天底ノ箱庭 春告鳥

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5章 狼は彼と空に行きたくなりました

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煌びやかなネオンカラーの派手な電光看板の下ぼんやりと火照った体を冷ますように夜風にあたる。
といっても自然に生まれる風ではなく、この地下空間で二酸化炭素や汚染ガスなどが充満しないように空気を清浄し風に見立てて吹かせている人工的な風だ。地上にいるころは考えたこともなかったが、きっと同じようなシステムが上のシェルターにもあるのだろう。
この地下世界での常識を学ぶと地上にいることは当たり前だった環境システムのテクノロジーの技術に驚かされる。
「おーまたせー!」
店の裏口から軽やかな足取りで出てきた明嵐が周囲に聞こえないよう小さな声で俺に呼びかける。なんだか目を合わせるのが照れくさくて俺は少し視線を下に落とした。
以前から彼の働く様子が気になっていたといえば気になっていた。だからと言って事細かに聞き出すのもなんだか気が進まなくて、悩んだ末に店の公式HPからこっそり予約を入れて客として利用してみた…と、言うのすら口実で…。
今日のプレイを通して明嵐に対するもやもやとした気持ちに対して整理を付けるのが目的だった。
最近の明嵐はことある事にキスしてきたり、顔を合わせれば好きだと伝えてきたり…以前より明るくなったが甘えん坊になった気がする。
それは別にいいんだ。いいんだが、なんというか…明嵐にそういうことをされるとなんだかいい気になるし、夜の行為なんかすると前より胸が苦しいような…別に嫌な訳ではなく。
何となく、何となく自分の気持ちには気付いていた。俺は明嵐にすっかり絆されてしまって、好意的な気持ちを抱いてる。その傍らで、過去にあいつがしたことをまだ根に持ってる気持ちもあった。
無理やり抱かれるなんて日常茶飯事でケツを叩かれてみたり、何度もイかされて…あと首も締められた。思い返せばキリがない。
下ばかり見ている俺の背中にごしごしと何かが押し付けられて顔を上げる。明嵐が隣で「つまんない」と言いたげに口を尖らせて、犬らしく頭で肩を小突いていた。
「ああ…そうか、すまないぼーっとしていた」
さっきまで家以外の場所で普通に喋っていたからすっかり忘れていた。今は明嵐が犬で俺が人間、こいつのご主人様なのだ。
カバンに入れていたリードを引っ張り出して明嵐のうなじの金具に繋ぐ。
普通は首輪なんか付けられたら屈辱だろうに、彼はリードを繋げられたのを確認すると満面の笑みを浮かべる。
俺は明嵐のリードを引くでもなく並んで歩く。明嵐は少し周囲を見回し、俺の肩に触れるほど近くに寄ると控えめに手の甲で俺の手をつついた。
「…?どうした?」
俺が彼に声をかけると、彼はチラッと目線だけ寄越して俺の小指に指を絡めてくる。
ああ、多分手が繋ぎたいんだろう。最近家の中でも無意味に繋いできたりするんだ。
明嵐の手に指を絡めると彼も俺の指に絡ませる。
そのまま、また俺たちは歩き出す。
最近の明嵐の行為はとても優しくて、時には自分は入れないで俺ばかり気持ちよくさせて終わるなんてこともあるくらいだった。
あんなに性欲が強いなんて言っといて…だからこんなに絆されてしまうのだと思った。
だからあえてSMクラブの客として、演技でも1度彼に手酷く抱かれたいと…あの時の気持ちを思い出して彼を憎むのかどうか自分を試したかった。
「はーーつかれた!」
屋敷の扉をくぐると明嵐は吐き出すように声を発する。彼は普段から口数が多いから、黙っているのは疲れるのだろうか。
「…おつかれ」
「んーふふ」
労いの言葉をかけると、彼は目を閉じてご機嫌そうな笑いを漏らす。
「今日は最後がボーナスタイムだったから気持ちは元気!」
どう考えても俺の事言ってるんだろうが、そんなにご機嫌になるくらいなのかと思うとやはり悪い気はしない。
「そうか、そりゃよかったな。今日は知っての通りまだ風呂を沸かしてないから先に飯にしようか」
そう言うと明嵐は「ほーい」と間抜けた返事をしてキッチンへと入っていった。
その間に風呂に湯を入れようと俺は浴室に向かう。
結局、プレイの演技とはいえ明嵐に手酷く抱かれようとも嫌悪感は湧かなくなっていた。
あえて手を拘束させて、バイブだって使わせた。プレイ希望内容とかオプションとか書き込むの凄く恥ずかしかった…。
「そこまでやったのに…結局楽しんだだけか…」
正直普通に楽しんだと思う。気持ち良かった、凄く気持ち良かった。
俺は浴室のひんやりした壁にコツンと額をつける。
明嵐とは友人か…家族のような関係で、もしあいつが一緒に地上に来てくれるなら、アパートとか借りて今みたいに2人で暮らして…とか考えてた。
明嵐が俺を好きなのは何となくわかってて…だから喜ぶんじゃないかなって期待する気持ちはあった。あったけど…。
「俺が…?」
俺なのか…?好きになったのは俺じゃないのか!?
