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【第3章】仏才国にて
【第2話】悪魔は記憶を損ねる
しおりを挟む「…………また夢か」
以前の森とは違い、静かな夜の平原に立っている。
夢だというのに風を感じる。夜空には満月があり、微かに虫の音が聞こえてくる。
意識と感覚の明瞭さに、夢は夢でもここは夢路なのだと判断した。
「こんばんは」
後ろからの声に振り返る。そこには、白衣姿の女性がワゴンを押して立っていた。
無造作に伸ばした黒髪が風に揺れている。
「……こんばんは」
「こんなところでどうされました?」
のほほんとした様子で尋ねつつ、ティーカップを手に悠々と紅茶を注ぐ。
「君こそ、こんなところでお茶会?」
ミゼルスの問いに「ふふ」と、笑みを零す。
「だって良いお天気じゃないですか。私の国では滅多に見られない、綺麗なお月様です」
空に浮かぶ満月を見上げながらカップへと口付ける。
「……私はミゼルス=マイアープ=アヴィメント。貴女のお名前は?」
改まって尋ね直したミゼルスに、白衣の女性は優しく微笑んだ。
「李仙琳と申します。自分から名乗るなんて、ミゼルスさんって礼儀正しい人なんですねぇ」
「これでも貴族のはしくれだからな。礼儀はそれなりに」
「エラいですねぇ」
「どうも。シェンリンも夢を見ているの?」
「夢? ……ああ、やっぱりここ夢路だったんですね? 私ったら、また道を間違えちゃったんですねぇ」
「道を間違えた?」
「偶にやっちゃうんですよねぇ。私が働いてるところ、魔界なのですぐに迷い込んじゃうんですよう」
────魔界。
それを聞いて、ミゼルスは珍しく心配をした。
「……えっと、それ大丈夫? この後ちゃんと仕事場に戻れる?」
「ご心配ありがとうございます。ミゼルスさんって優しいんですねぇ」
自分より他人の心配だなんてと、わざとらしくおどけてみせる。
「大丈夫ですよう。魔界ってホントに不思議なところで、迷っても一周して元の場所に戻っちゃうんです。目的地まで無駄に遠回りさせられる以外は無害ですねぇ」
「そ、そうなのか。それは良いけど傍迷惑だな?」
「仰る通りで。今だって私の雇い主様にお茶を届ける途中だったんですよう? 魔術のおかげで保温は効きますけど、それとこれとは別と言いますか。私としては出来たてをお届けしたいです」
むう、と口を尖らせつつ、彼女は再び口元へカップを運んだ。
「……それなら全部飲まないように気を付けないと」
ミゼルスに言われてピタリと動きを止める。
「あら、私ったらつい」
悪戯っぽく笑い、カップを下ろす。
仕草の一つ一つが、どことなく子どもっぽいなとミゼルスは思った。
「シェンリンって幾つ? 若く見えるけど、私よりは歳上だよね?」
「うーん、そうですねぇ。この姿は二十五、六歳くらいですかね? 実年齢は長生きし過ぎて思い出せないですけど……たぶん、そろそろ百歳は行ってる、かなぁ?」
その答えを聞いてミゼルスは驚かなかった。
なるほどと、得心がいった面持ちで一人頷く。
「不老不死か。精霊もしくは悪魔と契約でもした?」
「わぁすごい。よく分かりましたね」
嬉しそうに顔を輝かせる。
「私の夫、悪魔なんです。とても寂しがり屋さんなんです。だから心臓を半分ずつ交換して、ずっと一緒に居られるようにしたんですよう」
「なにそれ重っ! 予想以上にエグい回答だなオイ!」
「そうですかぁ? 割と平和的な契約だと思いますけど」
ニコニコと、シェンリンは夫だという悪魔のことを嬉しそうに話した。
「よく無表情だとか、冷血漢だなんて言われちゃうんですけど、すごく素直で優しいんですよう。本当に悪魔なのか疑わしい限りです」
「それを君が言っちゃうのか」
「他の悪魔さんもなかなか良いひとたちですよ? 皆さん、身内だから優しくして下さるのかもしれませんが」
「……シェンリンって魔界に住んでたりする?」
「あれ、言ってませんでしたっけ? 職場兼住所ですよ?」
「いや、何となくそうかなぁとは思ったけど……」
ていうか。
「シェンリン、それ上司に届けないといけないんじゃないの? ここで道草食ってて大丈夫?」
「…………あ、そうでした!」
「いや、気付くの遅!」
慌てた様子でワゴンの持ち手に手をかける。
「ミゼルスさん! 北東ってどっちですか!?」
「ええっと……あっちだな。三つ並んでる塔があるだろ? あれがちょうど北東の位置にある」
「どうもです!」
