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第二章 青色の魔法

5話 居るべき場所

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「……それで、ウォルター様はいつまでこちらにいらっしゃるおつもりですか?」
「はは。嫌ですねえ。まるで私に早く帰って欲しいと言っているように聞こえますよ」
  『ように』も何も、そのつもりで言ったのだが。
  突然に訪ねてきたウォルターと話し込むこと数時間。気づけば外は徐々に日が傾き始め、夕暮れが近づきつつある時刻になっていた。意外にもウォルターは聞き上手で、それなりに会話が弾んでしまった事が何だか腹立たしい。
  そもそも、そんなつもりなど微塵も無いので今まで思い至らなかったが、夫の留守中に余所の男性と長時間二人きりでいるこの状況、印象としては最悪なのではないだろうか。ウォルターの事は嫌いではなくなったが、それとこれとは話が別である。アランに余計な誤解をされてしまう前に帰って欲しい。
  そんなユリナの考えを見透かしたように、ウォルターは薄笑いを浮かべてこちらを見やった。
「良家の奥さんというのも大変ですね? 何をするにも、立場や世間体が付きまとう」
「……っあなた、まさか分かった上で」
  やっぱりこの男に気を許すべきでは無かった。もういい。誰か呼んで、今すぐ彼を引きずり出して貰おう。
  そう思い立ったユリナが腰を浮かせたタイミングで、やや慌ただしいノックの音が部屋の中に響いた。
「ラスタ? ちょうどいいところに……」
  そう言いながら振り向いた直後、少し困ったような表情のラスタが、扉の隙間から顔を出した。
「奥様、その、またお客様がいらしたのですが……」
  ラスタが言い終わる前に、彼女の頭の上から滑り込んできた大きな手が、扉の端をガッと掴んだ。
「ひっ」
  衝撃的な光景に、思わず悲鳴を上げそうになる。だがユリナが叫ぶ寸前、開いた扉から姿を現したのは、得体の知れない化け物などではなく、明るい色の髪をずぶ濡れにした小柄な青年だった。
「すみません! こちらにウォルターさんがいると聞いて来たんですけど!」
  ハキハキと言う青年の姿を見た瞬間、ソファに腰掛けたままでウォルターが顔を上げた。
「おや、ネスト。どうしたんです、そんなにずぶ濡れになって」
「どうしたんです、じゃないですよ! こっちはいろいろ大変だったんですからね?!」
  肩を怒らせて部屋に踏み込んできた青年は、ユリナの前でハッと足を止めた。
「…………もしかして、アラン団長の奥さんですか?」
「え、ええ……そうですけど」
  混乱しつつも頷くと、青年はなぜか猫にでも引っ掻かれたようなような顔をした。
「まじかよ……どうせ噂だけだと思ってたのに、ほんとにめちゃくちゃ美人じゃん……なんか腹立ってきた」
  何事かを小声で呟いたかと思うと、青年はサッとこちらに向き直り、慣れた所作で敬礼をした。
「騎士団所属、ネスト・アルベイルです。突然の訪問、大変失礼いたしました」
  騎士団? ということは、この人もアランの部下なのか。まだ十代くらいに見えるのに。
  ユリナがネストに応えるよりも早く、ウォルターが座ったままで彼に声をかけた。
「わざわざここに、しかも貴方一人で戻ってくるとは……何か問題でも起きたんですか?」
  わざとらしいほど呑気な口調に、ネストの猫っぽいつり目がさらに吊り上がる。
「ええ、そうですよ! ウォルターさんが呑気に人妻とお茶してる間に、オレらは泥まみれになって走り回った挙句、土砂崩れに巻き込まれかけて……ダドリーさんと団長が帰ってこられなくなったんですよ!」
「なんですって」
  驚いたユリナが思わず声を上げる。
「帰ってこられなくなった、って……どういう状況なんですか。アラン様は……」
  ユリナが慌てて詰め寄ると、ネストは少し焦った様子で一歩離れた。
「や、大丈夫です。別に怪我したとか、そういうんじゃないんで……ただ、初めにオレたちが通った迂回路までが完全に塞がれてしまって、向こうと行き来出来ない状態になってて」
「つまり、街道の向こうに閉じ込められてしまったと……帰れなくなったのは、その二人だけですか?」
  口を挟んできたウォルターの方に、ネストが視線だけを向ける。
