凪の海には帰らない

村井 彰

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5話 罪と罰

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  ガチャリという音を立てて、玄関のドアが開く音が聞こえた。しかし志形はキッチンに立ったまま、顔も上げずにコーヒーを淹れ直している。この部屋の合鍵を持っているのは一人しか居ないのだから、わざわざ確認する必要もない。
「お疲れ様です。晃彦さん」
「おつかれ。今日は悪かったな、足に使って」
「いえ。いつでも頼ってください」
  そう言って少し微笑むと、坂木はリビングに敷いたラグの上にあぐらをかいた。早朝だろうと深夜だろうと、どれほど悪天候の日だろうと、志形が呼びつければ、坂木は文句も言わずに飛んでくる。あの頃何も出来なかった罪滅ぼしだと坂木は言うが、もともと彼は、志形に対して何の責任もない立場のはずだ。それなのに、坂木にはずいぶん無駄な時間を過ごさせてしまった。
  本当は、彼に負い目があるのは志形の方なのだ。
「沖本さんは帰ったんですか? てっきり泊まらせるのかと」
「そのつもりだったんだが、本人が断ってきた」
  志形は肩をすくめてキッチンを出ると、淹れ直したコーヒーを坂木の前のローテーブルに置いた。そうして、自分もテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろす。坂木がカップに口をつけて一息つくのを待ち、志形はおもむろに口を開いた。
「……なんで、沖本に話したんだ」
  何を、とは敢えて言わなかった。だがその言葉を聞いた瞬間、坂木はカップを置こうとしていた手を一瞬止めて、こちらをじっと見上げた。刑務所の中でどういう経験をしてきたのか、今の坂木はあまり感情を表に見せなくなったように思う。
「……余計なお世話は重々承知で、沖本さんがどういう反応をするか、見てみたかったんですよ。妙な人間だったら困りますから」
「本当に余計なお世話だな」
  思わず溜息が溢れる。沖本が言っていた通り、きっと坂木の時間は十年前で止まっているのだろう。だからいつまで経っても、志形のことを守ってやるべき子供だと思っている。
「で? 分かったのか。あいつがどういう人間なのか」
「まあ、あの短時間ではさすがに……ですが、危なっかしい人だとは思いました」
「危なっかしい?」
「そうです。あの人はたぶん、晃彦さんのためなら平気で何もかもかなぐり捨てますよ。……あの頃の俺によく似た目をしてた」
  そう言って、坂木は再びカップに口をつけた。
  坂木の言い分に、思い至ることは多々ある。普通なんていつでも捨てると言った沖本の言葉は、おそらく本気だった。そうやって捨てた先のことなんて、きっと何も考えていないのだろう。そんな独り善がりな感情を、愛だと勘違いしている愚か者。……そして、そんな愚か者に縋りたいと思ってしまった、自分自身も同じだ。
「坂木。今日は……」
  泊まっていくかと声をかけようとした時、テーブルの端に放置していたスマホが、唐突に着信を告げた。
「……沖本?」
  画面に表示された名前は、確かに沖本優のものだ。とっくに家に帰っている頃合いだが、このタイミングで何の用があるのか。どうせ、今日は楽しかったですとか、おやすみなさいとか、そういうどうでもいい内容だろうと思いつつも、通話に出る。
「なんか用か」
  端的に発した問いに答えた声は、しかし予想していたものとは違っていた。
「志形晃彦だな」
  沖本のものとはまるで違う、緊張に上擦った男の声。
  沖本の名でかけられてきた通話は、全くの別人と繋がっていた。


