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第九章 見る影紅く、去り際白く
其の二:見る影紅く、去り際白く
しおりを挟む「なら、うちの傘を貸そうかい?」
香世がそう言い終わるか終わらないか。
高梨がこちらに向かって走ってくるのが見えた。そんなに走ったら、せっかくの背広が突っぱねで汚れるだろうに、と思わせるほどの速度で。
「先生! 荻窪先生! ここにいらしたんですね!」
ああ、家に行ったら居なかったからさがしましたよ、と息を切らした高梨は膝に手をついて息を整える。傘を指していたのに、あんなに走るから背広がしっとりと濡れていた。
「ああ、高梨くん。来てくれたのか。」
荻窪はちびを大事そうに懐へ抱えて、走り寄る高梨をゆっくりと振り返った。その動作はけして早くはなかったが、歓迎しているのがはたからも見て取れるくらいには、温かみのある仕草。
香世は返事が返ってこない言葉を黙って視線だけで喉の奥へと送り、改めて荻窪を見やる。
荻窪に追いついた高梨が息を整えるように何度か深呼吸を繰り返し──香世にぺこりと頭を下げた。
「こんばんは、香世さん。」
いつもの愛嬌でにこりと笑顔を向けてすぐ、荻窪の手の中にいるちびへと視線を向ける。ちびは安心しきったように、荻窪の暗茶の羽織に頬を摺り寄せていて。抱きつくようにしてしがみついており、荻窪の大きな手がそれをゆったりとささえていた。
高梨はそんなちびの頭をそっと撫でる。荻窪に抱きかかえられているちびは、成猫のはずなのにとても小さく見えてしまう。いつぞや獣医に連れて行ったときは、順調な育ちようであり、体躯(たいく)も不足なし、と太鼓判を押してもらったというのに。
「ちびも、こんばんは。」
高梨は香世から見ても十程は歳下の青年だ。そんな高梨を見て目尻が下がり、そういえばと思い出したように荻窪へと視線を向けた。
「あんたもさ、昔は猫が苦手だったのにね。」
思い出したようにくすりと笑う。そうして、手にしていたお弁当の包みを高梨へと押し付けると「お代は次に来た時しっかりもらうからね」と、そのまま店の奥へと消えてしまう。つまりはこのお弁当、荻窪の、昔馴染みへの特別仕様、とでもいうのだろうか。
高梨は手の中に押し付けられた弁当の温かさとは別に、どこかすっきりしないような、そんな表情を浮かべていた。
「ああ、香世さん、すまないね。今度来た時お代を上乗せするよ。」
荻窪は香世の背中にそう声をかけると、高梨へと向き直る。そして、少しだけ目を細めると「なんとなくね、きみが来ると思っていたんだ」、だから二人分の弁当を頼んだんだよ、と笑った。荻窪の笑顔とは少し違う温度で高梨がにこりと返す。
「ありがとうございます、先生。それじゃ、傘、これを使ってください。」
高梨は濡れそぼった傘を一度置き、持っていた傘を開いてから荻窪へと渡した。傘をしっかりと差すのを見届けて。そして、お弁当を大事そうに抱えると、どこかいつもよりもおとなしさをまとって声をかけた。
「それじゃ、先生、家に帰りましょう、ちびが濡れると大変ですから。」
荻窪は傘を深く差している高梨の、どこか揺れた声に眉根を寄せたがそこにはあえて触れなかった。
帰路、二人は無言に近かった。いつもは忙しない高梨があまりにもおとなしくて、それでいてそのことに荻窪が触れなかったから。ちびの、ゴロゴロと喉を鳴らす音だけが、雨音に混ざって響いていた。
***(荻窪の怪談)
月にはうさぎがいるという。満月の夜、月を見上げてみれば、ただ一羽、うさぎが餅をついている姿を見せるという。かのうさぎは一羽か、それともほかに隠れているのか、知る由もない。
地主の息子は屋敷の縁側に腰を掛けて、空を見上げた。息子にはうさぎは一羽しか見えない。もしもあのうさぎがだれかのために餅をついているのか、それとも自分のために餅をついているのか、気になって仕方がなかった。
そして、なぜ、餅をつく、という動作をしているのかも。
息子はまだ幼く、それが月の陰影であることも分からない。物語で聞かされた一羽のうさぎの、孤独な話にしか聞こえなかったのだ。
その日以来、息子は満月を心待ちにするようになった。
満月になれば、うさぎに会える。うさぎに会えたらあのうさぎは一人じゃない。
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ただ、息子はあの月に住むといううさぎに会いたかったのだ。
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