花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第三章

錆びたワイン(4)

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「…今度は、このワインをどうぞ。先程と同じ造り手グラムノンのもので、樹齢100年以上の樹から収穫された葡萄から造られるんですよ」
「100年! それはまたすごいおばあちゃんのワインなんですね」
「はは…まさにその通り。亡くなった前のオーナーが、畑から収穫される葡萄のことを愛情込めてメメ(おばあちゃん)と呼んだことから、このワインにもメメという名がつけられているんです」
 秘書の学校を終えた後、ルネは1人で例のワイン・バーを訪れていた。
 店の中は、週末ということもあり結構混み合っていたが、カウンターに座ったルネに対応してくれたバルマンは親切だった。
 どうせなら本でもしばしば名前が出てくるグランヴァンのワインを試してみようかと迷うルネに、この値段ならもっとお勧めのワインがありますよと彼が出してくれたグラスは、どれも美味しかった。
「…最近は、雑誌で見たと言ってやってくる新しいお客さんが多いので、そういう方の求める有名ワインも提供しているんですが、飲みごろかというと微妙なんですよね。所謂グランヴァンのワインは、本来なら、10年くらい寝かしてから飲みたいところですからね」
「…そういうものですかぁ。奮発して買ってみても、飲み頃になるまで10年も待たないといけないなんて、気の遠くなる話ですね」
「どうしても飲みたい時は、デキャンタで無理矢理開かせることもありますが、長熟タイプのワインとなると、なかなかどうして手強いんですよ。あんまり無理をさせるのも、ワインが可哀そうですし…」
 バルマンの蘊蓄は面白くてもっと聞きたかったが、若いギャルソンが助けを求めにやってきたので、彼はカウンターを離れてテーブル席に向かった。
「…『おばあちゃん』なんて聞いたせいかな、何だか懐かしいような優しい味がする」
 ルネはワインのテイスティングにすっかりはまってしまって、いい男を物色するという本来の目的はなおざりになっていた。しかし、実際の所、周囲を見渡しても、自分から進んで声をかけてみようという気になれる男がいなかったのも確かだ。
(頭の中で、ついローランと比較しちゃうのかな。ああ、駄目駄目、この期に及んで彼のことなんか考えるのはよそう。とにかく、顔は劣ってもいいから、打ち解けやすそうな雰囲気の人を探してみよう)
 ルネがそんなことを考えていると、近くのテーブル席の方から、幾分苛立った調子の英語が聞こえてきた。
「…ああ、もう、いちいちフランス語の説明を聞くのなんか面倒くさい。何でもいいから、この店で一番高いワインを持ってこい!」
 何の騒ぎかと思いながら、ルネが声のした方を振り返ると、先程のバルマンが、若いギャルソンと一緒にテーブル席の男性客三人を相手に困った顔をしていた。
「高いワインと言われましても…それが果たしてお客様の好みに合うものか、分かりませんが…」
 バルマンは少しは英語を使えるようだが、そんなたどたどしい説明に耳を傾けるだけの辛抱を、その客達は持ち合わせていないようだ。
「お、ワイン・リストにシャトー・ル・パンが載っているな。ニューヨークでも、マニアの間で高値で売り買いされている奴だ。よし、これにしないか?」
 バルマンは何か言いたげな顔をしたが、そもそも人の話を聞こうともしない客の態度に疲れたのだろう、結局押し切られる形でオーダーを通した。
「ル・パン君かぁ…確かに高そう。ビンテージはいつのだろう」
 読み漁っているワイン本の中によく出てくる幻のカルト・ワインの名前に興味をそそられたルネは、体を捻って、斜め後ろにあるそのテーブルを眺めた。
 そこにいる客達は、身なりのいい、いかにも外国人風の30歳前後の男ばかり3人連れだった。先程の英語の発音から、アメリカ人らしい。
 ルネが推測を巡らせているうちに、男達の中の1人が彼の視線に気づいたようだ。他の仲間の腕をつついて知らせると、皆一斉にこちらを興味津々見返した。
(うわっ…)
 焦ったルネは慌てて顔を背けるが、もう遅かった。彼らはしっかりルネに関心を覚えてしまったらしい。
「おい、あの金髪の子、可愛かったな」
「どうする…? 英語は分からないかもしれないけど、声かけてみるか?」
 ルネは結構語学には堪能だったので、その内容もよく理解できた。
「せっかく休暇を取ってパリにまで来たんだから、フランス美人とも親しくなっておかないと、何しに来たか分からないぞ」
 本当に一体何をしにきたんだよと心の中で密かに突っ込みを入れながらも、『美人』という言葉につい反応したルネは、性懲りもなくもう一度そちらを見てしまった。
 すると、陽気なアメリカ人達はおおっと大げさにどよめき、ルネに向かって笑顔で手を振ったり、ウインクを投げて寄こしたりしてきた。
(ああ、駄目…あのノリにはついていけない)
 げんなりしながら、ルネは再びカウンターに向き直り、彼らを無視する構えでワイン・グラスを唇に運んだ。
 そうするうちに、ギャルソンが抜栓したワインをテーブルに運んできた。彼らがオーダーしたシャトー・ル・パンだ。
(あ、ル・パン君だ! に、匂いだけでも、分からないかな…?)
