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第38話 俺には彼女を救うことができない

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「な、なにがおかしいんだ!」

「あー、ほんとバカだわお前……自分で考えてみろよ」そう言いながら男はおもむろと立ち上がり、怠そうに歩き出す。

 緊張が走る。いったい何をするつもりだ。
 男は怠そうな足を止め、散乱した段ボールから何かを取り出した。お手玉のように宙を舞うそれがなんなのか、この暗さと距離では分からない。

「見せてやる」

 つかつかと戻ってきた男は乱雑にテーブルへ投げ落とした。それは粉の入ったジップロックだった。

 まさか、まさかだろう?

「これは……?」

「ははっ、見て分かんねえか馬鹿じゃ」

 男はジップロックを開けて、いとも簡単にそれを逆さまにする。当然、中に入った粉は落下してテーブルに粉塵を立てて広がっていった。男は更に、粉を指で摘み上げ、上からぱらぱらと擦り落とす。まるで塩をフライパンの中に落としていくように。

「助かるわけねえだろこんなモンが。はははっ」

 ぷつん――。

 頭の中で何かが切れる音がした。
 次の瞬間、俺は、勢いのまま床に転げ落ちていた。他人に対して初めて放ったパンチは、見事にかわされてしまったのだ。

 この野郎――微笑で俺を見下ろしている男に、再戦を誓う。

「まあ落ち着けって」

「ころす」

「くくくっ」

 何がおかしい。
 俺は立ち上がりこぶしを構える。2発目を振りかぶった、でもその瞬間、男は言った。

「もう2度と会えなくなってもいいのか?」

「……くっ」

 魔法をかけられたかのように、俺の動きは止まった。
 最悪のシナリオ――それは何かしらの方法を以ってコイツにサクラが消されること。それが瞬時に頭へ浮かんで、怒り狂った俺の頭は徐々に沈下していき、冷静に近付いていく。

 人質を取られた家族って、こんな気分なんだろうか。
 2度と会えなくなることよりも、俺が恐れたことはサクラそのものが消えてしまうことだった。

「おら、殴ってみろ。ここ空いてんぞ」

「うるさい……」

「ははは。本当しょうもねえ奴だな」

 冷静はいつの間にか通り過ぎていった。というかむしろ、気力はどんどん削がれていって、もはや無気力状態の一歩手前だ。

 俺はもう、立ってることもやっとだった。
 無力だ。俺はクソだ。

「彼女は……彼女はこのあと、俺との契約期間が終わったら、粉になる……そのあとは、もう同じ彼女は存在しなくなる……それは本当か?」

「よくお勉強しましたねー」

「じゃあこの1か月間はなんになる? まるで何もなかったことになるって言うのか?」

「だから最初に言ったろ。キャバ嬢に恋なんかしてんじゃねえよって。期間が終わって粉になったら最後。全てが消える」

 全てが、消える。
 そこにサクラはいたはずなのに。

 笑ってドライブをしてたのに。
 一緒にお菓子の家を作ったのに。
 あんなに美味しそうにケーキを食べていたのに。

 その全てが人工であり、粉であり、そもそも彼女自身は最初からこの世に存在していない。

「もう……本当に彼女は戻れない……ですか?」

「しつけぇな」

「もしできるなら俺、なんでもしますから」

 今ならなんだってできる気がした。
 サクラの身に起きていることを考えたら、これ以上に悲しいことなんて無いと思った。

「そういうやつに限ってなんでもしないんだよな」

「いやします! 可能性があるなら、ある限りなんでもする。だから教えてくれ! 彼女は本当に、もう、戻れないんですか?」

「……面倒くせえな」

 男は頭を掻いてから吐き捨てる。

「戻れねーよ」

 戻れねーよ?
 絶望的なその言葉を反芻するより先に、男は付け加える。

「例外を除いてな」

「例外……?」

「はい終了。もう俺忙しいから帰ってね」

「ちょっと待ってくれ、お願いだからもうちょっと!」

「はああ、お前なに? ただで教えてもらおうってちょっと図々しいんじゃねえの?」

 男はニタニタと笑う。
 案外いまの俺でも、何が言いたいのかは分かった

「……いくら必要なんだ」

「逆にいくら出せんの?」

 交渉術なんて持ち合わせていないことを後悔した。俺はハニーパウダーを振り込んだ日から一体いくらを口座から引き出したのか、必死に記憶を辿ってみる。とはいえ残高はもう大体予想は付いているのだ。パウダーで殆どの預金を使い果たした俺に、遊べるお金は残っていない。

 その結果、俺はやっぱり胸を張れる数字を言うことができなかった。

「ご、ろく、まん……」

「嘘つけよ。パウダー買ってるくせにもっとあんだろ」

「いや本当に。パウダーを買って殆どが無くなった」

「本当ゴミなんだな」

 ふふふ、と嘲笑を浮かべる男。

「もう帰れ。とにかく、それしか持ってないんじゃ人間に戻すことなんて無理無理」

「金か? 金があればできるのか?」

「まあ、できなくもないかな」

 お前には関係ないよ、と言ってるような口調だ。つまりはお前なんかには手の届かない金額が必要なんだ、ということだろうか。

 男は俺が貧乏だと知った。だからなのか得意げな物言いは続く。

「10億だぞ?」

「え」

「10億用意してきたら人間に戻してやっても良いぞ」

 俺は分からないふりをした。
 認めたくなかったのかもしれない。
 自分じゃサクラを救うことが出来ないということを。

「どういうこと?」

「ほら帰れ」

「10億円、て嘘だろ?」

「早く帰れって」

 俺は胸を小突かれ、また更に小突かれ、どんどん後ろに下がっていった。

「お前さあ舐めるなよ? たった数万しか持って来れねえくせによ」

「ちょっと……ちょっと待って――」

「どいつもこいつもその程度なんだからな」

 入口まで後退した俺は、最後に勢いよく胸を突かれてついに部屋から追い出された。より一層暗くなった視界で男は、血も通ってないような目で俺を見下ろした。

「てめえが犠牲になる覚悟もねえんだから、帰れ」

「犠牲なんか――」

 鉄の扉が勢いよく閉められて、暗い階段に轟音が響き渡る。

「いくらでも……なって、やるう……」

 もう何も考えられなかった。
 無力、無気力、無感情。

 いつの間にか俺は足を動かして階段を下っている。地上までの距離を減らしていると、いつの間にか轟音の余韻が消えていた。キインと静まり返った階段。

 外に出ると表通りの喧騒が流れ込んでいた。ついでに酔っ払いもこの裏通りには流れ込んでいて、強いギャップを俺は感じた。風はうんと冷たくなっていて夜の深まりを意識させられた。

 そういえば最近真夜中の散歩をしなくなった。
 黒い夜の下で歩いたのは、もうずいぶんと昔の出来事に思えて仕方がなかった。


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