花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第五章

Blanc de Blancs(13)

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 明くる朝早く、ルネはベルシー駅の傍のカフェで、1人、ぼんやりとコーヒーを飲みながら時間を潰していた。
 彼の指先は、テーブルの上で、先程購入したクレルモン・フェラン行きの始発列車のチケットを無意識に擦っている。
 時折落ちつかなげに組み直される、その足元には、旅行用のバッグが一つ。昨夜遅く、アバルトメントに帰るなり、取りあえず必要になりそうな身の回り品を詰め込んだものだ。
 何しろ急な決定だったので、アパルトメントの契約解除の話を大屋にするためや引越しの手配のためにもう一度くらいパリに戻らなくてはならないが、昨夜のルネはこれ以上一日たりともパリにはいられないと思いつめていた。
(別に、僕が自分でわざわざ来なくても…諸々の手続きはいっそ兄さんに頼めばいい)
 ルネは、朝とはいってもまだ暗い窓の外に目をやり、溜息をついた。
(自分の部屋に留まっているのが怖くて、始発のメトロに乗ってここまで来ちゃったけれど…まだ1時間近くも待たないといけないのか)
 昨夜は、ルレ・ロスコーの関係者から連絡が入ることを恐れて、スマホの電源も切ってしまっていた。
(ローランは、あれからどうなったんだろう…アシルさん達が病院に連れて行ってくれたから、たぶん大丈夫だとは思うけれど…)
 微かに早まった心臓の鼓動を鎮めるべく、ルネは肩で大きくした。ポケットに手を突っ込み、そこにあったスマホを恐る恐る引っ張り出した。
(ローランがどうなろうと僕の知ったことじゃない。もう僕には関係のない人なんだから…)
 そう自分に言い聞かせるも、昨夜の取り乱した精神状態を脱した今、後に残してきた諸々の出来事の結果が気になって仕方がない。ルネはついにスマホの電源を入れた。
 着信記録には、アシルの名前が何件も残っていた。それから、オフィスで割と親しかった人達の名前…しかし、ルネが予想した、ある名前だけはそこになかった。
(当然ガブリエルにも、僕がローランを病院送りにしたという知らせは行ってそうだけれど…だからと言って、あの人が僕に自ら連絡を入れようとするなんて見当違いだったかな。せっかく応援してやったのに何もかも台無しにして逃亡した秘書なんか放っておいて、今頃病院でローランに付添っているかもしれない)
 一瞬胸に湧き上がりかけたもやもやとした嫉妬心を、ルネはふっと笑い飛ばした。
(ローランの傍には二度と戻らないと決めたのは、僕じゃないか。今更気にかけるなんて、未練がましいぞ。そうだ、もうあんな酷い男のことなんてきれいさっぱり忘れよう。パリでの暮らしも洗練された都会の男も僕にはあわなかったんだ。田舎に戻って一からやり直そう。そのうち、僕にふさわしい新しい恋だってきっと見つかるよ)
 必死になって自分に言い聞かせるルネの脳裏に、昨夜のローランの声がまざまざと蘇った。
(そうすりゃ俺は、おまえの人生からきれいさっぱり消えてやれる…厄介な亡霊となって、おまえの新しい恋の邪魔をすることもないだろう)
 ローランとのやり取りにすっかり心乱され、混乱のあまり逃げ出そうとするルネをあの場に釘づけにしたのは、彼が投げつけてきた言葉の数々があまりに核心を突いていたからだ。
(どうしてローランはあんなことを言ったんだろう…そう、あの時の彼はまるでわざと僕を挑発して怒らせようとしているみたいだった)
 忘れようと言い聞かせた矢先にまたローランのことばかり考えている自分に気付き、ルネは柳眉を潜めた。
 店の壁にかかった時計の時間を確認し、どうにもおさまりが悪いかのように椅子に座り直す。
(ローランの言動に今更理由を見つけ出したって、どうなるものでもない。僕がローランを投げ飛ばした瞬間に、彼との短い恋は終わったんだ。ローランだって、そう言ってたし…ああ、まただ…!)
 意識を他に向けようとしても、ルネの頭はどうしても昨夜のローランとのやり取りに戻っていく。
(俺との短い、恋とも言えんような恋の始末をどうつければ一番すっきりするのか、おまえにだって本当はよく分かっているはずだ)
 ルネは首を傾げてちょっと考え込むと、確認するかのように自分の胸に手を置いてみた。
(すっきり、かぁ…うーん、どうかな)
 すると意外にも、失恋した直後だというのにじくじくと後を引きそうなダメージは受けていないことに、ルネは気付いた。むしろ何か吹っ切れたような清々しささえある。
(驚いたな…先輩に振られた時ほどの後味の悪さはない。ローランに煽られたからではあるけれど、逃げ出さずに自分の手でけりをつけられたからかな…今はまだ胸は痛いけれど、時間が経てば、何とか克服できそうな気はするよ)
 そう言えば、いつだってローランは無関心そうでいて、その実ルネの心の裏側までよく見通していた。
(ローランは、初恋の苦い思い出が僕のトラウマになっていることを知っていたから…自分のせいで、僕がまた自信をなくして自分の殻に引きこもってしまうことは避けさせたかったんだろうか…?)
