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第一章

序文  晩秋  小春日和

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信長座☆座付作家太田又助  〈火起請の巻〉
 
   序文
 
 織田信長近習の太田和泉守牛一(通称・又助)が残す、信長に関わる第一級資料に「信長しんちょう公記」がある。紙幅少なに端的に事実を述べるのみ。ただ、ときおり不可思議な叙述が散見される。
 その一つに、首巻、入京前、二十一の項に「火起請」の表題がある。
 尾張の国海東郡大屋で騒動が起こった云々......。
 ――信長は鷹狩りの帰りに騒動を目の当たりにして顔色が変わった。
 ――信長は「私が火起請の鉄を無事に受け取ることができたら、左介を成敗せねばばらぬ......」と言って、焼いた斧を手の上に受け取り、三歩あるいて棚に置いた。「この通りだ。見ていたな」と言って左介を成敗した。
 すさまじい出来事だった。――了
 いやいや、すさまじいどころじゃない。人間を越えている。
 
 
 
   晩秋

 弘治三年(一五五七)十月。
 尾張の木々が色づきはじめ、日が沈む間際の風に冷気が顔を覗かせる。
 太田牛一は寒いのが嫌いではなかった。身体の芯が硬直して気が満ちると、頭の中はいっそう清冽になる。
 牛一は主君である信長の顔を思い浮かべた。
 花頭窓を覗くと雲居を白く滲ませた弓張り月が陽を追い立てて、中天にかかっている。
 織田信長、冷徹なほど合理的な男だと人は恐れる。それゆえ、戦国の世を統べる力を持つ......。七つも年下の主を御しきれぬ牛一は、不可思議な感情をもてあまし一人笑みを零した。
 硯を見ると、墨が乾き始めている。美濃紙の綴じ帳にその日の出来事を認める。長らく続く慣わしになっていた。
(信長に恐怖を味わい、夢を見、神々しさをも感じた。神話が生まれる予感さえした。歴史に名を刻む英雄は......凡人の想像を越える力を持つ)
筆をとり、ぐっと、指先に力が入ると、綴じ帳に筆が走る。
「信長」と無我に文字を書いた。
 主君のいみなをむやみに記すなど禁忌である。
「これはいかぬ」と呟くと、勝手に「公記」と付け足した。
 花頭窓から覗く西の空が赤く染まる。と、物悲しい澄んだ音色の篠笛が牛一の耳に微かに聞こえて来た。
「お屋形さまの足跡を後世に残せと天の思し召しだな......」
「お前さま、嫌ですよ独り言など」
 襖越しに女房のお春が白湯を持ってきた。
「どうぞ」と膝をついて折敷おしきを差し出すなり、お春は篠笛に耳を傾け目を閉じた。
「日増しに上手になっておりますね、お小夜ちゃん」
 笛の音は、牛一の屋敷の裏山にある中腹の観音堂から風に乗って聞こえてくる。
 清洲の内所で働くお小夜は、お春が三年前から目を掛ける妹のような存在だ。お小夜は夕餉の支度を終えると、時おり母の形見だという篠笛を手に観音堂に走った。山裾を北東に降りればすぐ清洲の城だが女子の足で八半時(十五分)の隔たりはある。
「今宵、......お小夜の笛の音が秋の宵を連れて参るか」
 牛一は、茶碗に手を延ばした。
「しかし。いささか熱を入れ過ぎか、女子にはもう遅い時分じゃな」
「ほんとに、大丈夫かしら」
 突然、長い音を残したまま笛の音が途絶えた。
 牛一は手を止めるとお春と目を合わせた。
「ふふ、小言が届いたかな。急ぎ家路についたのだろう」
 不安に揺れたお春の目を見れば、牛一は思わず憂いを振り払った。お小夜はまだ十六の娘御だ。


