「お先に地獄へどうぞ」と言った悪役令嬢ですが、道連れにされそうなのですけれど

藤咲エミ

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 黒檀荘園の書庫に朝の薄光が差す頃、カミラは母の〈魂律写本〉を大卓の上に広げ、真紅の蝋燭に火を点した。芯に混ぜた夜香木の粉が白煙を立て、部屋全体へ淡い伽羅の薫りを巡らせる。香は冥示の助媒。瞳を細め頁へ息を吹きかけると、乾いた紙肌を染み渡った香油が微かに浮かび上がった。頁余白の香符――肉眼では無色のはずが、冥示には薔薇と柘榴を合わせた深紅の文様として映る。

 香符を写本から切り離し、昨夜持ち帰った第三の呪殺符(封蝋付き偽造符)と並べる。冥示波長を重ねた瞬間、二つの文様は見事に重合した。契約逆位相、血潮を媒介に他者の魂鎖を自壊させる禁呪。その原型は母の研究記録に確かに存在した。が、母の注釈には「逆位相を用い、偽りの誓契を白日の下へ返す」とある。殺意ではない。暴露のための刃――それを誰かが血の呪殺へ転じたのだ。

 「お嬢、翳(かざ)すか?」背後でミーナが小瓶を差し出す。瓶には灰羽市場で奪った影紋インクのサンプル。だがカミラは首を振った。「まだ早いわ。母の意志はここで死んでいない。証明は帝都で」香符を写本へ戻し、頁を閉じる。

 書庫の扉が軋み、銀鎖帷子を肩に掛けたガブリエル=サイラス=ド・ベルニエが現れた。翡翠色の瞳は寝不足でわずかに赤い。それでも彼は真っ直ぐにカミラへ膝を折り、胸に握り拳を当てて誓礼を結んだ。

 「カミラ。僕は君の影として在る。昨夜の出来事で迷いは吹き飛んだ。再び誓おう、“護誓結界バスティオン”を君に捧げる」  
 言霊が石壁に共鳴し、彼の魂鎖が白銀へ輝く。その光を写本の表皮が淡く反射し、冥示の視界で二重螺旋に絡みつく。忠誠は盾となり刃となる。カミラは右手の包帯を解き、まだ赤黒い火傷痕へガブリエルの手を重ねた。  
 「ガブリエル、あなたの真白(しんはく)は私が守る。共に帝都へ」  

 ◇

 夕刻、黒檀林を抜けた一行は峡谷上の懸垂駅で第一空中鉄道を待った。蒸気と魔導水晶を併載した懸垂車両は銀の揺籃。上等サロン車は貴族用に個室が割り当てられ、車内契約室と応接間を備える。伯爵家の紋章があるだけで、騒動を知る乗務員は沈黙を貫いた。

 発車三十分後、高度二百メートル。サロン車の大窓から夕陽と雲海が交互に流れる。カミラは個室中央の円卓に写本、偽造符、香符を並べ光筆で相関図を書き起こした。ガブリエルは車両接続部で護誓結界を再構築し、鉄骨と魔導管に白鎖を張り巡らす。冥示と結界――矛と盾の同調は上々。これで帝都裁判所への搬送中に呪符を奪われる可能性は限りなく低い。そう、油断しなければ。

 しかし列車が峡谷橋を渡る頃、車内の空気が微かに変質した。カミラの嗅覚をかすめた薫り――黒檀と夜香木のブレンドに混じる、血と錆の匂い。冥示を開くと、サロン車天井の通風孔から薄い黒煙が指先ほどの糸を垂らしている。煙は客室中央で途切れ、誰にも見えぬ幻のように消えた。

 「刺客がいるわ。恐らく“道連れ”を発動させる契約者」  
 囁きは風より細く、しかしガブリエルの耳に届く。彼は緩やかに頷き、鞘走りの音を殺して護誓結界を強化。白鎖は天井へ這い、黒煙を追って通風孔を封鎖した。

 列車はなお滑らかに帝都へ向かう。だが黒檀の香は徐々に血誓臭へ侵食され、車体の魔導灯がふっと一瞬だけ赤く脈動した。カミラは写本を胸に抱き、瞳に炎を灯す。静かな決意で始まった旅は、不穏を孕んだまま加速する。母の真意を証明するため、冥示写本は必ず帝都裁判所へ届ける。たとえこの列車ごと、地獄へ落ちようとも。

 雲海の彼方で帝都アークラティアの灯が瞬き出し、運命の軌道が闇色に光った。
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