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2章 ハッピーイースター!

【第13話】8月11日 2時45分

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一瞬、どっちが悪者か分からなくなった。俺は結が浮気しているのかどうか確かめに来ただけであって、なんなら強姦まがいなら中年男性を返り討ちしてくれる気持ちですらいたはずなのに、今の状況では男性から金をゆすっているのは火継と結だ。

もしかして、最近の火継の実入りがいいのって、これじゃないよな…。

嫌な予感に、俺はあちこちに散らばっている自分の分身である蛾たちを呼び寄せる。大量の蛾がドアや窓の隙間から入り込み、俺がぶら下がっていた天井に群がった。

結と火継が大量の蛾に驚いたように周囲を見回し、男性は悲鳴を上げて尚更身体を小さくして地面で丸くなった。

人間の姿に戻った俺は床に降り立つと、火継と男性の間に割り込んで火継の足を押しのけた。

「いやいやいや、ちょっと待てよ!結が同意でホテル入ってんの、俺見たし!」

「なんだ、咲凪か」

こんな力を見せて、こんな登場の仕方をしたらもう少し驚かれるものだと思っていたが、俺を前にした火継はさして驚いた風でもなく俺の顔を涼しい顔で見ている。

結も少しだけ驚いたように目を見開いてはいたが、俺の言葉に特に動じる様子もなく平然としていた。

「おっさん早く逃げろ!」

「は、はい!」

後ろで全裸のままうずくまっている中年男性に言うと、彼は慌てて立ち上がり、床に落ちていたバスタオルだけを拾って部屋の外へと飛び出して行く。それを止めるでもなく火継は見守ると、小さく鼻で溜息を吐いた。

「全く、逃がしちゃうなんてね。咲凪は甘いな~」

「いや、問題そこじゃなくね?!何やってんだよ!これ美人局だろ!結になんてことさせてんだよ!」

いや、なんてことしてんのは結なのか?美人局ってどっちが悪いの?共犯?よく分からんけど、とりあえずそこから得る収益が合法じゃないってことだけは分かる。

そもそも火継のその能力は何なんだとか、なんで俺のこと見ても驚かないのかとか、聞きたいことは山ほどある。

「これは私が望んでやってて、火継は付き合ってくれてるだけ。させられてなんかいない!」

それまでだんまりを貫いていた結が急に大きな声を上げた。それは怒っているというよりは、ムキになってるといった方が正しいように思う。

「はあ…?」

「どんな時でも火継が助けに来てくれるって何度も繰り返して証明すれば、身体が覚えて安心する。だから、わざとおじさん引っかけて火継に助けてもらうの…」

えっ、ちょっと何言ってんのかよく分かんねえ。呆然と口を半開きにする俺に火継は笑みを浮かべたまま肩で息をついた。

「結は色々あってね…リハビリしているんだ。それの手伝いだよ」

「手伝いって…さすがに違法だろ」

「いいんだよ。ここはそういう所だからね」

あれだけ俺にまっとうな人生を生きろとか、真面目な職に就けとか言っていた火継が違法についてその一言だけで片づけることに俺は絶句する。

そういう所って新宿だから許されるってことだろうか。いくら最近、犯罪係数が爆上がりしてるからって、それに乗じて身内が粗相するのはさすがにいかがなものだろう。ただでさえ父親が人殺しで犯罪者レッテルで悩んできたというのに、兄まで犯罪者になってしまっては困る。

火継が犯罪者として捕まったらどうしよう。傍に結構な数の警察がいたしなあ。隠蔽するしかないのか。そんなことを考えている俺に、火継は何かを思い出したように手を叩く。

「それはそうと、咲凪もこんなところで油を売るのはやめろよ。金成さんが死んでしまったことがショックなのは分かるけど、お前にはきちんと現実で生きられるようにお膳立てしてきたんだ。俺の苦労を身の泡にしないでくれよ」

当然のように出てきた火継の言葉に俺の脳みそがフリーズする。

「…え?」

今、火継は何て言った?俺の聞き間違いか?

金成が死んだって、言わなかったか?

