愚者の墓標に刻む詩

アーケロン

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一四  母校訪問

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 パーキングに車を停め、七年前と変わらない門をくぐる。母校に来るなど卒業して以来初めてだった。合気道部の顧問だった青木がいれば助かったのだが、土曜日なので学校に来ていないようだった。後輩にジュースを差し入れにきたので三名ほどで取りに来て欲しいと、守衛に頼んで道場に連絡をいれてもらった。しばらくして、大勢の部員が土煙を上げて運動場を突っ切って校門まで走ってきた。合気道部員十五名が拓哉の前に整列して頭を下げた。もちろん、顔を知っている部員など誰もいない。驚いたことに部員の半数が女子生徒だった。大先輩の登場で部員たちは一様に緊張しているようだった。
 自分が主将だといって、二年生の男子生徒が拓哉の前に出て挨拶をした。進学校のこの学校では、受験準備のため三年生は夏季休暇前に全員引退する。主将の指示で、一年生の部員がペットボトル二十四本入りのケース三箱をクラウンのトランクから下ろし始めた。
「十五人か。多いな」
「いえ、部員は全部で二十名います。今日、五名休んでいるんです」
「俺が主将をやっていたときは八名だったけどな。しかも、全員男だ。女の子がいるといいよな。むさ苦しくなくて」
 拓哉の言葉に、女子部員たちがくすくす笑いあった。
「お前たちの練習を見てやりたいが、他に用事があってここにきたんだ。ここで失礼するよ」
 青木先生によろしく。そういって手を振って校舎に向かって歩き出した拓哉に、「ありがとうございました」と後輩たちが全員で頭を下げた。たいしたことではないが、こうやって後輩に見送られるのも気分がいいものだ。
 北側にある校舎に入る。七年前とほとんど変わっていなかった。たしかここは化学教室だったな。拓哉は各教室を覗きながら廊下を歩いた。こうも懐かしく感じるとは自分でも思っていなかった。廊下は静まり返っていて、部活中の生徒たちの声が聞こえてくるだけだった。校舎には誰も残っていないようだ。卒業生なので校舎を少し見学させて欲しいと、守衛には断ってある。誰かに見つかっても騒ぎにはならないだろう。
 廊下の隅まで来た。以前と変わりなく、折りたたみ式の会議用テーブルやパイプ椅子が立てかけられて埃をかぶっている。その奥にある教室が、拓哉と康祐の秘密の部屋だ。康祐がここに詩織を連れ込むようになってからは足が遠のいてしまったのだが。
 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ゆっくりと鍵を回す。
 鍵が開いていた。
 休みの日にこんな部屋に用があるものは、この学校にはいないはずだ。康祐と二人でこの部屋でたむろしていた三年間で、この部屋が開けられたのは年末の大掃除の時だけだった。
 拓哉は音を立てないように慎重にドアを開けた。
 部屋の中は静まり返っていた。カーテンの隙間から差し込む陽光に照らされて、空中を漂う埃がきらきら光って見える。足音を立てずに部屋の中に入っていった。校内で不要になった書棚がこの部屋に運び込まれ整理棚として使用されているが、その棚に視界が阻まれて中がよく見通せない。
 微かな衣擦れの音。背後で空気が動いた。振り向こうとしたとき、いきなり後ろから太い腕が首に絡みついてきた。
 息が詰まる。腕が喉に食い込むのを防ぐために、首に絡んでいる腕を両手で捕まえた。頸動脈を絞められたらお終いだ。背後から、さらに力を込めて絞めてくる。拓哉は両手で相手の拳をねじ開け、指を折ろうと右の人差し指を掴んで反り返らせた。
 相手が咄嗟に離れた。
 振り向いて顔を見る。長身のがっちりした体躯に無精髭。詩織の言葉通りの男だった。
 間髪を入れずに男がタックルを食らわしてきた。咄嗟に腰を落としてガードしたが、まともに喰らった。強烈な衝撃が全身を襲う。弾き飛ばされて床を転がった。男が右腕を伸ばし、床に倒れている拓哉の髪を掴んだ。反射的にその腕を取り、捻じ上げた。男がうめき声をあげ、床を転がって固められた腕を解こうとしたが、拓哉は腕を放さなかった。
