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第一章
ボーイ・ミーツ・ボーイ(2)
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あれは、まだオーヴェルニュ大学の学生だったルネが、春休みにクレルモン・フェラン郊外の実家に帰っていた時のことだ。
ルネの実家は兄夫婦と共に農家を営んでいて、その手伝いとして、村の近くにあるオーベルジュに新鮮な野菜を届けることが、ルネの日課となっていた。
このオーベルジュは食通の人々には有名で、交通の不便な山間の村にあるにもかかわらず、遠くパリからも訪れる客で数カ月先まで予約でいっぱいなのだそうだ。
「今日の注文分の野菜と卵……足りないものはないですよね? あ、これはおまけで、自家製のリンゴのブランデーです。味見して、気に入れば、また持ってきますよ」
「うん、いい香りだね。これなら、地元のものを好むお客にサービスとして出してもいいかな」
「この間のジャムも気に入ってもらえたようで、母さんが喜んでいましたよ」
顔なじみのオーナー・シェフは、頭がよくて目端のきくルネを日頃から気に入ってくれているようだった。
だからだろう、こんな依頼を急にしてきたのは――。
「な、ルネ君、君を見込んで頼みがあるんだが、今日と明日、予定は空いているかい? もしよかったら、うちでアルバイトをしてくれないか?」
「これからですか? 別に今のところは何も用はありませんが……」
「今ちょっと特別なゲストがうちに泊まっているんだ。いや、正確には泊まるはずだった。ところが、肝心の主賓が急用で来られなくなり、昨夜遅くここに到着したもう一人は、相手がいなくて退屈をもてあまし、せっかくパリからここまで来たのに、もう帰ると言い出す始末だ」
「それは、その人の勝手ではないんですか?」
ルネが正直な感想を述べると、オーナーは困ったように顔をしかめた。
「確かにその通りなんだが……できれば、彼にはこのオーベルジュに対していい印象を持って帰ってもらいたいんだ。うちは料理自慢の宿だが、車でちょっと足を伸ばせば、風光明媚な景色や見どころもたくさんある。だから、この辺りに詳しく気の利いた人間をガイドとして雇って、ムッシュの世話を任せたいんだ」
「そう言えば、バカンス客のガイドなら、去年の夏休みにも引き受けたことがありましたねぇ。いいですよ、一日二日くらいなら…パリから来た人と話をするのも面白そうだし…」
「そりゃあ、よかった。君なら、安心して、あの人のことを頼めるよ、ルネ。話相手としても楽しいし、いざって時にはボディーガードにもなってくれそうだしね」
オーナーのほのめかしに、ルネはちょっと苦笑いをした。
「随分な気の使いようですね、そんなに大切なゲストなんですか? でも、パリならともかく、この平和な田舎でボディーガードの必要なんかないですよ、オーナー」
オーナーは、軽い気持ちで引き受けたルネの手をぐっと握り締めて振り回すと、彼には庭の方に出て待っているよう言い残し、件のゲストを探しにホテルの奥に入っていった。
「今日は天気もいいし、この分だと昼から結構気温も上がりそうだな」
ホテルの裏手にある庭からは、新緑の美しい森と湖、その向こうにそびえるオーヴェルニュ地方の起伏にとんだ山並みが望める。
さわやかな風と共に野生の水仙の甘い香りが、どこからともなく漂ってきて、ぼんやりと庭を散策するルネをうっとりさせた。
(あ)
ルネの目が、次の瞬間、僅かに見開かれた。
庭の中心に大きなマロニエの樹がある。
その下には散策に飽きた人が休めるようベンチが備えてあって、そこで一人の人の男が昼寝――というには少し早い時間ではあったが――をしていた。
ここに宿泊している客だろう。見知らぬ他人の休息を邪魔する理由もないので、ルネはそのまま通り過ぎるつもりだった。
しかし、なぜか気になって、足音を殺して樹の下まで行くと、長身の体を幾分窮屈そうにベンチに横たえている男を見下ろした。
「………」
ボーイ・ミーツ・ガール――いや、この場合、ボーイ・ミーツ・ボーイか。
ルネは胸の内で密かにううんと唸った。
更に数歩、大きく広がったマロニエの木立から洩れかかる光を浴びながら眠りこんでいる男との間合いを詰め、改めてじっくりとその姿を観察した。
バカンス客らしく身につけているものはカジュアルでシンプルなデザインだが、胸元の開いた白いシャツにしろ、深いカーキ色のジャケットにしろ、ものはよさそうだ。
濡れた鴉の羽のように真っ黒な髪。意志の強そうなくっきりと男らしい眉。すっと通った鼻筋と口元の線の端正なことといったらなくて、ルネがこれまで出会った男の中で、文句なしに一番のハンサムだ。
ルネの無遠慮な視線にも一向に気づかず熟睡している所を見ると、よほど疲れているのだろうか。
ベンチの上から半ば投げ出された手の下には、都会のビジネスマンが愛読していそうな経済紙が落ちていた。
ルネは地面からその雑誌を拾い上げ、男の手元にそっと戻してやった。その間も、どうしても彼の寝顔から視線を離せない。
要するに、物凄くタイプだったわけだ。
精悍さと甘さが丁度いい塩梅で備わった顔立ちも、肩幅の広い、いかにもスポーツで鍛えられたような逞しい体つきも、日ごろ見慣れた村の男達とは一線を画する洗練された雰囲気も――。
この頃のルネには一応付き合っている年上の恋人もいたのだが、農業者組合に勤める根っからの農民の彼は、この男と比べるとやはり垢抜けない。
だらだらと付き合って三年、今ではほとんど惰性と化した関係だからか、自分のものではなくてもいい男が目の前に現れると気持ちがぐらついてしまう。
問題は、ルネがいいなと思っても、大抵の場合相手が同性には興味がないということだ。
大学に行けば多少状況は改善するかと思ったが、普通に暮らしていて、なかなか同性を好むいい男とは巡り逢えない。
今の彼氏の前には、以前通っていた柔道教室に憧れの先輩がいて、ちょっといい雰囲気になり、キスを交わしたことくらいあったが、あることをきっかけに振られてしまった。
自分の性向には早くから気付いていたルネだったが、そんな訳で出会いの機会には恵まれず、理想と現実のギャップに日々欲求不満を募らせていたのだ。
(あ、無精髭が生えかけてる)
いつまで経っても相手が目覚める気配がないことで、次第に大胆になってきたルネは、そっと手を伸ばして男の顎に指先で触れようとした。
その手を、横から伸びてきた別の手が掴み締めた。
「ひっ」
思わず、ルネは悲鳴をあげそうになった。
焦りまくるルネの見る前で、黒髪の男はゆっくりと瞼を上げた。まだ半ば夢を見ているような、その瞳は、深い森の色をしていた。
「誰かと思えば……おまえか、ガブリエル」
不審者として糾弾されるかと思いきや、彼は、動揺するルネに向かって優しく微笑みかけてきた。
「あ、あの……僕は――」
頬がかっと熱くなる。必死に言い訳を考えるルネの頭に男の手がかかる。
「えっ…?」
強引に引き寄せられたルネは、気がつけば男の腕の中、戸惑いの声を発しかける口を彼の唇で塞がれていた。
(えっ…えええっ?!)