 ネットのオークションで見たのは、確か1982年ものだったか。自分には一生かかっても無理と思ったワインなだけに、せめて匂いだけでもお相伴に与れないかと、ルネは鼻をひくひくさせながら、そちらのテーブルを眺めやった。
 すると、初めにルネを見つけた男とまたしても目があった。
「あの子、またこっちを見ているぜ」
「これはやっぱり脈があるんじゃないかな。おまえ、誘ってこいよ」
 慌ててルネは背中を向けたが、二度も思わせぶりな視線を向けてしまったのだから、彼らをその気にさせたのは彼の責任だった。
「ボン・ソワール…お一人ですか…?」
 肩越しにたどたどしいフランス語で声をかけられた時は嘆息しそうになったが、『フランス語の分からない外国人に話しかけられたら無視する』すかしたフランス野郎ではないルネは、躊躇いながらも誠実に答えた。
「英語なら、多少分かりますから、大丈夫ですよ」
 すると、男は嬉しそうに顔を輝かせた。
「そうなんだ、よかった。僕達は、フランス語はあまり得意でないんで、ガイド・ブックにお勧めと載っていたから入ってみたこの店だけれど、オーダー1つ通すにも苦労していたところだったんだ」
 フランス語が苦手でも、あの親切なバルマンの話をちゃんと聞く姿勢があればさほど苦労はしなかったろうにと思っても、顔には出さず、ルネは礼儀正しく答えた。
「慣れない街で言葉が不自由だと、色々不便でしょうね。どちらからいらしたんですか?」
「ニューヨークだよ。僕達は大学時代からの悪友同士でね…運よく同じ時期に休暇が取れたものだから、一緒にパリに来て、羽を伸ばして楽しんでいるところさ」
 彼が出したビジネス・カードは、ルネも聞いたことのある大手の証券会社のものだ、他の2人も大手銀行や法律事務所に勤める弁護士という肩書だった。ついでに言うなら、彼らは皆ゲイで、その結束があるから、これまで長い付き合いが続いているらしかった。
「もしかして誰かと待ち合わせかい? 気安く声をかけたりしたら、まずいのかな?」
「いえ…そういう訳ではないですよ」
 ルネはどう応えようかと迷いながら、相手の顔を凝然と見つめた。
 見た目はそんなに悪くない。並みの上か上の下くらい。屈託なく笑った表情は好感が持てるものだったが、口から覗いた歯は不自然な程真っ白で、もしかしたらホワイニング処置でも受けているのではないかと疑ってしまう。
「それなら、僕達のテーブルに来ないか? 大勢で飲む方が楽しいし、今夜はパリ滞在の記念にととっておきのワインを頼んだんだ」
「ワインを…一緒に…?」
 えっ、シャトー・ル・パンを飲ませてもらえるの? 意地汚くも、その一言でルネの気持ちは固まった。
「…別にいいですよ。僕もちょっと退屈していたところだったんです」
 ルネが男の目をじっと見つめながら思い切り魅力的な笑顔で応えると、彼はぱっと頬を赤らめた。
 ノリの軽いナンパ野郎だが、こういう顔をするとちょっと可愛いかなと思わないでもない。
「ありがとう、僕はポール」
「ルネです」
 得意げなポールに伴われたルネがテーブルにやってくると、他の2人もにこやかに席を空けて彼を歓迎した。
 とにかく皆フレンドリーで、こうして近くで接してみるとそんなに悪い人達ではないのかもという気がしてくる。
「それにしても、こんなに綺麗な子が1人きりでワインを飲んでいるなんて信じられないな。思いきって声をかけてみたけれど、絶対誰かと待ち合わせだろうって、振られることは覚悟してたんだ」
「ねえ、本当に恋人とかいないのかい? 君くらい魅力的なら、すごくゴージャスな恋人がいても不思議じゃないし、大体周りが放っておかないだろうに…」
「こらこら、初対面なのに、あんまり不躾なことを聞くなよ。ルネ君、ごめんね、騒がしくて…仕事から離れた休暇となるとついタガが緩んでしまうみたいなんだ。そう言いながら、俺も、君みたいな素敵なフランス美人と知り合えてラッキーだとは思ってるけど…」
「こら、抜け駆けするなよ、エド」
 男達にちやほやと持ち上げられて、初めは戸惑っていたルネだったが、次第にまんざらでもないような気持ちになってきた。
 この姿に変身する前は、地味で目立たなかったルネは、自分の美しさや魅力を他人に褒めそやされるようなことはなかった。
 ローランの趣味で磨かれた今の自分がどうやら美しいということは分かるが、それにしたって、ガブリエルの贋作でしかないのならば、ルネにとって無価値に等しい。大体肝心のローランが、この所ルネに対して他人行儀で、綺麗だとか可愛いとかいう言葉をちっともかけてくれないのだから、彼の自己評価は下がる一方だったのだ。
(ううん、ちょっと優しくされたくらいで気安く打ち解けてしまうのもどうかと思うけれど…なかなかどうして、結構いけてる男達にもてまくりのこの状況は…気持ちいいかも…)
 ルネが充分にくつろいで、代わる代わる話しかけてくる男達に微笑み返すようになった頃、ついにポールが例のワインのボトルを取り上げて、厳かに告げた。
「それじゃあ、そろそろ、このワインを試してみようか。シャトー・ル・パン2006年だ」
「ああ、そうだったな…つい、ルネ君の美貌に目がくらんで、ワインの存在を忘れる所だった」
「だったら、おまえは忘れたままでいろよ、ダン。俺達3人でこのワインは楽しむからさ」
 ポールは意地悪く言いながらもボトルを取り上げ、なかなか慣れた手つきで、並べられた大きなボルドー型グラスに濃いガーネット色のワインを注いでいった。
(あ…れ…?)
