凪の海には帰らない

村井 彰

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  あの日。降りるべき駅を通り過ぎて、あの街へ帰ってみようと思ったのは、ほんのちょっとした気まぐれだった。
  父親に黙って鞄に日傘を忍ばせ、いつもより遅い時間の電車に乗った。そこに、あいつが乗り込んで来たんだ。
  あいつ、沖本優は変なやつだった。自分がどこへ行くのかも知らないままで、俺なんかに懐っこく着いてきた。何の話をしても楽しそうに目を輝かせるのが面白くて、俺の隠れ家だった海岸にも連れて行った。それなのに、あいつはなぜか、俺のことばかり気にしていた。
  静かで、穏やかで、何ものでもない時間。だけどあの時の俺には、そういう時間が何よりも必要だったのだと思う。
  今でも、時おり思い返す。あの日、あの場所に戻れたら。そして、そのまま永遠に時間を止めてしまえたら。そう出来たら、どれほど良かっただろう。そんなことを考えても虚しいだけだと分かっているのに、何度も何度も、そうして思い出の中に逃げ込んだ。
  繰り返し汚れて、重くなっていく両手の中、あの日の記憶だけがいつまでも綺麗で、酷く、息が苦しかった。
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