一瞬かっとなったルネは、男の胸倉を引っ掴んで投げ飛ばしそうになったが、すんでの所でぐっと堪えた。
素人相手に柔道技を仕掛ける訳にはいかない。ルネの理想を絵に描いたような、こんな男にそれで嫌われてしまうのは、もっと嫌だ。
それにしても―。
(どうしよう、この人、すごくキスがうまい)
緊張のあまり固くなっているルネの体と心を蕩かせるほど、彼のキスは情熱的で、巧みだった。
ルネはつい、戸惑いも恥ずかしさも忘れて、積極的にキスに応えてしまう。
(まるで恋人のように僕を抱きしめて、こんな甘いキスをくれる……あなたは一体誰……?)
夢見心地のルネの耳に、その時、遠くからオーナーが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ルネ、おーい、ルネ、どこにいるんだ?」
一気に現実に引き戻されたルネは、男の腕から身を振りほどいて、よろよろとベンチから退いた。
「あっ……あなたは……?」
震える我が身をひしと抱きしめ、息を弾ませながら尋ねるルネの見る前で、男はゆっくりとベンチから起き上がって、軽く伸びをした。
「うん……?」
完全に目を覚ましたらしい男は、胡乱そうにルネを見やった。先程までの親密さは、その目には微塵も残っていない。
「そうだな、あいつがここにいる訳ないか」
どこか寂しげに、自嘲混じりに漏らした呟き。
「しかし、一瞬俺が見間違うのも無理はない……そっくりだ……」
男はルネの頭のてっぺんからつま先まで遠慮のない眼差しでじろじろと眺めまわし、立ち上がった。
「おい、おまえは何者だ? ここで一体何をしている?」
「あ、あなたこそ、一体何なんですか。いきなり僕にあんなことをしておいて、その態度はないでしょう!」
先にちょっかいを出したのは自分だという後ろめたさと動揺を隠すため、ルネはわざと怒ったように口ぶりで抗議した。しかし、男は意に介した様子もなく、服と髪の乱れを手早く直しながら、ずけずけと言った。
「謝らなければならないことをしたとは俺は思っていないぞ。喜んでいたじゃないか、おまえも……」
「なっ」
図星を指されたルネは真っ赤になった。一瞬男に対して殺意を覚えるが、つい繰り出しそうになった鉄拳を必死で抑えこんだ。
柔道だけでなく空手でも達人レベルに達している自分が殴ったら、大変なことになってしまう。
「ルネ、そこにいたのか」
草を踏みしめる足音と共に、オーナーが木立の向こうから現れた。彼は、険悪な雰囲気で睨みあっているルネと黒髪の男の様子に怯んだようだが、すぐににこやかな愛想のよい顔になった。
「おお、ムッシュ・ヴェルヌもご一緒でしたか。これは、話が早い」
明らかに相手の機嫌を窺う態度のオーナーに問いかけるような眼差しを向けると、彼は神妙な面持ちでルネに目配せした。
「ルネ、この方が、先程お話ししたゲストだ。ムッシュ・ヴェルヌ、この子が、今日と明日の二日間、あなたのガイドとお世話役を頼んだルネ・トリュフォーです。とてもよく気がつく、いい子ですから、退屈を紛らわせるにはうってつけの相手になるでしょう」
「えっ?」
それでは、この男が例のパリから来たオーナーの大切なゲストなのか。一緒に宿泊するはずだった連れ――たぶん恋人だろう――が急に来られなくなって、落胆しているという……?