 清洲城内の弓場殿ゆばどので信長は片肌脱ぎになり、射籠手いごて弓懸ゆがけをつけて用意万端だが、手には扇子を持ち小刻みに掌を叩いている。
 伺候した牛一は、いちはやく信長の様子に気がつくと眉を寄せた。
 牛一は武辺者に並べば華奢な体だ。だが近習、弓ノ者で知られている。勇猛果敢ではないが、人一倍の遠目と記憶力が、抜きんでた弓箭きゅうせんの腕前を発揮した。そんな訳で時おり信長から指南を命じられた。
 信長は、顔を赤くして何やら口を動かしている。
「ったく......最近勝三郎が生意気だ。名前も気に入らぬ。余の前の名、三郎の上を行くつもりか」
 しばらく叩頭したまま様子を窺う。が、時の流れに気を使う信長ではない。
「お屋形さま、お屋形さま......又助、罷り越しました」
 やはり信長は上の空だ。
「余は尾張の国を統べる、織田上総介じゃ! わかっておろうの」
 すると突然、怒髪天を突く叱責を受けた。
「勿論存じておりまする」
 牛一は首を縮こめた。たまにあることなので、怒りが頭上を過ぎるのを待つばかり。
「おお、こっちの話じゃ」
 と、一言発すると信長は何事もなかったように皺める目尻を微かに下げた。
 落ち着いた心気を確かめると牛一はそっと立ち、重籐の弓を手にした。静かに息を吐くと弓を引き絞り矢を放つ。風鳴りを残し、三十間(約五十四メートル)先の的の中心を射抜いた。
 信長は、そんな牛一を横目に鼻息を吐きだし何度か矢を放った。
 矢は的を外す。
 近習が気を使い、的を二十間(約三十六メートル)に下げた。
 信長の矢は的の縁を掠めて脇に跳ねた。
 牛一は鼻の穴が広がった。が笑みを零す訳にもいかず鼻先に力を入れて我慢した。明らかに下手過ぎだ。さすがに二十間になれば、信長は十に八本はどうにか的に当てる。苛立つ信長は熱を帯び、そよぐ風が生ぬるくさえ感じた。
 牛一は手拭いを差し出した。
 信長は目を見開いたまま宙をにらみ汗を拭いた。
「なにか御心、平らかならざる仔細がございましょうか」
 振り向く信長は、今はじめて、横にいる牛一に気づいたかの素振りで目に力を込めた。いつもの怜悧な薄目で牛一を押さえつけ、片笑んだ。
「又助、余に代わって......勝三郎に纏わりつく、不穏な風を見て参れ」
「はっ、委細お任せあれ」
 とは応えたものの、下を向く牛一には何が何だか分からない。
 でもこれが織田家の習わしなのだ。
 取り敢えず牛一は、右筆御用部屋へ向かった。何かあれば頼りになる清洲一の知恵袋がいる。
 取次に断り、誰もいない部屋に一人座り、右筆頭の明院みょういん良政りょうせいを待った。
 牛一は気に入られていることを良いことに、良政の知恵を活用した。
「お主に刀槍は似合わぬぞ。どこからどう見ても事務方じゃ、幼い頃より天台の御坊で修行しただけあり学識も豊か。......右筆部屋へ参れ」
 と常々良政に誘われていた。確かに人の殺し合いは性に合わぬ。
「お主、血を見るのが怖いのじゃろ」
 良政も見透かしたように、皺顔の筋のような目を歪めて言った。
「何を仰いますやら」
 牛一が気色ばんでも、良政は笑って一人合点に頷いている。
「だから、遠目から放てる弓矢を選んだのじゃろ。だが人の命を絶つのはどちらも一緒じゃ。どの道、御仏の教えに背くことにはならぬかの」
 図星だった。血の匂いが大の苦手だった。だからこそ、その弱点は悟られまいと必死に隠していた。
 困る牛一をなお一層揶揄からかうと、岩穴を通る風音のように、
「ふぉーふぉっほー」と変な声を上げて笑った。
 実に楽しそうなのが癪に障った。
 その二人の遣り取りをじっと、薄目で見つめて楽しんでおる者がいた。信長だ。
「右筆部屋にはやらぬ」信長の一言で、良政は黙った。
「......他に使い出がある」
 付け足しの言葉を聞いた牛一は背中の産毛を逆立て、良政は鼻を鳴らして面白がった。
 気に入られているのは嬉しいが、怖気が先に立つ。
