12 / 22
第二章 青色の魔法
7話 月明かり
しおりを挟む
ヘクターが淡々と告げた直後、その手の中に隠されていた小さな石が、稲光に照らされて青く輝いた。
それは、一瞬の出来事だった。
瞳の奥深くを射るような鋭い輝きに、ほんの一瞬視界を奪われる。時間にすれば一秒未満。だが、ヘクターに……魔術の使い手にとっては、それだけで充分過ぎた。
アランが視界を取り戻した時、ヘクターの周囲には、いくつもの水流が生まれていた。それらはまるで、ひとつひとつが意志を持つかのように次々と形を変えて、ヘクターの周りを自在に飛び回っている。
だが、ヘクターが宝石……おそらくは魔導石を握り込んだ途端に、それらは一斉に同じ形をとった。細い帯のように伸びだした水流が幾重にも絡まり合い、鋭い槍のように尖っていく。
そしてその切っ先は、一直線にこちらを狙っていた。
それは、いつかの路地裏の少女を思い出させるような力だが、あの時とはまるで違う。対峙しているだけで背筋が凍るようなこの感覚。
この男の力には、明確な殺意が宿っていた。
「水というのは、とても便利な物でね。こんな狭い部屋の中なら、水没させてしまえば、何人いようが簡単に無力化できる。塊のまま投げつければ鈍器にもなるし、こうして細く尖らせれば、鋼鉄さえも切り裂く刃になる」
世間話のような話し口調と相反する、剥き出しの敵意。アランに向けられるそれらは、全てがどこまでもちぐはぐで、不気味だった。
暗がりでも分かる薄笑いを浮かべながら、ヘクターは手綱を引くような仕草で拳を振るった。
その手の動きを合図に、鋭利な殺意をまとった水の槍が、アランの方へ向けて放たれる。
「……っ」
この距離なら躱せる。つま先に力を込めた時、背後で身動ぎする気配に気づいた。
駄目だ。ここで避けたら、トラヴィスに当たる。
「ぐ……っ」
咄嗟に身を硬くした直後、右腕と左足に鋭い痛みが走った。吹き出した血が衣服を生温く濡らす感触に顔を顰めながら、気だるそうに己に視線を送ってくる男を睨みつける。
この男は今、明らかにわざと急所を外した。まるでこちらを嬲るかのように。
「出会ったばかりの人間をわざわざ庇うとは。あの悪魔のような男の息子とは思えない、とんだお人好しだ」
再び生み出した小さな水の玉を指先で弄びながら、ヘクターはそう言ってせせら笑う。
こいつ、今なんと言った? 悪魔のような男とは、父のことか。
「なぜ、ここで父の話になるんだ。お前は、私に恨みがあるんじゃないのか。……はっきり言って、恨まれるような覚えは無いが」
一言口をきく度に、じりじりと手足に痛みが走る。切れ切れに言葉を零すアランとは対照に、ヘクターの語り口はどこまでも流暢だ。
「恨まれる覚えがない? ああ……それはそうだろうな。別に俺は、お前を憎んでいる訳じゃない。ただ俺は、英雄様の大事な“家族”を、この手で滅茶苦茶にしてやりたいだけだ。……本当は、あの男の目の前で、お前をバラバラに切り刻んでやりたかった」
冷えきった口調とは裏腹に、その言葉尻は激情に震えていた。
アランは自らの立場や容姿のせいで、人々から恐れられ、疎まれる事には慣れていた。しかし、ここまで純然たる悪意に晒されたのは、これが初めての事だった。
憎しみというのは、こんなにも恐ろしい感情なのか。
「……この雨も、街道の土砂崩れも、お前の仕業なんだな。私を、おびき寄せるためか。なぜそこまでして……」
「英雄というものが、誰にとってもそうであるとは限らない」
「なに……?」
アランの戸惑いを切り捨てて、ヘクターが吐き出すように言う。
「二十数年前、俺は当時の妻と共に戦場にいた。この国とは違って、アスタルには魔術師は数える程しかいない。ゆえに、身重だった俺の妻まで、無理矢理戦場へと駆り出された。彼女は俺以上の使い手だったからな。国からすれば、休ませておくという選択肢は無かったんだろう」
抑揚なく紡ぎ出される言葉のひとつひとつに、傷口を深く抉られるような気がした。
嫌だ。その先は、聞きたくない。
「俺は、何を犠牲にしても……俺自身が死んでも、彼女だけは守るつもりでいた。……だが、俺は間に合わなかった。あの男は、俺の目の前で、殺した。彼女を、俺の、妻と子供を……!」
