備考:世界構築フェーズは中断すべきでない
優先度は維持されるべきだ
結奈の呼吸が、わずかに止まった。
――中断すべきでない。
死亡検案書に書かれていたのは、「実験中の突然の発作死」。
だがこの文章は違う。
父は、異変に気づいていなかったのではない。
気づいたうえで判断している。
結奈は、職務ログの階層を一つ遡った。
個人ログへのアクセス権はない。
だが、業務ログに紐づく関連参照は残されている。
そこで、見慣れない表示が現れた。
関連ログ:存在確認不可
(参照エラーではありません)
エラーではない。
削除でも、破損でもない。
「……存在、確認不可?」
研究者として、その表現の異常さが即座に理解できた。
それは、「存在していることを前提に、触れない」という扱いだ。
父の職務ログを経由しなければ辿り着けない場所。
そして、管理層が「触れなくていい」と判断した領域。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
結奈はキーボードから手を離し、画面を見つめた。
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