ワールド エンド ヒューマン

村井 彰

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第一章 異形の街

三話 吹き溜まりの住人達

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  ファリスの家を出た瞬間、まず感じたのはよどんだドブの匂いだった。匂いの出処は考えるまでもなく、目の前を流れている汚い川だろう。家の中には常にファリスの甘い匂いが漂っていたから気づかなかったが、おそらく街中こんな匂いがしているに違いない。頭から被せられた袋の存在に、俺はさっそく感謝した。
「おはようファリス。連れがいるなんて珍しいな」
  意識的に呼吸を浅くする俺の耳に、やけに爽やかな若い男の声が届く。ファリスの知り合いかと、俺は反射的にそちらへ顔を向けた。
「うっ」
  その直後、咄嗟に小声で呻いてしまったのを、ファリスには聞かれたかもしれない。だが叫ばなかっただけでも褒めて欲しいものだ。
  何しろすぐそこで、さっきのカマキリ頭がこっちに向けて、ヒラヒラと手を振っていたのだから。袋で視界がセーブされていなかったら、俺はこの瞬間に踵を返して店に駆け戻っていたことだろう。
「二人とも、おはようございます。この子はうちの新しい店番ですよ。当分の間うちに住むことになったので、仲良くしてあげてくださいね」
  余計な事を言うなと叫びたかったが、既に手遅れだった。ファリスの言葉を聞いたカマキリ男が、「そっかそっか!」と陽気な声をあげながら、俺の方に駆け寄って来る。
「はじめまして、オレはリック! よろしくな!」
  カマキリ男は元気よく名乗ると、俺の手を取ってぶんぶんと上下に振り回した。カマキリの背丈は俺と同じくらいで、それゆえに、ボーリング球サイズの黄色い目玉が間近に迫ってくる。昆虫というやつは、なぜこうもグロテスクな見た目をしているのだろうか。俺の手を握っている手が、ごく普通の人間の手だった事だけが唯一の救いだ。
「キミは、なんて名前?」
  カマキリ男にそう訊ねられたが、俺は何も答えられなかった。今口を開いたら、何かの限界を迎えてしまいそうな気がする。
「すみませんねリック。彼は少し照れ屋なんですよ。名前はチヒロです」
  俺が黙っていると、横に立つファリスが代わりに答えた。カマキリ男はそれで納得したようで、ファリスの方を向いて頷く。
「そっか、ウチの相棒とおんなじだな。……チヒロ! あっちで靴磨いてんのが、オレの相棒のリアンだよ。全然喋んないけど怖くないからな」
  そう言って、カマキリ男は俺の手を離して、川沿いの露店を指さした。そこには、細長い椅子か何かに窮屈そうに腰掛けて、黙々と作業をしている蛇頭の姿があった。喋ろうが喋るまいが、頭が昆虫では無いというだけで、俺にとっては安心できる相手に違いない。
「そんじゃ、オレはそろそろ店に戻るから。今度ウチで靴買って行ってよ。修理依頼でも良いからさ」
  早口で言い残して、カマキリ男は足早に露店の方に帰って行った。そしてそのまま蛇頭の隣に立って、一方的に何かを話し始める。蛇頭の方は作業の手を止めず、時々頷きながらカマキリ男の話を聞いているようだ。
「僕達も行きましょうか」
  ファリスに声をかけられて、俺は視線を戻した。
「リックは気さくで、リアンは真面目な良い人達ですよ」
  俺の腕を掴んでスタスタと歩き出しながら、ファリスは二人組の靴屋についてそう言い表した。よりによって俺の大嫌いな昆虫野郎が、陽気で親切そうな性格をしているのは、喜ぶべきなのか嘆くべきなのか。
「つうかベタベタ触んなつっただろ」
「おや。だったら君は、その状態で助けも無しに歩けるんですか? 転んでも僕は助けませんよ」
  ニヤニヤ笑いが透けて見えるようなファリスの声音に、思わず舌打ちしたくなった。確かに、ろくに前も見えないこの状況で、見知らぬ街を歩くのは危険すぎる。クソ野郎に頼るしかないこの状況に、ムカついて仕方なかった。
  苛立ちから黙り込む俺を無視して、ファリスは川沿いをまっすぐに進んで行く。薄暗かった周囲は少しずつ明るくなって、まばらに点いていた街灯の光も少なくなってきた。どうやらこいつは、空の大穴がある方角へ向かっているらしい。
  そうして十分ほど経っただろうか。歩いて行くうちに川沿いからは徐々に離れ、少し開けた場所に出た。ファリスの家の周りは静かだったが、この辺りは人の行き来が多くて騒がしい。この土地で言う、繁華街のような場所なのだろう。