喉を裂くような叫びと同時に、ヘクターの足元の床が音を立てて砕けた。彼の怒りと共に溢れ出した水流が、鞭のように暴れ回って、部屋の中を破壊している。
アランは痛みを堪えながら一歩下がり、未だ気を失ったままのトラヴィスを庇った。これ以上ここに居るのは危険だ。だが、それならばどうする。
外は未だ雨が降り続いている。水を操るヘクターにとっては、周囲の全てが武器になる状況だ。そんな最中に怪我人を抱えて飛び出すのは自殺行為だろう。しかしそれは、この場に留まっていても同じ事だ。
視界が霞む。どうにも思考がまとまらない。血を失い過ぎた。
すぐそばのテーブルが弾け飛ぶ音と、鈍く響く痛みをどこか他人事のように感じながら、アランはこれから自分が取るべき行動を考えていた。
ヘクターは完全に我を失っている。今なら制圧するのもそう難しい事ではないだろう。だが……そう、きっと殺すつもりでかからなければ、次の瞬間倒れるのはこちらの方だ。
手のひらに汗が滲む。剣の腕を磨いてきたのは何のためだ? まさしく、今この瞬間のためなんじゃないのか。この状況でまだ、剣を抜く事を躊躇っているのは何故だ。
人を傷つける事が、その命を奪うという事がどれほど恐ろしい事か、まるで理解していなかったのだと思い知らされる。
戦も知らぬお坊ちゃん。本当に、その通りだ。
荒い息を吐きながら、ヘクターが顔をあげる。じっとりと濡れて額に貼りついた前髪の、その間から覗く瞳は煌々と光って、ある種異様な輝きを放っていた。
「アスタルでは、俺も彼女と共に死んだ事になっている。何もかもを捨てて、『英雄様』の領地で暮らすことを決めたのは、全て今日この日のためだった。あの男にも、俺と同じ絶望を味わわせてやるつもりで、お前を殺す機会を窺っていたのに……あの男は、くだらない病ごときで死んだ。家族に看取られて、民に慕われて、幸せなまま! 俺や彼女の事など綺麗さっぱり忘れたままで!!」
「…………っ?!」
突如、足元に溢れ出した水流に足を取られ、アランはその場に膝を着いた。
「くそ……っ、殺す……! お前、だけでも!!」
乾ききらない傷口から血が滲み出す感覚と、強烈な殺意に眩暈がする。まずい。トラヴィスだけでも、どうにか守らなくては。
ヘクターの背後で、天井につくほど巨大に膨れ上がった水流が、生き物のように脈打って、こちらを狙い定めるように見据えている。
それはまるで、いつか話に聞いた東洋の龍のようで。眼前に死を突きつけられているというのに、その光景はとても神秘的で、美しいとすら感じてしまう。
「ふ、ははは……っ、終わりだ! お前の守りたかったものは! 何もかも俺が壊してやる!!」
ヘクターの哄笑に応えるように、水の龍がその身を捩る。おそらくこの龍は、アランの体を全て喰らい尽くすまで止まらない。
霞む思考が、諦めに支配されかけたその時。
「愚か者が……」
聞き覚えのある男の声と共に、生温かい飛沫が吹き出して、アランの頬を濡らした。直後に鼻をつく、鉄錆びたような匂い。これは……血? アランの体から流れたものでは無い。では、一体誰の、
「がっ……ああああああっ?!」
耳を劈くような悲鳴に思考を断ち切られる。驚いて顔を上げた先には、予想だにしなかった光景が広がっていた。
「ああ、うるさい。なんて下品な悲鳴なんでしょうね……二度と口が聞けないように、喉笛ごと噛み千切ってやろうか」
床に倒れたヘクターの肩口に、黒い野犬が覆い被さり、その鋭い牙を突き立てている。この頬を濡らす血はヘクターのものだったのだと、ようやく気がついた。
いつの間にか雨は止んでいて、開け放たれた扉の向こうからは、眩しいほどの月明かりが差し込んでいる。暗闇に慣れきった目には強すぎる光の下、ヘクターを押さえつけた野犬が、その喉元に噛み付こうとしている光景が目に飛び込んできて、アランは考える前に叫んでいた。
「よせ、ウォルター! 殺すな!」
アランの声を聞いた野犬……ウォルターの耳が、ぴくりと震える。そして、いかにも不満そうな様子で、ヘクターから少し体を離した。
「貴方、この男に殺されるところだったんですよ。分かっているんですか」
「……その男には、聞かなければいけない事が山ほどあるだろう」
