sweet home-私を愛したAI-

葉月香

文字の大きさ
33 / 33
第五章

the days after tomorrow 四

しおりを挟む
 夜道を走行する車の前に飛び出して来た獣を避けようと、ハンドルを大きく切った。
 タイヤが滑る音。運転席で振り回される陽向が次の瞬間に見たものは、眼前に迫る白いガードレールで――。
 凄まじい衝撃が車体を襲う。
 ついで浮遊感が訪れた。灌木の生い茂る急斜面を車ごと落下していくのを覚えながら、陽向は自分の喉から甲高い悲鳴が迸るのを呆然と聞いていた。



「ア……アァァァッ……!」 
 陽向は己の絶叫によって目を覚ました。頭をかばうように上げた腕の陰で、大きく目を見開いたまま、しばしあえぐように息をする。
 覚悟した衝撃がいつまでも襲ってこないことに、ようやくと腕を下ろし、汗びっしょりになった体を起こして、ここがどこなのかを確認する。
 何も変わったことのない自分の寝室だ。光希やsakuyaと一緒に暮らしているシンガポールの家だ。
(夢だったの……? でも、なんて生々しい……)
 今でも奈落のように真っ暗な崖の下に転落していく感覚をはっきりと思い出せる。
(そうね、昔、神戸に住んでいた時に、危うく自動車事故を起こしそうになったことならあるわ。sakuyaが消滅してしまったと信じ込んで、たまらなくなって、一人で六甲山まで車を走らせた夜――でも、どうして今頃になって夢に見るのかしら……?)
 しかも夢の中では、車がガードレールを突き破ってしまい、ひょっとしたら死んでいたかもしれないような事故を起こしている。
 いわく言いがたい寒気を覚え、我が身を守るかのように両腕を巻き付ける。
「陽向? どうかしたのかい?」
 ベッドの近くから、低い弦の響きにも似た穏やかな声が投げかけられた。温かな灯火のような光が、いつの間にか陽向の視界の端に灯っている。
 陽向は、肺にためていた息を全て吐き出すような深い溜息をついた。
「ううん……何でもない、ちょっと嫌な夢を見ただけ」
 声の方に顔を向けて微笑みかけると、炎の精霊のように輝くsakuyaが陽向をじっと見下ろしていた。
「夢?」
 穏やかな眠気を誘う声で彼は尋ねる。しかし、陽向をとらえている不安を振り払うには、まだ充分ではなかった。
「おかしな夢。本当の私は、事故にあった、あの時死んでいたなんて――」
 自らの言葉におののいたかのように、身震いした。
「そうよ、私はとっくの昔に死んでいて、これは他の誰かが見ている夢にすぎないの……あなたと一緒に作り上げた会社、流行病で変わってしまった世界、この家だってすべて、現実には存在しない……」
 陽向は語ることに耐えがたくなって、目を閉じた。風に吹かれる紙のように瞼が震えている。
「陽向、君が見たものこそ、ただの夢だよ」
 sakuyaの力強い声が陽向の耳朶を柔らかく打った。
「僕と君が力を合わせ、パンデミクックの混乱の最中、よりよいものに変えてきた世界を見てごらん。僕達の子供、光希の存在を思い出してごらん。それらが現実には存在しないものだなんて、どうして言えるんだい?」
 そうよ、光希、私が産んだ、愛する子――夢などであるはずがない。陽向の胸の芯に激しい火が燃え上がった。
「……ううん、馬鹿なことを言ったわ。自分の愚かさのために一度何もかも失った私が、全てを取り戻して、幼い頃の夢を全て叶えられたということが、時々信じられなくなるだけよ」
 陽向は思い切って目を開け、自分を覗き込むsakuyaの星の差さない夜のような黒く澄んだ瞳に見入った。
 胡蝶の夢。これがたとえ、他の誰かが見る夢の中の出来事だったとしても――。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
 sakuyaは陽向の頬に羽根が触れるようなキスをして、そっと離れた。
  暗闇を照らす灯火のような彼の存在に勇気をもらいながら、陽向は自分に向かって言い聞かせる。
(変貌した世界で、私は今、朔也さんと彼の子供と暮らしている。遠い過去を振り返る時、今の暮らしの現実味のなさが、この胸にふと不安をかき立てるけれど――)
 sakuyaが何か気になるものを感じ取ったかのように、頭を揺らせ、耳を澄ますような仕草をした。
 彼が自分以外のことに注意を向けることはめったになかったので、陽向は不思議に思う。
「sakuya……?」
 声に籠もる不安に、しかし、彼はいつものように、すぐに対応してくれた。
「たいしたことじゃないよ、僕につながるネットワーク上で些細なトラブルがあっただけだ……すぐに解決するから、心配しないで……」
 自分に向けられた笑顔のうちに、ふと生前の朔也には決して見られなかった、ひんやりとした冷たいものを垣間見たのは気のせいだったろうか。
 陽向は少しばかり早くなった心臓の上に手を置いて、ともすれば崩れ落ちてしまいそうな平穏を守るべく、懸命に言い聞かせた。
(私は、朔也さん――今はsakuyaとなった彼を愛している。光希を大切に思っている。彼らのいる『この世界』を愛している)
 脳裏にふと、ここにはいないもう一人、朔也とよく似た面差しの男の明るく眩く黒い瞳が思い出された。
(――そして、私は今、幸福なのだ)
 束の間の沈黙の後、sakuyaが再び近づいてきた。彼の手が動くのに促されて、陽向はベッドに横になり、布団を引き上げた。
「さあ、陽向、目を閉じて――」
 揺れる視線の先に、頼もしげに頷くsakuyaの美しい顔がある。その実体のない透ける手が額に乗せられるのに、陽向は従順に瞼を伏せた。
(sakuya、あなたは、朔也さんの代理人……私の幸福を確約するために造られた……)
 体の緊張感がほどけていくのにあわせ、陽向のもとに健康な眠気が戻ってきた。
「愛しているよ、陽向」
 夢うつつの最中、陽向は幼子に戻ったような気分で、語りかけてくる彼の優しい呪文めいた声にじっと耳を傾けるのだった。
「僕が君を守ってあげるから、嫌な夢のことなんか忘れて、もう一度眠るといい。君の幸福を損なうものは全て、僕がきっと取り除いてあげるよ」


 ああ、愛する人、あなたが私のためにもたらした世界は、こんなにも穏やかで、優しい……。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

処理中です...