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第二章 濡るる蒼かな、なびく裾
其の三:濡るる蒼かな、なびく裾
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***(荻窪の日常)
荻窪はことりと小さな音を立てて、万年筆を文机ふづくえに置いた。とりあえずここまでだ、と区切りをつけるように重くひと息をつく。
耳をすませば、台所から高梨の不器用な包丁を扱う音が聞こえてきた。
手を切っていなければいいけれど、と思うのは最初の頃に包丁で案の定、指を切っていたからだ。
見に行こうか、それとも止めようか。
荻窪は心配そうに台所から聞こえる音に耳を澄ませながら、今回はとても良い匂いがしてくることに気がついた。
練習の成果が出ているようだ。
前回のときのように、火事でも起きたかと驚くような黒煙も、焦げ臭い匂いも漂ってはきていない。
それならば、と文机に頬杖をついてしばし休憩に入る。ゆったりと息をつきながら、庭へ目を向けた。思っていたよりも時間が経っていたようで、薄暗い風景が目に飛び込んでくる。
出窓から見える庭を望むと、すっかり暗くなっていた。
荻窪はいつものように、雨戸を閉める儀式へと向かう。一枚一枚丁寧に、戸袋から引き出してはぴしゃりと閉めていった。
その静かな古木の音だけが響いている。ぎし、という廊下の音とがたがたと木枠を揺らす音に混ざって、台所からは高梨の軽快な包丁の音が、旋律を作っていた。まるで家庭の音が再現・・されているみたいだ、と荻窪は思う。
この家に、そんな音が鳴るとは思いもしなかった。
身内が他界してから数年、荻窪はずっと一人だった。静かな家の中が当たり前で、家庭的な音など最早忘却の彼方であった。
荻窪は雨戸を閉め終えると、居間へと向かう。もちろん、手には先ほど高梨がお茶を入れてくれた、湯呑みを持って。盆も忘れない。忘れたら、高梨の大きな声が響くに決まっているからだ。
結局、好奇心と匂いにつられて居間まで来てしまった荻窪は、台所に立っているであろう高梨へと声をかけた。
「高梨くん、お茶を淹れようと思うんだが……、」
障子をす、と開けるとそこには背広に割烹着を着た男が忙しなく動いている姿があった。あまつさえ、やや音程の外れた鼻歌まで聞こえてきている。
これは見てもいいのだろうか、やや迷う。
割烹着を着ていると言っても、後ろは結ばれておらず、きっとぱつぱつなのだろう。想像に難くない。
時間に取り残されていた荻窪の母の割烹着が、こんなところで役に立つとは。と思いつつ、やはりその背中はどうしても笑いを誘う。
そんな状況で声をかけても良かったのだろうか、と、荻窪は数瞬考えた。
「僕が入れますから、先生は座っていてください。」
そんなことはまるで気にしない、とでもいうかのように、朗らかに高梨が勢い良く振り返る。
「では、頼むよ。」
珍しく荻窪の手が震えていた。
「先生、もしかしてお身体を冷やしましたか? すぐに熱いお茶を淹れますね。」
湯呑みと盆を受け取った高梨は、震えている荻窪の手を軽く握ると、盛大な勘違いをしたまま台所へと向き直る。
居間に置いてある重厚な卓袱台ちゃぶだいの前に座った荻窪は、どうしようもないな、というように額に手を当てた。
くつくつと喉を鳴らし、先ほどの高梨を思い出す。
笑ってはいけない、そう堪えることが難しいことなど、すっかり忘れていた。
まさか、手が震えるとは。
荻窪は自分の手のひらに目を落とすと、唇の端に浮かべた笑みをすぅ、と引っ込めた。
***(荻窪の怪談)
男は小柄な女に気圧されて、言葉が出せずにいた。
もしかして、覚えてないのではなく、みな、この圧に怖気づいたことを話したくなくて、黙っていた・・・・・のではないだろうか。
米屋の店主は、小柄な女が醸し出す異様な雰囲気に呑まれ始めていた。
──この女、何かがおかしい。
そう気がついたとき、いままで俯いていた女が、ふと、顔を上げた。
かっ、と見開かれた瞳はまるで血の色をして、米屋の店主を品定めするかのようにじろりと睨め付ける。
こんな女にそこまでの殺気があるのかと思わせるほどの圧に、男は数歩じりじりと後退りした。
「ああ、やはり、あなたでしたか。」
すう、と引かれた笑みの奥から、二本の鋭い歯が見えた。それは齧歯類げっしるい特有の二本の前歯。するどくてなんでも噛み千切ることができるあの歯が見えた。
「わたくしの子らを殺したのは、そなたであろう?」
つい先日、確かに鼠を駆除した。
巣を作っていたし子供が生まれていたし、それが成長したらますます厄介なことになる、そう思ったからだ。
ごくりと喉が震えた。
女の赤い目が男をひたりと突き刺した。
蒼の着物は徐々に変化し、それは南京鼠なんきんねずみの白い毛皮に変わっていく。
蒼白く光るその被毛から伸びた尻尾がぴしりと、まるで鞭のように撓しなった。