足を引きずりながら、ウォルターの元へ向かう。その言葉の半分は、言い訳だった。
目を逸らすアランを呆れたように見上げて、犬の姿をしたウォルターは、濡れた床に行儀良く座った。
「……ウォルター、お前は街の方へ戻ったんじゃなかったのか」
「ええ。アルテ嬢の体を借り続けるのは限界でしたのでね。とはいえ、貴方達だけに任せておくのも不安だったもので、お屋敷から馬をお借りして、街道の近くまで来たんです。この悪天候ですから、操るのにちょうどいい獣を探すのに少々手間取りましたが、来て正解でしたね。……貴方は一体、何をしていたんですか」
ヘクターの手から落ちた青い魔導石を踏みつけて壊しながら、ウォルターが鋭い目付きでアランを睨みつける。
「何を、って」
「剣を抜きもせずに、敵の前でただ黙って座り込んでいるだけとは。貴方は今まで何を学んできたんです? 無抵抗で殺されるだけの無能が我々の長とは、聞いて呆れますね」
心底失望したような声音に、反論する言葉も無い。実際ウォルターの言う通りだった。あの瞬間、殺すよりも、殺される方がマシだと、本気でそう思ってしまった。
役目も、責務も、その全てを投げ出したのだ、自分は。
何も答えられないアランを見上げる瞳には、明らかな侮蔑の色があった。いつものような軽口混じりの叱責すら無く、本当に呆れられてしまったのだという事が分かる。
「はあ……もう結構です。それよりダドリーはどこに? 姿が見えないようですが」
「あ、ああ……二階にいるらしい。この男とやり合って、やられたそうだ」
アランの答えに、ウォルターが深々とため息を吐いた。
「そうですか……本当に、無能ばかりで嫌になりますね」
ウォルターはそう吐き捨てて、こちらに背を向けた。
「馬鹿な部下は私が叩き起してきますから、貴方はそこでその男を見張っていてください」
そう言って、ウォルターは床に倒れたまま呻くヘクターに、ちらりと視線をやった。
「もう何も出来ないでしょうが、それでも逃げようとしたら、今度こそ確実に殺しなさい。これほどの使い手を、それも我が国に恨みを持つ者を逃がせば、次はこの程度では済まないかもしれない。少なくとも、貴方一人が死んで解決するような話ではない。……それくらいの事は、貴方にも理解出来ますね?」
「……ああ」
掠れた声でアランが答えると、ウォルターはもう何も言わなかった。そのまま去って行く足音を聞き届けて、アランは再びその場に膝をつく。その途端、目の前の男が零す苦しげな声が、耳に飛び込んできた。
「う、ぐ……リサ……すまない、リサ……」
リサというのが、彼の喪った妻の名前だろうか。
彼のこの怒りは、他人の物だとは思えなかった。もしも目の前で、彼女を誰かに奪われるような事があれば、アランとてどうなるか分からない。
けれど、この男を手にかけられなかった理由は、そんな同情や哀れみだけではない事も分かっていた。
先ほど街へと送り届けた、ヘクターの現在の妻を思い出す。ヘクターが彼女をどう思っているのかは知らないが、少なくとも彼女は、宿に残してきた夫のことを心から案じていた。もしもアランがヘクターを手にかけていたら、今度はアラン自身が、ヘクターの妻から激しい憎しみを向けられる事になっただろう。
何のことはない。ようするに自分はただ、悪者になるのが怖かっただけだ。
「……やっぱり、僕には無理です。貴方みたいには、なれない。……父上」
そう呟いて、目を伏せる。その遥か頭上で輝く月は、あまりにも眩しくて……あまりにも、遠過ぎた。
それは、一瞬の出来事だった。
瞳の奥深くを射るような鋭い輝きに、ほんの一瞬視界を奪われる。時間にすれば一秒未満。だが、ヘクターに……魔術の使い手にとっては、それだけで充分過ぎた。
アランが視界を取り戻した時、ヘクターの周囲には、いくつもの水流が生まれていた。それらはまるで、ひとつひとつが意志を持つかのように次々と形を変えて、ヘクターの周りを自在に飛び回っている。
だが、ヘクターが宝石……おそらくは魔導石を握り込んだ途端に、それらは一斉に同じ形をとった。細い帯のように伸びだした水流が幾重にも絡まり合い、鋭い槍のように尖っていく。
そしてその切っ先は、一直線にこちらを狙っていた。