「別にガイドなど必要はなかったんだが……」
ヴェルヌと呼ばれた男は眉根を寄せて、うっそりと呟いたが、すぐに気を変えたようだ。
「そうだな、確かに、退屈しのぎにはなってくれそうだ」
「う……」
意味深な台詞を吐いた後、男はオーナーに向かって鷹揚に頷き返し、必死に動揺を押し隠しているルネに改めて向き直った。
「俺は、ローラン・ヴェルヌだ。ルネ、よろしく頼むぞ」
どんな反応をしたらいいのか分からず、ぽかんと口を開けたま固まっているルネを、ローランは目を細めるようにして眺めた。
おまえの本音などお見通しだぞと言わんばかりの表情に、ルネの胸の奥の心臓が激しく震える。
そう、ルネはローランに完全に一目ぼれをしていた。
柔らかな木漏れ日を浴びながら、無防備にベンチの上で寝ていた彼を一目見た時から――実際目が覚めて動き出すと最初の印象とは大幅に違う気がしたが、ガイドとして彼と一緒にいられるかと思うと胸が高鳴りを押さえられない。
(でも、僕には一応付き合っている相手がいるし、たぶん彼にだって恋人くらいいるだろう。それに、どうせすぐにパリに帰ってしまう人なんだ、別にどうこうなりたいとは思わないよ。でも、それならそれで、この二日間、一生懸命この人の世話役に徹しよう。この人が満足してパリに帰ってくれるなら、僕も嬉しい……きっといい思い出になるだろうから)
何とか気持ち奮い立たせたルネは、すっと息を吸い込んで、ローランをまっすぐに見つめた。
「こちらこそ……さきほどは失礼しました。よろしくお願いします、ムッシュ・ヴェルヌ」
「ローランでいい」
口元を優しく綻ばせて、どこか親しげに、ローランは言う。
こちらに向けられた彼の目――自分を見ているようで見ていない、遠くにある別のものを追っているかのような―に、ルネはふと違和感を覚えたのだが、それが何なのか、この時にはまだ分からなかった。
その後に続くローランとの二日間は、ルネの徹底した気配りと機転の良さによって、その終盤近くまでほとんど問題もなく順調に進んだ。
気難しい人かと初めは思われたローランだったが、ルネのガイドでドライブしながら近くにある湖や洞窟、ロマネスク様式の教会を訪れたり、家族経営の小さなワイナリーで地元産のチーズと一緒にワインを試飲したりしながら、終始上機嫌に見えた。
ルネに対しても、二度とホテルの庭で見せたような傲岸不遜な態度を取ることはなく、極めて紳士的。
車から降りる際にドアを押さえてくれたり、重い荷物――農家育ちで力仕事には慣れているルネはこれくらいへっちゃらなのだが――を持ってくれたり、とても優しくて、うっかり惚れ直しそうになったくらいだ。
(でも、それは駄目駄目、どうせすぐに帰っちゃう人だもの……本気で好きになったら、別れるのが辛くなる)
そんな訳で、ローランに対するルネの好感度は上がる一方だったのだが、変だと思うことが全くなかったわけではない。
ローランは時々、何とも言えない熱っぽい潤んだ瞳で、ルネの姿を注視していることがあった。さすがにちょっと薄気味悪くなってきたルネが問いただすと、彼はルネの癖のない濃茶色の髪に手で触れ、不満そうにこんなことを言った。
「おまえが地味で目立たないのは、髪の色のせいかな……? 金髪に染めてみろ、きっと華やかな印象になるぞ」
一体いきなり何を言い出すのかと戸惑うルネに、更には、こんなことまで付け加える始末だ。
「おまえの顔ははっきり言って俺の好みだ。惜しむらくは、鼻の形が庶民的で可愛らしすぎる点かな」
人様の顔にケチをつけるなどと、失礼極まりない言い草だ。しかし、単純なルネは好みと言われた時点で軽く舞い上がっていたため、愛嬌があって自分では結構気に入っていた鼻で規格外の評をローランに下されて、たちまち地べたに叩き落とされたように落ち込んだ。
「……それで、おまえは大学卒業後、どうするつもりなんだ?」
二日目。湖を眺められるレストランのオープンテラス席でランチを取っていた時に、ローランはふいにルネの進路について尋ねてきた。
思えば、この二日間、ローランは折りにつけ、ルネ個人について、家族や友人関係、大学の専攻から興味関心などを巧みに聞き出していたような気がする。
個人情報を行きずりの旅行者であるローランに明かす必要はなかったのだが、たとえ社交辞令でも彼が自分に関心を示してくれたのが嬉しくて、ルネは包み隠さずに正直に話した。
「そうですね……卒業はもう二カ月後に控えていますけれど、就職先はまだ決まっていないんです。インターン・シップを経験したタイヤ・メーカーに入れるかと少しは期待しているですが、今年は学生の新規採用は大幅に減らすとかで難しいみたいです。何とかしてクレルモン・フェラン市内で仕事を見つけたいとは思っています。こんな小さな村に戻った所で、それこそ働く場所は限られますし、実家の農業は既に兄夫婦が共同経営していますからね」
自分の置かれた不安定な状況を口に出して、ルネは改めて憂鬱になった。
あまり景気の良くない昨今、たとえ優秀でも、コネにはあまり恵まれていないルネにとって、自分の希望を通すどころか、ちゃんとした働き口が卒業までに見つかるかどうかも怪しい。
「それは、大変なことだな」
ローランはテーブルの向こうでゆったりと食後のコーヒーを飲みながら、何事か思案している。
「ルネ、おまえは、どうしてもオーヴェルニュから離れたくはないのか?」
何の前触れもなく、いきなり、彼は切り出した。
「は?」
「おまえが生まれ育った故郷をとても愛していることは、俺にも察せられるが……全く別の世界に飛び込んでみれば、思いもよらないチャンスが掴めるかもしれないぞ?」
想定外の質問に目をパチクリさせるルネが見守る中、ローランはポケットから取り出したビジネス・カードを一枚、テーブルの上に置いた。
「卒業後、気が向いたら、パリまで俺を訪ねてこい。俺はおまえが気に入ったし、ここで出会ったのも何かの縁だろう……悪いようにはしないぞ」
「ええっ?!」
まさに降って湧いたような就職話に、ルネはしばらく返す言葉も見つからず、ローランのどことなく自分の反応を意地悪く楽しんでいるかのような笑顔を、ぽかんと見返すのみだった。
「まあ、まだ時間はあるんだ。俺もすぐに返事は求めんから、ゆっくり考えろ」
ルネはおずおずと手を伸ばして、ローランのカードをテーブルから拾い上げた。
「ルレ・ロスコー……ホテルとレストラン経営をしている会社なんですね……? ローランは、そんなにお若いのに副社長なんですか……?」
