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第三章 白花舞うや、濃紺の闇
其の二:白花舞うや、濃紺の闇
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***(荻窪の日常)
ことり、小さな音を立てて、荻窪が万年筆を文机に置いた。
外を見やれば、乱気流のごとく上から下へ、下から上へと雪が舞っている。荒れる天気を見つめながら、荻窪は火鉢へと手を伸ばした。
指がかじかんでしまっては先が書けない。
いや、これはただの時間稼ぎだろうか、などと迷いながら、もう一度空を見上げた。
吸い込まれそうな、濃紺。
掴めない雪。
乱気流の風。
荻窪はどこか遠い目をして、手を伸ばした。
かたりと指先が写真のない写真立てにぶつかって、倒しかける。慌てて掴み上げ、倒れないように元の位置へと据え直してから、ようやく詰めていた息を吐き出した。
「すまなかった。」
漏れた声は、写真立てに向けられたものなのだろうか。それとも──。
胸にじわりと苦味が広がる。荻窪は記憶を振り払うように頭を小さく振った。何度も思い出しては否定して、頭から追い出すしかない存在。
ふいに、高梨が淹れてくれる少し渋みの効いたお茶を飲みたくなった。あの渋いお茶は、初めこそ噴き出しそうになったものだが、飲んでいくうちに馴染んでくるものだ。
いまでは、やや渋みの強いお茶という代物になってはきたが、その不器用さは荻窪にとって心が温まるものでもある。
「ああ、高梨くんのあの下手くそなお茶が飲みたいな。」
思わず声が洩れていた。
「下手くそとは心外ですね、先生。雪がひどくなってきたから、帰りに様子を見に来たのに、悪口を言われていたなんて。」
無遠慮に雪見障子を勢い良く開け放った高梨が、廊下に突っ立っていた。
頭には雪帽子をこんもりと被り、白い肌に頬だけを赤くして。
荻窪は、開け放たれた障子よりも、まずその雪まみれの姿に驚いた。
「ああ! 高梨くん、廊下に居てくれ! いますぐ手拭いと着替えを用意するから。」
言外に畳が濡れるから入らないでくれ、としっかり意思表示した上で、慌てて私室へ向かう。
手拭いを数枚、それから、彼の体躯に合いそうな着物を手に取ると、また書斎へと戻った。
頭からぽたりぽたりと雫を垂らしたまま、高梨は微動だにせずその場から動いていない。
──まるで、待てと命じられた犬のようだな。
ふと、笑みがこぼれてしまう。
手拭いを手渡しつつ、頭の上の雪を荻窪がそっと手拭いで拭き取っていく。高梨の薄茶の柔らかな髪がしっとりと濡れて、雫が頬へと伝っていった。
「先生のお手を煩わせるつもりは……、」
頭を拭かれた高梨がやや慌てたように制止しようとするが、「気にするな」とその手を掴んで下ろしてしまう。
「あらかた水分が拭えたら、これしかなくて申し訳ないが、書斎の奥の部屋で着替えてくるといい。」
半纏も出してあるからそれを着なさい、と付け加えた。
***(荻窪の怪談)
ゆらり。
朦朧とした影から立ち上るように、女が顔を出す。鮮血で染めたような朱色の着物と、妖しく紅を注したその口元がうすらと弧を描いた。
胸元に隠し持つのは己自身の護身用の短刀か、はたまた最近連続して起こっている殺人のために使用されるものなのか。先までぼろの空き家だったそれが、女が姿を現した途端に、見る影もなく見事な屋敷へと変貌を遂げた。
いまのいままで辺りは白く化粧を施してはいるものの穏やかだった風景が、がらりと姿を変えて荒れ果てる。迷いに迷った果てにたどり着く旅人を狙っているのか、それとも……。
「申し訳ない、吹雪に遭い困り果てております、どうか一晩の宿を……。」
風と雪とに巻かれ、旅路への道を見失ったひとりの若者が先までぼろ屋敷だったはずの屋敷の重厚な扉をどんどんと叩く。屋敷の奥からはさらさらと流れる布地の音を小さく立てて、妖艶な美女が姿を現した。
「それはお困りでしょうに。どうぞ、お上がりくださいな。」
にこり。と、弧を描いた口元が妖しく光る。紅色に惑わされ男はふらりと足を踏み入れた。それが、最後となるとも思いもせずに。
