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23話・Impact
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「あ、ああ…あのっ…!だ、だから…その…っ!」
「…犬童君さえっ…そ、そそそその…。よかったら…っ。」
…人生ってのは、何時何が起こるか解らない。
自分が思いもよらなかった出来事が何の前触れもなく起こって、その事態に直面して初めて人は”自分は物語の主人公なんだ…!”と自覚する。
俺は今まさに物語の主人公だった自分に気づき、赤面し慌てふためく女子と家の前で対峙していた。
「…付き合って下さいっ!」
「へ、へっへ返事は今じゃなくて、良いからっ!…これ、私の連絡先…っ!」
必死な様子で目を瞑った女子が、俺に向って両手を突き出す。
その手に小さくて可愛い模様の描かれたメモが握られていて、俺に受け取れと無言の圧を掛ける。
余りの勢いに一瞬身を竦め、そのリアリティの無い展開に頭が真っ白になってしまいそうで、頭を左右に振り喉が張り付いて出ない言葉の代わりにメモを受け取った。
「…気持ち、決まったら教えて…っ、く、下さいっ…!」
「そ、そそっそ、れじゃ…っ。」
そう言ってそそくさと去っていく女子の後ろ姿を呆然と見つめる。
見慣れた家の前の小さな道が、まるで知らない場所みたいに思えて…自分が自分の知っている犬童仁じゃないのかと思うくらい現実味がなかった。
手元に残ったメモを見ると、女の子らしい可愛い字体で電話番号が書かれていて、その下に小さく”大好きです”と添えられた一言が目に付く。
あぁ何か女子って、書く字まで女子なんだなぁ…なんて呑気にそんな事を思う。
愛の告白…漫画とかドラマでよく見るし、虎やカイルがされてたトコも何回も見た。
その度に告白って”主人公タイプの奴は体験するイベント”なんだなぁと思った気がする。
だから何時もさえない俺は主人公達にヤキモチを焼く側で、それをどこか他人事と言うか…自分には訪れないイベントだと信じて生きてきた。
「…俺…告られた…?」
口に出すといよいよ真実味が込み上げて来て、どうして良いか解らない。
手にしたメモから熱が伝わるようで、そこから一気に全身へ痺れに似た感覚が広がっていく。
突然他人に好意を向けられるって、こんなに衝撃的な事なのか…これは確かにショックが大きい、というか動揺で頭が上手く働かない。
決して嬉しい訳じゃない。…まぁ少しは嬉しいけど、それは俺が誰かに好意を抱かれるような価値のある男だったっていう自己顕示欲を満たしただけだし、そもそも俺には大事な恋人もいる訳だし。
…そう思いつつやっぱりこの事は衝撃で、地に足が着かない感じがして体がムズっとする。
「ちょっと。…玄関前で何やってんのアンタ。」
「へっ!?や、なんでもっ!?」
手に持ったメモを凝視したまま、どれくらいその場で突っ立って居ただろう。
急に頭上から声を掛けられ慌てて首を擡げた先に、機嫌の悪そうな姉ちゃんが立っていた。
俺はそんな姉ちゃんの登場に驚き、何故か突発的にメモを隠すように背後に腕を回す。
「…何隠したのよ、今。見せなさいよっ。」
「い、いやだ!ちょ、やめろって…!」
その行動を不審に思った姉ちゃんはお約束のようにそれを奪いにかかるので、俺は慌てて身を翻し華麗に姉ちゃんの手から逃げ出す。
しかし自分は女帝と信じて疑わず、自我を通す事に慣れた姉ちゃんはそれを良しとするわけもなく、尚も俺の隠したそれを奪わんと一層躍起になっている。
「っくそ!アンタ良い度胸してんじゃない。…私に逆らえると思ってるんだ?」
「そうじゃねぇし!だけど俺にだってプライベートってモンが…っ!」
…玄関の前で姉弟が取っ組み合って何をやっているんだろう。
けれどこのメモを姉ちゃんに見られたら、きっとこれから何ヶ月にも渡っていじられるだろうし、母ちゃんはお祝いだからと赤飯を炊いたり父ちゃんはきっと謎の性教育を始めるだろうし…なんやかんや考えて絶対取られてはいけないと本能が訴える。
「弟にプライベートなんかある訳ないでっ…しょ!!」
「逆にねぇ訳ねぇから…っ!!ちょ…やめっ!!」
「…じ、仁っ!」
そんな攻防を繰り返している俺はいつの間にか間近に迫った人影に一つも気づかず、突然降ってくる声に弾かれたように顔を上げる。
顔を上げた先、その視界の中で困惑したカイルが不器用な笑みを浮かべていて、俺はその時漸くカイルとの待ち合わせに30分遅れていた事に気付いた。
「あら?カイちゃんっ♥」
「こんばんは…。えっと、お邪魔しちゃって?すみません。」
