片月の怪

村井 彰

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第五章 それぞれのココロ

1話 彩人

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  僕という人間は、産まれて来ない方が良かったのかもしれない。

  だけど、こんな僕にも好きな人がいる。
  いつも一生懸命で、職場の人たちとも仲良しで、けれど瞳の奥にどこか暗い光を抱えている。そんな姿が、僕の大好きな兄に似ている気がして、すれ違う度にこっそり目で追っていた。
  ……そう、最初はただそれだけだった。
  それなのに、気づいた時には、目で追いかけるだけじゃ足りなくなっていた。話してみたい。触れてみたい。もっと、あの人のことが知りたい。そんなふうに考えるようになった頃に、ようやく自覚した。
  これは、恋なんだって。
  そこからは夢中だった。どうにかしてあの人に近づきたくて、無理やり言い訳を考えて、僕のそばに居てもらおうとした。あの人を手に入れたいって思った。
  それが、あの人の居場所を奪うことになるとも知らないで。

「はあ……」
  与えられた和室で一人膝を抱えていた僕は、何度目か分からないため息を零した。
  窓の向こうに見える空は曇っているし、部屋の中にあるのは必要最低限の家具だけ。ここは退屈だ。何にもないし、誰もいない。一人って、こんなに寂しいものだったっけ。
「にゃ」
  そんなことを考えた僕に抗議するように、サブローが小さく鳴いた。
「そうだね、ごめん。一人じゃないよね」
  爪先に擦り寄ってきたサブローを抱き上げると、僕はそのまま畳に寝転がって天井を見上げた。
  サブローがいてくれるおかげで孤独は感じないけど、何もしなくていいというのも、それはそれで辛いものだ。以前までなら、こういう時は適当な音楽を聴いて静寂をごまかしていたけど、あの人と暮らすようになってからそんな習慣もなくなってしまったし、今はこうして無為に時間を消費することしか出来ない。
  そうして、僕が天井を見上げながら無心にサブローを撫でていると、静かな時間をぶち壊すように、ドスドスとうるさい足音が聞こえてきた。
「おいチビ。毎日毎日ダラダラしやがって、ちっとはそれっぽく振る舞おうって気はねえのか」
  襖を開けてズカズカと入り込んで来た人の顔を見て、僕はまたため息を吐きたくなった。
「別に良いじゃないですか。今は誰も見てないし。あとその呼び方やめてくださいって何度も言いましたよね? 中堂さん」
「へいへい、そりゃあ悪かったなあ彩人クン」
  鬱陶しそうに言い捨てて、中堂さんは僕の目の前に胡座あぐらをかいた。ファッションなんだか単に汚れてるんだか分からない古いジーンズの膝がドアップになったのがイヤで、僕は慌てて体を起こす。サブローも警戒するように背中を丸めて、中堂さんから距離を取った。
「……それで、僕らはいつまでここに引きこもってたらいいんですか? そろそろ僕もサブローも退屈で死にそうなんですけど」
「生意気ばっか言いやがって。退屈くらいじゃ死なねえからしばらく猫と遊んでろ」
「ぐらいって言いますけど、もう五日もこうしてるんですよ? せめてその深都みくにさんて人に会えないんですか。僕にはその権利があると思うんですけど」
「深都は体調不良で寝てる。今は会えない」
「またそれですか……」
  僕がここを訪れて以来、中堂さんから返ってくるのはいつも同じ答えだ。そんなに体が弱い人の世話係をこの人が務めているなんて、最初は信じられない気持ちだったけれど、どうやら中堂さんはかなり甲斐甲斐しく世話を焼いているらしい。そもそも僕をしつこく勧誘していたのもその人のためだったんだから、きっと中堂さんにとってとても大切な人なんだろう。
「とにかく。深都の体調が落ち着き次第、幹部連中を集めて引き継ぎをする。それまでお前はここで大人しくしてろ。お前は新しい教祖サマなんだからな」
  教祖サマ……何度聞いても冗談みたいな響きで笑ってしまいそうになるけど、中堂さんは真剣だ。だから僕も、何も言わない。
──ピリリリリ
  その時、中堂さんの背中の方から、愛想のない電子音が聞こえてきた。
「深都さんですか?」
「おー」
  生返事をしながら、中堂さんはジーンズのお尻のポケットからスマホを取り出した。そして軽く画面を確認して、その場に立ち上がる。
「ちっと行ってくるわ」
  そう言って、中堂さんは僕らの方を振り返らずに部屋を出て行った。
  ああやって呼び出されるたびに、中堂さんは何を置いても深都さんの所へ駆けつける。中堂さんにそこまでさせる深都さんって、一体どんな人なんだろう。