  首から枯れ木が生えた奴、巨大な歯車が組み合わさって出来た球体が乗っている奴、豚の頭で人間の言葉を喋る奴。悪趣味な絵画の住人のような異形の生き物達が、幾人も目の前を通り過ぎて行く。あまりにもおぞましいその光景に、俺は目眩を起こしそうだった。
「チヒロ。こっちですよ」
  必死で正気を保とうとする俺の腕を引き、ファリスは通りの端にある一軒の店を示した。
  何でもいい。とにかくこの恐ろしい喧騒から離れたい。その一心でファリスに連れられるまま近づいた店からは、焼きたてのパンの香ばしい香りと、酒の匂いが漂っていた。
  その店は、小さな飲食店のようだった。狭い店の中には、カウンター席が四つと、四人掛けのテーブル席が二つ用意されていたが、テーブル席の一つにガタイの良い男が陣取って、テーブルの上や下に大量の酒瓶を転がしているせいで、その一角だけ明らかに空気が澱んでいる。
「おはようございます、パメラさん。すみませんが、何か食べる物を売って貰えますか」
  飲んだくれ男を完全に無視してカウンターに近づいたファリスは、そう言って見た事のないデザインの硬貨を数枚取り出した。カウンターの向こう側には、巨大なくちばしをぶら下げた鳥が座っている。こいつは確か、ハシビロコウとかいう鳥だ。昔付き合っていた女が、やたらとこの鳥を気に入っていて、執拗にぬいぐるみやグッズを集めていたのでよく覚えている。
「なんだいファリス。アンタが客として来るなんて珍しいね。アンタにゃ食べ物なんて必要ないだろうに」
  デカい鳥の、これまたデカいくちばしから発された声は、老婆のものだった。どうやらこのハシビロコウは婆さんらしい。こいつらの顔を見ただけでは、性別も年齢も分かったものではない。
「僕ではなくて、この子の分ですよ。昨日の晩にゴミ山で見つけて拾って来たんです。とても可愛かったので」
  ファリスはそう言って、馴れ馴れしく俺の腰に手を回してきた。鬱陶しくて仕方ないが、ここで抵抗すると話がややこしくなりそうなので、無言で耐える。ハシビロコウの婆さんは、そんな俺をじっと見上げ、鋭い目を訝しげに細めた。
「ゴミ山で、ね……その頭の袋はなんだい? さすがにそういう顔って訳じゃないんだろ」
  どうやら俺は、袋越しでもハッキリ伝わるくらい、露骨に怪しまれているらしい。
  麻袋の中で冷や汗を流す俺とは対称に、ファリスは何でもなさそうな調子で軽く答えた。
「元々は獣頭だったようなのですが、顔全体が酷くただれていて……人に見られたくないと言うので、こうして隠しているんですよ。その事に関係していると思うのですが、記憶もかなり混乱しているようで、ゴミ山で目覚める前の事もほとんど覚えていないそうです。なので、過去の事はあまり聞かないであげてください」
  よくもまあ、そんなにペラペラとそれらしい嘘を吐けるものだ。呆れる俺とは裏腹に、婆さんはファリスの嘘を信じたらしく、途端に哀れむような目付きになった。
「そうかい、そりゃ苦労したね。……ちょっと待ってな」
  婆さんはそう言ってよたよたと立ち上がると、曲がった腰を押さえながら店の奥へと引っ込んで行った。それから少しして戻って来た婆さんの手には、小ぶりの紙袋があった。
「ほら。オマケしといたから、腹いっぱい食べな」
  パンパンに膨らんだ紙袋を受け取ると、ほんのり温かく、ずっしりと重かった。どうやら、すぐに食べられる物をたっぷり詰めてくれたらしい。
「……ありがとう、ございます」
  ずっと黙っているのもなんなので、俺は小声で礼を言った。対する婆さんは、ガパリとくちばしを開けて目を細める。たぶん笑っているのだろう。
「では、帰りましょうかチヒロ」
  ファリスの言葉に、俺は頷いた。頭の袋を外せないので、家に帰らなくては食事もままならない。
  そうして、再びファリスに腕を引かれながら店を出ようと振り返った直後。何かに躓いて、俺は思いきりつんのめった。
「危ない!」
  咄嗟にファリスが腕を引いてくれたので、どうにか転ばずに済んだが、そうでなければ頭から床に突っ込んでいた。何が起きたのかと慌てて顔を上げた瞬間、袋の網目から間近に見えたのは、今までに見た誰よりも異質な顔をした男の姿だった。さっきは少し離れていたのでよく見えなかったが、服装から察するに、テーブル席にいた飲んだくれ男だ。
「よぉファリス。面白そうなヤツ連れてんじゃねえか」