  *


「沖本」
  志形のマンションを後にしようとしていた沖本は、聞き覚えのある声に呼び止められて、思わず振り返った。
「お前……!」
  目の前に立っていたその人物の名前を呼ぶ直前、シャツとジーンズの隙間に、ひやりと冷たい何かが押し付けられた。
「このまま腹に穴開けられたくなかったら、大人しく着いてこい」
  興奮しているのか、言葉尻が若干震えている。彼を見たのは、志形と再会したあの日、志形とその部下に痛めつけられて土下座していた姿が最後だった。薄手のパーカーのフードを目深に被っており、その顔はハッキリとは見えないが、目元や頬に治りかけの痣の痕が残っているのが分かる。
「あー……えっとさあ……お前に着いていくのは別に良いんだけど、とりあえずこの物騒なのしまってくれないか? 俺たち友達だったじゃん」
「友達“だった”、な……よく分かってるじゃねえか。今は赤の他人だよ。お前が俺を裏切ったからな」
  裏切るも何も、最初にお前が俺を売ろうとしたんだろ、という言葉が喉まで出かかったが、ギリギリのところで飲み込んだ。この元友人は小心者だが、それゆえに追い詰められると何をするか分からない所がある。無闇に刺されたくはないし、なにより志形の家の前で揉め事を起こしたくはなかった。
「……どこまで着いて行けばいい?」
  沖本の問いに対して、彼は無言で道の先をアゴで示した。そこには、人通りの無い歩道に半分乗り上げて停まっている灰色のワンボックスがあった。やはりキャップを深く被っており顔は見えないが、運転席にはやけに肌の白い男が座っている。
「行けよ」
  その言葉と共に、脇腹に当たっていた物が強く押し付けられ、皮膚の表面が少し切れる感覚と、ヒリヒリした痛みが走った。どうやら、それっぽいおもちゃで脅しているだけ、という訳ではなさそうだ。
「……分かったよ」
  言われるまま車に近づき、後部座席へ乗り込む。ルームミラー越しに運転席の男を窺ってみたが、その顔に見覚えはなかった。
  沖本の横に乗り込んできた男がドアを閉めた直後、車は夜の道に向けて、ゆっくりと発進した。
「持ってるもん全部出せ。ポケットの中身もだ」
  隣から言われるまま、手にしていたショルダーバッグと、ジーンズのポケットに入れていた家の鍵を手渡した。連絡手段を奪われるのは痛いが、どうせそれ以外に大した物は持っていない。
  沖本から奪った荷物には目もくれず、そのまま座席の下に放り出すと、彼は手にした刃物を再び沖本の方へと向けた。改めて見たそれは、おもちゃのように小さな折りたたみナイフだったが、この狭い車内で振り回されたら少々厄介だ。
「両手を後ろに回せ」
  震える刃先を見つめながら、指示通りに後ろ手を組む。それを確認した男はナイフを口に咥えると、自身のポケットに手を突っ込んで、黒い結束バンドを取り出し、沖本の手を拘束した。そして鼻息荒くナイフを掴み直すと、それきり彼はすっかり黙り込んでしまった。誰も、何も話さない。
「……どこに行くんですか?」
  運転席の男に尋ねてみたが、やはり答えはなかった。沖本は二人との交流を諦め、窓の外に意識を向けた。ある程度予測できていた事ではあるが、この車は人通りのない場所を選んで進んでいるようだ。どう考えても、まともな行き先ではあるまい。
「なあ、なんでこんなことすんの?」
  隣は見ないまま、行く先だけを見据えて尋ねる。沖本が声を上げた瞬間、ナイフを持つ彼の手がピクリと強ばったのが視界の端に見えた。
「……そんなん、決まってんだろ。あいつだよ、志形晃彦。あいつに取られたもん取り返さねえと、俺らは終わりなんだよ……銀行口座も身分証も全部売られちまった。人生詰みだよ……」
  ガックリとうなだれながら、男は裏返った声でブツブツと呟いている。運転席の男も、彼と同じような事情の持ち主なのだろうか。どちらにせよ、自分の意思で金を借りたのなら自業自得だとは思うが、志形の行いも完全に違法だ。隙を見てスマホを取り返せたとしても、警察に連絡する訳にはいかなくなった。
「……ようするに俺は、志形さんを呼び出すためのエサで、人質ってわけ?」
「そうだよ。お前あいつの仲間なんだろ。同じ高校だとか言ってたもんなあ」
  血走った目で睨まれて、沖本は口を噤んだ。
  沖本と一緒にいる所を他人に見られたくないと、志形がそう言っていたのは、きっとこういう事だったのだろう。志形と親しく付き合っているというだけで、こういう輩に目をつけられるという事だ。
(……浮かれすぎたかな)
  志形が沖本のために危険を冒して助けに来るかは分からない。だが万が一、志形の足を引っ張るような事になったら、きっと自分を許せないだろう。
『あの人の害になる存在だと判断したら、俺も黙ってる訳にはいかないのでね』
  坂木のイヤミっぽい声がよみがえる。
「……そんな訳ないだろ」
  小声で呟いて、後ろ手に拳を握る。あの人の足手まといにだけはならない。絶対に。