「んふふ、良いのよ別に大した事じゃないし?ってかカイちゃん仁に用事?」
「あ…っ、カイルごめ…!ちょっと待って…っ!」
思わず動きを止めて、カイルに慌てて詫びを入れる。
すると姉ちゃんはさっきまでカイルに意識を向けていたくせに、俺の動きがぴたっと止まった事を確認するとその隙きを突き、俺が背後に回していた手からメモだけを器用に奪う。
俺が慌てて反応したものの…時既に遅かく、姉ちゃんは手に取ったメモに視界を移していた後だった。
「ちょ…!姉ちゃんマジそれは…!!」
「…え、アンタこれ、まさか女の子に告られた訳?」
姉ちゃんが俺から奪ったメモを見ながらそんな事を言うもんだから、俺は慌てて姉ちゃんの手からまたメモを奪い返そうとすると、もう必要ないと言わんばかりに姉ちゃんは自分からメモを手放し、つまらなそうにしている。
「いや、違うからっ!つか姉ちゃんに関係ねぇし!」
「だって大好きって書いてあんじゃん…えぇ…ありえない。アンタの事好きだなんて奇特な女の子も居たものね…。世も末だわぁ…ねーカイちゃん。」
俺が必死に抵抗する姿を見て欲求が満たされたのか、姉ちゃんは意地の悪い笑みを浮かべながらそう言って、俺の肩を二・三度軽く叩くとあっさり玄関への門を潜って行ってしまう。
敗北感に埋もれた俺がその後ろ姿を睨みつけて心の中で悪態をついていると、未だ意識を姉ちゃんの去って行った家に向けたままだった俺の腕が、思いっきり後方に引っ張られ慌てて身を翻す。
「…っっ、カイル!?」
「…仁、どう…いう、事?」
すっかり姉ちゃんに気を取られて居た俺は、視界に収まるカイルの視線の鋭さに思わず身を竦め、一瞬…そんなカイルに恐怖心を抱いた。
俺の手を強引に引いたカイルの指が腕に食い込んで痛みを感じ、さり気なくその手を払おうと試みるものの、カイルは一向に俺の腕を離そうとしない。
「えっ?あっ…いやっ!なんつーか。ってかカイル、痛ぇ…。」
「じゃあお姉さんが言ってたのって何?…俺にもそれ、見せて。」
「いや…っ、それは…っ。」
カイルの言葉に俺が思わず躊躇った素振りを見せると、カイルは俺の腕を掴む指の一本一本に力を込め、俺の言葉を無視しもと来た方向へ俺を引っ張るようにして歩みを進める。
そんな強引なカイルの姿に俺は慌てて幾つか質問を投げたけど、カイルがそれに応える事は一度も無かった。
引っ張られながら歩いている内、目的地はカイルの家だと解って内心ほっとしたけれど、斜め後ろからカイルがどんな表情をしているか確認する事も許されなくて、俺は重苦しい思いを引き摺りながら、カイルの歩調に合わせて歩みを進めた。
「ちょ…カイル…ッッ!?」
カイルに腕を引かれたままカイルの家に着いた俺は、自分の部屋に俺を引きずり込んだカイルに押し倒される様にベッドへ傾れ込んだ。
俺を見下すカイルの顔は、まるでヨーロッパの美術館で見るような綺麗な彫刻のようで、無機質で色の見えない両目が俺を射抜く。
…その瞳の中に映る自分の怯えた表情が滑稽で、カイルがそんな俺を見ても尚こんな事を続けている本意が解らなかった。
「…仁、その子にちゃんと言った?自分には好きな人が居るって。」
暫く見つめ合った後、カイルがぼそっと呟くように言う。
その言葉から大した怒りは伺えない…でも淡々と抑揚の無いカイルの言葉は敵を一刺しする槍のように鋭い切っ先を俺に向け、その意思が殺気として現れている。
「カイル…っ、!離せっ、って!」
俺はカイルに押さえつけられたままの両手首が痛く、殆ど悲鳴のように詰まる喉から無理矢理声を上げた。
けれどカイルは一向に体勢を変えようとはせず、まるで俺の言葉を鼻から無視しようとしているみたいだ。
「恋人が居るから…付き合えないって、言ったの?」
「言って、ねぇ…けど!あの時は突然だっ…たからっ…痛っ…!」
俺が否定したせいだろうか。その瞬間カイルは押さえつけた俺の両手首に体重を掛けるように圧迫しだし、俺は思わず喚声を上げてしまう。
カイルに押さえつけられた手首に、行き場を失った血液が渋滞して、指の先がひんやりと冷たくなっていく感覚がする。
こうやって肌を合わせているカイルにもその変化は伝わっているはずなのに、カイルはそんな事に構うつもりは無いのか、先程までとは一転して明確な怒りを纏った表情になり、俺を見つめていた目を見張るようにして大きく開いた。
「…なんでっ?なんで言わないのっ!?」
「だ、からっ…突然だったし…っ、俺あぁいうのも初めてでっ…!」
「じゃあ俺が初めに聞いた時…どうして隠そうとしたのさ…っ!?」
カイルが珍しく声を荒げ、その必死な形相に胸が痛む。
もしかしてカイルは女子に告られた俺に、嫉妬しているんだろうか?