それは、いつかの路地裏の少女を思い出させるような力だが、あの時とはまるで違う。対峙しているだけで背筋が凍るようなこの感覚。
この男の力には、明確な殺意が宿っていた。
「水というのは、とても便利な物でね。こんな狭い部屋の中なら、水没させてしまえば、何人いようが簡単に無力化できる。塊のまま投げつければ鈍器にもなるし、こうして細く尖らせれば、鋼鉄さえも切り裂く刃になる」
世間話のような話し口調と相反する、剥き出しの敵意。アランに向けられるそれらは、全てがどこまでもちぐはぐで、不気味だった。
暗がりでも分かる薄笑いを浮かべながら、ヘクターは手綱を引くような仕草で拳を振るった。
その手の動きを合図に、鋭利な殺意をまとった水の槍が、アランの方へ向けて放たれる。
「……っ」
この距離なら躱せる。つま先に力を込めた時、背後で身動ぎする気配に気づいた。
駄目だ。ここで避けたら、トラヴィスに当たる。
「ぐ……っ」
咄嗟に身を硬くした直後、右腕と左足に鋭い痛みが走った。吹き出した血が衣服を生温く濡らす感触に顔を顰めながら、気だるそうに己に視線を送ってくる男を睨みつける。
この男は今、明らかにわざと急所を外した。まるでこちらを嬲るかのように。
「出会ったばかりの人間をわざわざ庇うとは。あの悪魔のような男の息子とは思えない、とんだお人好しだ」
再び生み出した小さな水の玉を指先で弄びながら、ヘクターはそう言ってせせら笑う。
こいつ、今なんと言った? 悪魔のような男とは、父のことか。
「なぜ、ここで父の話になるんだ。お前は、私に恨みがあるんじゃないのか。……はっきり言って、恨まれるような覚えは無いが」
一言口をきく度に、じりじりと手足に痛みが走る。切れ切れに言葉を零すアランとは対照に、ヘクターの語り口はどこまでも流暢だ。
「恨まれる覚えがない? ああ……それはそうだろうな。別に俺は、お前を憎んでいる訳じゃない。ただ俺は、英雄様の大事な“家族”を、この手で滅茶苦茶にしてやりたいだけだ。……本当は、あの男の目の前で、お前をバラバラに切り刻んでやりたかった」
冷えきった口調とは裏腹に、その言葉尻は激情に震えていた。
アランは自らの立場や容姿のせいで、人々から恐れられ、疎まれる事には慣れていた。しかし、ここまで純然たる悪意に晒されたのは、これが初めての事だった。
憎しみというのは、こんなにも恐ろしい感情なのか。
「……この雨も、街道の土砂崩れも、お前の仕業なんだな。私を、おびき寄せるためか。なぜそこまでして……」
「英雄というものが、誰にとってもそうであるとは限らない」
「なに……?」
アランの戸惑いを切り捨てて、ヘクターが吐き出すように言う。
「二十数年前、俺は当時の妻と共に戦場にいた。この国とは違って、アスタルには魔術師は数える程しかいない。ゆえに、身重だった俺の妻まで、無理矢理戦場へと駆り出された。彼女は俺以上の使い手だったからな。国からすれば、休ませておくという選択肢は無かったんだろう」
抑揚なく紡ぎ出される言葉のひとつひとつに、傷口を深く抉られるような気がした。
嫌だ。その先は、聞きたくない。
「俺は、何を犠牲にしても……俺自身が死んでも、彼女だけは守るつもりでいた。……だが、俺は間に合わなかった。あの男は、俺の目の前で、殺した。彼女を、俺の、妻と子供を……!」
喉を裂くような叫びと同時に、ヘクターの足元の床が音を立てて砕けた。彼の怒りと共に溢れ出した水流が、鞭のように暴れ回って、部屋の中を破壊している。
アランは痛みを堪えながら一歩下がり、未だ気を失ったままのトラヴィスを庇った。これ以上ここに居るのは危険だ。だが、それならばどうする。
外は未だ雨が降り続いている。水を操るヘクターにとっては、周囲の全てが武器になる状況だ。そんな最中に怪我人を抱えて飛び出すのは自殺行為だろう。しかしそれは、この場に留まっていても同じ事だ。
視界が霞む。どうにも思考がまとまらない。血を失い過ぎた。
すぐそばのテーブルが弾け飛ぶ音と、鈍く響く痛みをどこか他人事のように感じながら、アランはこれから自分が取るべき行動を考えていた。