「あんた、後藤剛志だろ!」
 拓哉が息を荒げて怒鳴った。
「だったら何だ! 俺に用があってここに来たんだろ!」
 後藤は左手を伸ばして床に落ちていた棒を掴むと、床に組み伏せられたまま拓哉の脚に叩き込んできた。横に飛んで後藤の攻撃を避けようとしたが、鋭い振りを脚に喰らった。思わず、固めていた後藤の腕を離した。後藤が素早く立ち上がって拓哉を睨んだ。
「この野郎!」
 こうなったら組みついて止めるしかない。後藤が棒を振り上げて踏み込んできた。拓哉は素早く後藤の懐に飛び込むと、振り下されようとする前腕を受け止めた。そして手首を掴まえ、脇に抱え込んだ。
 手首を捻ると、後藤は悲鳴をあげて棒を離した。後藤が拓哉の足を力任せに踏んだ。激痛に顔を歪めて後藤から離れた。
 再び後藤のタックルをまともに喰らった。そのまま壁に背中を叩きつけられる。あまりの衝撃に眩暈がした。後藤の背中に体重をかけた肘を食らわせたが、後藤は体勢を崩すことなく、拓哉の腰を掴むとそのまま抱えあげて床に投げ倒した。
 床に叩きつけられ、強烈な衝撃に息が詰まる。
 なんて馬鹿力だ。
 後藤が上からのしかかってきた。この屈強な身体で押さえ込まれると面倒だ。床を転がって後藤から離れ、素早く立ち上がる。クリーニングに出して鼻血を落としたばかりのお気に入りのジャケットが埃だらけになっている。
 なおも突進しようとする後藤の顔面に拳を見舞った。拳が左の顎を捉えたが、怒り狂った後藤は怯むことなく腕を伸ばし、胸倉を掴んだ。強烈な膝蹴りを鳩尾に喰らわせた後、手首を掴んでねじ上げた。
「いい加減にしろ!」
 拓哉が怒鳴った。後藤は腕を固められないよう、強靭な力を込めて耐えている。凄まじい腕力だ。拓哉も力のある方だが、男の腕を捻り上げようとしてもびくともしない。
「これでわかったぜ! 杉田を殺したのはお前だ! 俺とこれだけやり合えるなら、あいつを殺すこともできたはずだ!」
 後藤が叫んだ。突然飛び出してきた康祐の名を聞いて、拓哉は動きを止めた。
「俺は杉田康祐の友人の篠塚拓哉。あいつから名前を聞いたことくらいあるだろう」
 後藤を落ち着かせるために、拓哉は口調を和らげた。拓哉の名を聞いて後藤が表情を変えた。
「名前は聞いたことがあるが、お前が本人である証拠はあるのか? 俺にはお前が木島の雇った殺し屋にしか見えないがね」
「ふざけるな。こんなイケメンの殺し屋なんかいるもんか」
 拓哉は後藤の腕を離すと、素早く彼から離れた。掴みかかってこようとはしなかったが、床に転がっていた棒を再び手に取った。まだこちらを警戒しているようだった。
「運転免許証でも見せたら信用してくれるのか?」
 拓哉はズボンのポケットに手を入れた。後藤が構える。
「武器は持っていない」
 この部屋の鍵を取り出すと、後藤の足元に投げた。床を転がったキーホルダーの暴れ馬のエンブレムが、教室に差し込んでくる陽光で光った。
「いつかそのエンブレムのついた車を転がしてやるといって粋がっていたよ、あいつは」
 後藤は床に落ちた鍵を拾って拓哉を見た。大物代議士、木島俊夫を追いかけまわし追い詰めた男。意志の強そうな眼光が、これまでこの男がくぐり抜けてきた修羅場の数々を物語っている。
 後藤の肩から力が抜けるのを見て、拓哉は大きく息をついた。
「ひでえことしやがって。アルマーニのジャケットが台無しだぜ」拓哉はジャケットの埃を払いながら、後藤を睨んだ。「あなたのことは知っているよ。木島の悪事を世間にばらして、あいつを代議士の座から引き摺り下ろした記者だろ?」
「いいね。そういう言葉を聞くと、ジャーナリストをやってきてよかったと思うよ」
 さっきまでの攻撃的な態度が嘘のような爽やかな物言いが、逆に拓哉の癇に障った。むっときた気持ちをぐっと抑えて、拓哉は抑え気味に言った。
「その仕事で康祐と組んでいたのか?」
「そうだ」
 ようやく自分の肩からも力が抜けるのを感じた。