それを俺が下手に隠そうとしたから?だから怒っているんだろうか。
押さえつけられた両方の手首で、脈の動きが大袈裟にドクンドクンと跳ねている。
その痛みは時間を追う毎に不思議と鈍くなり、指の先から掌に至るまでを凍らせるように冷やし、段々と感覚そのものを奪っていくようだった。
「そ…れっ、は…っ!」
痛みで声が上手く出せず、歪めた視界からカイルを見るので精一杯だ。
辛くて痛いのは俺の方だと思うのに、俺を見下ろしたままのカイルはふさふさと生い茂った睫毛の隙間から涙の玉を作り、それを俺の首元へポタポタと落とす。
「なんで…っ!仁は俺が…っ、好きっ、なんでしょ…っ!」
本気で怒ったカイルの顔を、今まで何人の人間が見ただろう。
少なくとも俺は今まさにそれが初めてで、カイルが今まで穏やかだったのは…ただ本気で怒りをぶつける程の出来事がカイルの身に起きなかっただけだと知った。
カイルの中にも…激昂する一面があって、それを引き出したのが自分だって事が辛い。
「ちがっ…カイル、聞い…。俺…お前、が好きだ、からっ。」
咄嗟の出来事だったとは言え、自分がカイルの中の何かのスイッチを押したのだと気付いた俺は、激しい感情を湛えるカイルを何とか落ち着かせようと途切れる言葉をやっとの思いで繋げる。
けれどそんな拙い俺の言葉がカイルを慰められる訳もなく、カイルは瞬き一つせず代わりに涙の粒を何個も降らせ、その度に俺の喉仏を滑らかに滑り落ちてシャツの襟を濡らした。
「…じゃあっ、どうして…っ。直ぐに俺と付き合ってる、って…言ってくれない、んだ、よ…っ。なんでっ…なんで…っ!」
俺の体に苦痛を与えるカイルが、悲痛な様子で俺に応えを乞う。
その情景が無性に胸を締め付けて呼吸をする度にギュウギュウと圧迫し、何かの歯車がかち合ってしまったら、張り付くように閉まった喉から内臓が全て出てしまうんじゃないかと思った。
だけど馬鹿な俺が今のカイルを納得させられる程、上手な台詞を吐ける訳でもなく、俺はカイルのなすがまま、ただただ茫然とする事しか出来ない。
「…一瞬でも、女の子に乗り換えちゃおうとか……思った?」
「…っっ、痛…っ。カ、イル…っ。違っ…そうじゃ、ねぇって…っっ!」
黙りこくった俺の意図を、カイルがどんな風に捉えたかは良く解った。
苦しそうに顔を歪めたカイルの表情が、カーテンコールの幕が降りる様に見る見ると無機質なそれへと変化する。
押さえつけられた手首に再度強い圧迫感を感じた後、そこにチクッと鋭い痛みが走り…カイルが掴んだ腕に爪を立てて居るんだろうと推測した。
「そんな事出来なくしてあげよっか…。ねぇ、仁。」
カイルはその整った顔にべったり張り付くような不敵な笑みを纏って、酷く冷え切った声でそう言った。
今まで聞いた事もないようなその低い音に身の毛がよだち、俺は全身が石化したみたいに固くなり、ついで呼吸まで苦しくなる。
「…っっはっ、い…いってぇ…っっ、やめ…っ!」
またカイルが爪を腕に食い込ませ、腕に再度鋭い痛みが走る。
その瞬間衝動的に全身に力が入り、馬乗りになるカイルを跳ね除けようと下半身をバタつかせたが、カイルの身体はビクともせず…それがまた俺の恐怖心を煽った。
カイルはそんな俺を無視するように淡い笑みを見せると、そのまま顔を近づけ今にも叫び出しそうだった俺の唇に噛み付くように深い深いキスをする。
カイルの唇が俺の唇を喰み、侵入する舌は乱暴に俺の口内を嬲った。
俺の萎える舌を一方的に吸い寄せ、その舌にわざと犬歯を当てながら時々下の歯で挟むようにする。
まさに身の毛がよだつとはこの事で、歯の当たった感覚は全身の毛という毛を逆立てて、体の芯から一瞬で凍結するような寒さを覚える。
その度に俺は塞がれた口からくぐもった声を漏らして、カイルの思惑通り見事に怯えきり、身体を激しく動かして抵抗を試みてしまう。
「ん…っ、んん…っ、っはぁ…やめぅ…んっ…!」
口内を甚振られ意識が目一杯の俺を気遣って、いつもの優しい穏やかな一面のカイルが時々息継ぎの機会をくれる。
だから俺はその機をなるべく逃さないように、カイルへの懇願を再開するのだが…止めてくれと短い文が完成する前にまた口を塞がれ、息継ぎの機会を逃した俺は目眩を感じながら薄っすらと涙を浮かばせる事が精一杯だ。
そんな俺を見てカイルは嬉しそうに笑顔を見せるので、俺は霞む視界の中のあの美しい顔を初めて…怖いと思った。
「…っん、乗り換えなんか、っは…ん、させない…っ。」
激しく攻め立てる様はひどく一方的で、それなのに時々見せる優しさで息詰まる俺に呼吸の間を与える。
唇が離れた瞬間大きな目を撓らせ華やかで幸せそうな笑みを作り、心底俺を愛しいと目で訴える。
…そんな姿のカイルはまるで、捕食動物を放り投げて甚振り遊ぶシャチだ。
「っはっ…カ、イル…っ!!」
何度も喰むようにキスをされ充分に俺の脳が酸素不足になった頃、カイルは突然唇から離れ…今度は首元に唇を這わせ、舌で頸動脈をなぞり始めた。
熱い舌が人間の急所に吸着するように張り付き、緩々と下に降りると舌によって齎せた熱が広がり、離れた瞬間すぐに消滅する。
