大正浪漫奇譚 -世界は二人の外で、静かに遠ざかる-

絹ごし豆腐と麦わら猫

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第一章 狂気の沙汰も、また恋なり

其の四:狂気の沙汰も、また恋なり

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 ***(荻窪の怪談)



 男はとてつもない恐怖に駆られ、思わず妻の部屋の障子を開け放つ。
 勢いよく走った障子は、鴨居にぶつかる反動で少し戻るほどだったが、それでも妻は驚きもしなかった。

「ああ、あなたはなんて素敵なの。とても立派に鳴くのね。」

 ​三度、妻の声が機械的に響いた。
 そこに若い男の姿はない。かなりやは、変わらず妻の細い指の上に止まっている。
 ​だが、男の理性は限界だった。呪われた幻影を振り払うように、妻の手にいたかなりやを奪い取り、力任せに握り込む。

 ​ぐしゃり、という生々しい手応えと共に、手のひらの中で小さな命がついえた。
 男はその、あまりに柔らかく、そしてあまりに熱い感触にぶるりと身を震わせた。
 込み上げる吐き気と、逃げ場のない後味の悪さ。命を奪った瞬間の感触が、呪印のように手のひらにこびりついて離れなかった。

 男は弾かれたように、妻のいた場所を仰ぎ見た。
 そして、喉の奥が凍りつくのを感じた。
 ​そこにいたのは、生きた女ではなかった。
 妻は、すでにからからに干からび、ただそこに据え置かれただけの亡骸と化していたのだ。

 あらゆる生気を吸い尽くされ、ミイラのように萎びたその姿。
 では、先ほどまで部屋に満ちていた、あの蜜のように甘い「妻の声」は、一体どこから流れていたというのか。
 男は、自らの手のひらを見つめた。
 握りつぶした、まだ温かい、かなりやの死骸を。



 ──かなりやは、とてもきれいな声で鳴くという。
 それは伴侶を探して鳴くという。
 伴侶の見つからぬかなりやは、さて──。



 ***(荻窪の日常)



 荻窪は、握り込んでいた万年筆を見つめた。
 先程まで原稿用紙に向かって無心に書きなぐっていた万年筆を、手のひらでころりと転がす。
 自身の手のひらの熱を吸った万年筆が少しずつ冷えていく感触に、安堵ともつかぬ息を吐いた。

 書き上げた満足感とどこか虚しさをため息とともに大きく伸びをして、荻窪はランプの炎へと目を向ける。
 小さくぱちりと爆ぜる音がして、荻窪はやっと現実世界に戻ってきたかのように目を細めた。

 ぱちりと石油ランプの炎が爆ぜる。
 荻窪は眩しそうに目を細めて、その炎を見つめた。

 そういえば、やけに背後が静かだな、と思って振り返ると、高梨がいつものように畳の上に横に倒れて寝入っている。
 荻窪はそんな高梨を見て、仕方ないなというように口角を上げた。
 私室から掛け布団を持ってきて、高梨を起こさないようにそっと掛ける。小さな声を漏らした高梨をのぞき込んでから、大きくて無骨な手でそっと前髪に触れた。

「ゆっくりとおやすみ。」

  原稿は文机の上に置いたまま、荻窪はそっと気配を殺して私室へと向かう。私室の石油ランプを点けてから、書斎の石油ランプを消しに戻ったときに、高梨の様子を少しだけ見ていった。
 よく眠っているようで、安堵する。

 そのまま私室へと戻った荻窪は、布団を敷いて倒れ込むように眠りに落ちた。
 夢も見ずに深い眠りの中から目覚めれば、雨戸の隙間から一筋の朝日が入り込む。もう、朝か。
 荻窪はゆっくりと身体を起こすと、私室と書斎を隔てる源氏襖を静かに開ける。

 そこにまだ、すやすやと眠る高梨がいた。

 ──随分と疲れていたと見える。

 荻窪は静かに石油ランプを灯した。雨戸を開ける音で、目が覚めてしまうかもしれない。そう思ったからだ。荻窪は文机に頬杖をつきながらぼんやりと、雨戸の隙間を見つめていた。
 高梨が身動ぎするような音がして、ばさりと布団がめくれる音が響く。

「起きていらしたんなら、僕のことを起こしてもいいじゃないですか!」

 よく寝ていたから、とは言えない。
  荻窪の耳が大声によって数瞬、外音から隔離された。耳が痛そうに手を当てると、荻窪はいつもの高梨だ、と思えて笑いが込み上げて来る。
 喉の奥で噛み殺すような、低い声がくつくつと鳴る。

「ああ、起きたのはついさっきでね。──おはよう、高梨くん。」

 布団を畳んでから、高梨が髪の毛を手櫛で整えた。
 身嗜みはきちんとしているらしい高梨の、紳士という評判はでたらめてはないようだ。

「おはようございます、先生。でも、見ているだけなんて意地が悪いですよ。」

 起き抜けの掠れた声で文句を言う高梨に、荻窪は思わず笑いが漏れてしまった。まるで幼子のようにも見えて、淡く色づいた頬が可愛らしい。

「雨戸を開けてくるから、しばらくこれを読んでいてくれないか。」

 荻窪が高梨に昨日の原稿を手渡すと、書斎から出ていく。
 いつものように、開けるときも一枚一枚丁寧に開けていった。しばしの間、雨戸を開ける音だけが響いた。静寂の中で、古板の廊下が軋む音、雨戸を開けるがたがたという物音、そして、居間に置いてある古時計が時を刻む音。
 先生、こちらにいましたか。手伝います。」