ほわりと暖の舞う小奇麗な一室へと通されて、女の手厚い歓迎を受けて。酒の入ったほろ酔い気分でゆらゆらとたゆたう行灯の明かりに目を向けた男に、女はいつぞや聞いたことのある質問を繰り返した。
「白が舞い散る花の日に咲くと言われる幻の花を、ご存知でしょうか?」
どうせ知らぬのでしょう、そうとも取れそうなほどに冷たい口調。しかし、うすらと弧を描いている口元に惑わされ、そんなことには露も気が付かぬ旅人。
「白が舞い散る花の日に、咲く花?」
男は酒の入った杯(さかずき)を手にしたままに、不意に考え込んでしまう。仄かに香る酒の匂いと行灯の油の燃える匂いだけが周囲を取り巻いて、ひゅるひゅると荒れ狂う風の音だけが響き渡ったそのときだ。
「知らぬのでしょう、あなたも。」
女はどうせ知らぬと申すのでしょう、そう答えを決めているような声色で、そう小さくつぶやいた。その瞬間に笑みは消え、きらりと光る恐ろしげな瞳だけがあらわになる。
男は考えに考え過ぎているのか、それにすら気が付かぬ様子でまたしても考え込んだ。
「……いや、聞いたことがある。」
女が胸元に手を入れて短刀に触れたその直後、男はぽつりと切り出した。
「花を探していると、女は言うのだ。知らぬと答えると男は咽喉を裂かれ……絶命する。……そんな噂を耳にした。」
びくり、短刀に触れていた女の手が強張る。男を凝視するその姿は、男は知らぬともその女に間違いはない。それ以上言葉を放つと殺すと言わんばかりに男を見据えた女は、心を決めたようにするりと短刀を引き抜こうとした、その矢先。
「もしも……かのような女に出逢ったら、私はその花を探してやろうと思っていた。よほどのことがあるのだろうて、と思ってな。……いや、私の昔の恋人も、花が大好きな美しい人だったのだ。吹雪のとある晩に、死んでしまったのだけれどな。」
男はどこか遠く、果てのない雪を見ているのだろうか分からぬが、女の引き抜いた短刀には目をくれることもなく震えるまぶたをゆっくりと閉じた。
女はそれ以上なにもできずに、引き抜いた短刀をふたたび胸元へと仕舞う。その男の表情を見ればすぐに分かることだ。いまだ、その恋人を愛しているのだろうということは、容易なほどに。
ことり、小さな音を立てて、荻窪が万年筆を文机に置いた。
外を見やれば、乱気流のごとく上から下へ、下から上へと雪が舞っている。荒れる天気を見つめながら、荻窪は火鉢へと手を伸ばした。
指がかじかんでしまっては先が書けない。
いや、これはただの時間稼ぎだろうか、などと迷いながら、もう一度空を見上げた。
吸い込まれそうな、濃紺。
掴めない雪。
乱気流の風。
荻窪はどこか遠い目をして、手を伸ばした。
かたりと指先が写真のない写真立てにぶつかって、倒しかける。慌てて掴み上げ、倒れないように元の位置へと据え直してから、ようやく詰めていた息を吐き出した。
「すまなかった。」
漏れた声は、写真立てに向けられたものなのだろうか。それとも──。
胸にじわりと苦味が広がる。荻窪は記憶を振り払うように頭を小さく振った。何度も思い出しては否定して、頭から追い出すしかない存在。
ふいに、高梨が淹れてくれる少し渋みの効いたお茶を飲みたくなった。あの渋いお茶は、初めこそ噴き出しそうになったものだが、飲んでいくうちに馴染んでくるものだ。
いまでは、やや渋みの強いお茶という代物になってはきたが、その不器用さは荻窪にとって心が温まるものでもある。
「ああ、高梨くんのあの下手くそなお茶が飲みたいな。」
思わず声が洩れていた。
「下手くそとは心外ですね、先生。雪がひどくなってきたから、帰りに様子を見に来たのに、悪口を言われていたなんて。」
無遠慮に雪見障子を勢い良く開け放った高梨が、廊下に突っ立っていた。
頭には雪帽子をこんもりと被り、白い肌に頬だけを赤くして。
荻窪は、開け放たれた障子よりも、まずその雪まみれの姿に驚いた。
「ああ! 高梨くん、廊下に居てくれ! いますぐ手拭いと着替えを用意するから。」
言外に畳が濡れるから入らないでくれ、としっかり意思表示した上で、慌てて私室へ向かう。
手拭いを数枚、それから、彼の体躯に合いそうな着物を手に取ると、また書斎へと戻った。