ガラガラとワゴンを押し始め、さようならー!と声高に叫びながら走り去っていく。
「転ぶなよー? ばいばーい」
手を振って見送っていると次第に視界がぼやけてくる。
「そろそろ夜明けか」
不明瞭になる景色を追い出すように目を閉じて、覚醒に備える。
「……シェンリンが合いの子の母親か。このタイミングで私に会わせた意図は何だ? 悪魔と人間に情が湧いて、私が絆されるとでも思ってんのか」
馬鹿馬鹿しいなと嗤う。
「それなら、利用させてもらおうかなぁ?」
クツクツと、不穏な笑い声を零しながら目覚めに向けて落ちていく。
────夜明けまで、あともう少しだ。
◇ ◆ ◇
机上に散乱した資料に、山積みとなった案件。
それらをサクサクと捌きながら、秘書たる彼女はそっと主を盗み見た。
黒い貌。頭を巻く焔帯。服の袖から出ている銀の翅。
それから、色濃く漂う疲労の気配。
「陛下、お疲れですよね?」
「疲れてない」
「本当に、本当にですか?」
「……」
「嘘ついたら嫌ですよう。さっきから手が止まってます。休憩にしましょうね」
「いやしかし」
「ダメですよう。ほら、ペンを離してください」
さっと主からペンを奪い、代わりにソーサーに乗せたティーカップを手渡す。
「今から煎れて来ます。少々お待ちくださいね」
「……うん」
パタパタと忙しなく執務室から出て行く。
閉まりかけた扉。その僅かな隙間から青白い手がガツリと音を立てて扉を掴み、開け放つ。
「……我が王、ただいま帰りました」
緋色の髪をした悪魔が部屋へと入り込む。
歩き方が覚束無い。フラフラとした足取りで歩み寄り、魔王の前に跪く。
「おかえりスペキュラ。どうしたその様は」
「勧誘に、しくじりました」
「……まだそんなことをしているのか、貴様は」
「恐れながら我が王、それが私の使命でございます」
「何が使命か。私の仕事が増えるだけだというのに。相変わらず迷惑な奴だ」
それでと、緋色の悪魔に問い質す。
「随分手酷く追い返されたようだな。回復までに余程時間がかかったと見える。誰にやられた」
「夢路を介しての接触ゆえ、真名を聞くことは叶いませんでしたが……マレフィカス・ブルート、と」
マレフィカス・ブルート。
その名をスペキュラが口にした瞬間、部屋に膨大な圧がかかった。
「ぐっ……!」
「……マレフィカス・ブルート、だと?」
焔帯が大きく翻り、火花が散る。
机上のものに燃え移り、一瞬にして灰へと変えた。
「あの忌まわしき《人でなし》に会ったのか。そして事もあろうに、悪魔に勧誘したと? 愚かな! お前でなければ消し炭にしているところだ……!」
「わ、我が王……?」
今までにない怒りを露わにする主君に、スペキュラは気圧されて動くことができない。
「いいか、その者には二度と近付くな。あれは人であって人ではない。悪魔よりも悪魔らしい────いや、我ら悪魔なんぞ、あれに比べれば生易しい」
魔王は執務机に乗り上げる。床に座り込むスペキュラの頭を、銀翅の手を巻き付かせて掴み上げた。
「な、何をっ……」
「もうあれを思い出すな。思い出させるな。記憶を消してやる。阻害の術を掛けてやる。あれへの接触は、今後一切許されない────」
銀翅が白く眩く光り、緋色の悪魔を焦がした。
もう二度と、その口が災いの名を紡がぬように。
「戻りました~。あれ? スペキュラさんじゃないですか。おかえりなさーい」
「ただいまシェンリン殿。おや、ティータイムですか。私にも一杯頂けますかな?」
「もちろんですよう。はいどうぞ、カップをお持ちになってくださいね~」
それからふと焦げ付いた机上のものを見て、秘書は「あー!」と片眉を上げて怒り出す。
「もう、陛下! また燃やしちゃったんですかぁ?」
「ごめんなさい」
「仕方の無いひとですねぇ~。原本からまた印刷してくるので、そこからまた仕切り直しです! いいですね?」
「うん」
「まったく陛下ったら~。はい、お茶ですよう」
「ありがとうシェンリン」
「どういたしまして~」
緩く笑う彼女に、先程まで猛っていた気持ちもだいぶ和らいだ。
取り繕い損ねた感情の炎鱗が小さく跳ねて床に落ちるが、燃え広がる前に踏み消した。
そして魔王は考えを巡らせる。
────マレフィカス・ブルート。
あの忌々しい《人でなし》が、よりによってこの世界に転生している。
早く手を打たなければ。【災厄】を齎すあの存在を、このまま野放しにしておくわけにはいかない。
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