「親族経営のワンマン会社だからな。ちなみに今年就任したばかりの社長は俺よりもっと若いぞ。あいつを補佐するため、俺は今の役職を賜ったのさ」
社長を『あいつ』呼ばわりするのかとルネは驚いたが、ローランの口ぶりにこもった深い親愛の情には、何かしらはっとさせられた。
もしかしたら、ローランと一緒にここを訪れるはずだった人というのは――。
微かな疑念が頭をもたげるのを意識した時、ローランの携帯電話が鳴った。
ローランはちょっと顔をしかめて、取りだした携帯の表示を確認した。俯いた、その顔が、たちまち日が差したようにぱっと輝くのが分かった。
「……俺だ」
応対に出ながら、ローランはちらっとルネを見やった。察しの良いルネは無言で席を立ち、トイレを借りる態を装ってレストランの奥に入っていった。
その背中に、平静を保とうとしていても、溢れ出す喜びは隠し切れていない、ローランのうきうきと弾むような声が届く。
「ああ、こっちは天気もいいし、観光には最高の日だぞ。おまえが来られなかったのは惜しいが、俺のことなら気にするな。適当に楽しんでいるからな」
こんなにも優しく、慕わしげに彼が話しかけているのは、一体誰だろう。
気になる……とても気になる――。
でも、ローランを捕まえて、問いただす権利はルネにはない。
「パリに出て、仕事を探す、か…」
そんなことは今まで考えてみたこともなかった。ルネは、生まれてこの方、この地方を出たこともない。
それに噂で聞く限り、パリは、街の雰囲気もそこに暮らす人々の気質も、同じフランスとは言っても、この田舎とは別の国と言ってもいいくらいに異なるらしい。
ルネは、ローランからもらった彼のビジネス・カードに目を落とし、溜息をつきながらポケットに直しこんだ。
「都会暮らしは、きっと僕には合わない。あの人の気まぐれをあてにして、将来設計をする訳にもいかないし…」
実際、ローランは二度とその話を蒸し返すことはなかった。
それどころか、例の電話が入ってからの彼は、ルネが傍にいても心ここにあらず、車の窓から見える美しい山間の風景にももはや無関心で、気難しげに眉をしかめて黙りこんでいる。
そう、ローランは一刻も早くパリに帰りたくなったのだ。
せっかく都会の喧騒を離れた清々しい自然の中、仕事という日常から隔絶された時間を持つ機会を与えられたというのに、現実を忘れることが出来ないとは、可哀想な人だ。
そこまでの価値が、あの煌びやかな街にはあるのだろうか。
ローランがもう観光気分でなくなったなら、ガイドとしての自分も無用だなと落胆しながら、ルネが、疲れたならそろそろホテルまで帰りましょうかと提案すると、彼は迷いもせずに、そうしてくれと答えた。
そんな訳で、予定よりも早く、ローランとはあっさり別れることになった。
別に期待はしていなかったが、ローランと特別親しくなれた訳ではない。彼にとって、この短い滞在が、いい思い出として心に残ってくれるのかも分からない。
「それじゃ、ムッシュ、僕はもう行きます。どうか今夜はゆっくり休んでくださいね。帰りの道中もお気をつけて…」
ホテルの玄関で、ルネは最後にローランと言葉を交わした。内心の失望は押し隠して、ルネが明るくにこやかに挨拶すると、意外なことに、ローランはちょっとばつが悪そうな表情をした。
「今日は悪かったな、ルネ……せっかく、おまえが張り切ってガイドを務めてくれたのに、途中から、俺は考え事ばかりしていた。こんな所で自分は何をしているのかと落ち着かなくなり、暇つぶしなどさっさとやめてパリに戻りたくなった」
「別にいいんですよ、ムッシュ。あなたのための休暇だったんですから、あなたは自分の好きなように振舞って、それでいいんです。ただのガイドの僕にまで、気を使う必要はありません」
「そうかもしれんが、他人の心遣いを無視して、むっつりと不機嫌な態度を取るなんて、子供じみていた。ちょっと反省している」
「あなたの口から『反省』なんて、あまり似合わない気がしますよ、ローラン」
柄でもなく神妙なことを言うローランに、ルネはつい笑み崩れた。
「それにしても……僕は訪れたことがないからよく分からないですけれど、一体パリに、束の間のバカンス気分にさえ浸りきれなくさせるほどの何があるというんですか?」
軽く尋ねたつもりが、自分でもぎくりとするほどのきつい響きが口調にこもっていたことに、ルネは焦った。
「パリに、一体何があるかだと……?」
ローランは軽く目を見開いた。その顔が束の間空白となり、それから、ふいにぱっと目の前が開けたというような明るさが差すのをルネは認めた。
「面白いことを聞いてくれるな」
ルネを見下ろし、ローランは明るく笑いながら、迷いのない口調で答えた。
「俺にとっての全てがあるのさ、ルネ」
戸惑うルネの頭に手を伸ばしてくしゃりと撫でるローランは、実に幸せそうな顔をしていた。早くも、心はパリに――そこにある、彼の大切なものの上に飛んでいるようだ。
休暇中も煩わしい現実を忘れきれないローランを可哀そうな人だと感じたルネだったが、こんなに嬉しそうな顔をして戻って行けるなら、パリでの彼の生活はさぞや幸せで満ち足りたものなのだろう。
「元気でな、ルネ」
ローランは悪戯っ子のように片目を瞑って見せると、くるりと背中を向け、足早にホテルの中に入っていった。
「あなたも、お元気で……」
ルネは小さく溜息をつき、バッグを持ち直して、今朝駐車場に止めたきりの自分のバンの方に歩いて行った。
ローランは、自分を訪ねてルネがやってくるのを待っているとは、言ってくれなかった。あの申し出は、やはりその場での軽い思いつきで、カードを手渡しとこともきっと忘れている。
(ローランの縁もこれきり…彼のことは、綺麗さっぱり忘れよう。たぶん二度と会うことはない…)
未練はあっても自分にそう言い聞かせ、ルネは、自分とって当たり前で代わり映えのない日常生活――差し迫った問題は就職だ――に戻っていった。
ローランとの縁が切れずに、自分をパリに引き寄せようとしていることにルネが気付いたのは、それから更に四ヶ月後のことだ。
ルネの実家は兄夫婦と共に農家を営んでいて、その手伝いとして、村の近くにあるオーベルジュに新鮮な野菜を届けることが、ルネの日課となっていた。
このオーベルジュは食通の人々には有名で、交通の不便な山間の村にあるにもかかわらず、遠くパリからも訪れる客で数カ月先まで予約でいっぱいなのだそうだ。