「篠塚拓哉か。杉田から聞いたことがある。たしか、A新聞社主催のノンフィクション賞を取ったライターだったな」
「大したことじゃない。運がよかっただけだ」
 口の中に苦みが広がった。佐藤の顔が頭を横切る。あの男を頼るたびに、お前は無能だと心の奥で誰かが嘲る。
「俺の記事を読んだのなら、一緒に載っていた写真を見ただろ。あの写真を撮ったのが杉田だよ。木島の欲にまみれた薄汚い表情を見事に捕らえていた。正直、俺の書いた記事だけじゃ、奴の腹黒さを世間の連中に印象付けることは出来なかっただろうな」
 あの写真は康祐が撮ったものだったのか。目を剥いて二次元の世界からこちらを睨みつける木島の鬼のような形相と、彼の深い欲望を代弁しているような派手な成りをした愛人。確かにいい仕事だった。
「その棒を手放してくれないか。俺はあなたの敵じゃない」
 後藤が苦笑いして棒を床に置いた。
「康祐とは長かったのかい?」拓哉が訊いた。
「木島俊夫を追っていたとき、最初から杉田と組んでいたよ。その時から俺はあいつが気に入っていたんだ」
「ここには康祐の残した何かを探しにきたんだよな」
「ああ。杉田の死を知った時、木島がらみだと直感した。俺と杉田はあいつから蛇蝎のごとく嫌われていたからな。木島は北の工作員とも接触できる立場にある。工作員を使って、今までどれだけの邪魔者があいつに消されてきたことか」
 後藤がセブンスターをポケットから出して銜えた。かまわない。ここは喫煙室だ。
「でも、あいつがただで殺されるはずはない。自分を殺した犯人を特定できる証拠を残しているはずだと思って、いろいろ探ってきた。現に、俺の同僚に化けた奴が杉田の実家に上がり込んでいる」
「藤井って人の名を語った奴のことだな」
「そうだ」
「どうしてここが?」
「親友と語り合った秘密の部屋のことは、何度も聞かされて知っていたよ。あいつの恋人や家族に会ったが、何も預けている様子がなかったんでな。思いつくところはもうここしかなかった。ふたりでラブホテル代わりに使っていたんだろ?」
「それは康祐のほうだよ。俺は喫煙室にしていただけだ」
 拓哉は壁に立てかけられていたパイプ椅子を広げ、腰を下ろした。身体中がぎしぎしと音を立てている。再び湧き上がってきた怒りをぐっと飲み込んで、後藤を見た。
「木島が関わっていると?」
「だが、肝心なものがどこにあるかがわからないんだ。この部屋にあるのは間違いないんだろうが、こう雑然としていちゃ、探すのに一苦労だ。どこから手をつけようか考えていたところだよ」
「隠し場所ならわかるよ」
「本当か?」
「多分」
 拓哉は部屋の奥にある棚に近づいていった。標本箱を収めている棚。学校に持ってきたタバコは、授業が終わって持ち帰るまでの間、ここに隠していた。
 一メートル五十もある横長の引出しを開けると、貝や昆虫の標本が並べて置いてある。昆虫の標本の箱を持ち上げると、その下に茶色の封筒が隠してあった。
 これか。額に汗が流れた。横から後藤が黙ったまま拓哉の手元を見つめている。
 中を開けてみる。写真が数枚入っていた。それと、メモリーカード。写真を手にとってみるとボートのような小型艇に数人の男たちが群がり、荷物を降ろしている場面が写っていた。そして、岸に積まれた荷物のズームアップ。白い防水シートのようなもので梱包されている。男たちのアップの写真もある。
 奴らが探している写真に間違いない。
 小型艇は船首を細く尖らせた、高速艇のような形状だった。船体の後方に、黒の幌のような密閉型のコクピットを備えていた。
「なんだろう、これは。奇妙な形の船だな」拓哉が首をかしげた。
「なるほど。これが密輸船か」後藤が頷いた。
「密輸船?」
「北朝鮮の潜水艇だよ。韓国に工作員を送るために北朝鮮が使っている船だ」
 聞いたことがある。北朝鮮の湾岸部を発進して秘密裏に韓国の領海線に近づき、船体を沈めてコクピットだけを水面に出してレーダー探知や巡視艇の目をかいくぐって領海内に入る。そして誰にも察知されることなく岸に近づき、工作員を潜入させたり収容したりするのだ。