ヘクターは完全に我を失っている。今なら制圧するのもそう難しい事ではないだろう。だが……そう、きっと殺すつもりでかからなければ、次の瞬間倒れるのはこちらの方だ。
手のひらに汗が滲む。剣の腕を磨いてきたのは何のためだ? まさしく、今この瞬間のためなんじゃないのか。この状況でまだ、剣を抜く事を躊躇っているのは何故だ。
人を傷つける事が、その命を奪うという事がどれほど恐ろしい事か、まるで理解していなかったのだと思い知らされる。
戦も知らぬお坊ちゃん。本当に、その通りだ。
荒い息を吐きながら、ヘクターが顔をあげる。じっとりと濡れて額に貼りついた前髪の、その間から覗く瞳は煌々と光って、ある種異様な輝きを放っていた。
「アスタルでは、俺も彼女と共に死んだ事になっている。何もかもを捨てて、『英雄様』の領地で暮らすことを決めたのは、全て今日この日のためだった。あの男にも、俺と同じ絶望を味わわせてやるつもりで、お前を殺す機会を窺っていたのに……あの男は、くだらない病ごときで死んだ。家族に看取られて、民に慕われて、幸せなまま! 俺や彼女の事など綺麗さっぱり忘れたままで!!」
「…………っ?!」
突如、足元に溢れ出した水流に足を取られ、アランはその場に膝を着いた。
「くそ……っ、殺す……! お前、だけでも!!」
乾ききらない傷口から血が滲み出す感覚と、強烈な殺意に眩暈がする。まずい。トラヴィスだけでも、どうにか守らなくては。
ヘクターの背後で、天井につくほど巨大に膨れ上がった水流が、生き物のように脈打って、こちらを狙い定めるように見据えている。
それはまるで、いつか話に聞いた東洋の龍のようで。眼前に死を突きつけられているというのに、その光景はとても神秘的で、美しいとすら感じてしまう。
「ふ、ははは……っ、終わりだ! お前の守りたかったものは! 何もかも俺が壊してやる!!」
ヘクターの哄笑に応えるように、水の龍がその身を捩る。おそらくこの龍は、アランの体を全て喰らい尽くすまで止まらない。
霞む思考が、諦めに支配されかけたその時。
「愚か者が……」
聞き覚えのある男の声と共に、生温かい飛沫が吹き出して、アランの頬を濡らした。直後に鼻をつく、鉄錆びたような匂い。これは……血? アランの体から流れたものでは無い。では、一体誰の、
「がっ……ああああああっ?!」
耳を劈くような悲鳴に思考を断ち切られる。驚いて顔を上げた先には、予想だにしなかった光景が広がっていた。
「ああ、うるさい。なんて下品な悲鳴なんでしょうね……二度と口が聞けないように、喉笛ごと噛み千切ってやろうか」
床に倒れたヘクターの肩口に、黒い野犬が覆い被さり、その鋭い牙を突き立てている。この頬を濡らす血はヘクターのものだったのだと、ようやく気がついた。
いつの間にか雨は止んでいて、開け放たれた扉の向こうからは、眩しいほどの月明かりが差し込んでいる。暗闇に慣れきった目には強すぎる光の下、ヘクターを押さえつけた野犬が、その喉元に噛み付こうとしている光景が目に飛び込んできて、アランは考える前に叫んでいた。
「よせ、ウォルター! 殺すな!」
アランの声を聞いた野犬……ウォルターの耳が、ぴくりと震える。そして、いかにも不満そうな様子で、ヘクターから少し体を離した。
「貴方、この男に殺されるところだったんですよ。分かっているんですか」
「……その男には、聞かなければいけない事が山ほどあるだろう」
足を引きずりながら、ウォルターの元へ向かう。その言葉の半分は、言い訳だった。
目を逸らすアランを呆れたように見上げて、犬の姿をしたウォルターは、濡れた床に行儀良く座った。
「……ウォルター、お前は街の方へ戻ったんじゃなかったのか」
「ええ。アルテ嬢の体を借り続けるのは限界でしたのでね。とはいえ、貴方達だけに任せておくのも不安だったもので、お屋敷から馬をお借りして、街道の近くまで来たんです。この悪天候ですから、操るのにちょうどいい獣を探すのに少々手間取りましたが、来て正解でしたね。……貴方は一体、何をしていたんですか」
ヘクターの手から落ちた青い魔導石を踏みつけて壊しながら、ウォルターが鋭い目付きでアランを睨みつける。
「何を、って」