横顔とか…寝顔とか…見てる時そんな気はしてた。面と向かうと何だか照れくさくて見れなくなる理由がわからないほど鈍くはない。
「そろそろ戻らないと…不審がられるか…」
まだ蓮岡と相談した件についても話せていないというのに、話しづらい件がまた増えた。どうするんだ…。
火照りの抜けない頭でリビングへともどる。部屋の中には既に夕飯のいい匂いが漂い始めていた。
「あ、クリフ!随分遅かったけど…もしかしてまた転んだ?大丈夫?」
炒飯のはいった器を両手にキッチンから出てきた明嵐が俺に声をかける。
「あ、いやなんでもないし何ともない」
「そう?チャーハン作ったから食べよ!」
彼はテーブルに2人を向かい合わせに並べる。明嵐は定位置に腰掛けると、向かいに俺が座るのを待ちながら思い出したように話し出す。
「そういや、俺の仕事っぷりどうだった?痛すぎるとかなかった?」
「んぶっ…」
突然ふられた下の話に思わず飲んでいたお茶を噴き出しそうになった。
「お前な…食事中にそういう話普通しないぞ…?」
「え?そう?調教師仲間とか結構普通に話すけどなあ?」
意外そうに彼は首を傾げる。それはそういう業界の中の話じゃないのか。とツッコミたい気持ちをぐっと堪える。
「でも、お客さんからフィードバックなんかそうそう貰えないから、悪い点だけでも…」
ちょっとバツが悪そうに肩を竦めて彼はチャーハンを運んでいたスプーンを口にくわえてもごもごする。
「…よ…よかったよ…」
「ホント!?良かったー、スパンキングまだ俺へたくそだから心配したー!」
へへっと溶けた見たいな笑顔を浮かべて彼は再びチャーハンを食べ始める。
「…明嵐は…その…客とする時…よくやるのか…キス…とか……」
行儀が悪いと思いつつ、スプーンの先で炒飯をいじいじと少しずつすくいながら聞こえているか不安になるくらいの小さな声で問いかける。
それに対して明嵐は口元にいつもの笑顔を浮かべたまま大きな口でチャーハンを頬張る。
「んー?今の仕事ではあんましないかなあ。ガチ恋されたら困るし、ベロ入れたりすんのはクリフだけだよ」
オプションとかでも付けられないんじゃないかなと、モグモグしながら彼は答えた。
「…そうか…まあ…別に深い理由はないけど」
嘘だ。彼の答えに内心安堵している自分がいる。
たとえ仕事で肌を重ねても、キスは自分だけなんて言われると喜んでしまう。
顔をチャーハンに向けたままチラッと上目遣いで明嵐は俺を見ると、彼はまたスプーンを咥えたままもごもごと喋る。
「…あと、俺もちょっとお願いあるんだけど…」
「ん…なんだ?」
彼に視線を向けると、明嵐はちょっと気まずそうに、というか照れ隠しをしたいような目線の泳がせ方をする。
「んー…クリフ、そのうち地上帰っちゃうじゃん…?」
「えっ…いや…ああまあ…その、つもりではあるが…」
明嵐はこちらを目線だけで見る。その目にはどういう感情が含まれているのか、俺には分からなかった。
「だから、地上帰る前にその…たまには下の名前で呼ばれたい…」
お願いだなんて言うから、どんな難題を言い出すのかと思えば下の名前で呼ばれたいなんて簡単なことで少し拍子抜けだった。
思えば前にもこうして下の名前で呼ぶことをせがんできたことがあったっけか…。
あれから喋ることを禁止されて下の名前で呼ぶほど親密でもなかった彼の事はずっと明嵐と呼んできたが、今ではあえて苗字で呼ぶ必要もなかった。
「…幸樹」
静かにその名前を口にする。改まって呼んでみると何だか顔に熱が集まる感じがする。
俺に名前を呼ばれると、表情のよめなかった顔をパアッと輝かせて今までに見た中でも1、2を争うほど嬉しそうに笑った。
「やっとクリフに呼んでもらえた!」
幸樹は鼻歌を歌いながら食事を再開する。
その姿を何だか「可愛いな」とか思うのはどうなんだろうか…。
何だかもやもやとした鼓動を抱えたまま俺は炒飯を口に運んだ。
食事が済むといつものように俺が皿を洗ってる間に幸樹が風呂に入る。