「今日の注文分の野菜と卵……足りないものはないですよね? あ、これはおまけで、自家製のリンゴのブランデーです。味見して、気に入れば、また持ってきますよ」
「うん、いい香りだね。これなら、地元のものを好むお客にサービスとして出してもいいかな」
「この間のジャムも気に入ってもらえたようで、母さんが喜んでいましたよ」
顔なじみのオーナー・シェフは、頭がよくて目端のきくルネを日頃から気に入ってくれているようだった。
だからだろう、こんな依頼を急にしてきたのは――。
「な、ルネ君、君を見込んで頼みがあるんだが、今日と明日、予定は空いているかい? もしよかったら、うちでアルバイトをしてくれないか?」
「これからですか? 別に今のところは何も用はありませんが……」
「今ちょっと特別なゲストがうちに泊まっているんだ。いや、正確には泊まるはずだった。ところが、肝心の主賓が急用で来られなくなり、昨夜遅くここに到着したもう一人は、相手がいなくて退屈をもてあまし、せっかくパリからここまで来たのに、もう帰ると言い出す始末だ」
「それは、その人の勝手ではないんですか?」
ルネが正直な感想を述べると、オーナーは困ったように顔をしかめた。
「確かにその通りなんだが……できれば、彼にはこのオーベルジュに対していい印象を持って帰ってもらいたいんだ。うちは料理自慢の宿だが、車でちょっと足を伸ばせば、風光明媚な景色や見どころもたくさんある。だから、この辺りに詳しく気の利いた人間をガイドとして雇って、ムッシュの世話を任せたいんだ」
「そう言えば、バカンス客のガイドなら、去年の夏休みにも引き受けたことがありましたねぇ。いいですよ、一日二日くらいなら…パリから来た人と話をするのも面白そうだし…」
「そりゃあ、よかった。君なら、安心して、あの人のことを頼めるよ、ルネ。話相手としても楽しいし、いざって時にはボディーガードにもなってくれそうだしね」
オーナーのほのめかしに、ルネはちょっと苦笑いをした。
「随分な気の使いようですね、そんなに大切なゲストなんですか? でも、パリならともかく、この平和な田舎でボディーガードの必要なんかないですよ、オーナー」
オーナーは、軽い気持ちで引き受けたルネの手をぐっと握り締めて振り回すと、彼には庭の方に出て待っているよう言い残し、件のゲストを探しにホテルの奥に入っていった。
「今日は天気もいいし、この分だと昼から結構気温も上がりそうだな」
ホテルの裏手にある庭からは、新緑の美しい森と湖、その向こうにそびえるオーヴェルニュ地方の起伏にとんだ山並みが望める。
さわやかな風と共に野生の水仙の甘い香りが、どこからともなく漂ってきて、ぼんやりと庭を散策するルネをうっとりさせた。
(あ)
ルネの目が、次の瞬間、僅かに見開かれた。
庭の中心に大きなマロニエの樹がある。
その下には散策に飽きた人が休めるようベンチが備えてあって、そこで一人の人の男が昼寝――というには少し早い時間ではあったが――をしていた。
ここに宿泊している客だろう。見知らぬ他人の休息を邪魔する理由もないので、ルネはそのまま通り過ぎるつもりだった。
しかし、なぜか気になって、足音を殺して樹の下まで行くと、長身の体を幾分窮屈そうにベンチに横たえている男を見下ろした。
「………」
ボーイ・ミーツ・ガール――いや、この場合、ボーイ・ミーツ・ボーイか。
ルネは胸の内で密かにううんと唸った。
更に数歩、大きく広がったマロニエの木立から洩れかかる光を浴びながら眠りこんでいる男との間合いを詰め、改めてじっくりとその姿を観察した。
バカンス客らしく身につけているものはカジュアルでシンプルなデザインだが、胸元の開いた白いシャツにしろ、深いカーキ色のジャケットにしろ、ものはよさそうだ。
濡れた鴉の羽のように真っ黒な髪。意志の強そうなくっきりと男らしい眉。すっと通った鼻筋と口元の線の端正なことといったらなくて、ルネがこれまで出会った男の中で、文句なしに一番のハンサムだ。
ルネの無遠慮な視線にも一向に気づかず熟睡している所を見ると、よほど疲れているのだろうか。
ベンチの上から半ば投げ出された手の下には、都会のビジネスマンが愛読していそうな経済紙が落ちていた。
ルネは地面からその雑誌を拾い上げ、男の手元にそっと戻してやった。その間も、どうしても彼の寝顔から視線を離せない。
要するに、物凄くタイプだったわけだ。
精悍さと甘さが丁度いい塩梅で備わった顔立ちも、肩幅の広い、いかにもスポーツで鍛えられたような逞しい体つきも、日ごろ見慣れた村の男達とは一線を画する洗練された雰囲気も――。
この頃のルネには一応付き合っている年上の恋人もいたのだが、農業者組合に勤める根っからの農民の彼は、この男と比べるとやはり垢抜けない。
だらだらと付き合って三年、今ではほとんど惰性と化した関係だからか、自分のものではなくてもいい男が目の前に現れると気持ちがぐらついてしまう。
問題は、ルネがいいなと思っても、大抵の場合相手が同性には興味がないということだ。
大学に行けば多少状況は改善するかと思ったが、普通に暮らしていて、なかなか同性を好むいい男とは巡り逢えない。
今の彼氏の前には、以前通っていた柔道教室に憧れの先輩がいて、ちょっといい雰囲気になり、キスを交わしたことくらいあったが、あることをきっかけに振られてしまった。
自分の性向には早くから気付いていたルネだったが、そんな訳で出会いの機会には恵まれず、理想と現実のギャップに日々欲求不満を募らせていたのだ。
(あ、無精髭が生えかけてる)
いつまで経っても相手が目覚める気配がないことで、次第に大胆になってきたルネは、そっと手を伸ばして男の顎に指先で触れようとした。
その手を、横から伸びてきた別の手が掴み締めた。
「ひっ」
思わず、ルネは悲鳴をあげそうになった。
焦りまくるルネの見る前で、黒髪の男はゆっくりと瞼を上げた。まだ半ば夢を見ているような、その瞳は、深い森の色をしていた。
「誰かと思えば……おまえか、ガブリエル」
不審者として糾弾されるかと思いきや、彼は、動揺するルネに向かって優しく微笑みかけてきた。
「あ、あの……僕は――」
頬がかっと熱くなる。必死に言い訳を考えるルネの頭に男の手がかかる。
「えっ…?」
強引に引き寄せられたルネは、気がつけば男の腕の中、戸惑いの声を発しかける口を彼の唇で塞がれていた。
(えっ…えええっ?!)
