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第一章 狂気の沙汰も、また恋なり
其の一:狂気の沙汰も、また恋なり
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ちょうど、都市郊外にガスや水道などを完備した、文化住宅があちらこちらと顔を出し始めたころの話。それでもまだ、地方はかまどで飯を炊いていたようである。
ひゅう、と冷たい空気をはらんだ風が開け放っていた六畳ほどの室内の格子窓を抜けて、部屋へと入り込んできた。季節は夏から秋へかけて。渡りかけているその季節をなんと呼ぶのかは知らないが、初秋とでも言っておこう。
昼間は嫌というほど蒸されていた空気が、夕刻になるとひやりと冷える。男は思わず身震いをして、軽く肩に掛けていただけの合わせに袖を通した。冷たい風から自身の身体を守るようにそっと、緩んで解けてしまわないようにときつく紐を結んでおく。ついでに、風が通るようにと昼間には開け放っておいた、庭に面した廊下との硝子戸も閉めた。
すう、と独特の音と共に閉めた障子の向こうからは、音からして冷たいだろうと想像し易い風の啼く音がうすらと響き、ますます肌に沸いた鳥肌を深めていく。ぶるりとする身震いは冷えた風で身体の芯が冷やされた証拠だ。
ざぁ、と風になびく庭木の、木の葉の散り往く姿を思い描いては深々と息を吐き、明朝すべきことを決められたかのような気分になった。そういえば、庭箒(にわぼうき)はどこへしまってしまっただろうかと、不意に思う。確か玄関に置いておいたつもりだったが、と今しがたまで向かい合っていた文机からのそりと身体を起こした。
そうして、はたと壁に掛けられた時計へと目を向けると、そろそろ編集さんがこちらへやってくる時間だと気が付いて、仕方なくもう一度文机に向かう。傍らに置いてあったランプに明かりを灯すと、仰々しく腕組をして考え込んだ。
今度は別のため息を深く吐き出して、渋々と筆を取った。指先で筆をもてあそびつつ、男は手を伸ばしてインク壷のふたをねじ開ける。万年筆独特のペン先をインク壷の中にぽちゃりと浸けると、白紙のままの原稿用紙へと目を落とした。
さてさて、いったい何を書こうか。そう考えるような素振りを見せたまま、狸寝入りでもしているのかと疑いたくなってしまうかのようにぴくりとも動かず。
そのまましばし、固まってしまったこの茫洋とした男、実は小説家なのである。
小説家とはその名に似合わぬ体躯(たいく)をしていた。乱れた黒髪に無精髭で、どこぞの用心棒でもしているのではないかと思われてしまうことも、ままある。そのわりにどこか茫洋としていて、掴みどころがなく、そのくせ、少々気弱な発言をする。
幽霊という単語を聞いただけでも冷や汗を流し、その話は止めてくれ、と懇願するほどである。
いつもは黙っていても筆は動くものだと豪語して憚らないこの男、今回ばかりは少々「すらんぷ」に陥っているようだった。余計なことに気が向く辺り、どうにも本腰が入っていないように見える。今もまた、物語を考える振りをして、うつらうつらと眠り入っているのかも知れぬ。
一重の瞳はしっかりと閉じられて、うっすらとも開かない。ゆらゆらと揺れるその頭は、なにを考えているのか想像も付かないところである。筆も進まぬ、締め切りは来る。原稿取立ての編集ももうじき来る。
はてさて今度はどうやって切り抜けようか、と、そういったことしか思いつかないのかこの男は、風が連れて行く木の葉が奏でる音にじっと耳を澄ませた。
実際に聞こえてくるその音に身を投じてぼんやりと、自身の中へと吸い込まれていく。しばらくそうした後、男はひたりと筆を走らせた。どうやら、「すらんぷ」は抜け出すことができるらしい。
ざぁ、と風が木の葉を攫(さら)っていく。男の思考もそれに攫(さら)われるかのように、どこか遠く、物語の中へと囚われていった。朦朧とした幻想の奥にちらりちらりと見え隠れる人陰は、今回の登場人物であろうか。陽炎のようにゆらゆらと現れては消えて、また現れる。次第にそれは明確な人物と成り得ていって、この男の思考を誘(いざな)ってしまうのは容易なことだった。
***(荻窪の怪談)
黄色い小鳥の、きれいな歌声が響き渡っていた。
独逸から輸入されたというこの小鳥は「かなりや」というらしい。
輸入を生業にしている男の妻が、海外で見つけた際に惚れ込んでしまったのだ。日本に戻ったときに売っていたら買ってやろう、そう約束したが、初秋に帰国した際、たまたま店先に売っていた、と妻にねだられた。
