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1章 最高にイカれた誕生日

【第2話】7月6日 5時30分

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「咲凪(さなぎ)!咲凪!起きろ!目覚まし時計がうるさい!」

けたたましい目覚まし時計に耳を塞いで、布団にくるまったまま出てこようとしない俺の名前を呼びながら、兄が俺のベッドを蹴り飛ばす。カンカンカンと鐘を打ち付けて鳴るステレオタイプの目覚まし時計が蹴られた拍子に地面へと落ちて、バタバタと床を暴れ回った。

兄貴はいつも短気だ。そんな荒っぽい起こし方しなくたっていいのに。

「咲凪!早くしろ!遅刻するぞ!」

「もう遅刻でいいよ…」

「よくない!」

くるまっていた毛布を兄が剥ぎ取る。急激に冷え込む身体に俺は丸くなるが、兄は毛布をそのまま床に投げ捨て、床で暴れまわる目覚まし時計を捕まえた。チンと小さく鐘の音を残して止まったその目覚まし時計を小脇に抱えたまま、兄は俺の背中をぐりぐりと足で押す。

「ほら、早く学校行けよ。もう高校3年目も折り返しだ。そろそろ進路決めて、ちゃんと学歴つけて立派な社会人になってくれ」

「めんどくさ…」

渋々と俺は身体を起こす。隙間風だらけのこの部屋は年中寒い。始まったばかりとは言え、一応は暦では夏だ。

7月6日、早朝5時半。もう空は明るくなってきていた。

周囲に広がるのは見慣れた俺たち兄弟が暮らすワンルームだ。薄汚いフローリングと、昔は白かったはずの黄ばんだクロス張りの壁。隙間風がひどくて、この部屋はいつだって風通しがいい。真夏ともなれば、逆に風通しが良くて助かるまであるが。

最低限の家具だけが揃えられたこの部屋でベッドは俺が寝ている、この子供用シングルベッドだけだ。兄はいつもその下に敷かれた布団で寝起きする。兄の布団は寝る時以外は彼が自ら押し入れに片付けている。そうでもしないと、俺たちが住む居住空間は狭くてかなわなかった。

俺と兄の火継(ひつぎ)は6歳も年が離れていて、火継は高校から交通系のバイトをしていた。大学には行かず、そのまま就職すると俺を学校に行かせるために昼夜問わず働いてる。今は俺の大学資金を貯めているらしい。

別に俺はそれを頼んだ覚えはないし、さっさと働いても良かったのだが、火継いわくは学歴がないのは将来ネックになるらしい。

俺は手櫛で髪を整えて、ジャージから適当な服に着替える。金がないから、ワンセットまるまる安物のTシャツとカーゴパンツだ。食卓に置かれたおにぎりと学生鞄を手に、俺はそのまま寝ぼけ眼で玄関へと向かった。

握り飯は火継の特製塩にぎり。大体毎朝これだ。なんたって金がねえ。仕方ない話だ。近所のパン屋で乞食してきたパン耳じゃないだけラッキーってもんだ。

「気を付けて行くんだよ」

「兄貴もな」

玄関で靴を履く俺に、火継が身支度をしながら声を掛ける。俺はそれにいつもと同じテンプレート化した挨拶を返した。

アパートの部屋から出ると、今日も立派な曇り空だ。梅雨が去ったばかりで、ジメジメと身体に張り付くような湿気が出迎える。

まだ時間は6時前。錆び付いた手すりの階段を下る。昔は3階以上の建物にはエレベーターはつくものだったらしいが、俺たちの時代にはその決まりは廃止されたらしい。7階から俺は徒歩で1階までぐるぐると階段を回って降りた。

地面に降り立ち、ふと自分が住んでいるアパートを見上げる。赤茶色のタイル張りのされた俺のアパートはもう水垢で黒ずみ、日焼けでの色抜けやツタで新築だった時代を想像することすら難しい。恐るべきところはそこだけではない。こんなアパートがうちの近所には所狭しとと乱立しているのだ。

ここはいわゆる貧乏人たちが住む、ぬるい貧民街のような場所だ。空を圧迫せんばかりに立ち並ぶアパートたちに背を向け、俺は学校に向かって歩きだした。

うちから学校は死ぬほど遠い。片道2時間以上かかる。俺の出来損ないの脳みそと火継の経済力じゃ、今の学校くらいしか入学出来る場所がなかったのだ。一応、俺の中では死ぬほど頑張った受験勉強ではあったが、そんな学校でも俺は年二の模擬テストで万年最下位五位圏内でブイブイ言わせている。ブイブイ言わされてんのは主に俺の担任教師だが。

