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第十二章 青葉に触れて、口結ぶ
其の一:青葉に触れて、口結ぶ
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路面電車が緩やかに加速する、開け放った窓から入り込む涼しい風と、青葉の匂いが鼻をくすぐる。人々は洋装と和装を好みで身に着けて、街を闊歩する。近代化した建物と古めいた和風家屋が並ぶ通りを、馬車よりも早く市電が駆け抜けていく──。
鬱蒼とした梅雨が明けたかと思えば、強めの日差しが書斎に差し込んでくる。縁側に寝ていたちびが暑そうに、書斎の奥へと逃げてきた。
白猫だから熱を吸収しにくいかと思ったが、そうでもないようだ。荻窪はそんなちびを見ながら、万年筆を片手で弄びつつ、文机に向かっていた。
いまだに身体に残る高梨の感触は、時折思考を乱していくものだから、なかなか筆が進まない。それを高梨のせいにばかりしていてはだめだと言い聞かせながら、荻窪は自身で用意した冷えた茶をごくりと飲んだ。
いつの間にか、高梨が淹れた茶のほうがうまいと思うようになった。
自身の好みで淹れたつもりがやや渋みが薄いと思ってしまう。最初のころはあの渋みがなければな、などと思っていたのがうそのようだ。
書斎の奥に寝転んだちびの、どすん、という音が響く。いつの間にか成猫になって重くなったちびの、ぽてりとした身体を思い出して、荻窪は低く笑った。この前獣医院で身体検査をしてもらったときは確か、一貫目弱(三・七五キロほど)だっただろうか。程よく育っているようで、荻窪は安堵していた。
高梨がちびへ、と贈ってくれた絹の飾り紐を結んだ首輪は、いまでもちびのお気に入りだ。体格が大きくなるにつれて、高梨は細やかに合わせて、いつの間にか変えていく。絹は高いから、と辞退しようとすれば、「これは端切れだから気にしないでください」と笑顔で先手を打たれてしまうのが常だった。
ともすれば、いつだったか香世の店に譲ったみけにも、ちびとお揃いの首輪を贈っているらしいと香世の小言を耳にした。
かかかか、と身体を掻く音が響く。ふす、という鼻息と、もそもそと寝位置を調整する音、そして、すん、と納得したかのような息がしたかと思えば、すぅすぅと寝息が聞こえ始めた。
猫は静かだ。だが、その静けさの中にも生きている音がする。
荻窪は静かに笑うと、手の中の万年筆をくるりと回した。
***(荻窪の怪談)
とある山でとある噂が流れるようになったのはいつのことだろう。
一人で提灯を揺らしながら山道を歩いていると、背後から足音がする。誰かがいるのかと振り返っても、誰もいない。
振り返ってもただ、視界に広がるのは闇ばかり。人っ子どころか、獣も一匹、居やしない。
なにも居ないことを確かめて、また歩き出すと背後から「ぺたぺた」と足音がする。そもそも、山道だ。砂利や石が転がっている獣道のように細く乾いた道で、そんな水気を含んだ足音がするだろうか。
そう思い立って男は背筋に冷たいものを感じた。
この山には底なし沼があるという。一体何人、何匹の生き物を飲み込んできたのだろう。ただ、底なし沼の噂はあるが、どこにあるのかという明確な場所はだれも知らなかった。
知るころには、沼の奥底へと飲み込まれているのだから。
空恐ろしい口伝である。
男は背筋を震わせながら、夜道を歩く。背後で「ぺたり、ぺたり」と足音が付いてくる。付かず離れず、同じ距離で。
堪らなくなって背後を振り返って提灯で照らしてみても、ただ、闇が続くのみ。
男は我慢できずに走り出した。焦るあまり、草履が石に引っ掛かり、勢いよく転んでしまう。
「ぺたぺたぺたぺた、ぺたり」
足音も男に合わせて走ってきていた。
そして、転んだところでぴたりと止まる。
「あ、あんた、なんなんだ! 俺になんの用があるってんだ!」
叫んでみたところで、返答など返ってくるはずもなく、声は虚しく木々に吸い込まれていく。足音だけだと思っていたそれは、徐々に気配を露にし出した。
男は転んで膝を怪我してしまい、なかなか痛みで立つことができないでいると、徐々に気配が強くなる。
見えないなにかが、闇に隠れて膨らんでいく──。
そんな気配だけが、男を取り囲んでいた。
鬱蒼とした梅雨が明けたかと思えば、強めの日差しが書斎に差し込んでくる。縁側に寝ていたちびが暑そうに、書斎の奥へと逃げてきた。
白猫だから熱を吸収しにくいかと思ったが、そうでもないようだ。荻窪はそんなちびを見ながら、万年筆を片手で弄びつつ、文机に向かっていた。
いまだに身体に残る高梨の感触は、時折思考を乱していくものだから、なかなか筆が進まない。それを高梨のせいにばかりしていてはだめだと言い聞かせながら、荻窪は自身で用意した冷えた茶をごくりと飲んだ。
いつの間にか、高梨が淹れた茶のほうがうまいと思うようになった。
自身の好みで淹れたつもりがやや渋みが薄いと思ってしまう。最初のころはあの渋みがなければな、などと思っていたのがうそのようだ。
書斎の奥に寝転んだちびの、どすん、という音が響く。いつの間にか成猫になって重くなったちびの、ぽてりとした身体を思い出して、荻窪は低く笑った。この前獣医院で身体検査をしてもらったときは確か、一貫目弱(三・七五キロほど)だっただろうか。程よく育っているようで、荻窪は安堵していた。
高梨がちびへ、と贈ってくれた絹の飾り紐を結んだ首輪は、いまでもちびのお気に入りだ。体格が大きくなるにつれて、高梨は細やかに合わせて、いつの間にか変えていく。絹は高いから、と辞退しようとすれば、「これは端切れだから気にしないでください」と笑顔で先手を打たれてしまうのが常だった。
ともすれば、いつだったか香世の店に譲ったみけにも、ちびとお揃いの首輪を贈っているらしいと香世の小言を耳にした。
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猫は静かだ。だが、その静けさの中にも生きている音がする。
荻窪は静かに笑うと、手の中の万年筆をくるりと回した。
***(荻窪の怪談)
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なにも居ないことを確かめて、また歩き出すと背後から「ぺたぺた」と足音がする。そもそも、山道だ。砂利や石が転がっている獣道のように細く乾いた道で、そんな水気を含んだ足音がするだろうか。
そう思い立って男は背筋に冷たいものを感じた。
この山には底なし沼があるという。一体何人、何匹の生き物を飲み込んできたのだろう。ただ、底なし沼の噂はあるが、どこにあるのかという明確な場所はだれも知らなかった。
知るころには、沼の奥底へと飲み込まれているのだから。
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