「剣を抜きもせずに、敵の前でただ黙って座り込んでいるだけとは。貴方は今まで何を学んできたんです? 無抵抗で殺されるだけの無能が我々の長とは、聞いて呆れますね」
心底失望したような声音に、反論する言葉も無い。実際ウォルターの言う通りだった。あの瞬間、殺すよりも、殺される方がマシだと、本気でそう思ってしまった。
役目も、責務も、その全てを投げ出したのだ、自分は。
何も答えられないアランを見上げる瞳には、明らかな侮蔑の色があった。いつものような軽口混じりの叱責すら無く、本当に呆れられてしまったのだという事が分かる。
「はあ……もう結構です。それよりダドリーはどこに? 姿が見えないようですが」
「あ、ああ……二階にいるらしい。この男とやり合って、やられたそうだ」
アランの答えに、ウォルターが深々とため息を吐いた。
「そうですか……本当に、無能ばかりで嫌になりますね」
ウォルターはそう吐き捨てて、こちらに背を向けた。
「馬鹿な部下は私が叩き起してきますから、貴方はそこでその男を見張っていてください」
そう言って、ウォルターは床に倒れたまま呻くヘクターに、ちらりと視線をやった。
「もう何も出来ないでしょうが、それでも逃げようとしたら、今度こそ確実に殺しなさい。これほどの使い手を、それも我が国に恨みを持つ者を逃がせば、次はこの程度では済まないかもしれない。少なくとも、貴方一人が死んで解決するような話ではない。……それくらいの事は、貴方にも理解出来ますね?」
「……ああ」
掠れた声でアランが答えると、ウォルターはもう何も言わなかった。そのまま去って行く足音を聞き届けて、アランは再びその場に膝をつく。その途端、目の前の男が零す苦しげな声が、耳に飛び込んできた。
「う、ぐ……リサ……すまない、リサ……」
リサというのが、彼の喪った妻の名前だろうか。
彼のこの怒りは、他人の物だとは思えなかった。もしも目の前で、彼女を誰かに奪われるような事があれば、アランとてどうなるか分からない。
けれど、この男を手にかけられなかった理由は、そんな同情や哀れみだけではない事も分かっていた。
先ほど街へと送り届けた、ヘクターの現在の妻を思い出す。ヘクターが彼女をどう思っているのかは知らないが、少なくとも彼女は、宿に残してきた夫のことを心から案じていた。もしもアランがヘクターを手にかけていたら、今度はアラン自身が、ヘクターの妻から激しい憎しみを向けられる事になっただろう。
何のことはない。ようするに自分はただ、悪者になるのが怖かっただけだ。
「……やっぱり、僕には無理です。貴方みたいには、なれない。……父上」
そう呟いて、目を伏せる。その遥か頭上で輝く月は、あまりにも眩しくて……あまりにも、遠過ぎた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
神様の忘れ物
mizuno sei
ファンタジー
仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。
わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】小さな元大賢者の幸せ騎士団大作戦〜ひとりは寂しいからみんなで幸せ目指します〜
るあか
ファンタジー
僕はフィル・ガーネット5歳。田舎のガーネット領の領主の息子だ。
でも、ただの5歳児ではない。前世は別の世界で“大賢者”という称号を持つ大魔道士。そのまた前世は日本という島国で“独身貴族”の称号を持つ者だった。
どちらも決して不自由な生活ではなかったのだが、特に大賢者はその力が強すぎたために側に寄る者は誰もおらず、寂しく孤独死をした。
そんな僕はメイドのレベッカと近所の森を散歩中に“根無し草の鬼族のおじさん”を拾う。彼との出会いをきっかけに、ガーネット領にはなかった“騎士団”の結成を目指す事に。
家族や領民のみんなで幸せになる事を夢見て、元大賢者の5歳の僕の幸せ騎士団大作戦が幕を開ける。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない
しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる