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1.不良優等生と諜報くんの場合

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体に熱いものが降り掛かってくる感覚。センが目を瞑っている間に何かあったようだ。きっと殺されるんだと思った。ナイフを振り下ろして、無抵抗の自分は絶命するんだとばかり。なのに、痛みも衝撃も意識が遠ざかる感覚も何も無くて。
重たいものが地面に衝突する鈍い音が響いてから、センはやっと事実に気がついた。

「ゆう、先輩、」

「……いったぁ………あはは、やっぱ、自殺なんて痛い方法で死ぬもんじゃないね」

あの切れ味のいい銀色のナイフが、ユウの右の肋骨の下に突き刺さっていた。全身から油汗をかいて地面に倒れ込む彼の姿にセンが動く。悲痛な叫び声を上げて、どうしていいかも分からない手当をしようとして手を止め、ひたすら泣きわめくしかなかった。
仰向けに寝転がったユウの体の下に、どんどん赤いシミが広がっていく。それを見ることしか出来ないセンはどうしようもない無力感を感じていた。

「せん………千、いいよ。助けなくて。元々こうするつもりだったんだから覚悟してたよ。看取って、せめて死ぬまで側にいて」

センは首を振っていたが、「お願い」とユウが呟くと左側の頭の横に跪いてユウの手を握る。
正直、ユウは喋るのも辛かった。右脇腹の痛みに加えて、酷い吐き気と息苦しさ、出血のせいで末端がどんどん冷えて意識がだんだん朦朧としてくる。
これが、死。
恐ろしさも抵抗も感じるが、段々と着実に死に近づいていくこの時間がとてつもなく惜しく感じた。この思いを伝えきれずに、死ぬ訳にはいかない。

「あのさ、僕謝らなきゃ。君に嘘ついてたんだ。本当は、ほんとはね、僕は君が好きだった。君に告白される前から、君の一途さに絆されてた。どうしようもなく好きだったんだ。全部、全部さ。だから君に脅された時どうしようかと思った。だって、君にそこで告白したら嘘だと思われそうだったから……馬鹿だよなあ、正直になればよかったのに嫌いだって嘘ついた。だから今まで自分にも嘘ついて、君を嫌いだと思ってた。でも…それにも耐えられなくなって別れを切り出した。とことん弱虫だよね、僕。ごめんね、嫌いなんて言って、馬鹿なんて言って」

初めて聞いたユウの本音に、センは後悔の気持ちでいっぱいだった。自分があの時脅さなければ、もっとユウの話を聞いていれば。こんなことにはならなかったのに。取り戻せない一瞬一瞬が悔しくて仕方ない。

「先輩…せんぱい、俺も謝らなきゃ。俺の方が悪いのに、先輩に謝らせてしまってごめんなさい。先輩の母親から守れなくてごめんなさい。性奴隷みたいに扱ってごめんなさい。先輩の気持ちに気づけなくて…ごめんなさい。………謝っても謝ってもこんなに足りない。取り返せないのに、俺、もうどうしようも出来ないのに。こんな…こんなこと………に、なるなら。俺が刺されれば良かったんだ………」

「…寒い」

ユウが朧気に呟いた。右脇腹が酷く痛む。自分で刺したところなのにこんなに痛いなんて…まあ、自業自得だが。自嘲を含みながら、ユウはセンに右腕を伸ばしていた。抱きしめて、と言葉にしなくても求められているのが分かって、センは初めてのユウからの要求に精一杯応えようとした。肩をだき、抱えるようにして上半身を少し起こして抱きしめる。唇は青く、肌は白く、呼吸は浅く、腕は冷たく、今まで感じてきた赤くて淡くて生きていたユウとかけ離れてしまった姿にセンはただ涙を流すしか無かった。

「…馬鹿、泣かないでよ。僕、君の笑った顔好きなんだよ?そんな顔されたら、僕…僕も、悲しくなる」

センの濡れた頬を撫でながらユウの目にも涙の膜が張って、横に伝う。微かに嗚咽を漏らしながら「死なないで、死んじゃ嫌だ」と啜り泣くセンを慰めることすらままならないのがもどかしい。僕が居なくても君は大丈夫だとか、僕のことなんか忘れろだとか、感情の濁流にどうでもいい言葉が生まれては消える。ユウが伝えたいのはそういう事じゃなくて、もっと別のものだった。
いつの間にか体に力が入らない。傷口はじくじくと痛み、そこだけ生暖かい。もう限界まで寒いのに、むしろそれが暖かく感じる。死神の抱擁は簡単だろう。きっともうすぐ死ぬんだ。センの、青葉みたいな夏の草原みたいな暖かい香りに包まれて、頭にぼんやり霞がかかってくる。

「千…あのさ、もし、生まれ変わったら」

上手いこと言えないなあ、僕。

「次は千と愛し合えたらいいな。今度は女の子になるから」

目を瞑ってセンだけを感じる。

「だから…愛してるよ、せん」

ユウはもうそこから話すことは無かった。話せなくなったのだ。呼吸は途絶え、腕からも力が抜け無秩序に地面に落ちる。真っ白な顔で、眠るように、赤い血液だけが彼がさっきまで生きていたことを示していて。本当に『お人形さん』になってしまったんじゃないかと錯覚してしまった。センは信じられないようにユウの体を揺すったが、寝顔にも見えるその顔の瞳はもう二度とみえることは無かった。

大量の血の池に蹲る2人、白い部屋の真ん中。
センの絶叫を聞き入れることなく、ドアの解錠音が響き、静かに外の光が差し込んできた。
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