  相里あいさと深都。新興宗教である『皓月會こうげつかい』の現教祖で、僕と拓人のような不思議な力を持っていて、中堂さんの大切な人。
  僕は、その人の身代わりになるために、自らの意思でここへやって来た。

  *

  猛さんに過去の話をした晩、僕はあの人の元を離れることを決意した。あの人には居たいと思える場所も、あの人を必要としている人も、ちゃんとある。僕なんかの勝手で繋ぎ止めていていい人じゃないんだって、分かったから。
  夜明け前、猛さんを起こさないようにベッドから抜け出して、サブローをそっと抱きかかえた僕は、その足で自分の部屋へと向かった。目的は、机の引き出しにしまいっぱなしにしていた名刺。初めて中堂さんに会った時に押し付けられたものだ。
「皓月會、中堂絢弥……」
  それ以外に書かれているのは、皓月會本部の所在地と電話番号だけ。けれど僕が確認したかったのは、その裏側に走り書きの文字で書かれたスマホの番号の方だ。
  これが、中堂さんと直接連絡を取るための唯一の手段。なんとなく捨てずに残しておいて良かった。
  名刺を大切に財布にしまって、僕は勢いのまま身支度を始めた。猛さんに気づかれないよう、こっそりと荷物を鞄に詰めて、まだ寝ぼけ眼のサブローをペット用のキャリーバッグに寝かせる。僕の勝手で連れ回して申し訳ないけど、おばあさんと約束したから、この子とは最後まで一緒にいるつもりだ。……なんて、本当は僕が寂しかっただけかもしれないけど。

  そうしてほとんど着の身着のままで飛び出した僕は、マンションから少し離れた場所にある公園前の公衆電話から、中堂さんに電話をかけた。どう考えても他人に連絡するには非常識な時間だったけど、迷惑ならこっちの方がかけられてるんだから気にしない。そもそもスマホが壊れて連絡出来ないのもあの人せいだし。
  しばらく無機質なコール音が続いた後、不意にそれが途切れて「……誰だ」と最悪に不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「中堂さんですか? 僕です、志条彩人です」
「……あン? どういうつもりだテメェ、こんな時間にわざわざかけてきやがって。苦情なら受け付けてねえぞ」
「いえ、そういう話じゃないんです。僕、中堂さんたちの所に行きたいんですけど、迎えに来てくれませんか」
「………………はあ?」
  僕が一方的に告げた用件に、中堂さんは裏返った声を上げた。当然だろう。だって、ついさっきあんなに無茶をして逃げ出した場所に、自分から戻ろうなんて。僕が中堂さんなら何を考えてるんだって思う。
「中堂さんに言われたこと、僕なりに考えてみたんです。僕と一緒にいても、猛さんには悪いことばっかりだから、離れた方がいいのかなって。でも僕には行く宛ても、他に頼れる人もいないので……それだったら、必要としてくれる人のところに行った方がいいと思ったんです」
「なぁにが『考えてみた』だ、オレがあんだけ言ってもガン無視してやがったくせに……さては、あのくそガキとケンカでもしたな」
「そういう訳じゃないですけど……まあ、そう思ってもらっていいです」
  詳しく説明する気にもなれなかったので、僕が素っ気なく話を打ち切ると、中堂さんは「フン」と電話越しに小さく鼻を鳴らした。
「言っとくが、途中でやっぱ止めたは通らねえぞ」
「分かってます。……僕なりに覚悟はしました」
  中堂さんに渡された名刺に書かれていた『皓月會』という組織について、僕も噂くらいは聞いた事がある。その筋ではかなり有名な新興宗教で、そこの教祖様の“お告げ”は、絶対に当たると言われているのだ。
  普通なら眉唾ものの嘘くさい話だけど、僕には、たぶんそれが本当のことなんだと分かる。きっとその教祖様にも、僕や拓人のような不思議な力があるんだ。そして、中堂さんはその人の代わりを必要としていて、それに僕が選ばれた。
「僕は、この力で皓月會の教祖の代わりを務めればいいんですよね?」
「そうだ。お前にゃ今の暮らしを全部捨ててもらうことになるが、その代わり衣食住は全部保障される。皓月會の本部はでけえ屋敷だ。そこを好きに使って良いんだから、そう悪い話じゃねえぞ」
  中堂さんは、そう言って引き攣れたように笑った。
  どうせ捨てるほど大した暮らしはしていないのだから、未練なんてない。大学は惰性で通っていただけだし、お母さんも、大学の人たちも、僕がいなくなったことを気に留めることはないだろう。
  猛さんは……きっと心配してくれるだろうけど、それでもすぐ忘れるはずだ。あの人には帰るところがあるんだから。だから……僕の方も忘れてしまえば、それで済む話なんだ。
「あー……そんじゃお前の気が変わらねえうちに迎えに行ってやる。今どこにいんだ」
「あ、住所言います。ええと……」
  それから、僕が公園のベンチに腰掛けてサブローと二人で待っていると、すぐに中堂さんが車で迎えに来てくれた。
  そうして辿り着いたのが、皓月會本部の看板を掲げる屋敷だったんだ。