  *


  自分でも無意識のうちに、浮かれていたのだと思う。
「……もうすぐ到着しますから、堪えてください」
  運転席の坂木が、こちらを横目に窺いながら言う。志形の放つ空気が、明らかにピリピリしているのを察しているのだろう。
  志形と坂木が並んで車に乗り込む数分前、志形の元にかけられてきた一本の電話。沖本の名前でかけられてきたその通話の主は、志形に対して至極シンプルな要求を突きつけてきた。
『沖本優を無事に返して欲しければ、今から言う場所にお前ひとりで来い』
  そんな要求の後に、通話の主は街外れにある工場の名前を告げてきた。人目につかない深夜の工場で何をするつもりなのか、実に分かりやすい事だ。馬鹿正直にひとりで向かう気にもなれない。
  散々人の恨みを買って生きてきた身だ。これまで足蹴にしてきた人間たちは、皆志形の事を殺したいほど憎んでいることだろう。
「……いつか、こうなるような気がしてた」
  自分でも意図しないうちに、そんな言葉が漏れていた。
  特別に親しい人間を作れば、必ずどこかで利用されるだろうと分かっていた。坂木やゆかりと違い、元々こちら側にいる人間でないのならなおのことだ。それを分かっていても沖本に会うことをやめなかったのは、心のどこかで、この再会に浮かれていたからなのだろう。あの海辺に置いてきた思い出を、取り戻せると錯覚してしまった。そんな都合の良い話があるはずは無いのに。
  あの馬鹿は、普通を捨てるという事の意味を、少しは理解出来ただろうか。
  いずれにせよ、こんな関係はもう終わりだ。犯した罪も罰も、これ以上他の誰かには背負わせない。


  そのまま十数分ほど車を走らせ辿り着いたのは、山の裾野にある寂れた工場だった。廃墟という訳ではなさそうだが、どのみちまもなく日付が変わろうというこの時間に稼働しているはずもなく、辺りは静まり返っている。……いや、よくよく耳をすましてみれば、敷地の中から微かな物音が聞こえる。
「……晃彦さん、気をつけてください」
  ためらいなく車を降りて敷地内に足を踏み入れた志形を庇うように前に立ちながら、坂木が潜めた声で注意をする。物音は敷地の端にある、巨大な倉庫の群れの中から聞こえてくるようだった。
  逸る気持ちを抑えながら、一歩、また一歩近づくごとに、物音は大きくなっていく。金属の塊がぶつかるような硬く尖った音と、柔らかい何かが潰れるような音。そしてその合間に、低くくぐもった悲鳴が聞こえるのに気づいた時、志形はたまらず駆け出していた。
「沖本!」
  物音が聞こえた倉庫の扉を開け放ったその瞬間、志形が目にしたものは。
「あれ、志形さん! 来てくれたんですか?」
  明り取りの窓から差し込む月明かりの下、汚れた鉄パイプを振りかざしながら人懐っこい笑顔を浮かべている、沖本優の姿だった。
「…………何してんだ、お前」
「や、スマホとか取られちゃったんで取り返そうと思って。なんかこの人たち全然犯罪慣れしてない感じなんですよ。こんな武器だらけのとこに連れて来るとか、抵抗してくださいって言ってるようなものですよね。結束バンドで拘束された時の抜け出し方も、ちょっと前にネットでバズってたの知らないのかな」
  そう言って妙に楽しそうに笑う沖本の足元には、人の形をした塊が三つほど、呻き声を上げながら転がっていた。
「社会人になっても剣道続けてて良かったなあ」
「これのどこが剣道だ。バカか」
  どこの世界に鉄パイプで人を殴る武術があると言うのか。呆れて物も言えない志形に気づく様子もなく、沖本は足元に転がる男のポケットを手探りで漁ってスマホを取り返し、近くに落ちていたショルダーバッグと入れ替えるようにして鉄パイプを放り出した。
「さ、帰りましょ」
  いつもの調子で笑う沖本の頬には、血痕なのか泥なのか分からない、黒ずんだ汚れが付いていた。こんな異常な状況で、なぜそんなふうに笑っていられるのか。
  もしかすると、この男は志形が思うほど普通の人間ではないのかもしれない。それならばなおのこと、これ以上踏み込ませてはならないのではないか。
「……坂木。後は任せて良いか」
「もちろんです」
  横に控えていた坂木が頷いたので、志形は溜息を吐きながら沖本の腕を掴んだ。
「さっさと行くぞ」
「はい!」
  再会したあの日と同じように、沖本は屈託のない表情で笑っていた。
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