「だのう、干柿どの」
 良政につけた渾名で信長は同意を求めた。ぴたりとはまっている。牛一は込みあげる笑いを必死で抑えた。
 中庭に風が舞った。かさかさと楓が音を立てた。
 秋の風もすっかり乾いて肌に突き刺す。
 雪が降るのも遠くはないと牛一は思った。
(しかし、不穏な風とは何か。ようわからぬな)
「おや、おや、又助が何やら悩んでおる様子」
 廊下の先から牛一を認めて嬉しそうに良政が近づいてきた。
 良政が腰を下ろそうとすると、うたいが聞こえた。肩越しに良政は振り返り、牛一に顔を戻すと顔中の皺を真ん中に寄せた。
「聞こえるか、又助」良政の口元が歪む。
 ――人間じんかん五十年~、下天の内をくらぶれば~、夢、幻の如くなり~~
 明らかに調子を外した謡だ。謡の主は池田恒興である。
 独りでに眉が寄り添う良政の顔を、牛一はそっと窺った。
「ふぉふぉほ。下手糞じゃな、勝三郎さまは」
 あけすけな物言いに牛一はすこし驚きながらも、遠慮なく頬を緩めて耳を傾けた。
「この謡のように軽いお方じゃ。だが明るい......それを能天気とも言うな、又助」
 同意を求められても牛一は困る。恒興は尾張の有力武将の一人だ。
「さては知恵袋の右筆頭さまは何でもお見通しですね。いささか口が過ぎますが......」
 それにしても恒興はひどい音痴だった。
「どうじゃ、不思議な御仁ぞ」
 堂々と、信長の得手を下手糞に唄い聞かせるとは何を考えておるのやら、牛一は大きく頷いた。
「以前も耳にし、お身内の幼子かと思っておりました」
「ふぉーふぉっほー。だれも咎めぬものな。たしかに身内の餓鬼じゃな」
良政は手を叩いて喜んでいる。
「餓鬼の頃よりお屋形さまにつき従い手足の如く働いておったが、今は海東群の領主の一人だわ」
「何ゆえお屋形さまは嫌っておられますか?」
苛つく信長の顔を思い返すと、疑問を口にした。
「いや、嫌いなのではない。......お主、一色ノ方さまを知っておるか」
「はい。勝三郎さまの御生母さまで......」
「さよう。そしてお屋形さまはその乳を飲んで育った。今も大御乳おおちちさまと呼んでおる」
「ああ、乳母めのとになりまするか」
 なるほど身内に近い関係である。恒興は信長の乳兄弟ということになる。
「さよう」意味ありげに鼻息を吹くと良政は口にした。
「その乳母にお屋形さまの父上である萬松寺さまは手を出した」
「えっ、側室にしたということで」
 戦国の英雄は色を好む。子孫繁栄のためなら細かい道理など後回しだ。
「さよう。不思議な関係になるじゃろう。実母の土田御前にさえ無い、こそばゆい遠慮がある。そこに勝三郎がぐいぐい来る」
「まさか、一色ノ方さまの威光を笠に着て?」
「いや、本人は至って素直じゃ。無邪気にお屋形さまを崇拝しておる。むしろ家来の中に増上慢がおるのじゃな。そんな無頓着の勝三郎が、お屋形さまは心配なのじゃ」
「それでは、お屋形さまの得手の幸若舞の『敦盛』の処構わぬ朗唱は......」
「さよう、それが奴の親愛の証なのじゃ」
 四度めの「さよう」が鼻につくが聞き流した。牛一を話相手に遊んでいるなら相手になるのはやぶさかではない。
 ――くしゅん!
「北東の風かの? 寒くなったのう。年寄りには堪えるわ」
 牛一は気を利かせて、明り障子を閉じた。
「まもなく風花が舞いましょう。お身体お厭い下されませ」
「又助は気が利くのう。昨今我が家中に幅を利かせる猪武者とは大違いじゃ」
 素直に喜ぶ良政は口は悪いが憎めないところがある。
「ふふ、お屋形さまの意を汲み即行動することが肝要じゃ。ここ織田家中では......」
 牛一はため息をついた。目の前の干柿どのが思うほど信長を御するのは簡単ではない。
「されば取り急ぎ、海東郡は一色村へ足を運びまする」
 気がつくと気鬱な靄が晴れていた。良政との会話ではよくあることだ。これが「馬が合う」ということなのかなと、牛一は合点しつつ軽い足取りで城を後にした。