一瞬かっとなったルネは、男の胸倉を引っ掴んで投げ飛ばしそうになったが、すんでの所でぐっと堪えた。
素人相手に柔道技を仕掛ける訳にはいかない。ルネの理想を絵に描いたような、こんな男にそれで嫌われてしまうのは、もっと嫌だ。
それにしても―。
(どうしよう、この人、すごくキスがうまい)
緊張のあまり固くなっているルネの体と心を蕩かせるほど、彼のキスは情熱的で、巧みだった。
ルネはつい、戸惑いも恥ずかしさも忘れて、積極的にキスに応えてしまう。
(まるで恋人のように僕を抱きしめて、こんな甘いキスをくれる……あなたは一体誰……?)
夢見心地のルネの耳に、その時、遠くからオーナーが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ルネ、おーい、ルネ、どこにいるんだ?」
一気に現実に引き戻されたルネは、男の腕から身を振りほどいて、よろよろとベンチから退いた。
「あっ……あなたは……?」
震える我が身をひしと抱きしめ、息を弾ませながら尋ねるルネの見る前で、男はゆっくりとベンチから起き上がって、軽く伸びをした。
「うん……?」
完全に目を覚ましたらしい男は、胡乱そうにルネを見やった。先程までの親密さは、その目には微塵も残っていない。
「そうだな、あいつがここにいる訳ないか」
どこか寂しげに、自嘲混じりに漏らした呟き。
「しかし、一瞬俺が見間違うのも無理はない……そっくりだ……」
男はルネの頭のてっぺんからつま先まで遠慮のない眼差しでじろじろと眺めまわし、立ち上がった。
「おい、おまえは何者だ? ここで一体何をしている?」
「あ、あなたこそ、一体何なんですか。いきなり僕にあんなことをしておいて、その態度はないでしょう!」
先にちょっかいを出したのは自分だという後ろめたさと動揺を隠すため、ルネはわざと怒ったように口ぶりで抗議した。しかし、男は意に介した様子もなく、服と髪の乱れを手早く直しながら、ずけずけと言った。
「謝らなければならないことをしたとは俺は思っていないぞ。喜んでいたじゃないか、おまえも……」
「なっ」
図星を指されたルネは真っ赤になった。一瞬男に対して殺意を覚えるが、つい繰り出しそうになった鉄拳を必死で抑えこんだ。
柔道だけでなく空手でも達人レベルに達している自分が殴ったら、大変なことになってしまう。
「ルネ、そこにいたのか」
草を踏みしめる足音と共に、オーナーが木立の向こうから現れた。彼は、険悪な雰囲気で睨みあっているルネと黒髪の男の様子に怯んだようだが、すぐににこやかな愛想のよい顔になった。
「おお、ムッシュ・ヴェルヌもご一緒でしたか。これは、話が早い」
明らかに相手の機嫌を窺う態度のオーナーに問いかけるような眼差しを向けると、彼は神妙な面持ちでルネに目配せした。
「ルネ、この方が、先程お話ししたゲストだ。ムッシュ・ヴェルヌ、この子が、今日と明日の二日間、あなたのガイドとお世話役を頼んだルネ・トリュフォーです。とてもよく気がつく、いい子ですから、退屈を紛らわせるにはうってつけの相手になるでしょう」
「えっ?」
それでは、この男が例のパリから来たオーナーの大切なゲストなのか。一緒に宿泊するはずだった連れ――たぶん恋人だろう――が急に来られなくなって、落胆しているという……?
