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第7章
マスター候補3
「三上さんが健太くんのために登録を進めたのですか?」と、お母さんが眉を八の字にして尋ねる。
「違います」
かわいらしいボーイソプラノがして、ぼくらは一斉に健太くんのほうを見た。
指を組んだ両手をお腹の下でギュッと握りしめ、たどたどしくも彼は、一生懸命自分の思いを伝えようと言葉にしてくれた。
「お母さん……母はマスターとして、動物になっちゃう人を助けていました。おれも、お母さんみたいになりたくて……誰かの助けになれる大人になりたくて登録しました」
「そっか、お母さんみたいになりたいんだ。すごいね、健太くん」と、お父さんがまなじりを下げて笑うと、健太くんは恥ずかしそうに顔をうつむかせる。
「それと、」
彼はポメラニアンであるぼくを、じっと見つめてきた。
「声優の信濃さんに憧れているんです」
「んえっ!」とぼくは間抜けな声を出し、犬のぼくもなんて言ったのだろう? と首をかしげる。
「息子は『戦場の英雄』の漫画が好きで、アニメもよく見ていたんですよ」
「主人公や副主人公であるライバル、親友や戦友、正義の味方たちが好きです」と彼は顔を勢いよく上げて、いきいきとした表情でしゃべった。「でも……信濃さんの声を聞いたら『正義は勝つ!』なんて言えなくなっちゃった。悪者がやってることは、やっぱり悪いことだし、許せないよ。
おれだって、お父さんがあんなふうにひどい目にあったら、きっと主人公たちみたいに怒る。だけど――悲しいできごとがあって、つらい思いを子どものときからしてきてるんだ。怖いくらいの顔をしている悪者が、主人公の親友を責め立てたとき、すごく胸が苦しくて泣きたい気持ちになったんです」
小学生の健太くんにも、ぼくがやらせてもらった「彼」の思いや、先生の思いが届いてよかった……って、ほっとする。
――『戦場の英雄』は単純な勧善懲悪ものじゃない。
つらく苦しい子ども時代の経験から闇落ちした人間が敵として出てくる。
主人公たちは、もとは社会の弱者で恵まれていない幼少期を送った彼らと、どうやって人間として向き合っていくのかを問われている。派手なバトルアクションがメインだし、戦いのシーンでは敵味方関係なく怪我をしたり、人が亡くなるシーンもある。
でも、その根底にあるテーマは、「人はわかり合えるか、わかり合えないか」という大昔からある人間の根本的な悩み。
アニメ化される際は原作の読者やファンの間でも「子どもたちや漫画を見ていない大人にも、ちゃんと伝わるか」と物議をかもした。
「グロテスクで子どもの教育に悪いもの」として社会から非難されるんじゃないかって心配されたのだ。
でも『戦場の英雄』は打ち切りにならずに完結に至り、アニメも最終回を迎えた今でもファンの間で話題となっている。
「アニメを見たら、もっと作品が好きになったし、敵みたいな子たちとどうやったら仲よくできるか、いじめにならないようにできるかとか、いっぱい、いっぱい考えました。そんな信濃さん――犬伏さんが人間に戻れなくなっちゃってるって、お話を、お父さんから聞いて登録したんです」
おなかを見せていたポメラニアンのぼくは立ち上がり、「開けて、開けて」とキャリーの天井を手でカリカリ引っ掻いた。
「渉、健太くんと、お話したいの?」
ワン! と犬のぼくは元気よく返事をした。
「お父さん……」
「いいよ。でも、まずは、ご挨拶してから。それで人間と犬の渉くんが『いいよ』って言ったら、ふたりで話してごらん」
ぼくは、お母さんに出してもらい、フローリングの冷たく平たい床をちょこちょこと歩いた。
そのまま健太くんの足元まで行って、お座りをする。尻尾は左右に振っている。
恐る恐る健太くんは「犬伏さん、初めまして」と震える手を、犬のぼくのあご下へ差し出した。
警戒した様子で犬のぼくは鼻をひくつかせて、小さな子どもの手のにおいを嗅いだ。石鹸の人工的な香料とアルコール消毒液のツンとした香りにまじって、緊張した人間のストレスのにおいと、しょっぱそうな汗。それから懐かしいお日様や土の香り、野菜の葉っぱのにおいがする。
犬のぼくも健太くんと仲よくなりたいと思い、彼の温かい手に顔を擦りつけた。
健太くんは震える手で犬のぼくのあごを掻いた。
犬のぼくに慣れてくると口もとをゆるめて、両手で頬の感触を楽しんだり、頭もよしよしとやさしく撫でてくれる。
そうしてもらっているうちに隼人と言い合いになったり、喧嘩をしてモヤモヤしていた気持ちが次第に晴れてくる。
彼を諦めなくちゃいけないんだと思い詰め、張り詰めていた心が静かに凪いだ。
ポン! と音がして、白い煙が出るとぼくは人間の姿へ戻っていた。
ぼくが十八の男に戻っても、健太くんは目をパチクリさせて、こげ茶色の頭に手を置いていた。
「わっ、渉~っ!」
大げさなくらいにお父さんが鼻水を垂らし、おいおい泣き始める。
「お父さん、お母さん……」
「よかった……人間に戻れたのね。さあ早く、下着と洋服に着替えて」
お母さんがカバンの圧縮袋に詰めていた下着やシャツ、スラックスをもらい、「失礼します」と三上さんに断りを入れ、部屋の隅で急いで服を身につける。