俺は皿を洗うから先に入ってこいと言うと何故か少し残念そうに肩を落として風呂場に消えていく幸樹を見送った。
幸樹と入れ替わりに俺も風呂に入る。ふと店で叩かれた箇所を鏡で見るが、痕も痛みも残ってはなかった。きっと加減してくれたのだろう。サービス業だからまあ当たり前といえば当たり前なのだが…何だかそれが少し嬉しく感じる。
「明嵐…そろそろ寝ようか」
風呂から出て寝室に行くと、幸樹はベッドでうつ伏せになって珍しく本なんか読んでいたが俺の言葉に顔だけこちらに向けて、ちょっと不服そうに口をへの字に曲げる。
「…苗字なの?」
「…あ、そうか…幸樹だったな」
俺が言い直すと幸樹は機嫌を直したのか目を細めて本を閉じた。
「なあ…どうしてそんなに名前で呼ばれたいんだ」
毛布の中に出来た彼の隣のスペースにもぞもぞと潜り込む。隣でスタンドライトを切ろうと手を伸ばす幸樹に何となく尋ねる。
幸樹はこちらを少し驚いたような顔で見ると、またいつもの笑顔を浮かべて横になる。
「…別に同情を誘う気はないけど、卑屈な話してもいい?」
「俺は気にしないけど…お前はいいのか?」
ただ何となく質問してみただけで、そんな深い話に発展するとは思っていなかった俺は逆に質問し返す。話しづらい事だったら無理に聞くつもりはない。
彼は何と返事をするでもなく、寝転んだままおどけたように肩を竦めた。
「いや、大した話じゃないんだけどさ。俺よくクリフにみっともないとこ見せてるから、ちょっと照れるだけ。見損なわれないなら全然話す」
「そんなことはしない。話してくれるんなら聞かせてくれ」
幸樹は口元を笑顔にしたまま、もぞもぞと傍に寄ってきて俺を抱き枕のように抱きしめた。
「んとねー、俺のおとんは優樹って言うんだけど、双子かってくらいそっくりだったんだ。イキウツシって言うの?」
前にこの屋敷のどこかで写真を見た気がするな…確かに一瞬本人かと思った記憶がある。
「ああ…確かに…」
「えっ?知ってんの?」
幸樹に言われて俺ははっとする。あの写真は彼の両親の部屋で、しかも勝手に探索してた時に見たものだ。
「あっ…えっと…そんな気がしたというか…」
苦しい言い訳をする俺に、幸樹は開いた目を薄めてニヤリと笑う。
「みーたーなー?」
「うっ…す、すまない…」
「まあ、話が早くていいや」
ケロッと彼はその話を流すと、話を続けた。
「おとんは犬で、調教師のおかんが気に入って買ってきたんだ。おかんはその犬が好きで好きで好きで大好きだったから、毎日虐待して、性格をねじ曲げて、犯して、そのうち俺を身ごもって産んだわけ」
何だか身につまされるような話に少し彼の父親に同情する。幸樹の虐待癖は母の遺伝なのだろうか…。
「俺は人間として出生届けがあったから身分は人間だったけど、父親にそっくりな俺を見て、もう1人同じ人間を作ろうとしたんだ。虐待して、ねじ曲げて、幸樹って呼ばないで俺を父親と同じ、優樹って名前で呼んだ。俺の名前を呼ぶのは父親だけだった」
そこまで言うと、彼は俺の頭に頬を寄せてすりすりと擦り付ける。
「まあ、おとんも俺が10歳の時に虐待された怪我が原因で死んで、俺は晴れて第2の優樹デビューを果たしたわけ」
先程軽く同情していた父親が話の流れであっという間に亡くなり、なんだか自分ぽっちが同情して申し訳ない気分にさせられる。
1人反省する俺をよそに幸樹は話を続ける。
「俺は父親と同じにならないといけなかったから、髪も伸ばしたらいけなかったし、口調も真似しないといけなかったし、母親の仕事を手伝えるだけセックスも上手くないといけなかった。飯を食う仕草も歩き方も、ちょっとでも間違ったら手酷く叩かれて檻に入れられた。人間って名ばかりでほとんど犬だったよ」
話し続ける幸樹の顔は俺の肩に乗っていて見えない。彼の背中を優しく撫でるとすがるように抱きしめてくる。
「だから、下の名前で呼ばれないとたまに自分が本当に存在してんのか分からなくなる。自分のことを別人だって錯覚してるだけの『優樹』なんじゃないかって思うんだ」