俺は今まで味わった事のない鋭い感覚に思わず大きな声を上げ、全身が勝手に跳ねた事で、漸く両手の拘束から解放されて居た事に気付いた。
だけど…暫く血液が滞ったせいか感覚が鈍って上手く動かせない。
「んぁっ…やめ…っ!?」
俺の制止を相変わらず無視したカイルは首の動脈に舌を往復させた後、そこに噛み付くようにして歯を添わせた。
瞬間体が波を打つように強張り、微弱な痺れと共に甘い声が漏れそうで、必死に奥歯を食い縛って発声を我慢する。
カイルは俺の反応を楽しんでいるのか時々上目でこちらを確認しながら、相変わらず自身の行動を制止する様子は微塵もない。
首の筋に這わせた舌を引っ込め唇で覆い、そこを吸い上げたりまた舌で弄ったりして戯れを続けた後、面白がるみたいに犬歯を軽く肌に当てる。
瞬間俺の背筋は凍り、甘い焦れよりも一層明確な恐怖心を湧かせた。
…人間の急所とも言える柔らかい部位の皮膚に添わせた肉切り歯を、俺の反応を確かめるように少しずつ肌に埋めようとしている。
カイルの読めない行動に戸惑うものの、俺の感覚はそれに伴っていちいち鋭くなり、このままでは本当に首を食いちぎられるんじゃないかと恐怖心で頭が真っ白になった。
「やめ…っ、カイル…止め、…っろっ!!」
「…っっ!?」
気付けば俺はそう叫んで、俺の上に馬乗りになっていたカイルを両手で思いっきり突き飛ばしてしまっていた。
カイルからしたら不意の行動だったのもあるだろうけど、そうだったとしてもカイルを突き飛ばす程だから、俺自身も相当な力を込めていた事は明確だ。
しまった…っと俺が思う頃にはもう全てが遅かった。
俺に突き飛ばされたカイルは居た堪れない程に傷ついた顔をしていて、その見張ったままの双眸が不安気にユラユラと揺れている様を見て、そう思った。
「…っ、カ、イル…。ごめ…っ。」
「そ、そんなつもりじゃ…なかったんだ…っ。」
内心こんな酷い事を一方的にされた俺が、なんで自らカイルに詫びを入れているんだろう…なんて不思議にも思う。
だけどあんなにも不安に満ちたカイルの姿を見て、俺も動揺が隠せないでいる。
カイルが…好きだから、どうしてこんな事になったのかって今更ながらに考えてしまう。
どうしてカイルがこんな攻撃的になったのか、どうして俺はこんな辛い気持ちになっているのか、どうしてあんなにも悲しいキスしか出来なかったのか。
…色んな想いが駆け巡って、咄嗟に言葉が口を突いて出てきた。
それが今のカイルに対して、俺が掛けられる唯一の言葉だと本能的に感じたんだ。
「…仁、今日は…もう帰って。」
「えっ…でも俺まだ…っ。」
「ごめん…俺っ、このままじゃ仁に嫌われちゃう…っ!だ、から…今日は…っ。ごめ、ん…っ。」
カイルは俺に突き飛ばされて崩れた体勢のまま、視線を天井に投げて言った。
途切れながら紡がれた言葉は自嘲が混ざり、そして所々が上擦って聞こえる。
…帰れと言われてもその様子が俺の不安を掻き立てて、なかなかベッドを降りる気になれない。
「…カイル…。俺、ちゃんとあの子には断りを入れる、から。」
「…俺には、やっと振り向いてくれた大事な人が居るって…伝えるから。」
やっとの想いで口を衝いた俺の言葉に対し、カイルは黙ったまま頭を一度だけ縦に振る事で応えた。
それから少しの沈黙を挟んだけれど、結局カイルはそれ以上俺に構う事も無く…俺は複雑な思いを抱えたまま、カイルの家を後にすることになった。
「…いっ、ってぇ…。」
カイルの家を出て暫く、手首がピリっと痛み反射的に顔を顰める。
ふと自分の両手を空に掲げてみると、両手首が内出血で赤黒く染まり、拘束具を付けられた囚人のようで見窄らしく、少しでも何かが触れると腫れ物のように鋭い痛みを走らせるから、シャツを捲っていいやら隠せばいいのやら…解らない。
その患部を自分の目で見て漸く、その有様に背筋が凍る思いだ。
あの温厚なカイルがこんなにまで怒りを露わにしてしまう要因が、恋人の俺だったって事に…今になっても情けなくて、カイルに悪いし居た堪れない。
…まさかあの時の自分の行動が、普段穏やかなカイルをこんなにも混乱させる事になると思っても居なかった。
もちろん正真正銘、神様に誓って女子の告白を真に受けた訳じゃない。
カイルにも言ったように、ただただ初めての事に驚いて戸惑っていただけだ。
だけど逆を考えてみればきっと…俺も今のカイルの様に不安や不信感を抱くだろうし、俺があまりにも浅はかだったと思う。
俺は温度が戻った掌を握っては開き、そんな運動を何度か繰り返し感覚が戻った後、家族に見られたらマズイと思い直して、赤黒く腫れ上がった手首を袖に隠した。
まだ痛みは鮮明でそこがピリっと鋭く痛む度に、先程のカイルの傷ついた顔を思い浮かべて…どうする事が正解だったのか、どうすればこんな風に間違った選択をせずに済むのかを考えざるを得なかった。
外はすっかり真っ暗で、少ない街灯が照らす一角が白々しく見える。
それは女子に告られた時に浅はかな俺が自らを主人公だと錯覚した、その道化師っぷりに添えられるべき虚しい演出だからだ。
自分が誰かに求められる人間じゃないってずっと思って生きてきたけど、俺は長年の片思いを…しかもこんな歪で問題だらけの想いを受け入れてくれた人が居る。