   小春日和

「遠乗りに出る。――又助、共に」
 信長はいつも唐突に声を発し、人を従わせる。
 小春日和に牛一を伴い馬乗りに出かけた。清洲の北西の小山を駆け巡る。ちょうど落葉樹が赤、黄色、橙と色づく絶景が目の保養になると牛一は喜んだ。
「ちょうど良い時分だぞ」
 信長は穏やかな顔で、屹立する杉木立の山に向けて目尻を下げた。その先は観音堂がある朝日山と言う小さな山だ。
 機嫌が良いのはいいが、良すぎる信長は危険だと牛一はいぶかった。
 信長は手綱を引くと、馬は緩やかな足並みに変わった。
 牛一も信長の視線に合わせたが、特に珍しい景色ではない。むしろ反対側に顔を向けた。
 山道の右手脇がなだらかな沢になっており、小さな渓谷を隔てた向こう側にそう高くはないが、三つの頂を持った山並みが広がっている。天辺から中腹に掛けて楓や紅葉、山葡萄に橡の木が秋の彩を競っている。牛一はひと時の風情に頬を緩めた。
 後ろからくぐもる声が聞こえた。信長だ。
「大御乳さまがな。妙な信仰をしておると耳にした」
 憂いを含む声音に、牛一はゆっくり振り返る。
「どのような噂でございますか?」
盟神探湯くがたち、古来神事の復元と聞いた」
 牛一は顳かみがぴくんと動くのを感じた。刹那、細く見据えた信長の目を盗み見た。
 日本書紀にある神明裁判の記述を頭に浮かべ、最近、忽然と姿を現した湯起請に思いが及ぶ。
 往古、参籠の間に異変が出れば神判と認めて断罪した。当世は参籠の代わりに熱湯に変わった。人心の性急さが表れている。
「日本書紀にある、あれですか? 武内宿禰たけうちのすくねに対する甘美内宿禰うましうちのすくねの讒言を探湯たんちによって斥けたという......」
「そうじゃ。今は『湯起請ゆぎしょう』と言っておるようじゃ」
 唐突だが、何かを見透かすように口にする信長に驚き、牛一は見返した。
「ところでお屋形さま、海東郡をはじめ尾張国境に最近妙な商人が出入りしておるようにございます」
 まだ三日前の話だ。一度海東郡に足を運び聞き及んだが、取り立てて怪しい話はなかった。が、急き立てるような目力に圧されて牛一は口を開いた。
 信長は片頬を歪めて鞭で手をパチンと叩いた。
「ほう海東郡に妙な風が吹いておったか。余が楽しめそうなものはあるか」
「南蛮の武具、骨董、あるいは不思議な古代の宗教神器などと......噂の域を出ませぬが」
「なんぞ、謎がありそうか」
 鼻と眉を動かし信長は興味を示す。
「その噂に妙なものがございます。お屋形さまの乳母さまも神事の際にはご使用の、由緒ある神器もあると......」
 単なる噂だ。しかも、物売らんかなの流れ商人が、貴人、有力者の名を借りる、よくある香具師の口上の類だ。まだ具体的な話は何も聞いていなかった。
「なに~」
 信長は、牛一を睨んだ。
「うっ。......直接商人に話をと、駆け巡りましたが会うことあたわず。面目なき次第に......」
 牛一の背中から無数の汗が噴き出した。馬上にて深く頭を垂れ、そっと顔を上げると、信長はもはや牛一の顔など見ていなかった。
「お、お屋形さ......」
「しっ! 静かに。おや? 聞こえぬな」
 信長は左手に迫り立つ針葉樹の深い緑に包まれた観音堂を凝視している。気まぐれな信長の様子を怪訝に思いながらほっと息をついた。牛一は暗がりの味気ない風景を一瞥すると、信長とは真反対の西陽を受けて照り返る紅葉を愛でた。
「笛の音色が最近の楽しみなのじゃ。近くへ参ろう」
 と、信長は一声残し馬に鞭を入れた。牛一は慌てて後を追った。
 朝日山の中腹にある無住の観音堂だった。石段を迂回してなだらかな坂を廻り込むとお堂が見える。
 お堂のきざはしには誰もいなかった。
「篠笛、でございますか」
 牛一は信長の興味に気づくと声を掛けた。
「うむ」
観音堂を遠巻きに見て信長は眉を寄せる。
「たしかに変でございますな。某もいつも耳に致します」
 ここからは、城より牛一の屋敷のほうが近い。
 すぐにお小夜の顔がちらついた。
 まだ子供だと思っていた童女もこの夏には豊かな肉置ししおきの、男好きのする見目好さを見せ始めた。改めて驚いたものだ。朋輩の伊東清蔵など、頬を赤らめ食い入るように見る姿が滑稽に思えた。
「いつからでございます」
 清蔵の顔がちらつくと、胸にわだかまる不安が口をついた。
「もう半年くらいかな。遠乗りの道はいつしか朝日山へ向かうわ」
 信長は、氷の双眸が溶け出すばかりに歯を見せる。
「急ぎ素性を調べて余の前に召し出せ」
 遠乗りの裏にある本題に気づくと、牛一の背中が石のように硬くなった。
「ご懸念には及びませぬ。内所(台所)で働く下働きのお小夜でございます」
「すでに我が手のうちか」
 舌舐めずりの信長は北叟笑みに目を細めた。
 牛一は、信長の顔を見て慄いた。信長の色事には気を留めなかった牛一だが、さすがは先代(萬松寺)の血を引く者だ。
「そ、そればかりは......」咄嗟の言葉も口籠る。
「なにを~。儂の命令が聞けぬじゃと」
「......清蔵の、想い人でございますぞ」
「それがどうした」
 牛一の指先が微かに震えるのがわかった。
 信長は眉を寄せ、牛一の挙措を睨め回してから、ふん、と鼻を鳴らした。
「お濃(帰蝶)が楽しみにしておる......」
 信長の黒目が上辺に動く。口角が上がった。笑っている。
「お前、儂を先代(萬松寺)同様の女好きとでも思うたか」
「あ、いえ」
「お濃の奥向きに女中として召し出せ」 
 牛一は、早合点に気づき慌てて馬を降り平伏する。
 ――愚か者が。
がははと、楽しそうな声が月代の上から降ってきた。
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