徒歩20分で最寄り駅。そこから電車を乗り継ぎ、ようやく学校の最寄り駅にたどり着く。時刻は8時20分過ぎ。ここから更に歩くもんだから、眠いったらありゃしねえ。

通学中の電車の中は寝る一択なので、ここで握り飯の登場だ。俺は味気ない三角にしただけの米の塊を口に含んだ。

「おーい!」

欠伸をしながら歩いていると、前方斜め前に見えるコンビニの前で手を振っている姿が目に入る。

犬みてえに楽しそうな顔でぴょんぴょんとアピールしている、この辺じゃ目立つ赤毛のショートカット。俺と似たようなTシャツと黒いカーゴパンツ姿だが、俺の物より少しいい生地で爽やかにワイシャツなんか羽織ってる。

あれは俺の幼馴染だ。見た目は俺から見れば男そのものだが、列記とした女らしい。俺は軽く手をヒラヒラと振りながら、その横を通過する。

「おは…って、んだよ!ちょっとはこっち見ろし!」

「ヤだよ。コンビニなんか見たら腹減るから、視界に入れたくねえんだよ」

コイツの名前は金成(かんなり)マリア。イギリスと日本のハーフらしくて、鼻筋が通った凹凸のある顔をしていて、悔しいが俺よりイケメンで女子にモテる。運動神経もいいし、喧嘩も強い。中学時代は金成と組めば、不良どもはみんな返り討ちに出来たもんだ。

「今日も貧乏極めてんの?おっ、今日の朝飯は塩にぎりか!おかずナシじゃ味気ねえだろ?」

からかうようなニヤけ顔で金成はピヨからくんを手に提げたコンビニ袋から取り出す。

ピヨからくんと言えばコンビニじゃおなじみのホットスナックだ。から揚げのようなチキンナゲットのような揚げた鶏肉、しかも揚げたてなんて美味いに決まってる。

毎朝、8割は朝飯が塩にぎりと決まっている俺からすればピヨからくんはご馳走だ。思わず口の中で涎が溢れ出し、ごくりと唾を飲んだ。

「朝飯に食おうと思ってたけど、三回回ってワンしたらあげてやってもいいよ?」

「マジかー!ありがてえ!ピヨからくんなんてすっげ久しぶりだし、そんなんでいいなら全然やるわ!」

俺は喜び勇んで金成の前でクルクル回って見せる。なんならちょっと犬っぽく手を胸の前に折りたたんだ状態で三回回って、クオリティ高めの遠吠えを披露してやった。

金成からピヨからくんを受け取り、俺はそれにかぶりつく。舌の上で弾けるように潰れたそれは、肉汁と共に脂ならではの甘さを放つ。衣と肉のしっとり感がたまらない。

俺が大喜びでガッついてんのがそんなに面白いのか、金成は満足そうに笑みでこっちを見ていた。

「お前っていつも兄ちゃんからご飯もらってんだろ、なのにどうして毎日そんな腹減らしてんの?」

「そりゃあ、俺みたいにガタイ良くていい男ならエネルギー消費がやべーんじゃねえの?握り飯三個とか全然足りねえよ。プラスアルファでロールケーキ一本分は入るわ」

実際問題、俺がいい男かは知らんが背は高かった。中学時代から身体中痛くてたまらない成長期がきて、今は180センチを超えてしまった。高校に入ってから、俺は背の順で不動の最後方だ。

「あんなチビで弱かったのになあ?」

金成は俺を見上げ、からかうような口ぶりで呟いた。

「お前はあんなにデカかったのにな!」

金成と出会ったのは、まだ俺が5歳とかだった。あの時はまだ俺の両親は生きていて、もうちょいまともな家に住んでいた。その頃に隣に引越してきたのが金成だ。

小さい頃の金成はハーフなせいもあってか今より髪の色が薄かったし肌も真っ白。俺の周りにあんまりいない見た目をしていた。

そんな変な人間が引っ越してきたら興味しかないってもんで、とにかく絡んだ。ダダ絡みした。変な髪の色だとか真っ白でお化けみてえだとか、とにかくからかった。そしたら、金成は怒って俺のことを殴りに来たから、そのまま俺もやり返しては殴り合いの喧嘩になった。

昔の金成は強かった…てか、身体のアドバンテージが凄すぎた。頭一個分くらい金成の方が背が高くて、俺の拳が届かないなんてザラにあった。

「デカくて、すぐキレて、真っ白なゴリラが越してきたもんなあ」

「誰がゴリラだ」

今では俺の背の方が断然高い。今では166だか7だかで金成の身長は止まってしまったが、そんなもんでは見下ろす機会が圧倒的に増えた。見上げていた奴の頭が下にあるなんて、今でも不思議だ。