  *

  これまでのことを思い出しながら、僕がまた畳に転がってサブローと遊んでいると、さっきよりも慌ただしくてうるさい足音が襖の向こうから聞こえてきた。
「おいチビ!」
  そして外れそうな勢いで襖が開いて、また中堂さんが顔を出した。
「なんですかもう。ちょっと落ち着いてくださいよ。あとチビじゃないし」
「うるせえ、んなこたどうでもいいからちょっと来い。深都が呼んでる」
「……えっ」
  驚いて目を見開く僕を無理やり立たせて、中堂さんがまた廊下に飛び出して行く。
「ちょ、ちょっと待って。サブローが」
「猫は置いてけ毛が散る」
  そう言った中堂さんが乱暴に襖を閉めると、その向こうから悲しそうなサブローの声が聞こえてきた。ああ、ごめんサブロー。すぐに帰ってくるから。
  そうやってサブローに謝る暇もなく、僕は中堂さんに引きずられるようにして、似たような襖が並んだ長い廊下を真っ直ぐに進んで行った。そしてその突き当たりを右に曲がると、そこは広い庭に面した縁側になっていた。縁側の障子と、座敷の襖を全て開け放ってしまえば、座敷の中にいながら庭を一望できそうだ。襖自体もなんだか高そうなデザインだし、明らかにこの屋敷で一番良い場所に見える。
「深都、入るぞ」
  そう言って、中堂さんは少し屈みながら襖に手をかけた。体の大きい中堂さんには、日本家屋はちょっと窮屈みたいだ。……猛さんもこういうところに来たら、鴨居に頭をぶつけちゃったりするのかな。そんなことを考えそうになって、僕は慌ててそのイメージを追い出した。早く忘れなきゃ。思い出しても悲しくなるだけだから。
「おいチビ、早く来い。……あー、その前に外で体叩いてからだ。お前猫の毛まみれだろ」
  中堂さんに捲し立てられて、僕はムッとしながらも、一応言われた通りにした。確かに中堂さんの言う通り、僕が着ている黒いポロシャツは、サブローの毛でまだら模様になっていたからだ。
  そうして一通り毛を落とした僕が覗き込んだ座敷は、僕が借りている和室よりずっと広くて、その真ん中にぽつんと敷かれた布団の上に、白い人が眠っていた。
  そう、その人は全身が真っ白だった。綺麗に切りそろえた髪も、ところどころ骨の浮いた肌も、病院着みたいな浴衣も。何もかもが、作り物みたいに白一色だ。
「深都。起きれるか」
  中堂さんは、そう言ってその人のそばに膝をつき、壊れ物を扱うような慎重な手つきでその人の頭の下に手を入れて、そっと優しく抱き起こした。
  この人、こんな丁寧な動作とか出来るんだ。
「おいチビ。お前なんか失礼なこと考えてねえか」
「いえ別に」
  中堂さんから目を逸らしつつ、僕も白い人……相里深都さんのそばに正座した。
「はじめまして、深都さん。志条彩人です」
  そう挨拶すると、深都さんは中堂さんに支えられたまま、ゆっくり目を開いて僕の方を見た。体と同じで、瞳もずいぶん色素が薄い。胡桃くるみのような色をした瞳を少し細めて、深都さんは笑った。
「はじめまして、彩人くん。ごめんね、突然呼び出した上にこんな格好で」
  その声を聞いて、僕は少し驚いた。深都さん、男の人だったのか。名前からして女性だと勝手に思っていた。見た目からはよく分からないけど、落ち着いた声の感じからして、中堂さんと同世代……三十歳前後くらいだろうか。意外と歳上だ。
「こら深都。このチビよりオレの方が大変だったんだぞ。何回も往復させやがって」
「絢弥はいいの。ぼくの言うこと、何でも聞いてくれるんでしょ」