「私たちもマリアちゃんがあんなことになるなんて思ってなかった…でも火継だって精一杯やってくれたんだよ」

「お前たちを守りきれなかったのは僕の落ち度だとは思うけど、お前ももう18になっただろ?そろそろしっかりして貰わないとさ。僕もずーっと生きてるわけじゃないんだし」

二人揃って金成が死んだような口ぶりだ。まるでお通夜。さっきまで俺の隣でピンピンしていて、なんなら膝枕をしてもらっていた友人が死んだなんてあり得ないだろ。

ああ、そっか。これ何かのドッキリかな?二人とも仲良しだしな。

「おいおい、そんなブラックジョークはやめろよ!さすがにちょっとヒヤっとしたじゃんか!金成ならさっきまでずっと一緒にいたんだから、死ぬわけねえって!」

ドッキリだと理解すると、一瞬だけでもキモを冷やした自分が馬鹿らしくなる。声を上げてゲラゲラと笑う俺に、火継と結は顔を見合わせる。

火継の顔を見てから俺を見る結は何故か申し訳なさそうにしてから、急気に顔を険しくさせる。胸を押さえてうずくまる結に、火継は慌てて彼女の肩に手を添えてよりそったまま一緒に床にしゃがんだ。

「咲凪!お前こそ変なことを言うのはやめろよ!今の結にあまりそういう話は聞かせたくないんだ」

「な、何がだよ…」

怒鳴る火継に俺は半笑いのまま一歩、後退する。

ドッキリにしては結の反応がガチだった。彼女は辛そうに呼吸を早めて、苦しそうに床を見つめて身体を震わせる。それは演技とかには見えない。本当に苦しそうに見えた。

俺の言葉に何か問題があっただろうか。いや、何もない。何もないはずだ。あっちゃ困る。

「金成!」

部屋の中から金成の名前を叫ぶ。一緒にいたSFみたいな部屋の中で、金成は今も俺が呼ぶのを待っているはずだ。

「咲凪!いい加減にしろ!」

「金成!こっちだ!こっちに来いよ!」

怒鳴る火継の横を通り抜け、俺は部屋の出口へと向かう。扉を開け放ち、廊下へ向けて金成の名前を何度も呼んだ。

「さっきから居るじゃん」

突然、背後から金成の声がした。廊下へ向かって呼んだはずの金成は、いつ俺の傍にいたんだろうか。

いつも通りの呑気な笑顔を浮かべている金成に俺は安堵で溜息を吐く。どっから入って来たのか分からないが、無事ならそれでいい。最近の金成は神出鬼没だし、気配消すのも上手い。カポエラとかでそういう技でもあるのかもしれない。

「なんだよ、驚かせやがって!ちょっと姿見せてやれよ、兄貴と結がお前のこと死んだって…」

「咲凪!」

俺と金成が話しているのに火継が再び怒鳴り声を上げる。

「頭がおかしいフリはもうやめろ。見ていて痛々しい。それはお前が作った蛾だろ」

「は…?」

火継が何を言っているかわからず口を半開きにしていると、結が突然悲鳴のような声で叫んだ。

「もうやめてよ!!ここまで来てパパのことなんて思い出したくないよ!!」

「そうだよね。ごめんね、結」

ヒステリックに泣き叫ぶ結をなだめるように優しく火継は彼女の背中を撫でていたが、不意に立ち上がって俺の方へと歩み寄ってくる。何事かと呆気に取られている俺に、火継は固く握りしめた拳を振り上げた。

「食いしばれ」

火継の言葉を理解する前に顔面に痛烈な痛みが走った。視界が回り、チカチカと点滅する。焼けつくような頬の痛みに顎がズレたんじゃないかと思った。グラリと揺れる身体に慌てて足で踏みとどまり、俺は自分の顔面をかばうように腕を前に出した。

「何すんだよ!俺は本当のことしか…」

「今は結がいるからね、続きは現実で話そうか」

涼しい表情を変えずに火継は片足を前に出すと、もう片方の足で蹴りを入れる。捻りの効いた鋭い蹴りだった。足のつま先が的確に鳩尾に食い込み、俺は身体を折った。

嘘だ、こんなに火継って喧嘩慣れしてんのか?あんなにインドアなのに?

そんなことを考えていると、腰を折った俺の髪の毛を鷲掴みにして、火継が俺の顔面に膝蹴りを入れた。反射的に身体を身体を蛾の群れへ変化させ、身体を宙に霧散させる。

「随分と気持ちの悪い能力だけど、利便性は高いみたいだね。さすが俺の弟だな~」

俺の傍にいた金成が腰を落して、あの独特なステップを踏む。火継の前へと滑り込み、踊るように回し蹴りを繰り出す。それを火継はいとも簡単に腕のガードでいなすと、金成の軸足に蹴りを入れる。金成の両足が地面から離れ、後ろ向きに転倒しそうになる。