「違います」
かわいらしいボーイソプラノがして、ぼくらは一斉に健太くんのほうを見た。
指を組んだ両手をお腹の下でギュッと握りしめ、たどたどしくも彼は、一生懸命自分の思いを伝えようと言葉にしてくれた。
「お母さん……母はマスターとして、動物になっちゃう人を助けていました。おれも、お母さんみたいになりたくて……誰かの助けになれる大人になりたくて登録しました」
「そっか、お母さんみたいになりたいんだ。すごいね、健太くん」と、お父さんがまなじりを下げて笑うと、健太くんは恥ずかしそうに顔をうつむかせる。
「それと、」
彼はポメラニアンであるぼくを、じっと見つめてきた。
「声優の信濃さんに憧れているんです」
「んえっ!」とぼくは間抜けな声を出し、犬のぼくもなんて言ったのだろう? と首をかしげる。
「息子は『戦場の英雄』の漫画が好きで、アニメもよく見ていたんですよ」
「主人公や副主人公であるライバル、親友や戦友、正義の味方たちが好きです」と彼は顔を勢いよく上げて、いきいきとした表情でしゃべった。「でも……信濃さんの声を聞いたら『正義は勝つ!』なんて言えなくなっちゃった。悪者がやってることは、やっぱり悪いことだし、許せないよ。
おれだって、お父さんがあんなふうにひどい目にあったら、きっと主人公たちみたいに怒る。だけど――悲しいできごとがあって、つらい思いを子どものときからしてきてるんだ。怖いくらいの顔をしている悪者が、主人公の親友を責め立てたとき、すごく胸が苦しくて泣きたい気持ちになったんです」
小学生の健太くんにも、ぼくがやらせてもらった「彼」の思いや、先生の思いが届いてよかった……って、ほっとする。
――『戦場の英雄』は単純な勧善懲悪ものじゃない。
つらく苦しい子ども時代の経験から闇落ちした人間が敵として出てくる。
主人公たちは、もとは社会の弱者で恵まれていない幼少期を送った彼らと、どうやって人間として向き合っていくのかを問われている。派手なバトルアクションがメインだし、戦いのシーンでは敵味方関係なく怪我をしたり、人が亡くなるシーンもある。
でも、その根底にあるテーマは、「人はわかり合えるか、わかり合えないか」という大昔からある人間の根本的な悩み。
アニメ化される際は原作の読者やファンの間でも「子どもたちや漫画を見ていない大人にも、ちゃんと伝わるか」と物議をかもした。
「グロテスクで子どもの教育に悪いもの」として社会から非難されるんじゃないかって心配されたのだ。
でも『戦場の英雄』は打ち切りにならずに完結に至り、アニメも最終回を迎えた今でもファンの間で話題となっている。
「アニメを見たら、もっと作品が好きになったし、敵みたいな子たちとどうやったら仲よくできるか、いじめにならないようにできるかとか、いっぱい、いっぱい考えました。そんな信濃さん――犬伏さんが人間に戻れなくなっちゃってるって、お話を、お父さんから聞いて登録したんです」
おなかを見せていたポメラニアンのぼくは立ち上がり、「開けて、開けて」とキャリーの天井を手でカリカリ引っ掻いた。
「渉、健太くんと、お話したいの?」
ワン! と犬のぼくは元気よく返事をした。
「お父さん……」
「いいよ。でも、まずは、ご挨拶してから。それで人間と犬の渉くんが『いいよ』って言ったら、ふたりで話してごらん」
ぼくは、お母さんに出してもらい、フローリングの冷たく平たい床をちょこちょこと歩いた。
そのまま健太くんの足元まで行って、お座りをする。尻尾は左右に振っている。
恐る恐る健太くんは「犬伏さん、初めまして」と震える手を、犬のぼくのあご下へ差し出した。
警戒した様子で犬のぼくは鼻をひくつかせて、小さな子どもの手のにおいを嗅いだ。石鹸の人工的な香料とアルコール消毒液のツンとした香りにまじって、緊張した人間のストレスのにおいと、しょっぱそうな汗。それから懐かしいお日様や土の香り、野菜の葉っぱのにおいがする。
犬のぼくも健太くんと仲よくなりたいと思い、彼の温かい手に顔を擦りつけた。
健太くんは震える手で犬のぼくのあごを掻いた。
犬のぼくに慣れてくると口もとをゆるめて、両手で頬の感触を楽しんだり、頭もよしよしとやさしく撫でてくれる。
そうしてもらっているうちに隼人と言い合いになったり、喧嘩をしてモヤモヤしていた気持ちが次第に晴れてくる。
彼を諦めなくちゃいけないんだと思い詰め、張り詰めていた心が静かに凪いだ。
ポン! と音がして、白い煙が出るとぼくは人間の姿へ戻っていた。
ぼくが十八の男に戻っても、健太くんは目をパチクリさせて、こげ茶色の頭に手を置いていた。
「わっ、渉~っ!」
大げさなくらいにお父さんが鼻水を垂らし、おいおい泣き始める。
「お父さん、お母さん……」
「よかった……人間に戻れたのね。さあ早く、下着と洋服に着替えて」
お母さんがカバンの圧縮袋に詰めていた下着やシャツ、スラックスをもらい、「失礼します」と三上さんに断りを入れ、部屋の隅で急いで服を身につける。
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