本当はそれだけで充分自分が主人公だと自覚する案件だし、今はあんなに…俺を欲してくれる人が居るんだ。それ以外何が必要だったんだよって思う。
『…そう思う、よ。』
そう思うはずなのに張り詰めた気が少しでも緩めば、声を上げて泣いてしまいたい程、胸が詰まって苦しい。
本当は今すぐ立ち止まって、この苦しさを解消出来るまで泣き喚きたい。
でもそんな事したって何も変わらないだろうから、手首の痕を指でわざと刺激して電流の走るような痛みに耐え、なるべく胸の苦しさから目を背けて居ようと思った。
それから漸くの思いで家に帰ると、何の事情も知らない家は相変わらずの調子で。
母ちゃんが兄貴の為に作った手料理の残りを父ちゃんがつまみながら、観戦する野球中継の愚痴に付き合わされたり、母ちゃんの仕事の話しを片手間で聞かされたり…家に帰ってからも一人にはなれず、結局重たい気持ちを解消する事は出来なかった。
まぁ…晩御飯時に姉ちゃんの冷笑しを覚悟したけど、バイトで居なかった所は少し助かったんだけど。
『カイル…。』
心の中で何度その名前を呼んでも、返事をする奴は居ない。
そんな当たり前の事が、今日は何故か無性に悲しかった。
「…犬童君さえっ…そ、そそそその…。よかったら…っ。」
…人生ってのは、何時何が起こるか解らない。
自分が思いもよらなかった出来事が何の前触れもなく起こって、その事態に直面して初めて人は”自分は物語の主人公なんだ…!”と自覚する。
俺は今まさに物語の主人公だった自分に気づき、赤面し慌てふためく女子と家の前で対峙していた。
「…付き合って下さいっ!」
「へ、へっへ返事は今じゃなくて、良いからっ!…これ、私の連絡先…っ!」
必死な様子で目を瞑った女子が、俺に向って両手を突き出す。
その手に小さくて可愛い模様の描かれたメモが握られていて、俺に受け取れと無言の圧を掛ける。
余りの勢いに一瞬身を竦め、そのリアリティの無い展開に頭が真っ白になってしまいそうで、頭を左右に振り喉が張り付いて出ない言葉の代わりにメモを受け取った。
「…気持ち、決まったら教えて…っ、く、下さいっ…!」
「そ、そそっそ、れじゃ…っ。」
そう言ってそそくさと去っていく女子の後ろ姿を呆然と見つめる。
見慣れた家の前の小さな道が、まるで知らない場所みたいに思えて…自分が自分の知っている犬童仁じゃないのかと思うくらい現実味がなかった。
手元に残ったメモを見ると、女の子らしい可愛い字体で電話番号が書かれていて、その下に小さく”大好きです”と添えられた一言が目に付く。
あぁ何か女子って、書く字まで女子なんだなぁ…なんて呑気にそんな事を思う。
愛の告白…漫画とかドラマでよく見るし、虎やカイルがされてたトコも何回も見た。
その度に告白って”主人公タイプの奴は体験するイベント”なんだなぁと思った気がする。
だから何時もさえない俺は主人公達にヤキモチを焼く側で、それをどこか他人事と言うか…自分には訪れないイベントだと信じて生きてきた。
「…俺…告られた…?」
口に出すといよいよ真実味が込み上げて来て、どうして良いか解らない。
手にしたメモから熱が伝わるようで、そこから一気に全身へ痺れに似た感覚が広がっていく。
突然他人に好意を向けられるって、こんなに衝撃的な事なのか…これは確かにショックが大きい、というか動揺で頭が上手く働かない。
決して嬉しい訳じゃない。…まぁ少しは嬉しいけど、それは俺が誰かに好意を抱かれるような価値のある男だったっていう自己顕示欲を満たしただけだし、そもそも俺には大事な恋人もいる訳だし。
…そう思いつつやっぱりこの事は衝撃で、地に足が着かない感じがして体がムズっとする。
「ちょっと。…玄関前で何やってんのアンタ。」
「へっ!?や、なんでもっ!?」
手に持ったメモを凝視したまま、どれくらいその場で突っ立って居ただろう。
急に頭上から声を掛けられ慌てて首を擡げた先に、機嫌の悪そうな姉ちゃんが立っていた。
俺はそんな姉ちゃんの登場に驚き、何故か突発的にメモを隠すように背後に腕を回す。
「…何隠したのよ、今。見せなさいよっ。」
「い、いやだ!ちょ、やめろって…!」
その行動を不審に思った姉ちゃんはお約束のようにそれを奪いにかかるので、俺は慌てて身を翻し華麗に姉ちゃんの手から逃げ出す。
しかし自分は女帝と信じて疑わず、自我を通す事に慣れた姉ちゃんはそれを良しとするわけもなく、尚も俺の隠したそれを奪わんと一層躍起になっている。
「っくそ!アンタ良い度胸してんじゃない。…私に逆らえると思ってるんだ?」
「そうじゃねぇし!だけど俺にだってプライベートってモンが…っ!」
…玄関の前で姉弟が取っ組み合って何をやっているんだろう。
けれどこのメモを姉ちゃんに見られたら、きっとこれから何ヶ月にも渡っていじられるだろうし、母ちゃんはお祝いだからと赤飯を炊いたり父ちゃんはきっと謎の性教育を始めるだろうし…なんやかんや考えて絶対取られてはいけないと本能が訴える。
「弟にプライベートなんかある訳ないでっ…しょ!!」
「逆にねぇ訳ねぇから…っ!!ちょ…やめっ!!」