「こんな船があれば、シャブなんか持ち込み放題だろうな」
「どこの海岸だろう。日本かな?」
「さあな。しかし、せいぜい十メートルほどの小型船だ。この小さい船で日本海を渡って北朝鮮から日本にやってくるのは無理だ」
「この船がカルタックと関係があるのか?」
「それはわからん。だが、この船は密輸品を運ぶのには最適だ。レーダーにも映らないし、船体を完全に海中に沈めれば巡視艇からも確認できない。こっそり物を持ち込んだり運び出したりするのにはちょうどいいんだよ」そう言って、後藤は写真を手にとってじっくりと眺めた。
「以前から噂になっていたが、カルタックは北朝鮮に機械を違法に輸出しているんだ」
「機械?」
「中国やロシアほどではないが、日本も北朝鮮の軍需産業を支えるのに多大な貢献をしているんだよ。以前はロシアや中国に頼っていた兵器開発も、今や独自で進めることができるようになった。ロシアや中国の兵器を模倣して、似たような兵器を自国で生産できるように研究しているんだ。カルタックはそれに必要な精密機械を北朝鮮に売っている」
 聞いたことがある。特殊な遠心分離機にジェットミル。そして家庭電化製品やパソコンに用いられている数々の精密部品。北朝鮮で製造されるミサイルの部品の大半が日本から密輸されているのは紛れもない事実だ。
 あの写真だけでは何もできないぜ。三日前の夜、マンションの近くで待ち伏せていた男の言葉を思い出した。その通りだ。この写真を眺めているだけでは何もできない。
「しかし、俺たちは警察じゃない。証拠が必ずしも必要なわけじゃないんだ。推理が事実であるという確信が得られればそれでいいんだよ」拓哉が語気を強めた。
「しかし、その確信ってやつをどうやって探せばいいのか、見当がつかないな」
 そう言って、後藤が深い溜息をつく。
「さっき、俺のことを木島に雇われた殺し屋だっていったけど、後藤さんは奴らに狙われているのかい?」
「この前、家のそばで襲われたよ。撃退したがね。これでも、腕には自信があるんだ」
 そういって、後藤がにやりと笑った。先日襲い掛かってきた、あのやくざ風の男が関わっているのだろう。
「だが、奴らに嵌められて、俺は今、警察に追われている」
「らしいな。後藤さんの会社に電話したとき、藤井って人から聞いたよ」
「俺は今も木島のことを探っているんだが、油断しちまったんだな。俺の車から覚せい剤が出た。車を盗んだという男がダッシュボードの中で怪しいものを見つけたといって警察に電話をしたんだ。男は警察には出頭しなかったので、どこの誰だかわからない」
「よくある手口だ」
「ああ。だが、言い訳する手段が俺には無い。警察だって馬鹿じゃない。捕まってもいずれは濡れ衣だとわかるが、下手をすれば拘留期限が二十日間にも及んでしまう。奴の罠にまんまとひっかかるのも癪だし、時間は無駄にはできないからな」
 カルタックの妨害か。この手の妨害は珍しいことじゃない。
「康祐が殺されたのはやはりこの写真が原因なんだろうな」
「たぶんな」
 この証拠写真を手に入れるために、拓哉の部屋に誰かが忍び込んだ。詩織の部屋にも。母親の言葉と態度から察すると、康祐の実家を訪ねて来た若い男はあのやくざ風の男ではない。
 やはり、もうひとりいる。
「カルタック社内で情報を流してくれる協力者を探してはどうだろう。カルタックの事務所を訪ねたが、会社に不満を持っている社員も多そうだった。背中を突けば誰か協力者が出てきそうな感じだったが。後藤さんは以前カルタックの関係者に取材していたんだろ? 誰か情報を提供してくれそうな者に心当たりはないのかい?」
「あるにはあるんだが、今はどこにいるかわからない」そういって、後藤は溜息をついた。「こんなことになるんだったら、土下座してでも小野田玲子の電話番号かメールアドレスを聞いておけばよかった」
 せめてどこに住んでいたのか判れば、住民票から引っ越し先を辿れる場合もあるんだが。溜息交じりにそう呟いた後藤を見て、拓哉がにやりと笑った。

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