約束だからな、と仕方のない風を装って、鳥籠やらなにやらまとめて買ってやったが、よほど気に入ったのか毎日眺めている。
こんなに可愛い小鳥がいたのね、と嬉しそうに微笑む妻は、結婚して五年、いまだ子はできなかったが、それでも男も満足していた。
ただ、男の生業は輸入販売業。
どうしても家を空けることが多く、日々多忙を極めていた。
このかなりやは、雄だという。
よく鳴くきれいな声は雄の特徴なのだそうだ。
そう言われれば、鳥の世界では雄のほうが華やかできれいな歌声を持つ種類が多い。
だから妻も、あんなにかなりやに夢中なのだろうか。
男は数週間ごとに帰宅するたび、妻のかなりやに対する執着が、静かに度を越していくのを肌で感じ始めていた。
ひゅう、と冷たい空気をはらんだ風が開け放っていた六畳ほどの室内の格子窓を抜けて、部屋へと入り込んできた。季節は夏から秋へかけて。渡りかけているその季節をなんと呼ぶのかは知らないが、初秋とでも言っておこう。
昼間は嫌というほど蒸されていた空気が、夕刻になるとひやりと冷える。男は思わず身震いをして、軽く肩に掛けていただけの合わせに袖を通した。冷たい風から自身の身体を守るようにそっと、緩んで解けてしまわないようにときつく紐を結んでおく。ついでに、風が通るようにと昼間には開け放っておいた、庭に面した廊下との硝子戸も閉めた。
すう、と独特の音と共に閉めた障子の向こうからは、音からして冷たいだろうと想像し易い風の啼く音がうすらと響き、ますます肌に沸いた鳥肌を深めていく。ぶるりとする身震いは冷えた風で身体の芯が冷やされた証拠だ。
ざぁ、と風になびく庭木の、木の葉の散り往く姿を思い描いては深々と息を吐き、明朝すべきことを決められたかのような気分になった。そういえば、庭箒(にわぼうき)はどこへしまってしまっただろうかと、不意に思う。確か玄関に置いておいたつもりだったが、と今しがたまで向かい合っていた文机からのそりと身体を起こした。
そうして、はたと壁に掛けられた時計へと目を向けると、そろそろ編集さんがこちらへやってくる時間だと気が付いて、仕方なくもう一度文机に向かう。傍らに置いてあったランプに明かりを灯すと、仰々しく腕組をして考え込んだ。
今度は別のため息を深く吐き出して、渋々と筆を取った。指先で筆をもてあそびつつ、男は手を伸ばしてインク壷のふたをねじ開ける。万年筆独特のペン先をインク壷の中にぽちゃりと浸けると、白紙のままの原稿用紙へと目を落とした。
さてさて、いったい何を書こうか。そう考えるような素振りを見せたまま、狸寝入りでもしているのかと疑いたくなってしまうかのようにぴくりとも動かず。
そのまましばし、固まってしまったこの茫洋とした男、実は小説家なのである。
小説家とはその名に似合わぬ体躯(たいく)をしていた。乱れた黒髪に無精髭で、どこぞの用心棒でもしているのではないかと思われてしまうことも、ままある。そのわりにどこか茫洋としていて、掴みどころがなく、そのくせ、少々気弱な発言をする。
幽霊という単語を聞いただけでも冷や汗を流し、その話は止めてくれ、と懇願するほどである。
いつもは黙っていても筆は動くものだと豪語して憚らないこの男、今回ばかりは少々「すらんぷ」に陥っているようだった。余計なことに気が向く辺り、どうにも本腰が入っていないように見える。今もまた、物語を考える振りをして、うつらうつらと眠り入っているのかも知れぬ。
一重の瞳はしっかりと閉じられて、うっすらとも開かない。ゆらゆらと揺れるその頭は、なにを考えているのか想像も付かないところである。筆も進まぬ、締め切りは来る。原稿取立ての編集ももうじき来る。
はてさて今度はどうやって切り抜けようか、と、そういったことしか思いつかないのかこの男は、風が連れて行く木の葉が奏でる音にじっと耳を澄ませた。
実際に聞こえてくるその音に身を投じてぼんやりと、自身の中へと吸い込まれていく。しばらくそうした後、男はひたりと筆を走らせた。どうやら、「すらんぷ」は抜け出すことができるらしい。
ざぁ、と風が木の葉を攫(さら)っていく。男の思考もそれに攫(さら)われるかのように、どこか遠く、物語の中へと囚われていった。朦朧とした幻想の奥にちらりちらりと見え隠れる人陰は、今回の登場人物であろうか。陽炎のようにゆらゆらと現れては消えて、また現れる。次第にそれは明確な人物と成り得ていって、この男の思考を誘(いざな)ってしまうのは容易なことだった。
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