  そう言って、深都さんは甘えるように中堂さんの胸元に頭を寄せる。なんだか分からないけど少し気恥ずかしくなって、僕は二人から目を背けた。
「ええと……それで、僕に何かご用だったんですか」
  微妙に目を合わせられないままで僕が訊ねると、深都さんが小さく笑う気配があった。
「用というか、君と話してみたかっただけなんだけど……まずはもう一度謝らないといけないよね。絢弥がずいぶん強引に連れて来てしまったみたいで、本当にごめんね」
「待てこら。こいつは自分からここに来たがったんだって言ったろうが」
「それまでに乱暴なことばっかりしてたんでしょ。ぼくに隠し事できると思わないで」
  中堂さんと話す時だけ、深都さんは子供のような口調になる。
「こんな傷まで作って……自業自得なんだからね」
「っせえな……」
  中堂さんの手の甲に残った、引き攣れたような傷痕を撫でて、深都さんはちょっと眉を寄せる。そして僕の方はと言えば……また余計なことを思い出してしまって、少し悲しくなった。
「まあ絢弥のことは、今はどうでもいいんだ。それより彩人くんの話を聞かせて欲しいな。君の持っている力のこととか、君の双子のお兄さんのこととか……一卵性双生児なのかな? 本当にそっくりだ」
「見えるんですか?」
  僕は驚いて声を上げた。拓人の姿が見える人になんて、今まで一人も出会ったことがないのに。
  そんな僕の問いに、深都さんは意味ありげに笑って答えた。
「今の君たちの姿が見えるわけじゃないんだけどね。ぼくに見えるのは……ううん、この体勢だと落ち着いて話せないね……絢弥、彩人くんと二人で話したいから出て行って」
「お前なあ……」
  中堂さんは呆れた声を上げたけど、特に文句は言わずに、深都さんの体をそっと布団に横たえた。この二人にとっては、こんなやり取りは日常茶飯事なんだろう。
「ねえ彩人くん、今晩はこの部屋で寝るといいよ。見ての通り場所はいくらでも余ってるし、そうすればゆっくり話せるでしょ? ……絢弥、あとで彩人くんの布団持ってきて」
  言われた通りに出て行こうとした中堂さんの背中に、深都さんが遠慮の欠片もない言葉をかける。
「それはこのチビにやらせろよ! こいつの面倒までみてやる義理はねえ」
「だめだよ。絢弥が連れて来たんだから、ちゃんとお世話しなくちゃ。ねえ彩人くん」
  僕は捨て犬か何かだと思われているのだろうか。けど、にこにこと微笑む深都さんを見ていたら何も言えない。
「ちっ……調子にのんなよチビ」
  中堂さんは僕をジロリと睨んで言い捨てると、乱暴に襖を開け放って、ドカドカと足音をさせながら出て行った。なんで僕が怒られないといけないんだろう。
「さあ彩人くん、もうちょっとこっちに来て」
  横になったままで、深都さんが右手を少し上げて手招きをする。僕は言われるままに深都さんのそばへにじり寄って、その白い顔を覗き込んだ。
「それじゃあさっそく聞かせてよ。君の話をね」
「……あまり楽しい話はできないと思いますけど」
「構わないよ。外の世界の話なら、どんなものでも興味があるから。……特に、恋の話は大好物だ」
  そう言って、深都さんはどこか妖しげな表情で笑った。
「……何でもお見通しなんですね。“千里眼せんりがんの深都様”」
「それがぼくの存在意義だからね。“言霊使いの志条兄弟”」
  静かに微笑む深都さんの瞳は、どこまでも底が知れなくて。
(一筋縄じゃいかなそうだな……)
  今日この日は、退屈とは程遠い一日になりそうだ。
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