大正浪漫奇譚 -世界は二人の外で、静かに遠ざかる-

絹ごし豆腐と麦わら猫

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第五章 水面に浮かぶや、赤尾びれ

其の二:水面に浮かぶや、赤尾びれ

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 ***(荻窪の日常)



  一息ついて、ちびの様子が気になり、背後を振り返る。ちびは大人しく眠っているようだ。
 ばちばちと猛る雨の音につられるように窓から外を眺めれば、雨の強さで残雪も解けていた。

 ふと、こんな天気の中いきなり姿を現した荻窪の担当である、高梨を思い出す。
 いつぞやの、今日のような荒天の折にも、案じているからと彼は顔を見せたのだった。
 今日は大人しく家に帰っていればいいのだが。
 荻窪はそう思うものの、どこか、この前のようなことを期待する。

 だが、それと同時に視界に入る、写真立てが、無言の糾弾(きゅうだん)を浴びせているような気がして、頭を振った。

 そんな予感は大抵当たるものだ。

 どたどたと歩く足音と、なにか別の物音が同時に聞こえてきたかと思えば、すたん、と勢い良く書斎の雪見障子が勢い良く開いた。
 驚きとどこか「やっぱり」という気持ちが入り混じったまま、荻窪はそちらへと目を向ける。

「先生、お手数をおかけします……、実はこの子を雨の中保護してしまいまして……。」

 噂をすればなんとやら、の高梨と、その手の中には黒い子猫が抱かれていた。
 荻窪は思わず額に手を当てる。なぜこうも、面倒事というのは立て続けに起こるのだろう。

 最近ようやくちびに慣れてきた高梨が、見捨てることはできなかったのだと、八の字眉で荻窪に告げた。
 ちびもまだ半年足らずだというのに、また猫が増えてはたまらない。

 それに、ちびとの相性もあるだろう。
 荻窪は困ったように、ため息をつくと私室に向かうために立ち上がった。

 いつぞやと同じように、手拭いを数枚、それから着替えの着物を一着手に取る。またこれを彼に着せるのか、そう思いながらも急いで抱えて、書斎へと戻った。

「とりあえず、着替えておいで。その子は私が一旦引き受けよう。」

 びしょ濡れの黒い子猫を手の中に受け取って、手拭いでそっと拭く。猫の毛は水を弾くことができないため、濡れると体が一気に冷えてしまうのだ。

 ちびは新しい侵入者にやや警戒気味ではあるけれど、そこまで激しく拒絶もしていないようだった、いまのところは──だけれど。

 よろよろとした黒猫が薄っすらと瞳を開ければ、きれいな金色で、生後三ヶ月は過ぎていそうだと思わせる。体が小さいのは、栄養が行き届いていないせいなのか。 

「すみません、僕の家は動物がだめでして。先生のところしか思いつかず……。」

 二度目の薄紺色の着物に袖を通した高梨が、手拭いで頭を拭きながら書斎へと顔を出した。
 手には赤い結び紐が握られており、それはそれで何に使うのかと首を傾げる。

「ああ、これはちびに贈り物です。」

 白銀の毛並みに赤い結び紐、きっと似合いますよ、と意気揚々とちびに結わえ始めた。ちびはあまり、興味なさげにつけられたまま、ちらりと荻窪の手の中にいる黒猫に目をやった。すん、と鼻を鳴らして、高梨の膝に無理やり乗る。

 火鉢に当たりながら、「そういえば、先生、金魚も新しくお飼いになるんですか?」と不思議そうな高梨に、ようやく水気を拭き取ることができた黒猫を、ひょいと抱き上げた。

「その金魚は友人のものだよ。預かっているだけだ。」

 ほう、黒い毛並みの中に白い毛が一部あるのか。

「高梨くん、夕飯にちびが食べ残したのがまだあるはずだから、持ってきてくれないか?」

 あと、水も忘れないでくれ、と付け足して文机に向かった。



 ***(荻窪の怪談)



 結局、女の遺体はどこにも上がらなかった。若者が見たものは「物の怪」とくくられ、そのうちそれは噂になり、背びれ尾ひれとくっ付いていったのである。


 ひらひらと波たゆたうそれのように、噂は噂を呼び、いつしかその橋の上には見物客まで現れた。当然、そこまで至るとさしもの「物の怪」も出にくいのだろう、依然として出る気配すら見せようとはしなかったのである。

 皮肉なことに見物客が現れ出してから、ずっと晴天が続いていた。ひとりまたひとりと増えるにしたがって、夜空に輝く星は日増しにはっきりと見えるようになっていたのである。それ以来ぱたりと「幽霊」は姿を見せなくなった。


「いやいや、一度も姿を見せぬではないか。こりゃあ、あの嵐で幻でもみたのだろうよ。」


 そんな誰かのひと言で、いつの間にやらひとりまたひとりと人が減っていく。それにつれ、だんだんと空模様も悪くなった。しかし、若者さえもあのときの「幽霊」は嵐の幻だったのだと思っていたのである。だから、空模様の変化にすら気付くことはなかったのだ。


 それが……である。


 若者がひとり、あの橋の上を渡ろうとしていたある日、天気は小雨、視界不良なそんなとき。若者が歩く足音だけが辺りに響いていた。ちょうど橋の手前に差し掛かったときだった。


「もし……。」


 聞き覚えのある、しかし忘れたいと思っていた声色が背後から響いてきた。若者はどきりと己の鼓動が鳴り響き、一気にそれは焦燥に変わる。

 いつの間にかからからに乾いていた咽喉が、水分を欲しがってごくりとなった。振り返るべきか振り返らざるべきか思い悩んだその瞬間。目の前には赤々とした着物が現れた。


「わたくしを、覚えておいでですか?」


 する、とまるで音がするように、女の口唇が緩やかな弧を描く。この前は大雨で見えなかった女の姿が、今日は小雨だからだろう、はっきりと見えた。目も瞬いてしまうほどに白い肌と、血のように紅い口唇。

 その口唇と引けも劣らぬ赤の打ち掛けからほっそりと伸びる両手。足が竦むほどの恐ろしさと目を奪われてしまうほどの美しさに、若者は言葉を失っていた。ただ、息を飲み込むことしかできず、言葉を返すこともできない。それどころか、声すら発することもできないのだ。
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