 テーブルに身を乗り出すようにして香りが立つのを待ち構えていたルネは、次の瞬間鼻腔に感じた匂いに戸惑いを覚えた。
(何…この香り…?)
 ルネは改めて、目の前まで持ってきたグラスから立ち上ってくる香りを嗅いでみたが、違和感は増すばかりだ。
「乾杯!」
 一方のポール達は何の疑問も覚えずグラスを掲げ、口元に持ってきては香りを思い切り吸い込み、神妙な顔で頷いている。
「やっぱり、ル・パンだけはあるな、この豊かな香り…」
「おお、すごくうまいぞ、これ! やはり高値で取引されているだけはある」
 そんな単純な称賛を聞き流しながら、ルネはグラスにはまだ口をつけず、その香りを一心に嗅いでいた。
(ル・パンと言えば、確か葡萄の品種はメルロー百パーセント…ああ、ヴァニラのような独特の樽香もするな。熟したブラックべリーのような香りにチョコレート…確かに、本で読んだイメージの香りはグラスの中から上がってくるのに、それを邪魔する嫌な臭いが混じっている。どこかで嗅いだ事があるんだけれど、何だったかな…?)
 ルネは、おずおずとグラスに唇をつけ、一口ワインを口に含み、舌の上で転がすようにしながらゆっくりと味わってみた。
(うーん…どうなんだろ、鼻に抜けるワインの香りそのものにも伸びがない気がするし…それに、やっぱり、これって異臭だよねぇ。ワインって、腐ったりすることあるのかなぁ)
 しかし、他の3人の様子を眺めてみれば、皆満足した顔で美味しいと言っているのだから、単に高いワインを飲みつけていない自分の感覚に問題があるのかもしれない。
(これも、こういうものだと思えば、まあまあ美味しいのかもしれないな。ル・パンだと期待しすぎたのがいけなかったのだろうか。でも―)
 ローランに奢ってもらったラトゥールは、ワインにさほど興味のなかったルネの目を大きく開かせるほど、衝撃的な美味しさだった。
 噂に高いル・パンならば、いくら好みの問題はあるとはいえ、また別のめくるめく恍惚感に自分を包んでくれそうなものではないか。
(これ、奢ってもらったワインでよかったな…もしも割り勘だったりしたら、僕はきっと逆上して、よくもこんなすかワインを掴ませたなって店の人を締め上げちゃうところだよ)
 密かな落胆と失望感を噛みしめながらも、まだ納得しきれないルネは、ボトルを手元に引き寄せ、本当に正真正銘のル・パンなのか、エチケットをチェックしてみた。
(間違いない…セカンドとか紛らわしいものでもないな。ビンテージは2006年か…もしかして、まだ飲み頃が来ていないとか、そういう問題なんだろうか…?)
 ルネがグラスの中のワインの大半を残したまま、難しい顔でボトルをためつすがめつ眺めているのを怪訝に思ったのか、ポールが声をかけてきた。
「このワインはどうだい、ルネ?」
「は、はい、おいしいです。これが有名なル・パンなんですね…貴重なワインを味見させてくださって、ありがとうございます」
「そんなに堅苦しい言葉遣いはよせよ、ルネ…君になら、ル・パンを奢っても惜しいとは思わないよ」
「はぁ…それはどうも…」
 思ったよりも美味しくないという正直な感想はとても言えないなと思いながら、ルネは先程のバルマンの姿を目で探した。彼に、このワインはこういうものなのかどうか、確認してみようと思ったのだ。
 店内をぐるりと見渡したルネは、その時丁度バーに入ってきた長身の男を入口近くに見つけるや、つい大声をあげそうになった。
(えっ…嘘、ローラン?!)
 ゆったりとした足取りで誰かを探すように奥に入ってくるのは、間違いなく、ローランだった。
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