「いや、最後まで残ってた宿屋の主人と……あと、隣国から来たっていう若い旅人が一人居たはずです」
「アスタルから……?」
  ウォルターが思案げに眉を寄せる。アスタルといえば、かつてはマルレスタと領土を奪い合っていた事もある国だが、ユリナ達の世代にはピンと来ない話だった。
「ウォルター様、何か気がかりな事でもあるんですか?」
「いえ……」
  ユリナの問いに言葉を濁して、ウォルターが首を振る。そしてネストの方に顔を向けた。
「ひとまず貴方は王都の方へ向かってください。しゃくですが、魔術師団に協力を仰ぎましょう」
  その言葉を聞いた途端、ネストが露骨に嫌そうな顔をした。
「これから王都に? しかも魔術師団って、まさかラヴェイルのおっさんを呼ぶんですか」
「まさか。この雨の中で、あの男が何の役に立つと言うのです。土の魔術師を数人派遣するよう要請しなさい。エレイアのような大規模な掘削工事は出来ないでしょうが、周辺の樹木を無理矢理成長させて脇道を確保するくらいは出来るはずです。一時しのぎですが無いよりはマシでしょう」
  ウォルターの説明を聞きながらも、ネストの表情はますます険しくなっていく。
「……で? オレがこれから、雨の中を王都へ走るとして、その間ウォルターさんは何をするんです?」
  対するウォルターは、涼しい顔でケロリとして言う。
「私は今から、オース街道の団長達の元へ向かいます。少し気になる事がありますから」
「いや、だから向かうも何も道が塞がれてて……まさかウォルターさん、アレをやるつもりですか」
  アレ? アレってなんだろう。
  話に着いていけずに首を傾げるユリナの方を振り向いてウォルターが口にしたのは、あまりにも唐突で脈絡のない言葉だった。
「マダム。鷹を一羽貸していただけませんか」


  ウォルターに言われるまま、屋敷で雇っている鷹匠の男性に連れてこさせたのは、花嫁のように美しい純白の羽根を持つ、シロハヤブサのアルテだった。もともとは国王から下賜かしされて来たらしく、その後グランツ自ら調教したという甲斐もあって、人にはよく慣れている、はずなのだが。
「久しぶりですねぇ、アルテ嬢」
  そう言ってウォルターが顔を近づけた途端、アルテは威嚇するように羽根を広げて止まり木を離れ、ウォルターから遠く離れた部屋の隅に飛んで行ってしまった。ここまで他人を警戒している様子のアルテを見るのは初めてだ。この人、女性にモテるような事を言われていたけど、もしかして大したことないんじゃ。
「マダム。今何か、失礼な事を考えませんでしたか?」
「いえ……」
  ウォルターに笑顔のままで睨まれ、慌てて目を逸らす。
「そんなことより、アルテを呼んでどうなさるおつもりなんですか?」
  そう言って、誤魔化すように話題を変える。ユリナが呼ぶと、アルテはすぐに近くまで飛んできて、ソファの背もたれに止まった。しかしやっぱり、ウォルターの方には近寄らない。
「ウォルターさん、めちゃくちゃ嫌われてるじゃないですか。ウケる」
「うるさいですよ、ネスト。……アルテ嬢には、オース街道へ向かう手助けをして貰うだけですよ」
「手助けって……アルテを街道まで飛ばせるおつもりですか? 確かにこの子は賢い子ですけれど、伝書鳩ではありませんのよ」
  仮に伝書鳩だったとしても、初めて行く場所に迷わず飛んで行く事なんて不可能だろう。しかしウォルターは、余裕の表情で笑っている。
「ええ、もちろん。アルテ嬢だけでは難しいでしょう。そして私ひとりでも、塞がれた道を越えていく事は出来ない……ですから、彼女と私で協力しようと言うのです」
「協力ってか、一方的に手伝わせるんでしょ? だからそんなに嫌われて痛だだだぁっ?!」
「貴方という人は、さっきから余計な口ばかりきいて……その生意気な態度は一体誰に似たんでしょうね? 要らない口なら縫い付けてしまいましょうか」
  ウォルターにギリギリと頭を抑え込まれて、ネストが悲鳴をあげる。
「あの……どうも話が見えないのですけれど」
  ユリナが冷めた目で口を挟むと、ウォルターはネストからパッと手を離して、軽く咳払いをした。
「これは失礼。……そうですね、説明するより見ていただいた方が早いでしょう」
  ウォルターはそう言って、アルテが止まっている真向かいのソファに腰を下ろした。そして驚いたことに、あんなにも頑なに取ろうとしなかった手袋に指をかけた。