「…じ、仁っ!」
そんな攻防を繰り返している俺はいつの間にか間近に迫った人影に一つも気づかず、突然降ってくる声に弾かれたように顔を上げる。
顔を上げた先、その視界の中で困惑したカイルが不器用な笑みを浮かべていて、俺はその時漸くカイルとの待ち合わせに30分遅れていた事に気付いた。
「あら?カイちゃんっ♥」
「こんばんは…。えっと、お邪魔しちゃって?すみません。」
「んふふ、良いのよ別に大した事じゃないし?ってかカイちゃん仁に用事?」
「あ…っ、カイルごめ…!ちょっと待って…っ!」
思わず動きを止めて、カイルに慌てて詫びを入れる。
すると姉ちゃんはさっきまでカイルに意識を向けていたくせに、俺の動きがぴたっと止まった事を確認するとその隙きを突き、俺が背後に回していた手からメモだけを器用に奪う。
俺が慌てて反応したものの…時既に遅かく、姉ちゃんは手に取ったメモに視界を移していた後だった。
「ちょ…!姉ちゃんマジそれは…!!」
「…え、アンタこれ、まさか女の子に告られた訳?」
姉ちゃんが俺から奪ったメモを見ながらそんな事を言うもんだから、俺は慌てて姉ちゃんの手からまたメモを奪い返そうとすると、もう必要ないと言わんばかりに姉ちゃんは自分からメモを手放し、つまらなそうにしている。
「いや、違うからっ!つか姉ちゃんに関係ねぇし!」
「だって大好きって書いてあんじゃん…えぇ…ありえない。アンタの事好きだなんて奇特な女の子も居たものね…。世も末だわぁ…ねーカイちゃん。」
俺が必死に抵抗する姿を見て欲求が満たされたのか、姉ちゃんは意地の悪い笑みを浮かべながらそう言って、俺の肩を二・三度軽く叩くとあっさり玄関への門を潜って行ってしまう。
敗北感に埋もれた俺がその後ろ姿を睨みつけて心の中で悪態をついていると、未だ意識を姉ちゃんの去って行った家に向けたままだった俺の腕が、思いっきり後方に引っ張られ慌てて身を翻す。
「…っっ、カイル!?」
「…仁、どう…いう、事?」
すっかり姉ちゃんに気を取られて居た俺は、視界に収まるカイルの視線の鋭さに思わず身を竦め、一瞬…そんなカイルに恐怖心を抱いた。
俺の手を強引に引いたカイルの指が腕に食い込んで痛みを感じ、さり気なくその手を払おうと試みるものの、カイルは一向に俺の腕を離そうとしない。
「えっ?あっ…いやっ!なんつーか。ってかカイル、痛ぇ…。」
「じゃあお姉さんが言ってたのって何?…俺にもそれ、見せて。」
「いや…っ、それは…っ。」
カイルの言葉に俺が思わず躊躇った素振りを見せると、カイルは俺の腕を掴む指の一本一本に力を込め、俺の言葉を無視しもと来た方向へ俺を引っ張るようにして歩みを進める。
そんな強引なカイルの姿に俺は慌てて幾つか質問を投げたけど、カイルがそれに応える事は一度も無かった。
引っ張られながら歩いている内、目的地はカイルの家だと解って内心ほっとしたけれど、斜め後ろからカイルがどんな表情をしているか確認する事も許されなくて、俺は重苦しい思いを引き摺りながら、カイルの歩調に合わせて歩みを進めた。
「ちょ…カイル…ッッ!?」
カイルに腕を引かれたままカイルの家に着いた俺は、自分の部屋に俺を引きずり込んだカイルに押し倒される様にベッドへ傾れ込んだ。
俺を見下すカイルの顔は、まるでヨーロッパの美術館で見るような綺麗な彫刻のようで、無機質で色の見えない両目が俺を射抜く。
…その瞳の中に映る自分の怯えた表情が滑稽で、カイルがそんな俺を見ても尚こんな事を続けている本意が解らなかった。
「…仁、その子にちゃんと言った?自分には好きな人が居るって。」
暫く見つめ合った後、カイルがぼそっと呟くように言う。
その言葉から大した怒りは伺えない…でも淡々と抑揚の無いカイルの言葉は敵を一刺しする槍のように鋭い切っ先を俺に向け、その意思が殺気として現れている。
「カイル…っ、!離せっ、って!」
俺はカイルに押さえつけられたままの両手首が痛く、殆ど悲鳴のように詰まる喉から無理矢理声を上げた。
けれどカイルは一向に体勢を変えようとはせず、まるで俺の言葉を鼻から無視しようとしているみたいだ。
「恋人が居るから…付き合えないって、言ったの?」
「言って、ねぇ…けど!あの時は突然だっ…たからっ…痛っ…!」
俺が否定したせいだろうか。その瞬間カイルは押さえつけた俺の両手首に体重を掛けるように圧迫しだし、俺は思わず喚声を上げてしまう。
カイルに押さえつけられた手首に、行き場を失った血液が渋滞して、指の先がひんやりと冷たくなっていく感覚がする。
こうやって肌を合わせているカイルにもその変化は伝わっているはずなのに、カイルはそんな事に構うつもりは無いのか、先程までとは一転して明確な怒りを纏った表情になり、俺を見つめていた目を見張るようにして大きく開いた。
「…なんでっ?なんで言わないのっ!?」
「だ、からっ…突然だったし…っ、俺あぁいうのも初めてでっ…!」
「じゃあ俺が初めに聞いた時…どうして隠そうとしたのさ…っ!?」
カイルが珍しく声を荒げ、その必死な形相に胸が痛む。
もしかしてカイルは女子に告られた俺に、嫉妬しているんだろうか?