「別にガイドなど必要はなかったんだが……」
ヴェルヌと呼ばれた男は眉根を寄せて、うっそりと呟いたが、すぐに気を変えたようだ。
「そうだな、確かに、退屈しのぎにはなってくれそうだ」
「う……」
意味深な台詞を吐いた後、男はオーナーに向かって鷹揚に頷き返し、必死に動揺を押し隠しているルネに改めて向き直った。
「俺は、ローラン・ヴェルヌだ。ルネ、よろしく頼むぞ」
どんな反応をしたらいいのか分からず、ぽかんと口を開けたま固まっているルネを、ローランは目を細めるようにして眺めた。
おまえの本音などお見通しだぞと言わんばかりの表情に、ルネの胸の奥の心臓が激しく震える。
そう、ルネはローランに完全に一目ぼれをしていた。
柔らかな木漏れ日を浴びながら、無防備にベンチの上で寝ていた彼を一目見た時から――実際目が覚めて動き出すと最初の印象とは大幅に違う気がしたが、ガイドとして彼と一緒にいられるかと思うと胸が高鳴りを押さえられない。
(でも、僕には一応付き合っている相手がいるし、たぶん彼にだって恋人くらいいるだろう。それに、どうせすぐにパリに帰ってしまう人なんだ、別にどうこうなりたいとは思わないよ。でも、それならそれで、この二日間、一生懸命この人の世話役に徹しよう。この人が満足してパリに帰ってくれるなら、僕も嬉しい……きっといい思い出になるだろうから)
何とか気持ち奮い立たせたルネは、すっと息を吸い込んで、ローランをまっすぐに見つめた。
「こちらこそ……さきほどは失礼しました。よろしくお願いします、ムッシュ・ヴェルヌ」
「ローランでいい」
口元を優しく綻ばせて、どこか親しげに、ローランは言う。
こちらに向けられた彼の目――自分を見ているようで見ていない、遠くにある別のものを追っているかのような―に、ルネはふと違和感を覚えたのだが、それが何なのか、この時にはまだ分からなかった。
その後に続くローランとの二日間は、ルネの徹底した気配りと機転の良さによって、その終盤近くまでほとんど問題もなく順調に進んだ。
気難しい人かと初めは思われたローランだったが、ルネのガイドでドライブしながら近くにある湖や洞窟、ロマネスク様式の教会を訪れたり、家族経営の小さなワイナリーで地元産のチーズと一緒にワインを試飲したりしながら、終始上機嫌に見えた。
ルネに対しても、二度とホテルの庭で見せたような傲岸不遜な態度を取ることはなく、極めて紳士的。
車から降りる際にドアを押さえてくれたり、重い荷物――農家育ちで力仕事には慣れているルネはこれくらいへっちゃらなのだが――を持ってくれたり、とても優しくて、うっかり惚れ直しそうになったくらいだ。
(でも、それは駄目駄目、どうせすぐに帰っちゃう人だもの……本気で好きになったら、別れるのが辛くなる)
そんな訳で、ローランに対するルネの好感度は上がる一方だったのだが、変だと思うことが全くなかったわけではない。
ローランは時々、何とも言えない熱っぽい潤んだ瞳で、ルネの姿を注視していることがあった。さすがにちょっと薄気味悪くなってきたルネが問いただすと、彼はルネの癖のない濃茶色の髪に手で触れ、不満そうにこんなことを言った。
「おまえが地味で目立たないのは、髪の色のせいかな……? 金髪に染めてみろ、きっと華やかな印象になるぞ」
一体いきなり何を言い出すのかと戸惑うルネに、更には、こんなことまで付け加える始末だ。
「おまえの顔ははっきり言って俺の好みだ。惜しむらくは、鼻の形が庶民的で可愛らしすぎる点かな」
人様の顔にケチをつけるなどと、失礼極まりない言い草だ。しかし、単純なルネは好みと言われた時点で軽く舞い上がっていたため、愛嬌があって自分では結構気に入っていた鼻で規格外の評をローランに下されて、たちまち地べたに叩き落とされたように落ち込んだ。
「……それで、おまえは大学卒業後、どうするつもりなんだ?」
二日目。湖を眺められるレストランのオープンテラス席でランチを取っていた時に、ローランはふいにルネの進路について尋ねてきた。
思えば、この二日間、ローランは折りにつけ、ルネ個人について、家族や友人関係、大学の専攻から興味関心などを巧みに聞き出していたような気がする。
個人情報を行きずりの旅行者であるローランに明かす必要はなかったのだが、たとえ社交辞令でも彼が自分に関心を示してくれたのが嬉しくて、ルネは包み隠さずに正直に話した。
「そうですね……卒業はもう二カ月後に控えていますけれど、就職先はまだ決まっていないんです。インターン・シップを経験したタイヤ・メーカーに入れるかと少しは期待しているですが、今年は学生の新規採用は大幅に減らすとかで難しいみたいです。何とかしてクレルモン・フェラン市内で仕事を見つけたいとは思っています。こんな小さな村に戻った所で、それこそ働く場所は限られますし、実家の農業は既に兄夫婦が共同経営していますからね」
自分の置かれた不安定な状況を口に出して、ルネは改めて憂鬱になった。
あまり景気の良くない昨今、たとえ優秀でも、コネにはあまり恵まれていないルネにとって、自分の希望を通すどころか、ちゃんとした働き口が卒業までに見つかるかどうかも怪しい。
「それは、大変なことだな」
ローランはテーブルの向こうでゆったりと食後のコーヒーを飲みながら、何事か思案している。
「ルネ、おまえは、どうしてもオーヴェルニュから離れたくはないのか?」
何の前触れもなく、いきなり、彼は切り出した。
「は?」
「おまえが生まれ育った故郷をとても愛していることは、俺にも察せられるが……全く別の世界に飛び込んでみれば、思いもよらないチャンスが掴めるかもしれないぞ?」
想定外の質問に目をパチクリさせるルネが見守る中、ローランはポケットから取り出したビジネス・カードを一枚、テーブルの上に置いた。
「卒業後、気が向いたら、パリまで俺を訪ねてこい。俺はおまえが気に入ったし、ここで出会ったのも何かの縁だろう……悪いようにはしないぞ」
「ええっ?!」
まさに降って湧いたような就職話に、ルネはしばらく返す言葉も見つからず、ローランのどことなく自分の反応を意地悪く楽しんでいるかのような笑顔を、ぽかんと見返すのみだった。
「まあ、まだ時間はあるんだ。俺もすぐに返事は求めんから、ゆっくり考えろ」
ルネはおずおずと手を伸ばして、ローランのカードをテーブルから拾い上げた。