「金成!」

その隙間に入り込むように蛾を集合させ、金成の身体を抱きとめる。いつも金成の身体は軽いと思っていたが、そこにまるで重さは存在しなかった。

「咲凪~、いつまで現実逃避してるんだ?」

火継がハンカチで拳を拭う。そこには大量の鱗粉がついていて、拳を拭った彼のハンカチは汚い七色になる。

むやみやたらに色を混ぜたそれは虹なんて程遠い。ただ黒く濁った、ガソリンオイルの表面に浮かぶマーブルのようだ。

「なんでこんなことすんだよ!お前、なんか今日おかしいぞ!」

火継は確かにちょっと短期で暴力的な部分はあったが、ここまで酷い暴力は初めてだったし、いつだって厳しくても俺を守ってくれる存在だった。その火継にどうしてここまでされなくてはならないのか、全く理解できない。

大体からして、美人局してたのは火継たちだ。俺たちは何も悪くない。身内の犯罪を止めただけだ。

「おかしいのは咲凪の方だろ」

火継が俺の顔面目掛けて蹴りを入れる。それを肩で受け止め、腕の中の金成を庇う。金成は何故か真顔のままで、どこを見ているのか分からない。その表情は金成に良く似せて作られた精巧な人形のようにも見えた。

金成が腕の中から弾き出されるように立ち上がると、そのまま素早く火継の背後に回り込む。金成の両腕はまるで折れてしまったように関節が変な方向を向いていたが、その力の抜けた腕が火継に絡みついた。

ギリギリと火継を両腕で締め上げるが、腕が不規則に伸びたり縮んだりする。火継は困ったようにその腕を見つめ、パッパと両手で払った。

金成の腕が霧散する。霧散しては火継にまとわりつく。その様子はさながら電気に群がる蛾の群れのようだ。火継が起こす些細な風で統率を乱す、無力な羽虫。

「あーあ、鱗粉まみれになっちゃうよ」

そう言って火継が笑う。なんの悪意もない、優しい、いつもの火継の笑顔だ。

「さすがに弟の頼みとは言え、これ以上は付き合えないな」

マッチでも握るように右手の指先を丸めると、火継はそれを左腕に滑らせる。シュッと指とテーラードジャケットの生地が擦れる小さな音。彼の指先の動きに合わせて火の粉が舞った。

それは赤い鱗粉のようにも見える、細かい赤の光。チカチカと小さく点滅すると、それは小爆発を起こすように空気中で燃え上がる。

炎と共に凄まじい熱風が駆け抜けた。火継の身体に組みついていた金成の身体が燃え上がり、散り散りに炎の中へと飲み込まれていく。

「うっ、嘘だ!金成!金成!!」

目の前の光景が信じられずに俺は炎に向かって叫ぶ。空気中で燃え上がった炎は金成の姿を焼き尽くし、もはや臭いの一つも残さずに消えていく。

こんなの夢か何かに決まっている。火継が金成を殺すなんて、俺の人生であってはならないことだ。状況を把握することを脳みそが諦める。俺はただ、火継の背後に金成がいるような気がして、火継の目の前へと駆け込んだ。

火継がいるその更に奥へと手を伸ばす。その瞬間、金成が俺の手を掴んでくれたような感覚がした。

「そんなもの守って、どうするんだい?」

火継が笑う。俺の顔面に火継の肘が入る。目のあたりに嫌な感触がして、俺は金成の手を掴んだまま、反対の手で片目をおさえた。

バラバラと顔面から蛾の死骸が落ちていく。金成の手を握ったはずの手には、金成の手はない。

知っているんだ。金成の身体はあんなに軽くない。人間の手が、手のひらに収まることなんかない。全部矛盾してることを、分かっているけど理解したくなかった。

握りしめた手を開くと、手のひらの中には小さな虫がいた。

ふわふわな体毛と、ひらひらした儚い羽根。俺の親指の爪程度にしかサイズのない小さな蛾が、そのか弱い羽の先を黒く焦がしている。

真っ白な蚕蛾。黒くて大きな瞳で俺を見上げていた。

「早く起きてくれ。もう高校も3年目折り返しだ。そろそろ進路決めて、ちゃんと学歴つけて立派な社会人になってくれ」

火継が指先をまたジャケットに擦りつける。シュッという音と同時に、俺の視界が真っ赤に燃え上がった。

まるで火葬される人間になったような気分だ。未来が真っ暗で何も見えない。暗い棺に入れられて、骨になるまで焼かれるってこんな感じなんだろうか。

いや、死体に意識なんかないか。
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