  いかにもガラの悪そうな態度で、男はそう言った。だがその声は妙にくぐもって、まるで水の中で喋っているように聞こえる。……いや、“まるで”じゃない。男は実際に、水の中で喋っていた。
  男の頭部には、蓋の付いた巨大なビーカーが乗っていて、その中にサッカーボールほどの大きさをしたマリモが浮いている。おそらく、あのマリモもどきが男の本体なのだ。
  ファリスや、さっきすれ違った歯車人間も大概だったが、こいつの存在は本当に意味が分からない。どういう原理で産まれて、どういう仕組みで生きているのか。そこまで考えて、俺は思考を放棄する事に決めた。たぶん、こいつらの存在を人間の常識で計ること自体が間違いなのだ。真面目に考えたら気が狂う。こいつらは、こういう生き物なんだ。もうそれでいい。
  完全に思考停止した俺を背中に庇って、ファリスはマリモ男に向き直る。
「なんのつもりですか、シャーロン」
「別に? 俺もそいつにご挨拶しようと思っただけだよ」
  マリモ男が喋る度に、ビーカーの中のマリモがグルグルと回る。なぜか、大嫌いなはずのカマキリ頭よりも、こいつの見た目の方が遥かに不快だった。
「ご挨拶? わざわざ足を引っ掛けて転ばせようだなんて、ずいぶん子供じみた挨拶ですね」
  吐き捨てるように言い、ファリスは俺を引っ張ってその場を離れようとした。だが、それよりも早くマリモ男のゴツい腕が伸びてきて、ファリスの肩を乱暴に掴む。
「まあ待てよ。そう邪険にする事ないだろ?」
「嫌いな相手に関わるのは、お互いに時間の無駄だと思いますが」
「スカした喋り方すんじゃねえよ、いちいち鼻につく野郎だな。下層産まれの俺らとは育ちが違いますってか? 上層産まれのお坊ちゃんがよお」
  マリモ男の言葉に、俺は自分の耳を疑った。
  ファリスが上層産まれ? 上層には人間しか住んでいないんじゃなかったのか。それが事実なら、なぜ明らかに異形のファリスがそこに居られたのか。そしてなぜ、今は下層に住んでいるのか。
  一気に噴き出してきた疑問の答えを求めて、俺はファリスの横顔を見上げた。しかし当然ながら、そこからは何の表情も読み取れない。ただ真っ白な百合の花が咲いているだけだ。
「シャーロン、アンタいい加減にしな! 毎日毎日朝から飲んだくれて、その挙句他の客にケンカふっかけて揉め事起こすんなら、アンタにゃ二度と酒は売らないからね!」
「ああ? ……ちっ、うるせえババアだな」
  カウンターから飛んできた叱責の声に、マリモ男は舌も無いのに舌打ちをする。
  そうして怠そうにゴポゴポと溜息を吐きながら、マリモ男はファリスから手を離し、元いた席へと戻って酒瓶を手に取った。どうするつもりなのかと見守っていると、なんとマリモ男は頭に乗ったビーカーの蓋をおもむろに開け、そこに酒瓶の中身をドバドバと注ぎ込み始めたではないか。ビーカーの中はみるみるうちにビールの色で黄色く染まり、中央に浮いているマリモがふるふると震え出す。どうやらあの男は、ああやって酒を飲むらしい。
「チヒロ、帰りますよ」
  そこまで観察したところで強めに腕を引かれ、ファリスに半ば引き摺られるようにしながら、俺は店を出た。表情は分からないが、足取りや手に込められた力の強さからして、ファリスはかなり機嫌が悪そうだ。
  なんとなく後ろを振り向いて見たが、距離が遠くなりすぎて、袋越しではもう店の外観さえよく見えなくなっていた。だがそれで良い。あの男のような手合いとは、なるべく関わらないで生きるべきだ。
  どこの世界にもクズはいる。
  俺自身も、そういう人間だった。

  ❊

  その後は何事もなく、無事にファリスの家へと帰り着いた。俺は家に入るなり慌ただしく二階に駆け上がって、形だけのダイニングテーブルの上に麻袋を脱ぎ捨てた。
「はあ……」
  ようやく解放された視界で天井を仰ぎながら、大きく息を吐き出す。やっと思いきり深呼吸ができる。家の中は相変わらずファリスの甘ったるい匂いに満ちているが、ドブ臭い外の空気よりは遥かにマシだ。
  気が済むまで深呼吸を繰り返した俺は、そのまま一脚しかないダイニングチェアへと腰を下ろし、ハシビロコウの婆さんから受け取った紙袋を開いてみた。
  袋の口を開けた途端、香ばしくて甘い香りがふわりと溢れてきて、鼻孔をくすぐられる。袋の底には、分厚いピンクのハムと淡い黄色のスクランブルエッグがぎっしり挟まったホットサンドが、目一杯に詰められていた。