そこまで言うと彼は一息ついて言う。
「…だから、クリフが俺の名前を教えてもないのに呼んでくれたの、本当に嬉しかったんだ」
幸樹はずっと気まぐれに俺を陵辱したり可愛がってみたりしているものだと思っていた。
心のどこかで、また自分を酷く虐めるのではないかと心配していたのかもしれない。
だけど彼の行動にはそれなりの行動理由が存在したのだと、今の話で繋がった気がした。
最初に俺を無理矢理犯したのはそれがこの世界の常識、処理用犬の普通の使い方だったからだ。
急に優しくなったのは俺が彼の名前を呼んだから。そんな相手に裏切られて憎しみが生まれた。
それでも名前を呼んでくれたってだけの過去に縋って、許そうとしたんだ。
俺は小さく震える幸樹の背中を強く強く抱き返す。耳元で小さく鼻をすするような音が聞こえたが、それを誤魔化すように彼は笑った。
「クリフが俺の名前呼んで、触れて、こうやって話を聞いてくれるだけで存在してていい気がするから嬉しい。俺、今めっちゃ幸せ!」
湿っぽい空気をなんとかしようとしてるのか明るく言うと、彼は俺の肩から顔を上げて俺の額に自分の額をくっつけた。
「だから、地下にいる間だけ…もうちょい下の名前で呼んで」
『地下にいる間だけじゃなくて、地上に行ってからも…』そう言おうとして、俺は言葉につまる。
そこまで言うのに、幸樹は俺が地上に帰る話ばかりで『自分も』とは一言も言ってくれない。
やはり地上に来るのは嫌なのだろうか…正直、誘って断られたらなかなかに辛いしこれから数ヶ月が気まずい。
黙りこくる俺に幸樹は不安そうに眉をひそめる。
「…ごめん、やっぱ無理?無理なら断っていいよ」
また叱られるのを怖がる子供のような表情をした。彼は不安がる時よくこんな表情をみせる気がする。
「…幸樹」
おずおずとこちらに目をむける幸樹の両頬に手を添えて、彼の口に自分のそれを重ねてみる。
最近よく幸樹からしてくるから、てっきり慣れたものかと思っていたがいざやってみるとなかなかに…恥ずかしい。
舌のやり取りをするでもなく、そのまま口を離すとぽかんと呆けた幸樹の顔が目の前にあった。
「…されるより、する方が照れるな」
妙な沈黙を誤魔化したくて素直に感想を述べると、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「じゃあ、やっぱ俺からガンガンいかないといけないやつだ!」
「え、あ、いや…そう言う意味で言ったわけじゃ…」
戸惑いながら弁解しようとしたが彼は早速俺を抱き込むように深くキスを落とす。
「めっちゃ好き!大好き!」
口を離したかと思えば出てくるのは熱烈なラブコールだ。頬や額、最早顔のどこでもいいと言わんばかりにキスの雨を降らして、最後に戻ってくるのはやはり唇。唇を何度も重ねてから、不意に食べるようなキスになる。
想像通り唇の隙間に暖かい水気を含んだ感触がする。最近キスをよくするようになって気が付いたが、彼はかなりこの行為も好きなようだった。
「んー…!」
口を塞がれたまま幸樹の胸板を少し強めに叩く。
しかし彼の舌はお構い無しに隙間から舌先で俺の歯をなぞった。これはもう満足するまで離さないやつだが、どこか満更でもないと思っている自分がいる。
抵抗するのをやめて彼の舌を受け入れると、待ってましたと言いたげな舌先が慣れた様子で絡みに来た。
しばらくその行為を繰り返すとふと口を離した幸樹が嬉しそうににやにやしながら俺を見る。
「…今日めっちゃくっついてくれんの嬉しくて爆発しそう!」
「べ、別に…いつもと同じだろ」
意識したつもりはなかったのに、そんなに寄り添っていたのだろうかと内心焦る。
言われてみれば肩に添えた彼のがっしりとした腕が、俺を支えてくれていた。
「もっとキスしていい?」
そう言いつつすぐそばまで迫った彼の顔に俺は笑って答える。