「正直なところ、あまりやりたくないのですがね……緊急事態ですから仕方ない」
  そう言ったウォルターが、するりと左の手袋を引き抜く。その下から現れたのは、手の甲全体を覆う銀色の鎖だった。
  中指に嵌めた指輪から伸びる細い鎖が、手の甲の中ほどで三本に分かれ、その先が細身のブレスレットに繋がっている。鎖の分かれ目の部分には、ウォルターの瞳と同じ色、透き通るような緑の宝石が輝いていた。
「それが、ウォルター様の魔導具ですか?」
「ええ、そうですよ。……そういえば、部外者の方にこれを見せるのは、初めてかもしれませんね」
  部外者。確かにその通りではあるが、なんだか引っかかる物言いだ。
  そんなユリナの気も知らず、ウォルターはまるで貴婦人をダンスに誘う時のように優雅な仕草で、鎖を付けた左手をアルテの方に向けた。そして反対の手で、宝石を隠すように覆って微笑む。
「さあ、アルテ嬢。少しの間、私にその身を委ねてください」
  その言葉と共に、ウォルターの手の隙間から、眩い緑の光が溢れ出た。その光を警戒するように、アルテが一層大きく羽根を広げて……その直後、突然ウォルターの体が、大きく手前に傾いだ。
「ウォルター様?!」
「おっ、と……危ない」
  テーブルに突っ伏しそうになった体を、ネストがサッと手を伸ばして支える。脱力しきったウォルターの体は、ネストにされるがまま、ソファの背もたれに体を預けた。その表情は、まるで眠っているかのように見える。だけど、突然どうして。
「だ、大丈夫なんですか……?」
  ネストはなぜ平然としていられるのだろう。だが狼狽えるユリナの前で起きたのは、さらに衝撃的な出来事だった。
「心配ご無用ですよ。ユリナさん」
  慌ててウォルターの元へ駆け寄ろうとしたユリナの耳に届いたのは、紛うことなきウォルターの声だった。けれど、その声はなぜか、意識を失ったウォルターからではなく、ユリナの背後から聞こえてくる。今、ユリナの後ろには誰も居ないはず……いや、正確にはアルテが居るけれど。
  何かの聞き間違いだろうと、ユリナが怖々振り向いた先にいたのは、やはり真っ白な羽根のアルテだった。だが、
「嫌ですねえ、そんな化け物を見るような顔をして。私ですよ。ウォルターです」
  その白いくちばしから紡がれる声は、聞き間違えるはずも無い、ウォルターの声だった。
「な、んなんですか、これは……」
  信じられない思いで、アルテの姿を見つめる。これは何の冗談だろう。奇術? 腹話術? ……いいや、考えられる答えは、ひとつしかない。
「相変わらずエグいなぁ、ウォルターさんの魔術。生き物の精神を乗っ取るなんて」
  ウォルターの体を支えながら、ネストが茶化すような口調で笑う。生き物の精神を乗っ取る、だって?
「何でもありですか、魔術というのは……」
  呆然と吐き出した言葉に、アルテが、いや、アルテの中にいるらしいウォルターが、愉快げに目を細める。
「何でもあり、という訳ではありませんよ。入り込めるのは、犬程度の大きさの生き物が限界ですし、大型の生物であればあるほど、操れる時間も短くなります。とはいえ、学生時代はネズミや小鳥が限界でしたから、遺憾ながら成長しているのでしょうね、私も」
  この若干鼻につく喋り方と、耳の奥にまとわりつくような低音の声。もはや疑いようもなく、ウォルター本人だと確信できてしまう。
「なんてことなの……」
  ユリナは思わず、額を押さえてため息を吐いた。今日一日で、あまりにも色々な事が起きすぎた。もうとっくの昔に、ユリナの中の許容量を超えている。いっそ貴族のお嬢さんらしく気絶でもしてしまいたいくらいだが、生憎そんな暇さえ無さそうだ。
  ネストに窓を開けさせて、アルテの姿をしたウォルターが、窓枠に脚をかけたのが見える。
「では、私は街道へ向かいます。私の体はそこに置いておいてください。あとで取りに来ますので」
  そんな荷物みたいな調子で、自分の体を置いて行かないで欲しい。
  ささやかな突っ込みを入れる隙もなく、ウォルターは真っ白な翼を広げ、雨の中を悠々と飛び立って行ってしまった。
  雨が吹き込まないよう、ネストが窓を閉めると、途端に雨音は遠ざかり、部屋の中には微妙な沈黙が落ちる。よくよく考えればネストとは初対面なので、二人きりというのは少々気まずい。
