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無名駅
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朝の通勤ラッシュを避けるため、佐野綾香はいつもより一本早い電車に乗った。東京郊外のベッドタウンに住む彼女は、いつも通りスマートフォンでニュースを眺めながら、乗り慣れた私鉄の車両に揺られていた。
その日は雨が降っていて、窓の外は灰色一色。車内は珍しく静かで、誰も喋っていなかった。
ふと車内アナウンスが流れる。
「次は――むめいえき、無名駅です」
綾香は眉をひそめた。「無名駅」など聞いたことがない。だが電車は当然のように減速し、ホームに滑り込む。降りる人はいない。乗ってくる人もいない。看板には確かに「無名駅」とある。古びた木製の看板で、白地に墨で書かれたような字体だった。
「見間違い……?」
次の瞬間、電車が突如停電した。照明が消え、車内が闇に包まれる。綾香は驚き、鞄からスマホを取り出したが、画面は暗転していた。電源が入らない。車内にざわめきが広がるかと思ったが――誰も声を上げていない。むしろ、他の乗客たちはまるで止まった時間の中にいた。皆がうつむき、微動だにしない。
恐怖に駆られた綾香は、ドアを手でこじ開け、無理やりホームへと飛び降りた。線路には霧が立ち込め、駅の全体像が見えない。時計も地図もない。ただ風だけが吹き抜ける。
ホームの端に、小さな階段があった。綾香は意を決してそこを降りていく。すると、無人の改札が現れ、さらにその先には古い商店街のような通路が続いていた。薄暗い照明の下に、閉ざされた店のシャッターと、無数の貼り紙が見える。
「ここで降りてはいけません」
「戻れ」
「“名前を呼ばれても、返事をしてはいけない”」
誰かが綾香の名を呼んだ。「……綾香?」
思わず振り返りそうになるが、貼り紙の警告が脳裏に浮かぶ。彼女は歯を食いしばり、走った。商店街の奥へ、奥へ。
やがて一つだけ灯りの点いた店があった。中に入ると、小さな老婆が座っていた。彼女は綾香を見て、ぼそりと呟いた。
「……名前を呼ばれて返事をしなかったのは偉いね。でも、あんた、最初から“こっち側”の人だったんじゃないの?」
意味がわからない。綾香が言葉を返そうとしたとき、老婆の顔が徐々に変わり始める。
母親の顔に。高校の親友の顔に。元恋人の顔に。すべて、すでに亡くなっている者たちの顔だ。
「ここはね、忘れられた人の駅。生者と死者の境界線。戻れる人もいるけど……あんたは、ねぇ」
綾香は逃げ出した。もう何も考えられなかった。階段を駆け上がり、駅に戻った。ちょうど電車が入ってくる。普通の、あの車両だった。
飛び乗ると、車内の照明はまぶしく、他の乗客たちは普段通りスマホをいじったり居眠りしたりしていた。安心して涙が出た。
だが、次の駅のアナウンスが流れた。
「次は――無名駅、無名駅です」
綾香は目を見開いた。窓の外、再び灰色のホームが近づいてくる。車内の乗客たちは、誰一人顔を上げなかった。皆、静かに――まるで“人形”のように座っていた。
彼女の名前が、また呼ばれる。
その日は雨が降っていて、窓の外は灰色一色。車内は珍しく静かで、誰も喋っていなかった。
ふと車内アナウンスが流れる。
「次は――むめいえき、無名駅です」
綾香は眉をひそめた。「無名駅」など聞いたことがない。だが電車は当然のように減速し、ホームに滑り込む。降りる人はいない。乗ってくる人もいない。看板には確かに「無名駅」とある。古びた木製の看板で、白地に墨で書かれたような字体だった。
「見間違い……?」
次の瞬間、電車が突如停電した。照明が消え、車内が闇に包まれる。綾香は驚き、鞄からスマホを取り出したが、画面は暗転していた。電源が入らない。車内にざわめきが広がるかと思ったが――誰も声を上げていない。むしろ、他の乗客たちはまるで止まった時間の中にいた。皆がうつむき、微動だにしない。
恐怖に駆られた綾香は、ドアを手でこじ開け、無理やりホームへと飛び降りた。線路には霧が立ち込め、駅の全体像が見えない。時計も地図もない。ただ風だけが吹き抜ける。
ホームの端に、小さな階段があった。綾香は意を決してそこを降りていく。すると、無人の改札が現れ、さらにその先には古い商店街のような通路が続いていた。薄暗い照明の下に、閉ざされた店のシャッターと、無数の貼り紙が見える。
「ここで降りてはいけません」
「戻れ」
「“名前を呼ばれても、返事をしてはいけない”」
誰かが綾香の名を呼んだ。「……綾香?」
思わず振り返りそうになるが、貼り紙の警告が脳裏に浮かぶ。彼女は歯を食いしばり、走った。商店街の奥へ、奥へ。
やがて一つだけ灯りの点いた店があった。中に入ると、小さな老婆が座っていた。彼女は綾香を見て、ぼそりと呟いた。
「……名前を呼ばれて返事をしなかったのは偉いね。でも、あんた、最初から“こっち側”の人だったんじゃないの?」
意味がわからない。綾香が言葉を返そうとしたとき、老婆の顔が徐々に変わり始める。
母親の顔に。高校の親友の顔に。元恋人の顔に。すべて、すでに亡くなっている者たちの顔だ。
「ここはね、忘れられた人の駅。生者と死者の境界線。戻れる人もいるけど……あんたは、ねぇ」
綾香は逃げ出した。もう何も考えられなかった。階段を駆け上がり、駅に戻った。ちょうど電車が入ってくる。普通の、あの車両だった。
飛び乗ると、車内の照明はまぶしく、他の乗客たちは普段通りスマホをいじったり居眠りしたりしていた。安心して涙が出た。
だが、次の駅のアナウンスが流れた。
「次は――無名駅、無名駅です」
綾香は目を見開いた。窓の外、再び灰色のホームが近づいてくる。車内の乗客たちは、誰一人顔を上げなかった。皆、静かに――まるで“人形”のように座っていた。
彼女の名前が、また呼ばれる。
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