「ダメって言ったら聞くのか?」
「うー…命令なら…」
幸樹は近づけた顔を少し離して眉をひそめた。限りなくブーイングに近いニュアンスの声だ。
「冗談だ、いいよしても」
彼は、ぱあっと音がしそうなくらいの笑顔を向けてまた俺に顔を寄せる。
その後、幸樹が満足するまでただひたすらに唇や舌を絡ませ続けた。

「ゔー…仕事めんどくせぇ」
「俺が言うのも何だが…がんばれ」
結局、幸樹はひたすらにキスをしすぎて気付けば明け方になっていたのにはさすがに驚いた。
最近彼といると時々時間の流れが早くって困る。
「ほら出来た。急がないと遅刻するぞ」
2人して起きたのは昼過ぎになってからだった。昼ご飯にも遅い朝ごはんを食べながら、まだ寝ぼけてる幸樹の髪をといたヘアブラシをテーブルの横に置き彼の背中を急かすように叩く。
彼は目の前のスクランブルエッグをまるで白飯のように口にかきこみ、雑に皿の上を完食する。添えられたロールパンを握りしめて、彼は玄関へと向かった。
「いっへひまーふ」
まだ飲み込みきれていない口の中をもごもごさせながら、彼は靴を履きながら玄関を飛び出す。
俺もロールパンを咥えながら足早に家を出る幸樹を見送り、腕時計のメールをチェックする。
今日は蓮岡が役に立ちそうな資料を見つけたからそのコピーを持ってきてくれる約束をしていた。
彼が来る前に大方の家事を済ませてしまいたかったのだが、今からやって間に合うだろうか。
寄りによって今日は洗濯の日でなおかつシーツを洗おうと思っていたんだが…。
…ピンポーン。
何とかやること一通りやり終えた頃に玄関のチャイムがなる。予定より随分遅い時間だがなにかあったんだろうか。
扉を開くと、走ってきたのか珍しく膝に手をついて肩で息をしている蓮岡がいた。
「遅くなってしまい、大変申し訳ありません。途中までワゴンだったのですが、故障したのか動かなくなるトラブルがあり、徒歩で来ました」
「ああ…大丈夫だ、いつも来てもらってすまないな」
あのポンコツワゴン…ついに限界を迎えたんじゃなかろうか…。だいぶガタきていたようだったからな…。急いで来てくれたのは有難いがそれよりも先に彼も息が上がったりするのだなとしみじみ感じてしまう。彼を中に迎え入れ、買っておいたお茶菓子を出しながらふと蓮岡に向き直る。
「…コーヒーよりお茶の方がいいか?」
「…どちらでも構いませんよ。お構いなく」
上がった息を整えながら、彼は上まできっちりしめていた襟のボタンを一つだけ開けて深く呼吸する。
…お茶にしよう、冷蔵庫の麦茶をコップについでテーブルに置く。
「それで、資料って言うのは?」
早速、俺が尋ねると蓮岡は持ってきたカバンから封筒を取り出してテーブルの上に置いた。
「前に言っていた地上に買われた少女の地下での記録と地上での告訴騒ぎについての資料です。ついでで珠女さんのご親族が捨てた会社の現状について僕なりにまとめましたのでご参考までに」
「地上の…?よく手に入ったな…」
置かれた封筒を手に取りしげしげと眺める。
中身は見えないが重さからして中には数枚紙が入っているようだ。
「ええ、まあ…いいものをお借りましたからね」
彼は表情を変えないが、その口調には何か含みがあるようにも聞こえた。
そういえば名前を貸したんだっけか…妙なことに使われていないことを祈ろう…。
「…そうだ、あと聞きたいことがあったんだ」
俺は受け取った封筒を再びテーブルの上に置き蓮岡に視線を戻す。
「地下に売られた人間の…俺が地上にいたって情報が残されてるとしたら…どこを調べるのがいいと思う?」
「そうですね…家はあてに出来ないでしょうね、父親が貴方を売って逃げたとなると家が残されている可能性すら低いでしょう。あと珠女さんは学生だったそうですが…そんなわかりやすい証拠を残したままにするほど商人達は抜けてないでしょう」
分かってはいたがどうも簡単には行きそうにない。親しい友人でも入ればまた違ったのだろうが、生憎友達と呼べるほど深い関わりをした人間がいたことはなかったな…。