それを俺が下手に隠そうとしたから?だから怒っているんだろうか。
押さえつけられた両方の手首で、脈の動きが大袈裟にドクンドクンと跳ねている。
その痛みは時間を追う毎に不思議と鈍くなり、指の先から掌に至るまでを凍らせるように冷やし、段々と感覚そのものを奪っていくようだった。
「そ…れっ、は…っ!」
痛みで声が上手く出せず、歪めた視界からカイルを見るので精一杯だ。
辛くて痛いのは俺の方だと思うのに、俺を見下ろしたままのカイルはふさふさと生い茂った睫毛の隙間から涙の玉を作り、それを俺の首元へポタポタと落とす。
「なんで…っ!仁は俺が…っ、好きっ、なんでしょ…っ!」
本気で怒ったカイルの顔を、今まで何人の人間が見ただろう。
少なくとも俺は今まさにそれが初めてで、カイルが今まで穏やかだったのは…ただ本気で怒りをぶつける程の出来事がカイルの身に起きなかっただけだと知った。
カイルの中にも…激昂する一面があって、それを引き出したのが自分だって事が辛い。
「ちがっ…カイル、聞い…。俺…お前、が好きだ、からっ。」
咄嗟の出来事だったとは言え、自分がカイルの中の何かのスイッチを押したのだと気付いた俺は、激しい感情を湛えるカイルを何とか落ち着かせようと途切れる言葉をやっとの思いで繋げる。
けれどそんな拙い俺の言葉がカイルを慰められる訳もなく、カイルは瞬き一つせず代わりに涙の粒を何個も降らせ、その度に俺の喉仏を滑らかに滑り落ちてシャツの襟を濡らした。
「…じゃあっ、どうして…っ。直ぐに俺と付き合ってる、って…言ってくれない、んだ、よ…っ。なんでっ…なんで…っ!」
俺の体に苦痛を与えるカイルが、悲痛な様子で俺に応えを乞う。
その情景が無性に胸を締め付けて呼吸をする度にギュウギュウと圧迫し、何かの歯車がかち合ってしまったら、張り付くように閉まった喉から内臓が全て出てしまうんじゃないかと思った。
だけど馬鹿な俺が今のカイルを納得させられる程、上手な台詞を吐ける訳でもなく、俺はカイルのなすがまま、ただただ茫然とする事しか出来ない。
「…一瞬でも、女の子に乗り換えちゃおうとか……思った?」
「…っっ、痛…っ。カ、イル…っ。違っ…そうじゃ、ねぇって…っっ!」
黙りこくった俺の意図を、カイルがどんな風に捉えたかは良く解った。
苦しそうに顔を歪めたカイルの表情が、カーテンコールの幕が降りる様に見る見ると無機質なそれへと変化する。
押さえつけられた手首に再度強い圧迫感を感じた後、そこにチクッと鋭い痛みが走り…カイルが掴んだ腕に爪を立てて居るんだろうと推測した。
「そんな事出来なくしてあげよっか…。ねぇ、仁。」
カイルはその整った顔にべったり張り付くような不敵な笑みを纏って、酷く冷え切った声でそう言った。
今まで聞いた事もないようなその低い音に身の毛がよだち、俺は全身が石化したみたいに固くなり、ついで呼吸まで苦しくなる。
「…っっはっ、い…いってぇ…っっ、やめ…っ!」
またカイルが爪を腕に食い込ませ、腕に再度鋭い痛みが走る。
その瞬間衝動的に全身に力が入り、馬乗りになるカイルを跳ね除けようと下半身をバタつかせたが、カイルの身体はビクともせず…それがまた俺の恐怖心を煽った。
カイルはそんな俺を無視するように淡い笑みを見せると、そのまま顔を近づけ今にも叫び出しそうだった俺の唇に噛み付くように深い深いキスをする。
カイルの唇が俺の唇を喰み、侵入する舌は乱暴に俺の口内を嬲った。
俺の萎える舌を一方的に吸い寄せ、その舌にわざと犬歯を当てながら時々下の歯で挟むようにする。
まさに身の毛がよだつとはこの事で、歯の当たった感覚は全身の毛という毛を逆立てて、体の芯から一瞬で凍結するような寒さを覚える。
その度に俺は塞がれた口からくぐもった声を漏らして、カイルの思惑通り見事に怯えきり、身体を激しく動かして抵抗を試みてしまう。
「ん…っ、んん…っ、っはぁ…やめぅ…んっ…!」
口内を甚振られ意識が目一杯の俺を気遣って、いつもの優しい穏やかな一面のカイルが時々息継ぎの機会をくれる。
だから俺はその機をなるべく逃さないように、カイルへの懇願を再開するのだが…止めてくれと短い文が完成する前にまた口を塞がれ、息継ぎの機会を逃した俺は目眩を感じながら薄っすらと涙を浮かばせる事が精一杯だ。
そんな俺を見てカイルは嬉しそうに笑顔を見せるので、俺は霞む視界の中のあの美しい顔を初めて…怖いと思った。
「…っん、乗り換えなんか、っは…ん、させない…っ。」
激しく攻め立てる様はひどく一方的で、それなのに時々見せる優しさで息詰まる俺に呼吸の間を与える。
唇が離れた瞬間大きな目を撓らせ華やかで幸せそうな笑みを作り、心底俺を愛しいと目で訴える。
…そんな姿のカイルはまるで、捕食動物を放り投げて甚振り遊ぶシャチだ。
「っはっ…カ、イル…っ!!」
何度も喰むようにキスをされ充分に俺の脳が酸素不足になった頃、カイルは突然唇から離れ…今度は首元に唇を這わせ、舌で頸動脈をなぞり始めた。
熱い舌が人間の急所に吸着するように張り付き、緩々と下に降りると舌によって齎せた熱が広がり、離れた瞬間すぐに消滅する。
俺は今まで味わった事のない鋭い感覚に思わず大きな声を上げ、全身が勝手に跳ねた事で、漸く両手の拘束から解放されて居た事に気付いた。
だけど…暫く血液が滞ったせいか感覚が鈍って上手く動かせない。
「んぁっ…やめ…っ!?」
俺の制止を相変わらず無視したカイルは首の動脈に舌を往復させた後、そこに噛み付くようにして歯を添わせた。
瞬間体が波を打つように強張り、微弱な痺れと共に甘い声が漏れそうで、必死に奥歯を食い縛って発声を我慢する。
カイルは俺の反応を楽しんでいるのか時々上目でこちらを確認しながら、相変わらず自身の行動を制止する様子は微塵もない。