「ルレ・ロスコー……ホテルとレストラン経営をしている会社なんですね……? ローランは、そんなにお若いのに副社長なんですか……?」
「親族経営のワンマン会社だからな。ちなみに今年就任したばかりの社長は俺よりもっと若いぞ。あいつを補佐するため、俺は今の役職を賜ったのさ」
社長を『あいつ』呼ばわりするのかとルネは驚いたが、ローランの口ぶりにこもった深い親愛の情には、何かしらはっとさせられた。
もしかしたら、ローランと一緒にここを訪れるはずだった人というのは――。
微かな疑念が頭をもたげるのを意識した時、ローランの携帯電話が鳴った。
ローランはちょっと顔をしかめて、取りだした携帯の表示を確認した。俯いた、その顔が、たちまち日が差したようにぱっと輝くのが分かった。
「……俺だ」
応対に出ながら、ローランはちらっとルネを見やった。察しの良いルネは無言で席を立ち、トイレを借りる態を装ってレストランの奥に入っていった。
その背中に、平静を保とうとしていても、溢れ出す喜びは隠し切れていない、ローランのうきうきと弾むような声が届く。
「ああ、こっちは天気もいいし、観光には最高の日だぞ。おまえが来られなかったのは惜しいが、俺のことなら気にするな。適当に楽しんでいるからな」
こんなにも優しく、慕わしげに彼が話しかけているのは、一体誰だろう。
気になる……とても気になる――。
でも、ローランを捕まえて、問いただす権利はルネにはない。
「パリに出て、仕事を探す、か…」
そんなことは今まで考えてみたこともなかった。ルネは、生まれてこの方、この地方を出たこともない。
それに噂で聞く限り、パリは、街の雰囲気もそこに暮らす人々の気質も、同じフランスとは言っても、この田舎とは別の国と言ってもいいくらいに異なるらしい。
ルネは、ローランからもらった彼のビジネス・カードに目を落とし、溜息をつきながらポケットに直しこんだ。
「都会暮らしは、きっと僕には合わない。あの人の気まぐれをあてにして、将来設計をする訳にもいかないし…」
実際、ローランは二度とその話を蒸し返すことはなかった。
それどころか、例の電話が入ってからの彼は、ルネが傍にいても心ここにあらず、車の窓から見える美しい山間の風景にももはや無関心で、気難しげに眉をしかめて黙りこんでいる。
そう、ローランは一刻も早くパリに帰りたくなったのだ。
せっかく都会の喧騒を離れた清々しい自然の中、仕事という日常から隔絶された時間を持つ機会を与えられたというのに、現実を忘れることが出来ないとは、可哀想な人だ。
そこまでの価値が、あの煌びやかな街にはあるのだろうか。
ローランがもう観光気分でなくなったなら、ガイドとしての自分も無用だなと落胆しながら、ルネが、疲れたならそろそろホテルまで帰りましょうかと提案すると、彼は迷いもせずに、そうしてくれと答えた。
そんな訳で、予定よりも早く、ローランとはあっさり別れることになった。
別に期待はしていなかったが、ローランと特別親しくなれた訳ではない。彼にとって、この短い滞在が、いい思い出として心に残ってくれるのかも分からない。
「それじゃ、ムッシュ、僕はもう行きます。どうか今夜はゆっくり休んでくださいね。帰りの道中もお気をつけて…」
ホテルの玄関で、ルネは最後にローランと言葉を交わした。内心の失望は押し隠して、ルネが明るくにこやかに挨拶すると、意外なことに、ローランはちょっとばつが悪そうな表情をした。
「今日は悪かったな、ルネ……せっかく、おまえが張り切ってガイドを務めてくれたのに、途中から、俺は考え事ばかりしていた。こんな所で自分は何をしているのかと落ち着かなくなり、暇つぶしなどさっさとやめてパリに戻りたくなった」
「別にいいんですよ、ムッシュ。あなたのための休暇だったんですから、あなたは自分の好きなように振舞って、それでいいんです。ただのガイドの僕にまで、気を使う必要はありません」
「そうかもしれんが、他人の心遣いを無視して、むっつりと不機嫌な態度を取るなんて、子供じみていた。ちょっと反省している」
「あなたの口から『反省』なんて、あまり似合わない気がしますよ、ローラン」
柄でもなく神妙なことを言うローランに、ルネはつい笑み崩れた。
「それにしても……僕は訪れたことがないからよく分からないですけれど、一体パリに、束の間のバカンス気分にさえ浸りきれなくさせるほどの何があるというんですか?」
軽く尋ねたつもりが、自分でもぎくりとするほどのきつい響きが口調にこもっていたことに、ルネは焦った。
「パリに、一体何があるかだと……?」
ローランは軽く目を見開いた。その顔が束の間空白となり、それから、ふいにぱっと目の前が開けたというような明るさが差すのをルネは認めた。
「面白いことを聞いてくれるな」
ルネを見下ろし、ローランは明るく笑いながら、迷いのない口調で答えた。
「俺にとっての全てがあるのさ、ルネ」
戸惑うルネの頭に手を伸ばしてくしゃりと撫でるローランは、実に幸せそうな顔をしていた。早くも、心はパリに――そこにある、彼の大切なものの上に飛んでいるようだ。
休暇中も煩わしい現実を忘れきれないローランを可哀そうな人だと感じたルネだったが、こんなに嬉しそうな顔をして戻って行けるなら、パリでの彼の生活はさぞや幸せで満ち足りたものなのだろう。
「元気でな、ルネ」
ローランは悪戯っ子のように片目を瞑って見せると、くるりと背中を向け、足早にホテルの中に入っていった。
「あなたも、お元気で……」
ルネは小さく溜息をつき、バッグを持ち直して、今朝駐車場に止めたきりの自分のバンの方に歩いて行った。
ローランは、自分を訪ねてルネがやってくるのを待っているとは、言ってくれなかった。あの申し出は、やはりその場での軽い思いつきで、カードを手渡しとこともきっと忘れている。
(ローランの縁もこれきり…彼のことは、綺麗さっぱり忘れよう。たぶん二度と会うことはない…)
未練はあっても自分にそう言い聞かせ、ルネは、自分とって当たり前で代わり映えのない日常生活――差し迫った問題は就職だ――に戻っていった。
ローランとの縁が切れずに、自分をパリに引き寄せようとしていることにルネが気付いたのは、それから更に四ヶ月後のことだ。
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