「でも、小さくなってもお前つえーよな。そこは尊敬してるんだぜ!」

俺の胸くらいしかない小さくなったゴリラの頭をぽんぽんと軽く叩く。

「テメーがデカくなったんだっての、このキングコング!」

金成は笑いながら俺の手を払い除けると同時にわき腹に軽いチョップを入れる。軽いつっても結構な力で、ゴリラは健在だった。

俺が金成と仲良くなったのは、俺が金成の強さに惚れ込んだからだ。5連敗くらいしたら、1周まわって好きになった。師匠になってくれと頭を下げたら得意げになって快諾して、毎日のように師匠と弟子ごっこみたいなことして遊んだ。

金成はカポエラを習っていた。珍妙な構えだが、とにかく蹴り技が強くて、俺も金成越しに少しだけカポエラは使えるようになった。とは言え、金成も素人だからほぼ独学みたいなもんだが。

それからずーっと、金成とは親友だ。喧嘩する時は欠かせない相棒。これからも一緒にいてくんないと、毎日ヒマしそうなくらいにはツルんでいる。

学校に辿り着くと、すでに結構な人数がすでに登校してきていた。俺なんか6時前から動いてんのに、みんなはいいよなあ。俺も楽してえ。

「あ、そだ!放課後ちょっと買い物付き合えよ、どうせ暇してんだろ?」

「えー買い物ぉ?だる…」

金成の用事なんてどうせ大した事ない、多分スポーツ用品店かプラモデルだろう。

趣味まで男臭いのは一緒にいて楽しいっちゃ楽しいが、残念ながら俺はプラモデルに興味ないし、スポーツ用品だって買う金はない。目に毒なだけだ。

「ふーん、帰りにカフェ奢ってやろーと思ったのに」

「それを早く言えよ。行くわ、バーガーでも可」

見るだけで買えないとか不毛だと思うが、食い物貰えるってんなら全然価値がある。人の金で食う飯は美味い。

「ちょっろ」

「また三回回ってワンも付けてやろうか?俺のプライドのなさを舐めんなよ」

軽口を叩く金成に俺は歯を見せて笑う。

「んじゃ、また放課後な~」

金成とはクラスが違う。俺はクラスの前で金成に別れを告げて自分のクラスに入る。

「はよー」

クラスの扉を潜りながら誰にと言うわけでもなく挨拶をする。火継から挨拶しないとめちゃくちゃ怒られるので、もう癖みたいなもんだ。

「藤村おはよ!」

「おーす!」

何人かが振り返って手を振る。それに手を振り返しながら、着席する。鞄を机に置くと、ドスンと重量のある音がした。

「まーた全教科持ち歩いてんの?筋トレ?」

「まあ、そんな感じ?」

クラスメイトが俺の机の前に来ると、笑いながらパンパンに膨らんだ俺の鞄をチラと覗き込んだ。

本当は別に筋トレしてるわけじゃないのだが、忘れ物したり、いちいち教科書を毎日変えたりするより、こっちの方が効率的だと思っている。

「てか、さっき金成とデートの約束してたじゃん。いつから付き合ってんの?」

「はあ?付き合うとかねーし」

教科書をごっそり机の中へと掴んでしまい込む俺に、クラスメイトが面白そうに笑うが、俺は片眉だけ上げておどけた。

「あんなゴリラと付き合うかよ。アイツ、女捨ててんじゃん」

「ひでー!金成、顔だけ見ればカワイーじゃん。ハーフだぜ?俺なら全然アリだわ」

「万年ジャージかカーゴパンツの女は俺的にナシだし。男友達みてえなもんだよ。金成も同じだと思うぜ」

金成とは小さい頃に一緒に風呂に入った仲だ。今更、男女関係に発展する方が想像できない。

金成もそうに違いない。全然女らしくないし、小さい頃から変わらない距離感なんて恋愛感情挟んだらならんだろ。その方が、ずっとこの関係は変わらずに続く。そうでないと困る。

「お前がそんなんだと、案外金成の方が早く彼女作って来ちゃうかもしれねーな」

「なんだと!それは許せねえな!」

クラスメイトの話に笑っていると予鈴が鳴る。クラスメイトは肩を竦めて自分の席へと向かい、俺も教室の前方へと向き直った。

担任教師が教室に来ると、いつも通りの朝礼が始まる。いつも眠くて腹が減るこの時間も、金成がくれたチキンナゲットのおかげで少しだけマシだった。
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