頭からぽたりぽたりと雫を垂らしたまま、高梨は微動だにせずその場から動いていない。
──まるで、待てと命じられた犬のようだな。
ふと、笑みがこぼれてしまう。
手拭いを手渡しつつ、頭の上の雪を荻窪がそっと手拭いで拭き取っていく。高梨の薄茶の柔らかな髪がしっとりと濡れて、雫が頬へと伝っていった。
「先生のお手を煩わせるつもりは……、」
頭を拭かれた高梨がやや慌てたように制止しようとするが、「気にするな」とその手を掴んで下ろしてしまう。
「あらかた水分が拭えたら、これしかなくて申し訳ないが、書斎の奥の部屋で着替えてくるといい。」
半纏も出してあるからそれを着なさい、と付け加えた。
***(荻窪の怪談)
ゆらり。
朦朧とした影から立ち上るように、女が顔を出す。鮮血で染めたような朱色の着物と、妖しく紅を注したその口元がうすらと弧を描いた。
胸元に隠し持つのは己自身の護身用の短刀か、はたまた最近連続して起こっている殺人のために使用されるものなのか。先までぼろの空き家だったそれが、女が姿を現した途端に、見る影もなく見事な屋敷へと変貌を遂げた。
いまのいままで辺りは白く化粧を施してはいるものの穏やかだった風景が、がらりと姿を変えて荒れ果てる。迷いに迷った果てにたどり着く旅人を狙っているのか、それとも……。
「申し訳ない、吹雪に遭い困り果てております、どうか一晩の宿を……。」
風と雪とに巻かれ、旅路への道を見失ったひとりの若者が先までぼろ屋敷だったはずの屋敷の重厚な扉をどんどんと叩く。屋敷の奥からはさらさらと流れる布地の音を小さく立てて、妖艶な美女が姿を現した。
「それはお困りでしょうに。どうぞ、お上がりくださいな。」
にこり。と、弧を描いた口元が妖しく光る。紅色に惑わされ男はふらりと足を踏み入れた。それが、最後となるとも思いもせずに。
ほわりと暖の舞う小奇麗な一室へと通されて、女の手厚い歓迎を受けて。酒の入ったほろ酔い気分でゆらゆらとたゆたう行灯の明かりに目を向けた男に、女はいつぞや聞いたことのある質問を繰り返した。
「白が舞い散る花の日に咲くと言われる幻の花を、ご存知でしょうか?」
どうせ知らぬのでしょう、そうとも取れそうなほどに冷たい口調。しかし、うすらと弧を描いている口元に惑わされ、そんなことには露も気が付かぬ旅人。
「白が舞い散る花の日に、咲く花?」
男は酒の入った杯(さかずき)を手にしたままに、不意に考え込んでしまう。仄かに香る酒の匂いと行灯の油の燃える匂いだけが周囲を取り巻いて、ひゅるひゅると荒れ狂う風の音だけが響き渡ったそのときだ。
「知らぬのでしょう、あなたも。」
女はどうせ知らぬと申すのでしょう、そう答えを決めているような声色で、そう小さくつぶやいた。その瞬間に笑みは消え、きらりと光る恐ろしげな瞳だけがあらわになる。
男は考えに考え過ぎているのか、それにすら気が付かぬ様子でまたしても考え込んだ。
「……いや、聞いたことがある。」
女が胸元に手を入れて短刀に触れたその直後、男はぽつりと切り出した。
「花を探していると、女は言うのだ。知らぬと答えると男は咽喉を裂かれ……絶命する。……そんな噂を耳にした。」
びくり、短刀に触れていた女の手が強張る。男を凝視するその姿は、男は知らぬともその女に間違いはない。それ以上言葉を放つと殺すと言わんばかりに男を見据えた女は、心を決めたようにするりと短刀を引き抜こうとした、その矢先。
「もしも……かのような女に出逢ったら、私はその花を探してやろうと思っていた。よほどのことがあるのだろうて、と思ってな。……いや、私の昔の恋人も、花が大好きな美しい人だったのだ。吹雪のとある晩に、死んでしまったのだけれどな。」
男はどこか遠く、果てのない雪を見ているのだろうか分からぬが、女の引き抜いた短刀には目をくれることもなく震えるまぶたをゆっくりと閉じた。
女はそれ以上なにもできずに、引き抜いた短刀をふたたび胸元へと仕舞う。その男の表情を見ればすぐに分かることだ。いまだ、その恋人を愛しているのだろうということは、容易なほどに。
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