  パンの切り口から溢れんばかりにはみ出しているツヤツヤのハムを見た瞬間、ほんの一瞬だけ、広場ですれ違った豚人間の姿が脳裏を過ぎった。しかし俺は、その一秒後には袋から取り出したサンドイッチにかぶりついていた。
  これが何の肉だろうがどうでもいい。そんな事より、とにかく空腹が限界だった。
「美味しいですか?」
  いつの間にか近くに持ってきた肘掛け椅子に腰を下ろしながら、ファリスが俺にそう訊ねる。口にサンドイッチを詰め込んだ俺が、ただ黙って頷くのを見て、ファリスはなぜか満足そうな笑い声を洩らした。
「…………なに笑ってんだよ」
  口の中の物を飲み込んで軽く睨むと、ファリスはおどけたように肩をすくめてみせた。
「いえ別に。ただ、『美味しい』というのはどんな感覚なんだろうと思いまして。僕には味覚も嗅覚も無いので、そういう感覚に興味があるんです」
「……ふーん」
  サンドイッチをもう一口頬張りながら、適当な相槌を返す。どちらかと言えば、こいつに視覚や聴覚がある事の方が驚きだ。口も無いくせに、どうやって発声しているのかも分からない。
  甘じょっぱいハムエッグを飲み下して、俺はもう一度ファリスの顔を盗み見た。多少話は通じても、やっぱりこいつも化け物だ。生き物としての形が、俺とはまるで違う。
  その後はろくに会話もないまま、俺が全てのサンドイッチを平らげるまで、ファリスは黙って食事の様子を観察していた。
「……ごちそうさま」
  空になった紙袋の前で手を合わせる。すっかり腹がふくれると、落ち着いて考え事をする余裕も出てきた。
  俺は、これからどうするべきなのか。元いた場所に帰る方法なんて見当もつかないし、家も無ければ金も無い。とはいえ、それは東京に帰ったところで変わらない。あの女の家にはもう戻れない以上、新しい住処すみかを探さなくては。
  となれば、やるべきことはいつもと同じだ。
「……なあ、ファリス」
「なんですか?」
  少し首を傾げたファリスの方に体を捻って、正面から奴の顔を見据える。こいつは化け物で、しかも男だが、今の俺にとっては一番都合のいい相手だ。俺の正体や事情を知っていて、その上明らかに俺を気に入っている。
「ファリス。もう大体察してるだろうけど、俺は上層でも下層でもない所から来た。どうやってここに来たのかも分からないし、当然帰る手段も無い。どこにも行く宛てが無いんだ」
「……そのようですね」
「そうなんだよ。だから、あんたに頼みたいんだ。……俺を、ここに置いてくれないか」
  わざと上目遣いに見上げながら、俺はそっと手を伸ばして、ファリスの手に軽く触れた。指の先が手の甲にくっついた瞬間、木の枝のような細い指が、わずかに震えたのが分かる。
「……簡単に言ってくれますが、それ、僕になんの得もないですよね? それどころか、人間を匿っている事がバレれば、僕自身の立場だって危うくなる。僕にとってはリスクばかりだ」
「分かってるよ。俺だって、タダで養ってくれなんて言うつもりは無い」
  ファリスの手に指を絡めて、そのままぎゅっと握る。
  他人に取り入るのは、俺にとって簡単な事だ。
  経験と、観察と、直感。それらを駆使すれば、相手が俺に何を望んでいるのか、どんな言葉を欲しているのか、手に取るように分かる。
  あとはそれを、相手が最も求める形で実行するだけで良い。
「ファリス。ここに住ませてくれるなら、その対価として、俺は俺自身を差し出す。あんたの言う事なら何でも聞くし、何でもする。……俺の体全部、あんたの好きにしていいから」
  握った手に頬擦りをしながら囁く。けれど、視線はファリスを捉えたまま逸らさない。
  相変わらず、ファリスの顔からは何の表情も読み取れない。だが数秒後、何かを諦めたような深い溜息が聞こえてきた。
「まさか、君の方からそれを言い出すとはね」
  そう言ったファリスの声が少し上擦っているのを、俺は聞き逃さなかった。
「良いでしょう。これから僕は、君の生活の全てを保証する。……その代わり」
  繋がった手を振りほどいて、ファリスは乱暴に俺の顎を掴んだ。
「今日から、君は僕の物だ」
  内心で笑い出しそうになるのを堪えながら、俺は黙って目を伏せた。
  簡単だ。他人に気に入られるのも、それを利用して生きるのも。
  クズにはクズなりの生き方がある。これが俺の、生きる術だ。
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