 高梨は原稿を読み終えたのだろう。
 二人で並んで、雨戸を戸袋に送る作業を繰り返す。その間、ただ、静かにその音だけが響いていた。

「……先生。カナリヤはなぜ物の怪になったんでしょうか。」

 疑問ともとれるしつぶやきともとれる落ちた言葉に、荻窪はつい、と高梨を見やる。
 なにかを考えているようなその横顔に、さらに言葉が続くのかと思っていた。

 二人で雨戸を全て開け終わり、縁側に座り硝子扉越しに庭を眺める。
 先程まで薄暗い闇に包まれていた室内が、いまは明るい光が注ぎ込まれていた。
 風が小さな渦を巻き、落ち葉を舞いあげては落としていく。

「高梨くんは、どう思うんだい?」

 その声には感情はあまり篭っていない。
 高梨はそんな荻窪を一瞬見たものの、すぐにまた庭へと向けた。

「カナリヤは……本当に番が欲しかったんでしょうか? 殺されたカナリヤは本当に物の怪だったんでしょうか? 奥さんは……。」

 矢継ぎ早の質問は、止まることを知らないのかと思わせるほどだ。荻窪は小さく驚いてから、少しだけ俯いた。

「ひとつだけ、きみの質問に答えるよ。ひとつだけだ。」

 低い、荻窪の声。
 抑揚のない声は、それ以上は踏み込ませないという、明確な拒否が滲む。
 高梨はそんな荻窪に息を詰めた。
 彼の瞳がぐるりと廻り、なにを質問しようか考えているのが手に取るように分かる。
 怪談に、正解なんてない。
 荻窪は常にそう思っていた。だからこそ、怪談であり、物の怪が闊歩できるのだ。

「では、先生。」

 高梨が荻窪に向き直り、正座する。
 あまりにも居住まいを正し直しすぎて──荻窪はそんな高梨に意表を突かれた。
 思わず切れ長の目を丸くして、高梨を凝視する。

「カナリヤは、この『妻』を最初から取り入れようと思っていたんでしょうか?」

 ごくりと喉を鳴らしたの高梨だ。
 ひとつだけ、と言われてよほど厳選したのだろうか、それとも一番頭に引っかかったそれを引っ張り出してきたのだろうか。

「──かなりやとて恋をするだろうね。それがたまたま人間だったとしたら、きみはどう思うんだい?」

 これが明確な答えだ、と提示する気は最初からなかった。ただ、こういう風だとしたら、ということは言える。
 荻窪は高梨へも質問を投げると、反応を見るべくひたりと彼から目を逸らさなかった。

「カナリヤは、人間になりたかったでしょうね。それが『妻』の生気を吸うとは知らなかっただけだと、思いたいですよ、僕は。」

 高梨の眉毛が、やや八の字に歪む。
 まるでそれは、高梨自身の希望に聞こえた。そんなに残酷な生き物ではなければいいと、願う声。

 荻窪はそれ以上の問答は必要なしというように、「そうか」と声を落とした。とても静かに。でも、ここで終わりだ、と線を引くように。

 高梨の青臭い思考に、荻窪は内心感心していた。そうだといい、未来に繋げられる希望とも言えるその言葉を、久しく口にしていない。

 それでは、残された男──夫はどうなるというのか。妻はしかばねになり、手のひらには握り殺した小さなかなりや。
 苦いというには重すぎる感情と事実をこれから先、背負っていかなければならない『夫』。
 妻に伝えられなかったたくさんの言葉、思いは、伝える機会を失った。

 荻窪は「原稿はあれで完成だ」と、高梨を見やる。
 ほんの一瞬、また思考の波に囚われていたようだ。

「ああ、では、原稿をいただいていきますね。」

 書斎へと戻るため、二人はゆらりと立ち上がった。
 高梨の背中を見ながら荻窪は小さく息を吐く。純朴な青年だからこその、カナリヤへの優しさなのか。
 疑うことを知らない無垢の子供のように、また『妻』を被害者だと思うのか。

 荻窪はゆっくりと彼の背に手を伸ばしかけて、届く前に下ろした。触れてどうしようというのか。
 背中を引き留めようとするその癖だけは、いまもまだ抜けないものなのだろうか。

「それじゃ、先生。原稿をいただきます。来月もまたよろしくお願いしますね。」

 茶封筒にしまった原稿を、大事そうに抱える。
 高梨の背後にある衣桁には、濃紺の着物が掛けられていた。それがなにかを追うように、ほんのわずかに動いたような気がした。

 庭では名前の分からない鳥たちが、ぴりりちりりと鳴いている。



 ──狂気の沙汰も、また恋なり。
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