大正浪漫奇譚 -世界は二人の外で、静かに遠ざかる-

絹ごし豆腐と麦わら猫

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第五章 水面に浮かぶや、赤尾びれ

其の四:水面に浮かぶや、赤尾びれ

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 ***(荻窪の日常)



 万年筆を小さな音を立てて文机に置くと、いままで縮めていた背中を思い切り伸ばす。
 荻窪にぴたりと寄り添うように眠る黒猫と、振り返れば、火鉢の隣で横になって眠る高梨と寄り添うように眠るちびの姿があった。

 いつぞやと一緒だな、と思いながらも、荻窪はゆっくりと立ち上がり私室へと掛け布団を取りに行く。ついでに自分の分も敷いてしまおうと、敷布団を敷き出した。

 布団を準備し終えてから、掛け布団を手に抱え書斎へ向かう。
 静かに動いたつもりだったが、そこには高梨が起き上がっていた。

「あ、先生すみません、またご迷惑をかけてしまって。」

 急いで帰ろうとする高梨を、荻窪がやや強い言葉で引き止める。

「いいから、泊まっていきなさい。」

 手に布団を抱えていなければ、高梨の手首を掴んでいたかもしれない。薄紺色の着物を着た高梨を、家に帰したくはないと思ってしまった。

「掛け布団はこれを使ってくれ。書斎でかまわないだろう?」

 きみにはみけを任せるから。
 そう言って、荻窪は金魚鉢を持ち上げた。さすがに書斎に置いておくわけにはいかないだろう。
 私室のほうが物が少ない分、金魚もゆっくり眠れるだろう、そう思った。

「先生、僕も手伝わせてください。」

 す、と添えられた手は温かく、荻窪は反射的に手を離しそうになる。間一髪で留まれたのは、友人の金魚を預かっている、という事実だった。

 何度か私室に入っている高梨は、特に抵抗もなく入ってくると、部屋の隅にそっと金魚鉢を据え置いた。

「それじゃ、おやすみなさい、先生。」
  
 高梨の柔らかな笑みと穏やかな声が、耳に届く。
 それと同時に違う声が記憶の奥から蘇ってきた。元気な、少しいたずらを含んだやや幼さを残した声が。

『おやすみ、康路(やすみち)。』

 ほんの一瞬、影が被る。

 息を呑んで高梨を見つめた荻窪は、それが高梨であると確認したくて、手を伸ばした。
 彼の頬に触れてみれば、滑らかな皮膚の感触と温かい体温が伝わってくる。無精髭は当然ながら、ない。

「ああ……、高梨くんだな。」

 思わずそう、声が洩れた。
 言ってしまってから、はっとする。
 怪訝そうな高梨の視線が、真っ直ぐに荻窪を射抜いた。

「はい、僕ですよ。高梨です、高梨駆流(かける)です。」

 返事をする声は、どこか棘を含み、どこか痛く、そしてどうしようもなく切なかった。
 高梨は荻窪の手に自分の手を重ねて、感触を確かめるようにゆっくりと撫ぜる。
 びくりと震えた荻窪の手を、すぐに離すことはなかった。




 ***



 翌朝、荻窪が目を覚ますと書斎には高梨がいて、原稿を読んでいた。
 雨戸を開けてくれたのか、明るく朝陽が射し込んでいる。

 その中で一枚一枚丁寧に読み耽るさまは、確かに荻窪がよく知っている高梨だ。
 薄紺色の着物を着ていても──見間違うことはなかった。昨夜はきっと、薄明かりだったから見間違えたのだろう。
 荻窪はそう、強引に己を納得させた。

「おはようございます、先生。」

 相変わらずちびに寝床にされている高梨が、視線をちらりと荻窪へと向ける。

「あ、ああ、おはよう、高梨くん。」

 昨日のことを思い出して、少し気まずい。
 見間違えた、とも言えず謝ることすらできやしない。

「先生、誰かを愛する気持ちは……お持ちじゃないですか? 少なくとも僕は、そう感じますよ。」

 ため息とともに吐き出された言葉は、荻窪の心を深く刺した。




 ──水面に浮かぶや、赤尾びれ。
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