「病院の出生記録や住民票も全滅でしょうね。でなければとっくに地下への売買なんて話題になって大々的な取り締まりが行なわれてるはずですよ」
「…確かに人の売買どころか地下世界の存在すら、地上の誰しもが知らないと思う」
地上と地下は日常的に物資のやり取りをしている。
日光がなく土が汚染された地下世界では、人間以外の動物が殆ど生きられない。そんななかでも肉や魚、卵などが高級なりに出回っているのがいい例だ。俺たちのような地上から連れてこられた犬というのも、それらのひとつなんだろう。
「珠女さんの残された記録について、何か良さそうな目星が着いたらそちらもまとめておきましょう。ヤマが当たる保証は出来ませんが」
蓮岡は持ってきていたカバンのファスナーを締めながら付け加える。
「ところで、こんなことを尋ねるということは明嵐さんにはお話通せたんですか?」
「あ、いや…それはまだ…」
俺が歯切れ悪く返事をする。蓮岡に幸樹に打ち明けるよう提案されてから1ヶ月近く経とうとしているのに、俺はまだ踏ん切りがつかずに話せていない。
そんな俺に蓮岡は呆れるでもなく淡々と出された麦茶を口に付けた。
「…では、そろそろ代打を探しましょう。明嵐さんが信用出来ないなら、同じ境遇の犬に持ちかけてみる必要があります。まず、地下で成功している人間が3億も払って地上に出るメリットは何もありませんからね」
蓮岡の言うことはもっともだった。幸樹は地上に出なくたってやっていける。調教師としてかなり腕が経つと有名で、今働いている店でも新星だったかそんな呼び名で今じゃ予約必須の人気者になりつつあるとか…ないとか…。
「ただ、他の犬に提案を持ちかけた場合、そのまま珠女さんを買い戻すことなく逃げられる可能性は非常に高いです。よほどの信頼が置けなくてはまず難しいです」
喉が乾いていたのか、そこまで話すと蓮岡は麦茶を一気に飲み干す。
そんな信頼のおける相手を今から探すのはかなり難しい。上手い話に乗ってくるやつは多いだろうが、地上に出てしまえば簡単に裏切れる。
「…そもそも、他の犬に頼むなら、明嵐さんがあなたに譲った戸籍を誰かに譲ることになる…それはなかなか良心が痛みそうな選択肢だと僕は思いますが」
「…この戸籍は幸樹に返す。そこは譲れない」
俺が静かに首を横に振ると彼は静かに頷いた。
「では、早く明嵐さんにお話した方がいいでしょう。地上について彼も勉強しないとあなたを買い戻す前に路頭に迷う可能性もある。依頼主はあなたなので強制はしませんが、早いほど成功率もあがるでしょう」
「わかった…ありがとう…」
目を伏せたまま答えると彼は一拍おいて立ち上がった。
「ではお話はこれぐらいで、僕はそろそろお暇します」
蓮岡を玄関先まで見送ろうと彼について扉を開けると、ちょうど扉に手をかけようとしたポーズで幸樹がこちらを見ていた。
「ただい…あれ?蓮岡じゃん?」
「こんばんは」
蓮岡は何も驚くでもなくぺこりと頭を下げる。
「えっ、何してたの?」
「黙秘します」
幸樹の質問に蓮岡は即答すると、ふと思い出したように開けていた襟のボタンを締めて服装を整えた。
庭先の門へ向かってスタスタ歩き出す彼は思い出したように明嵐に振り返る。
「明嵐さん、外では喋らない方が今はいいですよ」
そう言ってまた軽く会釈をして去っていく蓮岡を見送り、幸樹はぽかんとした顔で俺を見た。
「…え、何してたの?」
今が彼に作戦を打ち明けるチャンスなのではと、俺は改まって幸樹を見つめる。
「その…実は…」
そこまで口にするがやはりその先を、伝えるのがいいかわからずに言葉につまる。
「…すまない、なんでもない。今日、早かったんだな。すぐ風呂の用意するから着替えて待っててくれ」
早口に伝えると俺は逃げるようにその場を立ち去った。
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