「お前の命で償ってもらおうぞ。」
そう、聞こえたような気がした、その時には──。
鼠とて、母の愛は深いもの。
赤い目に光るは涙かもしれぬ。
それとも男の返り血か。
荻窪はことりと小さな音を立てて、万年筆を文机ふづくえに置いた。とりあえずここまでだ、と区切りをつけるように重くひと息をつく。
耳をすませば、台所から高梨の不器用な包丁を扱う音が聞こえてきた。
手を切っていなければいいけれど、と思うのは最初の頃に包丁で案の定、指を切っていたからだ。
見に行こうか、それとも止めようか。
荻窪は心配そうに台所から聞こえる音に耳を澄ませながら、今回はとても良い匂いがしてくることに気がついた。
練習の成果が出ているようだ。
前回のときのように、火事でも起きたかと驚くような黒煙も、焦げ臭い匂いも漂ってはきていない。
それならば、と文机に頬杖をついてしばし休憩に入る。ゆったりと息をつきながら、庭へ目を向けた。思っていたよりも時間が経っていたようで、薄暗い風景が目に飛び込んでくる。
出窓から見える庭を望むと、すっかり暗くなっていた。
荻窪はいつものように、雨戸を閉める儀式へと向かう。一枚一枚丁寧に、戸袋から引き出してはぴしゃりと閉めていった。
その静かな古木の音だけが響いている。ぎし、という廊下の音とがたがたと木枠を揺らす音に混ざって、台所からは高梨の軽快な包丁の音が、旋律を作っていた。まるで家庭の音が再現・・されているみたいだ、と荻窪は思う。
この家に、そんな音が鳴るとは思いもしなかった。
身内が他界してから数年、荻窪はずっと一人だった。静かな家の中が当たり前で、家庭的な音など最早忘却の彼方であった。
荻窪は雨戸を閉め終えると、居間へと向かう。もちろん、手には先ほど高梨がお茶を入れてくれた、湯呑みを持って。盆も忘れない。忘れたら、高梨の大きな声が響くに決まっているからだ。
結局、好奇心と匂いにつられて居間まで来てしまった荻窪は、台所に立っているであろう高梨へと声をかけた。
「高梨くん、お茶を淹れようと思うんだが……、」
障子をす、と開けるとそこには背広に割烹着を着た男が忙しなく動いている姿があった。あまつさえ、やや音程の外れた鼻歌まで聞こえてきている。
これは見てもいいのだろうか、やや迷う。
割烹着を着ていると言っても、後ろは結ばれておらず、きっとぱつぱつなのだろう。想像に難くない。
時間に取り残されていた荻窪の母の割烹着が、こんなところで役に立つとは。と思いつつ、やはりその背中はどうしても笑いを誘う。
そんな状況で声をかけても良かったのだろうか、と、荻窪は数瞬考えた。
「僕が入れますから、先生は座っていてください。」
そんなことはまるで気にしない、とでもいうかのように、朗らかに高梨が勢い良く振り返る。
「では、頼むよ。」
珍しく荻窪の手が震えていた。
「先生、もしかしてお身体を冷やしましたか? すぐに熱いお茶を淹れますね。」
湯呑みと盆を受け取った高梨は、震えている荻窪の手を軽く握ると、盛大な勘違いをしたまま台所へと向き直る。
居間に置いてある重厚な卓袱台ちゃぶだいの前に座った荻窪は、どうしようもないな、というように額に手を当てた。
くつくつと喉を鳴らし、先ほどの高梨を思い出す。
笑ってはいけない、そう堪えることが難しいことなど、すっかり忘れていた。
まさか、手が震えるとは。
荻窪は自分の手のひらに目を落とすと、唇の端に浮かべた笑みをすぅ、と引っ込めた。
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男は小柄な女に気圧されて、言葉が出せずにいた。
もしかして、覚えてないのではなく、みな、この圧に怖気づいたことを話したくなくて、黙っていた・・・・・のではないだろうか。
米屋の店主は、小柄な女が醸し出す異様な雰囲気に呑まれ始めていた。
──この女、何かがおかしい。
そう気がついたとき、いままで俯いていた女が、ふと、顔を上げた。
かっ、と見開かれた瞳はまるで血の色をして、米屋の店主を品定めするかのようにじろりと睨め付ける。
こんな女にそこまでの殺気があるのかと思わせるほどの圧に、男は数歩じりじりと後退りした。
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ごくりと喉が震えた。
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蒼白く光るその被毛から伸びた尻尾がぴしりと、まるで鞭のように撓しなった。
「お前の命で償ってもらおうぞ。」
そう、聞こえたような気がした、その時には──。
鼠とて、母の愛は深いもの。
赤い目に光るは涙かもしれぬ。
それとも男の返り血か。
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