 はたと思い至った可能性に、ルネは思わず息を飲んだ。慌てて否定するよう、頭を振った。
(まさか、ね…僕をわざと怒らせて、あの人に特になることは何もない。でも、それならどうして、病院送りにされる危険をわざわざ冒して、僕をあんなに激怒させたんだろう…?)
 あの時のルネは、荒れ狂う自分の感情に押し流されて、ローランの心を推し量る余裕などなかったが、今ならそれができる。本音をそのまま語ることはないローランの傍にいて、その意をくみ取ろうとしてきたせいだろうが、ルネには何となく、人を人とも思わぬ傲慢な態度を取る時のローラン独特の理屈が分かるようになっていた。
(ガブリエルのためにルレ・ロスコーに乗り込んできたローランは、何かあれば自分が憎まれ役を引き受けるのだと当たり前のように言っていた。その通り、批判の矛先はガブリエルではなく自分に向かうよう、新経営陣に否定的な者達に対してはわざと偽悪的に振舞まうのがあの人の常だった。人に誤解をされて、余計な敵まで作って、それでいいのかと思ったものだけれど、愛するガブリエルのためなら、それくらい、ローランにはどうってことなかったんだ)
 自己中心的で冷酷そうに捉えられがちなローランだが、そんな信じられないくらいに愛情深くて優しい一面も持っている。
(でも、それはきっとガブリエルが相手の時だけの話だ。僕のためにローランがそこまでするとは思えない)
 ルネの脳裏に、またしてもガブリエルの美しい面影が浮かび上がった。ルネには及びもつかない、何かしら超越したような美貌。人の心を見透かしているかのような不思議な微笑み――。
(ガブリエルなら、ローランの謎な行動の裏に隠された暴くことができるだろうか)
 頭の中に閃いた考えに、ルネは小さく身震いをした。ふうっと溜息をつき、カフェの店員にコーヒーのお代わりを頼んだ。
(今更怖がる必要なんかない、どのみち僕には、失うものなんか、何もないんだ)
 ルネは改めてポケットからスマホを取り出し、どうか通じますようにと祈るような気持ちで、登録してあるものの一度もかけたことのない番号にかけてみた。
(ルネ…?)
 まるで待ち構えていたかのように、僅か数回のコール音ですぐに相手が出た。
「こんな朝早くから申し訳ありません、ムッシュ・ロスコー…」
 冷静になろうとしても様々な感情がこみ上げてきて、とっさに言葉が出てこなくなった。
(いいえ、むしろあなたが私の存在を思い出し電話をかけてきてくれて、とても嬉しく思っていますよ、ルネ)
 蜜のように甘く優しい声に耳を傾けているうちに、ルネの心は次第に凪いでいった。
「あの……ローランは……?」
 擦れた声で問いかける。 
(ローランの怪我のことなら、安心なさい。せいぜい鎖骨を折ったのと右腕の骨にひびが入った程度ですよ。医者は全治三カ月と言っていましたが、手術はしなくてすみそうです。あなたに投げ飛ばされた際に頭を打っていたようなので、2、3日経過を見るために入院して、異常がなければすぐに出てこられますよ) 
 この知らせには心底ほっとした。手加減はしたつもりだが、再起不能の大けがをさせてしまっていたら、さすがに寝覚めが悪い。おかげで、もう少し大胆な一歩を踏み出す勇気も出た。
「…ムッシュ・ロスコー、あなたは以前、何かあれば連絡をするよう、この番号を教えてくださいました」
「ええ、覚えていますよ、ルネ…私はずっと待っていたのに、また随分時間がかかったものですね……?」
 一度見たら忘れられない蠱惑的な笑みを浮かべ、ルネの出方を待ち受けている大天使に姿が脳裏に浮かび上がるようだ。
「もしも今でも、僕を気にかけてくださるお気持ちに変わりがないのなら、あなたの力を貸していただけませんか?」 
 回りくどい駆け引きは苦手なルネが、曲者のローラン相手に切れる最強のカードは、これしか思いつかない。
「ローラン・ヴェルヌに罠を仕掛けたいんです」
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