「……魔術師って、想像していたのと全然違うんですね。あんなの、子供向けの絵本ですら見たことが無いわ」
「そりゃまあ、ウォルターさんは色々と特殊な人ですから。……これはウォルターさんの受け売りなんですけど、魔術ってのは、大きく二種類に分けられるんだそうです」
  窓を背にして、ネストがこちらを振り向く。そうして、背丈の割に大きな手を持ちあげて、すっと人差し指を立てた。
「ひとつは、自然現象に干渉して、それを自在に操る魔術。開拓の魔術師エレイアとか、ラヴェイル・フレイモアが使ってるのはこっちですね」
  そう言って、ネストはもう一本指を立てた。
「で、もうひとつは、生き物に直接干渉する魔術。傷を治したり、身体機能を一時的に強化したりするやつです。ウォルターさんが使ってるのは、分類的にはこっち。しかも体の中でも脳みそを弄るっていう、めちゃくちゃヤバい系統の魔術ですよ」
「……それって、もしかしなくても、相当希少な力なのではないですか?」
  今ネストが説明してくれた内、後者の魔術が使える者はかなり少ないはずだ。特に傷を癒せる魔術師は治療師と呼ばれて、王都にある大きな治療院で働いているのだが、その数は二、三人程度しかいない。ただでさえ希少な魔術師の中でも、さらに選ばれた存在といえる。
「どうしてウォルター様は、ご自分のことを『使えない』なんておっしゃったのかしら。そんなにすごい力をお持ちなのに」
  ユリナが素直な疑問を口にすると、ネストは「あー……」などと少し困ったような息を吐いて、濡れた頭をカリカリと掻いた。
「それはなんて言うか、『使えない』と言うより『使っちゃいけない』んですよ。すごい力過ぎて」
  そう言って、ネストはこちらにちらりと視線をやった。
「だってね、想像してみてくださいよ。ウォルターさんのアレが、人間にも使えるとしたらどうします?」
「……え?」
  アルテにやっていた事を、人間に?
  その事を考えた瞬間、ぞっと鳥肌が立った。そんな事がまかり通るなら、誰の事も信用出来なくなってしまう。
  その上ネストが続けたのは、さらにユリナの想像を越える恐ろしい話だった。
「例えば、権力のある人間……それこそ国王陛下の精神を乗っ取る事が出来たら? ……国ひとつ、簡単にひっくり返せると思いませんか」
「それは……」
  そう呟いたきり、二の句が継げなくなったユリナを見て、ネストが軽く肩をすくめた。
「ウォルターさんが学園に入った時、上の方はかなり揉めたそうっすよ。今はネズミ程度しか操れなくても、このまま成長したらとんでもない事になるかもしれない。良くて一生幽閉か、最悪処刑かってとこまで話が進んでたのを、グランツ前団長が助けたって聞いてます」
「お義父様が?」
「そう。『この力は騎士団でこそ活きる。自分が責任を持って育てよう』って。実際ウォルターさん、前の戦争で情報係としてめちゃくちゃ活躍したらしいですよ。ただの伝書鳩なら、敵に撃ち落とされたら終わりですけど、ウォルターさんなら何度でも体を乗り換えて、直接味方に情報を伝えに行けるし、敵陣に入り込んでの情報収集も容易だし」
  やたらと軽い口調の説明を聞いて、ようやくさっきウォルターが言っていた事の意味が飲み込めてきた。
  努力することすら許されなかった、というのはそういう事か。
  彼は、ただの情報係でいなければならなかったのだ。それ以上の力を得てしまったが最後、全てを失う事になる。そうなったらきっと、グランツでも庇いきれない。
  だからウォルターは、魔術師である事を隠すのだろう。自分の居場所を失わないために。
「まあ、そういうわけなんで、今はウォルターさんに任せておけば大丈夫だと思いますよ」
  ネストの声に、ハッと顔を上げる。
「オレは言われた通り、王都の方へ行ってきます。突然お邪魔して、すみませんでした!」
「あ、ええ……どうか、お気をつけて」
  言いたいことだけを言って、慌ただしく去って行く背中を見送る。さっきまであんなに騒がしかったのに、あっという間に独りになってしまった。いや、ウォルターの体だけは残っているけれど。
  窓の外を見上げれば、そこにはもはや見飽きた雨模様だけが映っている。
  いつだってそうだ。結局、私に出来ることは、こうして見送ることだけなのだろう。
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