首の筋に這わせた舌を引っ込め唇で覆い、そこを吸い上げたりまた舌で弄ったりして戯れを続けた後、面白がるみたいに犬歯を軽く肌に当てる。
瞬間俺の背筋は凍り、甘い焦れよりも一層明確な恐怖心を湧かせた。
…人間の急所とも言える柔らかい部位の皮膚に添わせた肉切り歯を、俺の反応を確かめるように少しずつ肌に埋めようとしている。
カイルの読めない行動に戸惑うものの、俺の感覚はそれに伴っていちいち鋭くなり、このままでは本当に首を食いちぎられるんじゃないかと恐怖心で頭が真っ白になった。
「やめ…っ、カイル…止め、…っろっ!!」
「…っっ!?」
気付けば俺はそう叫んで、俺の上に馬乗りになっていたカイルを両手で思いっきり突き飛ばしてしまっていた。
カイルからしたら不意の行動だったのもあるだろうけど、そうだったとしてもカイルを突き飛ばす程だから、俺自身も相当な力を込めていた事は明確だ。
しまった…っと俺が思う頃にはもう全てが遅かった。
俺に突き飛ばされたカイルは居た堪れない程に傷ついた顔をしていて、その見張ったままの双眸が不安気にユラユラと揺れている様を見て、そう思った。
「…っ、カ、イル…。ごめ…っ。」
「そ、そんなつもりじゃ…なかったんだ…っ。」
内心こんな酷い事を一方的にされた俺が、なんで自らカイルに詫びを入れているんだろう…なんて不思議にも思う。
だけどあんなにも不安に満ちたカイルの姿を見て、俺も動揺が隠せないでいる。
カイルが…好きだから、どうしてこんな事になったのかって今更ながらに考えてしまう。
どうしてカイルがこんな攻撃的になったのか、どうして俺はこんな辛い気持ちになっているのか、どうしてあんなにも悲しいキスしか出来なかったのか。
…色んな想いが駆け巡って、咄嗟に言葉が口を突いて出てきた。
それが今のカイルに対して、俺が掛けられる唯一の言葉だと本能的に感じたんだ。
「…仁、今日は…もう帰って。」
「えっ…でも俺まだ…っ。」
「ごめん…俺っ、このままじゃ仁に嫌われちゃう…っ!だ、から…今日は…っ。ごめ、ん…っ。」
カイルは俺に突き飛ばされて崩れた体勢のまま、視線を天井に投げて言った。
途切れながら紡がれた言葉は自嘲が混ざり、そして所々が上擦って聞こえる。
…帰れと言われてもその様子が俺の不安を掻き立てて、なかなかベッドを降りる気になれない。
「…カイル…。俺、ちゃんとあの子には断りを入れる、から。」
「…俺には、やっと振り向いてくれた大事な人が居るって…伝えるから。」
やっとの想いで口を衝いた俺の言葉に対し、カイルは黙ったまま頭を一度だけ縦に振る事で応えた。
それから少しの沈黙を挟んだけれど、結局カイルはそれ以上俺に構う事も無く…俺は複雑な思いを抱えたまま、カイルの家を後にすることになった。
「…いっ、ってぇ…。」
カイルの家を出て暫く、手首がピリっと痛み反射的に顔を顰める。
ふと自分の両手を空に掲げてみると、両手首が内出血で赤黒く染まり、拘束具を付けられた囚人のようで見窄らしく、少しでも何かが触れると腫れ物のように鋭い痛みを走らせるから、シャツを捲っていいやら隠せばいいのやら…解らない。
その患部を自分の目で見て漸く、その有様に背筋が凍る思いだ。
あの温厚なカイルがこんなにまで怒りを露わにしてしまう要因が、恋人の俺だったって事に…今になっても情けなくて、カイルに悪いし居た堪れない。
…まさかあの時の自分の行動が、普段穏やかなカイルをこんなにも混乱させる事になると思っても居なかった。
もちろん正真正銘、神様に誓って女子の告白を真に受けた訳じゃない。
カイルにも言ったように、ただただ初めての事に驚いて戸惑っていただけだ。
だけど逆を考えてみればきっと…俺も今のカイルの様に不安や不信感を抱くだろうし、俺があまりにも浅はかだったと思う。
俺は温度が戻った掌を握っては開き、そんな運動を何度か繰り返し感覚が戻った後、家族に見られたらマズイと思い直して、赤黒く腫れ上がった手首を袖に隠した。
まだ痛みは鮮明でそこがピリっと鋭く痛む度に、先程のカイルの傷ついた顔を思い浮かべて…どうする事が正解だったのか、どうすればこんな風に間違った選択をせずに済むのかを考えざるを得なかった。
外はすっかり真っ暗で、少ない街灯が照らす一角が白々しく見える。
それは女子に告られた時に浅はかな俺が自らを主人公だと錯覚した、その道化師っぷりに添えられるべき虚しい演出だからだ。
自分が誰かに求められる人間じゃないってずっと思って生きてきたけど、俺は長年の片思いを…しかもこんな歪で問題だらけの想いを受け入れてくれた人が居る。
本当はそれだけで充分自分が主人公だと自覚する案件だし、今はあんなに…俺を欲してくれる人が居るんだ。それ以外何が必要だったんだよって思う。
『…そう思う、よ。』
そう思うはずなのに張り詰めた気が少しでも緩めば、声を上げて泣いてしまいたい程、胸が詰まって苦しい。
本当は今すぐ立ち止まって、この苦しさを解消出来るまで泣き喚きたい。
でもそんな事したって何も変わらないだろうから、手首の痕を指でわざと刺激して電流の走るような痛みに耐え、なるべく胸の苦しさから目を背けて居ようと思った。
それから漸くの思いで家に帰ると、何の事情も知らない家は相変わらずの調子で。
母ちゃんが兄貴の為に作った手料理の残りを父ちゃんがつまみながら、観戦する野球中継の愚痴に付き合わされたり、母ちゃんの仕事の話しを片手間で聞かされたり…家に帰ってからも一人にはなれず、結局重たい気持ちを解消する事は出来なかった。
まぁ…晩御飯時に姉ちゃんの冷笑しを覚悟したけど、バイトで居なかった所は少し助かったんだけど。
『カイル…。』
心の中で何度その名前を呼んでも、返事をする奴は居ない。
そんな当たり前の事が、今日は何故か無性に悲しかった。
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